▼大木賢三『弓矢の歴史を語る』S18repr. 初版S11
※これを紙の無い戦時中に再版させているのが怖い。
日本の弓の弦は、なぜか麻の片撚り。理由はおそらく、反発力と、音がいいからだろう。
いままで日本の弓箭を説いた著書は、多く室町時代以後の弓書に頼っており、千篇一律である。
奈良時代以前は直弓があった。丸木。
奈良以降、弯弓が発達。木と竹のコンパウンド。
シナの短弓(日本では石弓と呼ぶ)が日本の半弓になった。
金鵄がとまった神武の弓は、丸木の大弓。
弓と大の字をくみあわせると、夷になる。
箆尺(のじゃく)。ひきしぼる距離。
弓と槍は刺兵である。
「槍術」の語は書史では南北朝から見える。
下弭(もとはず)に近い方、下から三分の一のところを握る。これは騎兵が存在しない原始時代からで、丸木弓や長竹弓の必然なのである。細い方の弾撥力が弱いので。
握りは、古くは、ユヅカ、トヅカ と言った。
日置流は、足利時代の人・日置弾正政次がひらいた。
短弓は、中央部を握る。
銅鐸の意匠はぜんぶ、南方的。そこにおいてすでに、上から三分の二を握る姿が線刻されている。
坪井博士の説。ヤ はマライ語から来ている、と。
竹=yar。ヤリの語源も同じだと。『考古学雑誌』13巻12号。
日本の古代にも吹き矢があった?
延喜式の隼人司の條に「執楯槍並坐胡床」とあるのはマレー人だと。
タテハは矢の羽のこと。フタタテ、ミツタテ、ヨツタテ あり。
本書の時点で和弓のレンジMaxは140間以下のようだ。
昔話に「差矢三町 遠矢八町」などというが、絶対ウソ。
えたりやおゝと矢叫びをこそしけれ(平家物語 頼政 夜烏を射る)。
諏訪の和田峠に黒曜石が出る。路頭巨岩が自然に割れて剥片が散乱している。
中庸や荘子に「白刃」と出るのは、鉄器の証拠である。
▼雄山閣ed.『弓矢の研究』S12
※S11の『歴史公論特集号』をあらためて書籍にしたもの。
有坂【金召】蔵・海軍中将は「弩に就いて」を寄稿している。
打根、管矢(吹き矢)もある。
蟇目とは、木製の鏑で、特に音が鳴るもの。
引目 と昔は書いたのだが、近世に、蟇目と書くようになった。
鳴弦と蟇目は、武家や貴人の誕生を祝っておこなわれた。
鳴弦の初出は、日本書紀第14の雄略紀である。
中古から、鳴弦の強調として引目が生じた。ただし殿上人ではなく武将。源頼光が狐を引目で射たという話が初出。
シュメール文明初期に弓矢なし。
日本の石器時代の弓矢の遺物、ひとつもなし。ただし、丸木の直長弓とは推定可。
石鏃は全国同型式だから、弓も同じだったろう。
上から三分の二のところを持つこと、これは丸木弓でこそ必然なのだが、中世に「合わせ弓」ができてからは無意味。慣習の力で、続いた。
日本の弓は南方系。それがアイヌにまで伝わった。
まず丸木弓。
その外側に竹片を貼り付けた「伏竹弓」が東北に発祥する。
さらに「三枚弓」。
平安末期には「滋藤弓」や、「塗込藤弓」。
漆を塗ってなければ、白木弓である。
「楯割り」という鏃は、ソリッドの金属円筒をすげてある。尖った部分が無い。
「かりまた」は、狩の股 であって、「かへるまた」もしくは「雁股」は、こじつけ。
上古には【弓へんに世のしたに木】=ゆがけ なし。
▼村田経芳『射術提要 実験と理論 矢の部』M37(国会図書館受け入れ印はM37-1-19)
医のすすめにより 六旬の春より弓術を始めた。
世間ややもすれば理外の理などというが、「是れ未だ真理を窮めざるものなるべし」。今ここにその理を攻究しこれを実地に験するに、その理外に出るもの一もあらず。
村田老人の研究ノートは以下のような幅広いラインナップだった。
まず「銃術部」と「弓術」に大別される。
「銃術部」は「第一」から「第四」まである。
「第一」は、「平常射的」「銃」「器具」。
「第二」は「拳銃射術」。
「第三」は「戦時射術」。
「第四」は「猟銃射術 飛鳥」と「猟銃射術 獣類」。
「弓術」は、「弓の部」「矢の部」「技術の部」からなる。
※現在見られるのは、ここに紹介する「弓の部」だけ。残りはいったいどこに散逸してしまったのだ?
すべて「余の備忘にして 江湖に示す為めに論述したるものに非ず」。
上記以外にもまだある。かつて欧米〔ママ〕各国を漫遊し射的家と会合したときの談論をあつめ、これを5目にわけて「銃術五変」〔五篇?〕とした。
いま、弓術もそれに倣い、諸家の談論を輯録し「弓術五談」となづけよう。ともに「珍説奇談」が多い。
弓の実験は、M33-1からM34-3にかけて実施した。
弓のサイズは、6歩、6歩2厘、6歩5厘 を用いた。このうち6歩5厘の弓は、多射すると疲れる。
正確さは、60射までしか維持できない。
矢量は、7匁、7匁5分、8匁、8匁5分、9匁 を用いた。
距離は、12間、13間3尺、……Max 60間。
30間から35間は、6匁~6匁5分。
40間から60間は、5匁5分。
遠射には、5分半、5分8厘、6歩、6歩2厘の指矢弓も使った。※さしやゆみ=軍用弓か。
近距離では「厚歩の弓」も使った。
※明治時代の人がこれほど科学的な実験技法をわきまえているのに、今のテレビ人は何をやっているのだ?
強弓家と競射もしたが、強弓の遠射は「大不結果」――まったく当たらないものだと確認できた。村田の弱弓の方が、遠くでも良く当たった。
矢先を重くするは、強弓を以て近距離を射るに最も利あり。
これは いにしへの戦箭に最も近し。
箆径の大小も、もちろんある。
※実戦用の矢を実射して、昔の合戦の実相を読もうとしていた村田。偉すぎる。
ある弓術家が言う。矢先を重くするのは、中弓(あてゆみ)で、古への実地ではない、と。
村田これに反発。
「之は甚だ誤論なり 古の戦用矢は 重き根を附着する故 余の今云ふ矢〔世に今行なわれている矢〕よりも 矢先の重き〔こ〕とは勿論なり 此矢を以て疾[スルド]く射放すを 真の弓術と云ふべく〔言うべし。〕 尤も之を見出したるは 古の軍箭を試射せしより感生〔感得〕したるものにして……」
「……当今用うる弓術は 戦用弓術にあらずして躰育運動術なり」
しかも命中にこだわりすぎている。そんな教え方だと、逆に進歩のさまたげになるだろう。
矢箆は、張りが強く、片押せ〔かたより?〕が無いものでなくてはいけない。
矢は、太く短い方がいいのだ。
しかし、5歩半弓に堪えざるもの、矢尺が2尺4寸に足らざるもの、片寄せ箆は、不合格だ。
利矢(するどい矢)よりもむしろ鈍矢(にぶき矢)の方が、命中する。※羽幅が広く、均り合い点が先頭寄りで、箆が太いということか?
矢を長くしようとして接続工作するときは、かならず鯨鰾(くじらにべ)を用うべし。
筈を挿入するには、膠を用うべし。
なぜなら鰾は附着力が強力で、旧筈が抜けなくなるから。 ※鰾を字書で引くと、さかなのうきぶくろのことのようなのだが……。
尾州の竹林派は、強弓に軽矢を用うる。しかし強弓は、体格の割合に、矢尺が短くなってしまう。
村田はこれまで、実力で7歩以上の弓を射ることができるのに、わざわざ、3尺内外の〔短い〕矢を射ている人を、みたことがない。
矢尻を弓の内部に巻き込む=「ヌスト弯」という。
遠的矢は、漆を3、4回塗っておくと、湿気で変形しない。
筈の繰り方〔彫り込みを入れる工作?〕は、鹿児島製が第一等で、他国製は、広狭が不斉一。
矢先き径の大なる箆をスギナリといい、矢先き径の小なる箆をムギツボという。
まっすぐのものは「一文字形」。
矢差は、左をウシロといい、右をマエという。
器械(ダライバン)にて刳りたる板付は、内部正しき故、曲がることなし。
矧は、筈下と羽との間隔。
通常は、1寸2歩。鹿児島製は、1寸。
羽長[た]けは、近い的狙いなら5寸~4寸5歩。30~33間先の的を狙うなら4寸8歩~4寸5歩〔3寸5分?〕。それ以遠を狙うなら、3寸5歩。
33間狙いでも、5寸羽を使えば、命中には利があると村田は言う。
「則歩矢」は、羽先が減差(チドリ)で、速い。
6歩以上の弓で、30間くらいまでを狙うなら、左手保護用の押手袋は、要らない。(押手は左手。射手は右手。)
羽は、先の方だけを(模様にはいっさい拘泥しないで)取ったものがよい。貝形羽と、ひらき羽がまざったものはダメ。
とにかく速く飛ぶのは「石打ち羽」=「風切羽」。
次が、鷹の羽貝羽〔羽交い羽根?〕。
石打羽は、1鳥から2枚しか、とれない。
雨中には、大鳥羽に及ぶものなし。
強弓に用うる遠的矢は、地面に刺さると、ポキリと折れる。
「強弓は、骨も疲れて甲斐ぞ無き 弱き弓にて数を射させよ」
――明治34年3月 村田経芳 誌。
若し不同の矢を以て15杖の距離に於て1尺2寸に10射皆中するあらば、余は悦んで名弓名矢を賞呈せん。
晩年の村田は二段眼鏡をじぶんで発明して、射撃と日常に使っていた。丸メガネなのだが、中心の水平線を境にして、上半円は度が弱いレンズ、下半円は度が強いレンズになっている。
「余、近来、射的の際、遠距離に至っては眼力少しく判然せざるを以て……」
以上、M37-1-10印刷、1-20発行。全24頁。5銭。
東京市 神田区 雉子町 成章堂pub.
▼浅岡康二『日本の鉄器文化』1993
近世末期まで、鋸には焼きが入らなかった。
というのも、それまでの日本には油焼き入れの技法が無く、水利用のみ。だから薄い素材は割れてしまった。
玉鋼を冷間鍛造して、加工硬化させていたのだ。
▼石野亨『鋳物五千年の足跡』1994
わが国の最古の鋳鉄橋は、M17年頃の生野鉱山の鉱石運搬道にある。現存。兵庫県・朝来町。
銅の利用はBC5500にペルシャで始まる。
青銅=ブロンズは、BC3600のシュメールから。
L.Beckは、鉄の方が銅より先に利用されたかもしれない、という。
シナの鉄器はBC4世紀のが最古。
朝鮮まで青銅技術が伝わったのはBC7世紀。
シナの青銅の証拠は、BC1500年頃が最古。夏~商。
日本最初の鋳型は、わが国でも削り易い凝灰岩質の砂岩などを彫って作った石型が使われた。福岡市や春日市から出土している。
日本書紀、天照大神の天の岩屋入りの条に、「すなわち石凝姥[いしこりどめ]をもって冶工[たくみ]として、天香山の金[かね]を採りて、日矛を作らしむ」とある。
銅鐸も石型でつくった。
大阪湾沿岸地帯が中心で、初期のものは、その地域に分布する凝灰岩質砂岩を鋳型として用いている。
初期の銅鐸は、かなり大きなものまで、鋳型に石を使っている。
凝灰または花崗岩質の砂岩、頁岩、片麻岩などは加工が容易だった。
剣や戈も初期には石鋳型で鋳たが、細かい模様を彫りにくいこと、冷えかけの変形に応じないので割れること、湯中のガスの抜けが悪いなどの欠点があるため、土鋳型に駆逐された。
▼堤章『軍刀組合始末』H6
満州の鞍山製鋼所などで「素延べ刀」が大量生産された。
別名、満鉄刀。
開発者は「興亜一心刀」と命名していた。S15頃完成。厳寒でも折れない材質。
剛性と粘性をあわせもつ鉄素材を、鍛錬せずに、圧延してある。
昭和〔たぶん満州事変以降〕になると、塹壕戦に適するように、江戸時代の定寸、2尺3寸(70cm)より1寸5分(5cm)短かくし、外装も簡略な大刀拵えにした「日本刀式軍刀」が推奨された。
提唱者は、荒木貞夫陸相と著者だと。
支那事変頃までは軍刀製作は岐阜県関市が主に担当し、陸海軍へ納めていた。
WWIIでも「刀都、関」といわれたぐらい、盛んだった。
S15以降、「利器組合」。
対米戦となって、全国の鍛冶屋を軍刀づくりに動員せんとした。これが「受命刀匠」→「軍刀組合」となる。
福島の軍刀は、東一造(東京第一陸軍造兵廠)に納入された。
受命刀匠は徴兵を延期された。
鍛錬は、けっして刀鍛治のみの仕事ではなく、明治大正のほとんどの野鍛治が、ハガネ鍛えと称して同様の工程を入れていた。
焼入れ直前の刀身重量は、約1kgである。
落槌テストで刀を90度まで曲げ、折れたものは不合格としていた。
S20に、東一造の第一製造所に、地金工場や弾丸工場、薬莢工場、填薬工場あり。
場所は、下十条~王子(飛鳥山西北)の35万坪。
第一製造所は、鋳造、圧延、プレスによる弾丸製造。5000人。
第二製造所は、光学兵器、高射算定具。
第三製造所は、信管、地雷。
大宮製造所は、光学兵器専門。
仙台製造所は、12.7ミリ以下の実包。
※東一造の組織図あり。
軍刀鍛錬工場はS17から。
対米戦争中の軍刀の、偕行社小売価は、120円。
帝大学士の月給が75円だった。
▼宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』H5
鉄砲は倭寇が日本にもたらしたのだと説く。
朝鮮の1400年代の弓は、竹、牛角、牛筋のコンパウンド。膠で固めるので4年がかり。
しかし明国でないと、牛材は豊富に得られなかった。日本もそれで諦めていたか。
角弓は水牛を使用。
コンパウンドボウには湿気がよくない。
雨が降るときは炭火の下におくなどの保管が厄介で、特に北方では使えない。
モンゴルは羊角4個を束ねたか?
鉄ビシ(鉄【くさかんむりに疾】藜)は、唐代の本の中にみえる。すでに漢からあり、唐まで盛んに使われた。
114~127ページ。鉄砲伝来学説の整理。たいへん便利。
カラクリと火縄銃について最初に本を出したのは奥村正二『火縄銃から黒船まで』S45。
初伝来のタネガシマは径17ミリ。
現存の南蛮筒は、径16ミリと径18ミリ。
17世紀のヨーロッパ銃は径20ミリ。
鉄砲秘伝書は、初期は火薬調合法。普及後は、射撃法。
文禄・慶長役で朝鮮兵が弱かったのは、弓矢を主武器とし刀剣用法が廃れていたため。
接近されれば必敗だった。
▼『日野自動車工業40年史』S57-12
会社の前身は、ヂーゼル自動車工業株式会社の日野製造所。さらにその源流は、大正7年、東京瓦斯電気工業株式会社が、わが国最初の国産トラックを量産したときにさかのぼる。
M43-8-1、東京瓦斯工業(株)。
S17-5-1、日野重工業 設立。
以来、ディーゼル車は日野とよばれる。
松方正義の五男の五郎(M4生まれ)が、M44に、東京瓦斯工業の社長に就任。
東京瓦斯工業から、兵器部門の日立工機、工機部門の日立精機、そして自動車の日野が分かれた。
日野自動車工業が松方の手から離れた独立したのがS17。要するに陸軍の統制によって、経営権を奪われたのである。
そもそも大手ガス会社のために国産のマントルを供給する会社として、東京瓦斯工業があった。
大2に社名を「東京瓦斯工業」から「東京瓦斯電気工業(株)」に。
これは、水力事業の発達で、年来の電灯との戦いに完敗することがあきらかになったため。
東京瓦斯電気工業(株)としては、ローン120馬力空冷発動機、ベビーナンブ、3年式重機を、写真広告していた(p.7)。
まず信管製作に進出したところへ、WWI勃発。
ロシア向けに大阪砲兵工廠が輸出する爆弾信管の「活気体」〔活機体のあやまりだろう〕200万個を受注。これは計器工場があったのを見込まれた。
つづいて海軍からは、砲弾用底螺×10万個。
陸軍から信管4万5000個受注。
大6-5に自動車への進出を決意す。
欧州の町にガソリン機関の車が走ったのは、1885=M18のマンハイム。
1892には独仏がゴムタイヤ付の立派な自動車を完成。
フォードモデルTが発売された1908に、米では自動車は6万5000台生産さた。
1914には米で50万台以上、製造された。
1916にはT型だけで50万台。
1920年代初め、T型だけで200万台。
英は1916-2に マークI戦車×100両を、リンコンのウィリアム・フォスター社に発注。9月15日の戦闘で使用。
1917春には1000両の戦車が製作され、11月20日のカンブレー〔ママ〕でマークIVを大量投入。
仏は1916-2-20に、シュナイダー社に400両の戦車発注。翌春のジュビニー会戦に使用。
1917-6にはルノーに、軽戦車×3500両発注。これを使って1918-7-18のソアソンで圧勝。
日本は山東半島での対独戦(1914-9~11月)に、両工廠製の軍用自動車を2台づつ、計4台投入。
蒸気自動車は米国製がM30に初輸入されている。
M39、英国に留学中の大倉喜七郎がフィアットの100馬力レースカーと、同ヂーゼル車を持ち帰った。
M43-4に大廠が甲号自動車を試作。
M44-5に1台完成。
東京砲兵工廠はM45に第一号車を完成。
※このへんはガッゲナウ等のモロパク?
大7-3-25の「軍用自動車補助法」の公布と同時に大森に新工場を建設し、そこへ自動車部を設けた。
WWIで機械の輸入が滞る。そこで大7下期に製作開始。
陸軍から、シュナイダー・タイプの制式4トン自動車×5台を初受注。
TOKYO GAS ELECTRIC の頭をとって「T.G.E. A型」トラックと名づけ、大8に12台、大9に49台を製造。
しかし会社はその後、むしろ輸入車販売事業に集中した。
石川島造船所(いすゞ自動車の前身)が英ウーズレーと組み、また(株)快進社が「ダット41」乗用車をトラックに改造して軍の規定をパスするなどの動きをみて、大正14年から再び自社生産に本腰を入れる。
大13に陸軍兵器廠が工員を大整理。
大14後年、国内メーカーが一斉に軍用保護自動車を造り始めた。
フォードT型1トン半のシャシに家畜輸送用の格子式ボデーをとりつけ、11人乗りバスにしたのが、円太郎バス。震災で全焼した市街電車の穴を埋め、日本にバス事業を定着させた。
S2に軍用「軽機関銃」の製作に着手し、翌3年完成。
満州事変をみて、「愛国2号(敦賀)」を献納した。熱河作戦に使われた。「国産ちよだ型」と名づけていたトラックに装甲したもの。ターレットからLMGを突き出す。「ちよだ型装甲自動車」ともいう。
TGE貨物自動車がS6に宮内省の御買い上げを賜ったので、以後「ちよだ」と車名を改めた。
TGEの自動車部を分離したのが「東京自動車工業株式会社」で、S12-8-20発足。
S13における英の国家財政は90億円。対して日本は20億円。
相模原造兵廠に近く、メッケルが現地戦術を教えた地として陸軍にとり親近な日野台に、年産50両の戦車を作る工場として「日野製造所」を、東京自動車工業の部門として新設。大森から設備を移し、S16-8-27に落成。
S16-4には、東京自動車工業は、「ヂーゼル自動車工業」と社名変更。
日本の自動車産業は、S11にはトラック500台。S15にトラック4万2000台を製造。
各種兵器車両の国内生産力は、S15には2500台だった。
S17-5-1に、日野自動車工業(株)となったのは、軍がロケ車(6トン牽引車)を集中生産させるため。
94式軽装甲車は日野では「ニコ」と呼んでいた。※いっぱんには「TK車」と略称された。本書の編纂者は「愛国2号」と混同しているのではないかとの疑いもある。
終戦までの、日野における生産数。いずれも概数。
ニク 260台。
ホフ 580台。
ロケ 1230台。
94式軽装甲車 500台。
テケ 700台。
ラK(全装軌兵車) 200台。
ラK半(半装軌兵車) 800台。
ケニ 100台。
チハ 100台。
ソキ 65台。
BKK(伐開機) 65台。
BSS(伐掃機) 130台。
ホキも造った。
S18には、10トンで火焔放射機をもつ「凍土穿孔作業車」を試作。
飛行場の圧雪車にも取り組んだ。
日野重工業は、他の9兵器メーカー(三菱重、日立製作所、神戸製鋼所、池貝自動車、新潟鉄工所、浅野重工業、羽田精機、久保田鉄工所、日本内燃機)とともに戦車部会を組織し、陸軍省兵器行政本部下の相模陸軍造兵廠の指導監督のもとにあった。
S17末から陸戦兵器の整備優先順位が下げられる。S16には戦車生産は第一順位だったが、S19には第四位に落とされ、代わって飛行機と船舶が第一位に。
戦車、牽引車、砲、トラックがS16まで重視されていたのは、支那事変中の大陸戦線での経験に基づいていた。※これは大きな誤解で、陸軍はS17に対ソ戦をおっぱじめる気満々だったのである。その前にはS15にやる気でいた。服部卓四郎らは戦後、おくびにもそんな思惑のあったことを公表しなかった。
S16-12以降、自動車への鋼材割当は減少に転じた。
S16、バス生産停止。
S19初に乗用車の生産停止。
軍用トラックの優先順位は、S16とS17においては、第二位。S18とS19においては、第三位に。
S20のトラック生産は、最盛時(S16)の1割強でしかなくなってしまった。
S11には日本は5004台のトラック・バスと847台の乗用車を生産。
S12には、7643台と1819台。
S13には、13981台と1774台。
S14には、29233台と856台。
S15には、42073台と1633台。
S16には、42813台と1065台。
S17には、37653台と1362台。
S18には、25174台と522台。
S19には、21434台と19台。
S20には、6273台とNA台。
S19には軽装甲車の生産は事実上、中止。
S18-5に、特殊戦車〔?〕の受注が急減した池貝自動車は、経営が極めて悪化し、飛行機部品への事業転換で乗り切った。
「日野重工業の前身であるヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)も……」
※戦中の話がかなりオミットされているような気がする。統制指導への反発か?
トヨタは水陸両用車を200台生産した。S20には特攻ボートも。
ヂーゼル自動車工業はS20に、車両用統制型ディーゼルエンジンを舟艇用に切り替えた。
※統制エンジンはS12~15年に5種類、制定された。開発は官民一体。他社も加わっている。
S12時点で日本国内の揮発油の使用高の90%を自動車で占めていた。
極寒地で、気化器が凍結しないのが、ディーゼルの強みである。
S19-9に、日野に対して「まるゴ」車を作れという命令が……。すなわち御在所車。兵員輸送用半装軌車に25ミリ防弾鋼鈑で特注ボディを付け、ベッドと2個のソファ(お附き用)を置き、さらに護衛兵2名も置けた。2台、完成した。
※松代大本営へ皇居を動座させる際の緊急非常輸送手段として、軽装甲車を改造してあった、という話が伝わっているのだが、あんな狭い車内と非力なエンジンで、どうにかなったわけがない。こちらの話の方が、よっぽど合理的に聞こえる。
TGE本社は、1939-5に日立製作所へ吸収合併された。
1939-1に、東京自動車工業と三菱重工と池貝自動車と神戸製鋼所と新潟鐵工所が共同出資して「ヂーゼル機器」創立。
大10-1に、独ルドルフ・ディーゼルが、ディーゼル機関の自動車への応用に成功。
1921に米デューセンバーグが油圧ブレーキを初使用。
1924にダイムラーが自動車用ディーゼル・エンジンを試作する。
1932に3社で「いすゞ号」試作。
植柱車は1933試作。by TGE。以下同じ。
延線車は1933試作。
「さく壕車」〔ママ〕(サコ)と、野戦力作車(リキ)はS9試作。
S10に、散兵壕掘進車(5号機)を製造。 ※これも略せば「サコ」になり得るのでは……?
S10に、湿地帯渡板敷設車(7号機)を製造。
S10に、自動車工業、ヂーゼル機関を完成。
1936からTGEで、軽装甲車を製造。※94式とは別か?
1935-12に、ドイツのワンデレルが、初の2サイクルV型4気筒エンジン完成。
テケとテレはS12。
SUとJM(95式鉄道力作車)も。
1938にシトロエンが初のFFレイアウト自動車を製造?
S14にソハ車(装甲発電車)を製造。
1940に米パッカードが初のエアコン搭載車を発表。
ウイリスジープ1号車は、1941完成。
S18に米ではドライブが禁止される。
S19に米はソ連に34万5000台の自動車を支給した。
S20にソ連でジス1号車が完成。