▼『二十六年式拳銃使用法』 ※公文書館蔵
陸達第百五十四号
二十六年式拳銃使用法、別冊の通り 定む。
明治32年12月26日
陸軍大臣 子爵 桂太郎
総則。
拳銃の取扱いは、徒歩に於けると、また馬上に於けると、異なることなし。ただし、弾薬の抽出は、馬上において行はざるものとす。
拳銃は、常に拳銃嚢に納む。
「揚げ銃」「納め銃」「込め方銃」
タマ込めは馬上でしてもOK。
右手の拇指と食指とを以て、鎖鉤を撮む。
鎖鉤を上げ、銃把をにぎり、弾巣を半ば開き、銃口を左にし、左手の拇指頭を以て遊鈑を押へ、尚ほ弾巣を開き、弾薬を抽き出し、之を弾薬盒に納む。
「打方用意」「狙へ」「打」
左足をひき、頭を傾くることなく、人像の帯部を照準す。
連射 「急き打かゝれ」
……間断なく射撃をおこなう。
「打方止め」
射撃法に習熟せば、独立して射撃することを演習せしむるを要す。
※全7ページ。
M32-12-25印刷。12-28発行。陸軍省。
印刷所は、陸軍省構内 小林出張所 小林又七。
▼『三十年式騎銃 使用法 草按』M32-12-26
銃は通常 撃鉄を下ろし、負革を短縮することなし。
休めのときは、照星を摩擦せざるごとく銃を保持し……。
装填と充填を区別せず。総て装填とす。
▼『海軍銃隊操式』M25-12 達第101号の属。
執銃教練、停止間動作、その他、新兵用のこと。
膝射[ヲリシキ]構へ銃。
襲歩進め。 ※これは「駆歩」とは別。
銃剣突撃のときには「襲歩進め」。喇叭手は、侵襲の譜を吹く。「突込め」。
「騎兵に向ひ縦隊進め」で方陣をつくり、「中隊、縦隊進め」で最初の隊形に復す。
騎兵はおそるるに足らない。むやみに方陣をつくるよりは、散開して、銃火をできるだけ揃えろ。
駆け足中の散兵は、しかし、敵騎兵に対して無力だから、動くな。ただし蝟集するな。散開して射て。
敵騎兵がやってきたが、こちらにタマがないときや、さんざんにやられて逃げるときには、方陣を組め。
発行M25-12-12、水交社。
▼陸軍技術本部『大正13年~昭和2年 武器弾薬関係雑資料』
大13-9調。11年式平射歩兵砲。
十二年式榴弾弾薬筒は、炸薬として、茶褐もしくは黄色薬が42グラム。
装薬は五ミリ方形薬×53.5グラム。
大13-9調。11年式曲射歩兵砲。
茶褐薬460グラム。装薬は2号空砲薬17グラム。
発煙弾は、茶褐薬22グラム+黄燐450グラム。
信管は、ともに瞬発。
大13-9調。11年式軽機関銃。
全長485ミリ。
施綫部長 417.2ミリ。
弾丸経過長 438ミリ。
重さ 14kgちょうど。
射撃速度 1秒につき約8発。
「装填架」収容弾 30発。
バレル周りに「握革」。
38式実包の初速は721または747m/s。最大3800m飛ぶ。照尺は1500mまで。装薬2.15グラム。
高射砲用に、克式機械信管と毘式火道信管を試したが、実用価値は伯仲。ただし価格は機械式が3倍高い。
高度7700mまで20.65秒。22秒とすれば射角70度で8250mに達する計算。そのさいの平均誤差は0.6秒から1.5秒あるらしい。
克式で射角80度で高度6095mを狙ったとき、最大0.56秒の誤差が出た。初速は792m/秒。
ビッカースで射角65度で高度5730mを狙ったとき、最大誤差0.92秒。初速は792m/秒。
大15-6-24製図の7粍7試製実包。
リム径12.7ミリ。
薬莢の尾端径12.1ミリ。つまり0.6ミリ起縁。
リム底からボトルネック頂まで62.90ミリ。
タマ全長30.80ミリ。
タマ尾径最大7.85ミリ。非ボートテイル。
被甲 guild metal(銅90、亜鉛10)。
弾身は硬鉛(Pb95、Sb5)。
ボートテイル弾の弾重は10.7グラム。
大15-9-21会議で修正した7.7ミリ弾は、リム径13.2ミリ(プラス0.2~マイナス0.1ミリ)、薬莢尾径最大12.6ミリ。
S2-7-4の製図でも、この形。
▼篠田鉱造『幕末百話』S44、原M38、改訂S4
新刀をあらみという。佐竹の家来で百石取りの男、辻斬りが趣味になってしまい、ツカ巻師のところにしょっちゅう刀を持ち込んだ。血糊で柄が腐ってしまうため。
江戸諸方にいた馬ごと師。諸大名の馬を預かって仕込んだ。
馬の尾をパラッと開けるようにするには、馬医師にかけて、尾の筋を断らねばならぬ。
見附では、提灯をしぼらせる。中によく兇器が隠されているので。
安政地震のときは、立っていられなかった。
土蔵は、地震に弱かった。
大名の冬の夜具は、三枚目のが天井から吊ってあり、重みがかからないようになっていた。
7時に起きて、トイレ、歯磨き、入浴。そこで初めて寝巻きを脱ぐ。下帯は、毎日使い捨てだった。
文久、元治のころは、腕の利いた悪旗本が、辻斬り稼業に精を出していた。
大名屋敷に「お小姓」にあがると、お姫様と同じ振袖。というのはいざというときに身替りとなるのである。 中間(ちゅうげん)は、ふつう、真鍮の木刀を持つことになっていた(p.80)。しかるに上州館林の秋元家だけは、中間に真剣脇差を持たせていた。このため、中間同士の喧嘩になったとき、重傷者を出したことが問題となり、ついに秋元家でも中間の真剣を木刀にさせた。
遠島・死刑は奉行だけでは決められず、老中にお伺いをしなければならない。
神田和泉町には能勢熊之助という旗本がいて、狐つきをおとす副業で稼いでいた。偽患者は、一目で見破られた。
夜間の江戸市中の大名行列は、300人もいるのに、馬の轡の音しかしない。人の背を揃えてあり、提灯が一直線に並んで見える。
箱根関所には裏道間道があった。それを「木曽」と称えた。ばれたら重罪。
女手形は右端からびっしりと書く書式になっている。これは、文字を追加されない用心。
神田淡路町から前橋方面への駅逓馬車。広運社というのが、双方から1日3便、出していた。高崎まで28里を10時間。熊谷で槍強盗があり、それ以来、駅逓局がピストルを下げ渡した。弾薬は厳重に管理され、1発紛失すれば罰金3分とられた。
オランダ式の太鼓の叩き方は小石川西富坂町下の鉄砲方の屋敷で調練していた。太鼓には三種類あった。ヤパンマルス=日本軍行進曲。これを含めて5曲あった。太鼓の皮はヤギを上等とした。二つ叩ちをロップルという。※リップルか。
慶応には、太鼓もフランス式となり、オランダ式は廃れた。
折助の世界では、医者に見離された病人は、安楽死させる。「納めてしまえ」と仲間があつまり、めでためでたの若松様よと胴上げして、よいかげんのところで土間のたたきへストンと落とすと、ながわずらいの大病人だけに、グッともいわず、絶命する。
黒船がもちこんだコロリ〔コレラ〕は強烈だった。今朝元気だった人が晩には斃れた。両国橋は、棺が百個通ると水で清める掃除をしたが、それが日に幾度にもなった。棺もなくなって樽詰めだった。
この大コロリが済むと、こんどは赤くなって死ぬ病気がはやりだした。猩紅熱。金時みたいに真っ赤になって死ぬ。
長州征伐のとき、大坂の天満橋向こうには「九一」という写真屋があって、代金は紙写し3枚で3分だった。
大名が急死すると死体を朱詰めにして秘密にし、養子願書を出す。多額の賄賂がやりとりされた。
武士は髪結い床をひとつに決めていた。というのは、結い手がかわると、からっきし顔違いがするので。
安政3年の大嵐では不思議に人死には少なかった。あけがたになって家を出てみると、立ち木がひとつもない。瓦が木の葉のようにとびちって粉みじんであった。
維新前の江戸の刀剣商は名高いところで四軒あった。尊皇攘夷が流行するにともなって、金銀細工がすたれて「鉄拵え」に変わった。ついで「肥後作り」と称して、熊本風が流行った。
旗本の不行跡な若者は、まず小普請入りというのを命ぜられる。これは小普請金という罰金を毎年納めねばならない。それでも直らないと、「お預け」となる。ひと間の部屋に、四寸格子で閉じ込める。本人には知らせず、あらかじめ用意してある格子で瞬時に牢を組み立てる。
文政の丑年の火事では2000人の死体を数えた。ペスト騒ぎどころじゃなかった。
『新聞雑誌』というタイトルの新聞は、週刊誌であった。
『報知』新聞は、火事の取材(探報)をまめにやった。それは読者のためを思った深切な仕事だった。とうぜんに売れた。
道場の月謝は、次男、三男は、半額でよかった。
天保通宝は、幕末になると各藩で鋳造し、急速に質が悪化した。叩くと欠ける。瀬戸物を混ぜたという噂。
初期の刑事は容疑者を1ヶ月くらいも拘留しておいて、退屈なときに引き出して、縛ってある両手と背中の間に鉄の十手をさしいれてシャチを巻く。
明治2年時点で、朝の8時に横浜を徒歩で出ると、東京に着くのが夕方4時。異人だけは馬車往来。
東京から京都までの郵便は10日かかった。
櫻田門外の変のあと、大名駕籠のあとには、藩士の腕利きの次三男がぶらぶらと護衛に付き添うようになった。このおかげで、安藤は死を免れた。
屯所にする寺の給養に依存しないことを「自分兵糧」といった。
紀州侯の中屋敷で蘭書にもとづいて青銅で80ポンド砲をこしらえたが、下屋敷で試射するときに火薬箪笥に引火させてしまい、師範も弟子も皆爆死。これがため紀州藩では砲術が退歩した。
幕府の奥詰銃隊。西洋の近衛兵の真似で、頭取は西周だった。
役職の「同並」は「どうなみ」と読む。
ロクに漢字も読めない旗本が多かった。
カホラーといった、伍長。※コーポラルか。
大築保太郎は蘭学者で『築城典型』という訳書があった。
ぬかるみの見苦しいのを植生で隠すには、稗を蒔くとよい。これは家康が生きていた頃に始まった。
江戸城の濠の土手に松を植えたのは、林田小右衛門。
貧乏武士は飲み代にこまると、1本しかない刀を質に入れてしまう。それなしでは屋敷奉公はできないから、必ず引き取りに来るだろう。したがって質屋も貸しやすい。
ところが工夫がある。脇差の刃身に手拭をぐるぐる巻きにして、中途半端に納めて固定する。この鞘を羽織の先からのぞかせておけば、あたかも刀を差しているように見える。それで出勤した。バレればクビである。
幕府が薩摩邸を攻撃したときも、田町の一方はあけてあった。だから薩摩兵はそっちから逃げ延びた。
柳橋というのは札差の商人たちが私費で造って、町費で維持していた橋。所在の神社が古く柳沢家の由縁があったため、名づけるときに柳ばしとした。
大名が国表と江戸を行き来するとき、飲料水、風呂、トイレは行列の中で完結させていた。すなわち、排泄物はすべて砂とともに樽詰めして領国まで持っていったのである。
山縣有朋は、ぬる湯が好きだった(p.224)。
天然氷は、やはり衛生上、危険なものだった。
鉄行灯。地震で倒れないように、鉄で重く作ってあった。