▼林重生ed.『満州の城』康徳9年10月pub.
※満州建国10周年出版。
日本では磚は寺院の床敷に使うのみ。
シナでは磚のおかげで石垣を方形の統一材料で積むことができる。
日本の城壁が3間(6m)平均で低いのは、山を利用するから。
シナは土地がまったいらなので、城壁だけが防禦のたのみである。ゆえに4~7間(8m~14m)の高さは欲しい。この高さを実現しようとすると、壘は必然、厚くなり、壘上も広い。
またシナでは濠は浅くて狭い。水がないし、冬に凍結するので。
矩形波のようなスカイラインを「女墻」という。日本では、そんな築城をする代わりに、楯を並べる。
城内外の「植え物」は、気候的にそれが可能な南支でもやらない。日本だけ。
シナでは壁こそが城なのだ。壁を突破されたら、あとは手を挙げるしかないのだ。
シナ城壁には「防水室」の機能もあった。それを初めて指摘(pp.22-3)。
一昨年の北支の洪水で現地邦人が感心し、悟ったのである。
十年前に○○城に立ち寄り、楼門を測ったら、スパイ扱いをされた。シナ人は今でも城壁を有事のたのみにしているのだ(p.24)。
欧州では、パリを筆頭に、19世紀には、旧市壁が環状道路に化している。
この当時、日本人は満州の古城を壊しまくって、都市再開発していた。
高句麗と、明代の女真に、山城の伝統があった。その中間の、遼と金にも。
今のように煉瓦を積むのは明代以後。それ以前は土城ばかりである。泥を焼かない、日干し煉瓦。
元朝より以後しばらく、首都というものがない。よって清代まで大きな城はつくられなかった。
明代の満州の城のビッグ8は、遼陽城、北鎮城、開原城、奉天城、義県城、海城城、興城城、金州城。
すなわち奉天は、首都でありながら、5番目の規模の城しかなかった。
遼陽城は、漢人が、城壁の長大をもって威勢を示そうとしたものであること、うたがいなし。
清の太祖は遼陽を攻略すると、近くに小さな東京城を築いて住んだ。
漢人式の城郭は巨大すぎて却って守ることができないと知っていたので。
明代の壁は、表面のみが甎。内部は泥である。
明代の甎はサイズが大きい。
清代に小型化し、表面のスジ模様がなくなっている。
火薬が普及し、木造の多層門楼など役に立たなくなっても、漢人はその意匠にこだわった(p.31)。
今、その構造がメンテナンスされて残っているのは、北京城だけだ。
宋代から火薬が使われ、門の前にコの字を付け足すようになった。甕城という。
シナの木柵は、丸太を、密に1列に、人の身長の3倍くらいの高さに、植立する。
今日では、塀の上に、鉄条網を2条、引く。
茨城、葛城、柵城、竹城、石城などの名は、すべて素材に因む。
ちなみに満州には竹も葛もない。
さらにまた、四平からハルビンの間は、土ばかりで、石も得られない。
バビロン、アッシリアは、耕作に適した土地であったが、その代価として、石が得られなかった。だから、土城なのである。
天日で干した泥煉瓦は、雨でも崩れる。
そこでバビロンでは、一部を、焼き煉瓦とした。
シナでは版築といって、板囲いの中に粘土を積んでいき、表面を漆喰で防水する。水攻めにも耐え、大砲2~3発にも堪える。
大宰府の水城は、柴と土を交互につきかためてあった。この起源もシナ。
明代には大砲の脅威が本格化したため、さすがに、石城が増えた。
※この著書の惜しいところは、大量のレンガは石炭で焼くしかなかったという試算ができず、「木材が豊富だったのだろう」などと書いていること。
漢代には、一県一城の制度だった。※県は日本の町相当だから、町の枢要域を囲繞する都城はひとつで、あたりまえなのである。
高句麗を国史は高麗と記した。
フィンランド人はもともとウラルの東、シベリア西部に住んでいた。
マジャール人はアルタイ起源である。
朝鮮人は貊といい、もと、モンゴル南部にいた集団。匈奴に逐われて、百済までやってきた。
隋の煬帝は高句麗攻めに親征したが、遼東(=遼陽城)を抜けないで、師を班した(帰国した)。
唐の太宗が貞観18年に親征して抜いたが、安市城に阻まれた。
ようやく高宗が亡ぼした。皇紀1328年。
満州では常に奉天と遼陽が、満漢2民族の争奪の焦点。
奉天の外城は、民国に至って、次第に崩壊し去った。このたび、日本政府が、内城も壊すことにした。
盛京城を満語でムクデンという。盛清の世にその名が世界に定着した。
皇紀2079年6月、倭寇を望海城で全滅させている。
遼陽県の東の岩州城。これをなかなか落とせない唐太宗、一計を案じて、雀の尾に硫黄を結んで放ち、さらに火箭を放つことで城内の糧草を発火させ、落城させたという。
▼服部文四郎『戦争と外資』大4-3
※著者は早大の教授。
1904-2-20から1905-8-31のあいだ、ロシアは14億3千余万円、日本は12億1千余万円を支出した。
ところが英国はすでに1899-10-11~1902-5-31の南阿戦争で、21億1千2百余万円を費やしているのである。
かようなさすがの英帝国といえども、1901のトランスバール戦争では、戦費の一部は外資を米国市場から調達するしかなかった。
今はわずかの正貨の上に信用はうずたかく積まれている。
この正貨の、国境を越えた大移動は、信用崩壊や流出国の経済緊縮を招く。
そこで、外国市場で募集した外債は、そのまま外国銀行に預けておくのが仁義になっている。これで自国の通貨も膨張しない。
ロシアがあれだけ借金してなお外債が下落しなかったのは、Goldが外国に置かれていて、しかも外地において巧みに運用されていて、国内では銀と紙幣のみを流通させ、信用を維持したから。
ドイツが強国化したのは、政府の統制のせいではない。国民に自助独行の精神があるからなのだ。これを日本の官民は勘違いしている。天野為之いわく。政府は経済から手を引け。
英国はWWIの勃発時には銀行のモラトリアムを宣言している。
もっかのWWIの戦費。英は1日1000万円。仏は1日1400万円。独は1日2000万円という。
糧を敵に求めたナ翁すら、戦争は一に金、二に金、三にまた金、と言った。
ヲッペルいわく。世界貿易額の1割以上を占めたら、商業上の一等国というべきだ。
日露戦争の経費17億円は、税で3.5億、公債で13.5億を賄った。後者のうち外債はつごう四度で8億円。すなわち戦費の半分は外資であった。
※関係ないが、大正12年の成田図書館は、夏は7時から22時まで開館していた。そしてなんと、年末年始をのぞいては、毎月1日しか休館していなかった。すばらしいぞ!
▼『続群書類従第二十輯』大12-5pub. 所収、巻第591「島津高麗軍記」
淵辺晝右衛門 覚書「島津家高麗軍秘録」。
首は切り捨てにしてきたので、次の日に「首集め」をした。
そして城の大手口へ15間の大堀を掘って、首を「築込」んだら、大塚になった。
20日ほどで腐り、余地もなくなったので、さらに20間の掘をつくった。その塚は今もある。
帰国出帆は11月17日、辰の刻。
途中、義弘の軍が多数、相繋留しているところへ、敵船が偶然やってきて、攻撃に移り、半弓を射、熊手をかけ、塩硝壺に火を入れてこっちの船に投げ込んできた。
〔忠恒公は?〕拾五匁の御鉄砲を御持ちあそばされ、帆柱に腰かけた。
※この「匁」に編者が注をして「貫カ」と疑問出ししてある。
▼『海軍水雷史』S54
1870まではtorpedoは機械水雷のことだった。
英国初の魚形水雷は331ポンド炸薬。1864年に実験開始。
ホワイトヘッドの魚雷(保式)は、16ポンドのダイナマイト。
深度を一定に保たせるのは1958にホワイトヘッドが考えた「横舵」。俯仰を感ずる重錘と、水圧板センサーで、空気ピストンの弁を調節させた。
1877に二重反転スクリューの発明あり。トルクを打ち消す。
1884、ウールウィッチで、ペラの前に舵を配置した。
1894、オーストリーの発明。ジャイロスコープをセンサーとする「縦舵機」。左右にもぶれないで直進できるようになった。
以上は、すべて圧搾空気のみを動力とする「冷走式」。
日本はM17にシュワルツコプフ魚雷(炸薬21kg)を200本輸入。朱式八四式という。
日清戦争にはこの八四式(1884)と、朱式八八式(1888)を使用。
日本が採用した冷走式魚雷。
30式B型。炸薬52kg。
30式18インチ。炸薬100kg。
32式14インチ。炸薬50kg。
32式18インチ。炸薬90kg。
34式18インチ。炸薬90kg。
37式18インチ。炸薬100kg。
38式1号。炸薬100kg。
38式2号A。炸薬95kg。
保社の親会社もアームストロングだった。
S3に英が酸素魚雷を完成したと聞いて、研究を本格化させた。
93式は、球状尖のとき、キャビテーション震動で自爆か。
潜水艦用の95式は、球状尖のままインド洋に散ってしまい、手遅れ。
航空用の91式は、初め炸薬150kgだったのが、最後は420kgになった。
95式1型 炸薬400kg。
95式2型 炸薬550kg。
94式1型(97大艇用で酸素魚雷だったが、中止)
97式 炸薬350kg。
96式 炸薬400kg。
98式 炸薬350kg。
2式 炸薬350kg。
5式 炸薬 約70kg。
魚雷研究体制を強化したのは平賀譲中将・技術研究所長(大15末)。
カーリットで金属塊を射ち出す弾頭も考えたが、×。
大12頃まで、海廠の使命は「量産」であって、研究や実験は片手間であった。
KK長崎兵器製作所の魚雷生産数。
大7に50本、大8に116本、大9に180本、大10に180本、大11に250本、大12に387本、大13に400本、大14に450本、大15に500本、S2に350本、S3に350本、S4に350本、S5に350本、S6に340本、S7に276本、S8に300本、S9に300本、S10に360本、S11に340本、S12に380本、S13に516本、S14に600本、S15に660本、S16に960本、S17に1800本、S18に1970本、S19に2810本、S20に1441本。
米はMk-13改(航空用)、Mk14/18(潜水艦用)を後半戦に投入。『大和』を沈めたのはMk-13改であろう。
対潜用の超低速 Passive Horming 魚雷 Mk-24も、1942年から数千本、製造している。
末期の米潜水艦用は電池式が65%に増えた。これは先行するドイツに刺激されてついに完成したもの。
米は1943に研究会を開き、1944に大改善した。
1944には、三次元 active horming まで完成。
戦後、酸素魚雷に興味を示したのは英国で、数本を目前で実射させた。米国は、口頭尋問のみだった。
91式は、S3頃、英国保社の星型8気筒を模し、S4頃試作。全785kg、炸薬150kg。
同改一はS9~15年に製作。全838kg、炸薬170kg。上部は空室とした。マレー沖に使用。
同改二はS15~16年に製作。全840kg、炸薬204kg、真珠湾に使用。
同改三は、空スペースを埋め、炸薬240kg。※235kgがより正確か。
91式改三(改)は、S17~18年、天山用に強度を高めたもの。炸薬240kg。
改三以降のものには、別注の実用頭部がつけられる。改三、改四、改六、改七。
91式改五(S19~20)は、改三(強)の、そのまた強化バージョン。
S20-4以降に、四式一号空雷二型および四型。
二型は、984kgで炸薬305kg。四型は1108kgで炸薬418kg。
91式魚雷/四式空雷 は、横浜・川棚・光の3工廠と、民間の長兵(長崎兵器)でつくられた。径45cm。
94式は長兵でS13~S16につくられ、径53.3センチと径45センチの2タイプがあった。
『長門』級には径53センチの6年式魚雷発射管×4が、舷側と直角に食い違いに備わっていた。S11大改装で撤去された。他の戦艦には、搭載されたことなし。
88式機雷は、ドイツの特許を大12に買って造ったもので、潜水艦から撒ける。
機雷の炸薬には、下瀬六稜、下瀬成形(1921~)、下瀬鋳填(1933~)、八八式、九七式、一式、K3 があった。
爆雷の炸薬の種類は、下瀬か八八式のみである。
爆雷本体のいちばん古いのは八八式(S5採用)で、いちばん新しいのは三式(S18採用)。その炸薬量は、50kgから149kgであった。
水分20%の湿綿薬。M11に買ったシュワルツコッフ魚雷に入っていたもの。
M24に独から綿薬のみ輸入。下瀬火薬とくらべると3~4割弱い。
S9に九四式爆薬。短い期間だが、採用された。トリニトロアニゾール6割+ヘキシール(ヘキサニトロヂフェニルアミン)4割。
九七式爆薬。S10頃、ドイツから教えてもらった。下瀬火薬より強力ながら、安全。トリニトロトルエン6割+へキシル4割。
九八式爆薬。トリニトロアニゾール6割+ヘキシール4割の混融爆薬。当初は投下爆弾用。のちに魚雷頭部にも採用された。WWII中、この炸薬を充填した魚雷が被弾によって自爆した例は報告されていない。
機雷用の八八式爆薬は、カーリットのことで、S5に制式採用。
成分は、過塩素酸アンモニウム75+珪素鉄16+木粉6+重油3。全体が粉状であるものを、圧填する。
過塩安は、食塩と電気から製造できる。したがって資源難の問題はまず無いことが好感された。
ただし被弾したりすると誘爆しやすい。対米戦の緒戦段階で、ウェーク島沖で敵F4Fからの銃撃だけで日本の駆逐艦が沈められているが、その原因が、搭載機雷の爆発だったらしい。この件以後、沿岸に敷設する防禦用機雷だけに使用は限定されたという。
S17-1に、機雷用として一式爆薬が採用された。成分は、ピクリン酸アンモニウム81%、アルミニウム粉16%、木粉1%、重油2%だったが、アルミ資源が足らず、大量生産できなかった。
そこでK1 からK5 までの、代用爆薬が考案されている。すべて機雷用。被弾には安全であった。
K1 の成分。過塩安80+珪素鉄8+タルク10+クロルナフタリン2。
K2 の成分。硝安89+コールタール6+木粉5。
K3 の成分。過塩安42+硫安37+珪素鉄20+クロルナフタリン1。
K5 の成分。過塩安55+硫安29+珪素鉄10+木粉5+重油1。
このうちK2 は、過塩素酸アンモニウムすら足らなくなってきたので、考えたという。
※K4 は欠番か?
採用された年・月。
下瀬火薬は明治26年1月。八八式爆薬は昭和5年10月。九四式爆薬はS9-4。97式爆薬はS12-8。98式爆薬はS13〔何月かは不明〕。1式爆薬はS17-2。
94式、97式、98式は溶かして鋳填する。1式とKシリーズは粉状である。
戦中の日本海軍は、駆逐隊1隊で、敵戦艦1隻と刺し違える構想だった。
航空魚雷の製造数。実績値。S6~S16は1552本。S17は1400本。S18は1670本。S19は3030本。S20は2471本。
S20年には航空機雷も1万3000個生産した。
S17までは、魚雷生産は長崎兵器のみである。
S18頃、水中ロケット魚雷も考えた。
▼『月曜会記事』vol.11(M19-5)禁発売
雪堡侵徹力試験。
村田銃で200碼[ヤード]先から射撃してみると、最大で1.7m侵徹した。平均値は、1.495mである。
※照尺がまだヤード単位だった時代。
この時点での日本の師団の行軍。2個旅団=12個大隊。それが5列で進む場合、砲兵、工兵、輜重、衛生隊を含め、全長1万500mになる。その後方1500mにはさらに大行李が続く。
列のことは伍という。二伍なら1万7000mの長さになるだろう。
大行李とは、糧秣、炊爨具、公用&将校用荷物。要するに宿営で必要になるもの。
小行李とは、予備弾薬と繃帯所。戦闘行李とも言い、戦闘に必要なもの。
論点。毛布の個人携帯をやめて、個人用の炊爨具を持たせてはいかがかと。
かつてアルダルヂュピック大佐は言った。兵事に関し、経験よりも忘れやすいものはない、と。
仏では銃剣廃止論がある。連発銃ができたので。
1866普墺戦争では、銃剣使用の白兵戦はただ1回のみ。
1870~71の普仏戦争では、白兵戦は一度も生起せず。
1877-8の魯土戦争では、ロシアの標語「弾丸鈍し 銃剣ひとり鋭し」/スワロフ&ヲクーネフ を実行しようとしたがダメだった。
仏支戦争、トンキンの役、スダンの役でも、銃剣使ったことなし。
昔は歩兵が100mの間合いをつめるあいだに敵兵から2回しか射撃を受けなかった。
当時、銃剣は、977グラムより軽いものはない。
兵隊が、最前線で躍動をくりかえして、いちばん疲れているときに、筒先に600グラム以上の重しをつけられたら、もう狙撃なんてやってられるものじゃない。
この仏人は結論する。銃剣は、長さ10センチ、重さは100グラムでもよいのだと。
仏は1878クリミア戦争の後に、携帯毛布を廃した。
▼『月曜会記事』vol.12(M19-6月号)
日本の近くの給炭港。ヨコハマ、香港、ラブーアン(今のボルネオ西岸)、シンガポール、フィジー、濠南に2箇所、セイロンのツリンコマリー、インド西岸のボンベイ。これだけ。
▼『月曜会記事』vol.13(M19-7)
意義両様にわたる字を忌む。
軍用の日本語の文章が意味不明瞭であったら、それは敗戦の好材料となるのみ。この虚飾や曖昧、冗長、繁雑を、いま矯めなかったなら、いつ改革ができるのか。
M19-1月~6月の講演で、馬丁の慣習服制の改革を議論していた。
▼『月曜会記事』vol.14(M19-8)
この時点で幹事として、兒玉源太郎大佐、東條英教歩兵大尉、砲兵大尉有坂成章。会員に、永沼秀父・騎兵少尉ら。
▼『月曜会記事』vol.15(M19-9)
さきに明治13年 兵語字書 が刊行されている。しかし今日の兵書と対照すると、今では、同じ意味のことをあらわす言葉が、ずいぶん変わってきている。このさい、あたらしい字書が必要だ。
※同じことが、『偕行社記事』にも寄稿されてなかったか?
▼『月曜会記事』vol.16(M19-10)
脚気を解消するために、コメと魚をやめ、パンと牛肉にしようとしたが、兵がうけつけなかった。
理由。調理の「塩梅」が激マズであった。このさい、厨卒を置いてはいかがか?
この頃、福島安正も歩兵大尉。
▼『月曜会記事』vol.17(M19-11)
わが村田銃は、欧州の著名の軍用銃、すなわち「グラー」「モーゼル」「ボーモン」等の諸銃とその性能が伯仲している。堅牢さについても、昔日の国産銃はもちろん、「スニーデル」「ドレィーズ」「シャスポー」等が、しばしば撃針が折傷したり、着剣を固定する駐梁〔いまのレールに相当〕が脆弱だったこととは、もう同日の論ではない。
日本では、銃を傷めないように、銃剣の着脱や木製薬筒の装填も新兵に実際には操作させず、「手まね」だけで練習させていた。
仏海軍がクロパチェック連発銃を採用するに際しては、装填したまま落下させたり、射撃後に掃除しないで5日間放置したり、船の上に2日さらすなどのテストをした。
「新艦畝傍号」が地中海の鍛鉄造船会社で本年4月6日、進水式。18ノット以上出るはず。
甲鉄艦で、浮游線〔喫水線のこと〕において防水区室を設けた巡洋艦。
鉄甲板は亀甲型をなし、舳より艫に達す。
甲鉄甲板 上方は 厚さ5ミリ×2枚、間隔45センチ。57隔室に分かれる。
各鋼鈑間は、栓材(キルク)を填実。
諸機械 および 汽罐の上方にある区室は、ことごとく煤炭庫〔=石炭庫〕となす。
他の区室は水雷庫 および 雑品庫。
隔壁中にも「隔障」を設け、40個の独立区室に分けている。よって計97防水区室。※それで沈んだんかい!
甲板は50mm鋼鉄と10mm鉄鈑2枚を螺子止め結合。
砲は24サンチのクルップ砲×4門。
砲壇製 半円郭内にあり 水平射扇形は170度。
15cmクルップ×7門 船楼上にある(1門は舳樓)。
以上すべて、ワ゛ワ゛ソール、カネー式砲架。
その他、神速射撃の6斤「ノルデンフヱルト」砲2門、口径25mmの四砲身を連合したる「ノルデンフヱルト」霰発砲10門、ガトリング霰発砲4門あり。
カネー式自動水雷射筒×4 水平射扇70度。
福島安正はインド旅行までしている。
※vol.19~vol.24(M20-1月号~M20-6月号)の国会図書館の蔵書は欠。
▼『月曜会記事』vol.27(M20-9)
例会で、日本刀は将校軍刀の中身に適当か否かを質す。
▼『月曜会記事』vol.29(M20-11)
1877~78の「露土」戦における銃火の威力をクロパトキン少将が演説。
連発銃を採用するなら「ベルダン」小銃より重くないこと。肩付けしたまま連発できることを望む、と。
野戦歩兵に「機関砲」を応用する考案。英海軍誌の記事。
「機械砲」とも表記している。ガートナー、ガットリンク、ノルデンヘルト、ホッチキスがある、と。
▼『月曜会記事』vol.30(M20-12)
連発弾薬嚢付ベルダン銃 ※皮ベルトに実包を固定する方式らしい。
モシン式連発銃 11連発。
▼『月曜会記事附録』(M21-7月)
励軍要【言票】。フランス軍の美談集。面白し。
マルセイエースの漢詩訳も。
▼『月曜会記事』vol.8(M21-8)※なぜか通し番号をやめてしまったらしい。
「夏帽」をつくれ。香港で英将官がかぶっている防暑帽はよさそうだ。
▼『月曜会記事』vol.10(M21-10)
北海道屯田兵の概況。明治8年に始まった。
携帯兵器はレミントン銃である。すべて。
下士官と兵は、草鞋である。
連発銃雑説/長岡外史。
このごろ日本では、連発銃に関して、議論が低調で、よくない。先月、藤井砲兵大尉がそう言っていた。
ドイツでは1871式モーゼルを連発に改造する決定が1884になされたが、その84式の完成とどうじに、小口径化の時代となり、8ミリの別物を開発している。
フランス軍は、まずクロパチェック銃を交付し、ついで、ルベル8ミリ銃に移っている。
墺は、11ミリのマンリッヘル連発銃を採用したが、仏のルベルに刺激され、小口径化を検討中だ。
▼防研史料 『昭和4.10~5.3 研究審査現況表』/陸軍技術本部
大9-7-20に、3年式MGを7.7ミリの改造する方針。この時点で試作は完了している。
13ミリMGは、「保式」高射MGと、「造兵廠案」がある。
大15-5-25に「自動短銃」案。
戦利「ベッカー」砲をもとに、航空機用20ミリMGをつくっている。※ドイツからの賠償品。飛行船に搭載していた。
大9-7-20から6.5ミリの「曳煙弾」を研究。大14-3にテスト。
大12-11-1、重擲弾筒とタマ 「上申準備中」。
大9-7-20、「七糎半自動車高射砲用自動車」。大14頃にできていたが、差動機がうまくいかず、全般に構造も弱すぎ、使い物にならぬ。その後、AAは牽引式とされ、本車両の研究はS2-3以降中止。※ガッゲナウのトラックのマルパクのようなものだったかと想像される。
重戦車。大14-6に設計着手。S2-7下旬~8月上旬、大造で竣工試験。
水陸両用装甲自動車は、大14-9設計着手、大15-9に製作図略案了。水陸両用戦車の前提として、大15-10月、試製審査を上申。造兵廠に注文した。東京工廠で試製完了。9月、予備試験。11月、富士裾野、沼津海岸でテスト。軽量・高泳速化し、S4-6修正試験。
フィアット軽戦車を研究中。
「突撃用具」として、無線操縦の爆薬車。大9-7に研究開始。今、3トン半牽引車を改造中。
▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(一)』
S17-10時点での20cm臼砲 試製一式榴弾 炸薬量は12.610~12.860kg。
S18-3時点での試製21cm榴弾砲 先鋭弾 甲 炸薬13.200~13.700kg、乙 12.970~13.153kg。 乙は被包2.150kg含む。
90式榴弾の威力範囲は16m。
試製2式爆雷(対潜用)。
全備重量77~114kg。
炸薬 43.6~79.9kg。茶褐の溶融直填、廃茶褐の塊を入れ溶填、茶褐を粉状に填実、廃茶褐薬の塊と粉状薬を混ぜ填実、カーリットを填実、があり。
「カ号」からも落とした。
※陸軍がASWを分担していたのである。
S18-6、十五cm加農用 試製 水中弾。炸薬7.140~9.794kg。
S18-6、試製96式24榴。
試製一〇〇式破甲榴弾 炸薬11.540~12.986kg(被包ふくむ)。
試製一〇〇式榴弾 炸薬18.310kg。
S18-7、一技研 十八年度研究計画の改訂。
戦車用のAAMGは中止。
AA「サ」弾の研究を促進。※散開or散布弾。海軍砲のタ弾のようなもの。
AA用は、20ミリ、37ミリともに焼夷弾を採用し、榴弾は廃止。※陸軍の37ミリの高射砲とは何なのか謎。特殊な台座に載せてATGをAAGに転用するつもりだったのか?
噴進式 超低空用阻塞弾。
舶用のAAMGの動揺キャンセル台座を、実験していた。
小銃用タ弾。 有翼弾だと弾速が低下してしまうので旋転式にする。99式手榴弾発射用のカップを共用できるよう45ミリ径のものを作る。弾体はジュラルミン。
試製7センチ ろ弾 ※ロケット弾。
炸薬量 580グラム。
▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(二)』
臨時高射用船載砲床(90式野砲用)のクリアーな生写真、貼付。
94式山砲用もあり。すごい。
94式97ミリ対戦車砲砲用も。車輪の内向きがよくわかる。
S16-5に、熱地のアスファルト路上で野砲放列布置はどうできるかの研究。
94式山砲と、37ミリATGのクリアな写真。
S16-7に、野重の脚を補強する改修をしていた。3~5ミリ厚の鈑を鋲接する当て板式で。対象は、91式10榴、96式15榴、92式10加。 ※あきらかにノモンハンでの脚折れ事故続出の戦訓に対処している。
99式八高の写真。
S16-8、馬式57粍砲を利用する対戦車砲研究。
馬式57粍砲の薬室を改修し、95式野砲の砲架に載せた。
初速850m/秒。弾重2.7kg。
しかし、ライフリングの経始が高初速向きではないという。
94式特殊運搬車。
※すばらしい写真 多数。
S16-7に38式野砲に対戦車射撃用の照準具をとりつける改修の研究をしていた。
機動91式榴弾砲。「パンクレスタイヤ」であった。
S16-7の「らく」の説明で、「一〇〇式機関短銃」と表記している。
降下部隊の擲弾分隊。
分隊長1。重擲弾筒×4。射手4名。弾薬手8名。弾袋13(各8発入り)。99式短小銃×13。弾薬帯13(各90発入り)。
92式重機の弾背負袋は540発入り。
97式自動砲の「弾倉袋」は7発入り。弾背負袋は28発入り。
手榴弾は99式曳火手榴弾。
機関短銃は1梃につき300発、持っていくらしい。
97式自動砲(対戦車銃)は1梃あたり175発。
擲弾は26発。
小銃弾は各90発。
※44式騎銃の「弾薬帯」を流用するらしい。
92式重機関銃は1門につき4320発。
99式LMGは2130発。
投下筒につめこんだ一〇〇式機関短銃の鮮明な写真。二脚付であるのがよく分る。
視号通信器(電球を使うもの)あり。
押収76.2ミリ野砲の応急利用法。
ノモンハン後(S16-12)、55門あった。
南部14年式拳銃を4梃固定し、野砲の弾着を縮射する、訓練用の機材があった。
▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(三)』
15榴を曳くロケのすばらしい写真。
99式7センチ半戦車砲(S17-3)。
15加を曳く13トン牽引車。
試製1式37ミリ対戦車砲。
魚雷射撃の目的を以って、7.7ミリと20ミリの水中弾道テスト。
※これは米潜水艦に味方兵員輸送船が次々沈められてしまうのをなんとか自衛させたいという陸軍の苦肉の研究。
20ミリは水深5mで10mm鋼鈑を貫く。7.7ミリは水深2mで3.5ミリ鈑を貫くが、3mだともうダメ。
この20ミリは、弾丸全長4.5口径、初速890m/秒。
▼防研史料 『昭和十三年 支那事変兵器蒐録 第一~第四輯』〔中央軍事行政 兵器 30〕
陸軍技術本部が、自軍兵器の欠陥を報告した極秘資料。
戦車は、直接式展望では安んじて戦闘し得ない。ガソリンエンジンは不可。八九式戦車の足回りは実用価値ゼロ。他の部分は満足できる。
軽装甲車は、武装以外はよい。
指揮官用戦車はダメ。少しでも外見が異なった車体は、敵が見て指揮車両だとすぐ察するので、敵火が集中してどうしようもない。補充もできないし。
S12の支那は30年来の大雨。泥が酷かった。
戦車の装甲は前面は二重とするを可とす。※7.92ミリの小銃弾ですら、破片粉末の飛び込みで負傷者続出したということ。
95式軽戦車は敵前百米に達する前にぜんぶやられるだろう。
トラックは次の順に好評である。隅田>千代田>フォード>シボレー>日産>豊田。
96式15榴に、92式5トン牽引車は、駄目だ。
89式戦車に敵の迫撃砲がダイレクトヒットしたが、無事だった。※迫撃砲の場合、それはあり得る。
ライフル、MG弾は、ピシリという音を聞くのみである。しかし対戦車砲には抗堪できない。
排気鎧戸の方向が砲塔に向かっているのは失敗設計だ。夏は、停車中、たまったものではない。
空中線〔=アンテナ〕は木にひっかかったり、敵弾によって破損させられやすい。
記号旗を出しただけでも敵弾はその一車に集中する。外形の異なる指揮用戦車など、将来は不可。
軽装甲車からMGを射ちかけても、支那兵は逃げない。しかし37ミリ砲を1発撃てば、直ちに潰走する。其の精神的効果は到底MGの比にあらず。
※日本のTKGは敵兵追い散らし兵器だった。
※92式HMGは地上に降ろせば遠距離狙撃兵器だが、車載すれば精密狙撃が不可能で、サイクルレートは低いし、7.7ミリだしで、無価値に等しくなってしまう。ましてLMGの改造品では……。
戦車に追及し得たトラックは、制式6輪乗用車と、制式6輪トラックだけ。ビック乗用車〔ビュイックのこと〕、側車、4輪車はまるだダメで残置。6輪も民間徴発のものはタイヤ幅が狭くてダメ。
97式戦車は、小銃弾の飛び込みが多く、鉛粉による負傷が多い。
拳銃用の孔は、たいへん有効だ。
37ミリ対戦車砲弾は、「法線上」でなければ貫通されない。※車体正面の中央稜線か?
チェコ軽機のタマは最大6ミリ侵徹し、頭部が嵌入することがある。
空中線〔鉢巻アンテナ〕は目標となって、ダメ。付けるなら偽アンテナを全車につけろ。
縦方向のスリットは、無価値である。
94式軽装甲車のドライバー正面の垂直壁の部分は、MGに連射されると貫通されてしまう。
銃塔は、傾斜地では、回せなくなってしまう。
戦車は支那軍に対しては顕著な威力がある。89式戦車が敵前に停止して射撃を開始するだけで、敵陣地は動揺し始めるのが看取される。捕虜も「戦車は魔物」と話し居れり。
敵に今の2倍の空軍があったら、ダメかもしれない。
こっちが飛行機を飛ばすと、敵の砲兵も機関銃も射撃を止める。
砲兵。追撃フェイズでは花形は十加と24榴である。なぜなら、トラクター牽引だから。
十五榴は、それらの後塵を拝しつつ、あえぎあえぎ、痩せ馬に鞭を打って進む。
悲惨なのは古い輓曳の三八式15Hなどで、殆ど徒歩臂力輓曳となり、馬は7~8kmも後方に残されている。
歩兵弾薬は、重機、重擲、小銃の順に多い。しかし小銃用の携行弾薬は、まだ多すぎるのではないか。
城壁に対しては、砲弾の信管を短延期にすると、ハネ返る。
手榴弾は不評。改正品は可。支那軍のものは更に可なり。
わが損害の半数は、敵の迫撃砲弾による。
日本軍の手榴弾は、補給が乏しい上に、使用法が面倒で、威力も敵の手榴弾より劣る。比べて、敵の棒付手榴弾はすばらしい。だからわが兵は競って支那兵の死体から棒付き手榴弾を蒐集して、それを使って近接戦闘に臨もうとする。遺憾なのはその補給はすぐ尽きるので、それさえあれば成功疑いなしの突撃が失敗してしまう。
断尾式の手榴弾は効力が極めて少ない。※明治41年の着発式の手榴弾らしい。
畑地では十分に上に投げ上げないと不発になる。よって、遠投ができない。
改良38野砲は、重すぎる。過労のため、斃死馬520頭を出せり。
92式十加は、尖鋭弾+1号装薬で、大架が曲がる。
96式15Hは、信頼度大。トラクターもよい。
側車は無用の長物なり。寒冷期にどうしようもない。
フォードのダブル(タイヤ)のトラックは良い。
保護6輪も。
噂では、シボレーはフォードより評判が悪い。
戦車の2枚ハッチはダメだ。衝撃で開いてしまうし、継ぎ目から鉛粉が飛び込む。
土壁突入の必要があるから、車体は尖らせて欲しい。
戦車砲は、駐退復坐に2~3秒もかかるので、そのあいだに隙間から敵弾が飛び込んでくる。
追撃モードでは、工兵はまず15Hと15加を通す橋をつくる。これを13トンの89式戦車は渡れない。だから中戦車の全重を、15加なみに軽くしろ。
敵の7.92ミリ弾は、15ミリ厚の装甲を貫通する。
戦車砲を3発、あるいは車載MGを40発以上射つと、眼は痛くなり、頭は重くなり、手足は震え、号令は耳に遠く聞こえる。※一酸化炭素などの「あとガス」が悪く、その排気システムが無かったのである。
軽装甲車は100m以内では7.92ミリ小銃弾に射ち抜かれる。
94式軽装甲車の主火器としては6.5粍MGが搭載されているが、これは7.7ミリMGか37ミリ砲が最低でも必要だ。
水陸両用車は虚弱で、実用価値は更になし。
重擲のミニマムレンジ内では、歩兵部隊の支援重火器は手榴弾だけとなるが、その手榴弾が国産品はロクでもないものばかりなので、最後の突撃が頓挫してしまう。
着発式手榴弾は、敵トーチカに放り込めない(不発になる)。
綿畑では弾着の観測がむずかしい。HMG用に曳光弾をくれ。
92式歩兵砲のシールドは、400mから敵の7.92ミリ弾で貫通される。
95式軽戦車の装甲鈑のボルトは、植え込み式にしろ。特に神戸製鋼製。
95式軽戦車は、対錘(カウンターバランス)つけないと、わずかな傾斜地でもターレットを回せない。
95式軽戦車には、89式戦車にはない伝声管がついていた。
バッテリーは自家充電ができなかった。
なぜトラックはワイヤーブレーキなのか。汽車輸送で固定するとき、油圧系のパイプは壊れる。戦場で漏れたオイルは補充などできない。
フォードは燃費が悪いが馬力(発力と言っていた)があるので良い。
戦車をいちど残置すると、部品を剥奪され、二度と使い物にならなくなる。
水陸両用戦車に装備されている反射眼鏡〔ペリスコープ〕は実用的だ。
収束手榴弾でドライバーズハッチをやられた94式軽装甲車がある。
城門破壊のために94式軽装甲車に工兵を便乗させたのは、大成功。うしろにハッチがあるので。これがあれば、工兵の装甲作業機などいらないと分った。
94式軽装甲車には、旧型履帯と新型履帯があるらしい。
村井部隊は、92式重装甲車も使っていた。
作戦途中で、37ミリ戦車砲付きの軽装甲車×4両が投入された。
クリークでは95式軽戦車は往生した。むしろ古いルノー軽戦車が通過できた。
乗員2名の軽装甲車でも、1ヶ月の連続追撃はできる。
▼防研史料 『昭和十三年 支那事変兵器蒐録 第六~第八輯』〔中央軍事行政 兵器 31〕
※第五輯は欠らしい。惜しい。
MGは夜間に弾着を見たいから、曳光弾が必要である。
日本の戦車の57粍砲身は、敵歩兵の7.92ミリ弾で、横から貫通されてしまう。