Charlie Campbell 記者による2021-4-20記事「Will Japan’s Low Immunization Rate Pose a Problem for the Olympics?」。
ニュージーランドも日本と同様、まだ国民の1%未満にしかワクチンを接種できていない。豪州と韓国は3%未満である。
米国は25%、英国は48%である。
日本政府がこれまで買い付けたワクチンは、ファイザー、アストラゼネカ、モデルナの三種で、トータル3億1400万射分。しかしじっさいに着荷しているのはファイザーだけ。
インドネシアとタイでは、アストラゼネカのライセンス製造が停止してしまった。血栓の稀少副作用が報告されているというので。
しかしながら、血栓リスクがずっと高い「経口避妊薬」ピルは、誰も問題にしていない。
アストラゼネカを注射されて血栓ができる確率は20万回に1名だ。それに対してピルを1年間服用して血栓ができる確率は2000人に1人なのである。
次。
Gina Dimuro 記者による2020-5-14記事「Fragging: When Soldiers In Vietnam Revolted Against Their Officers By Murdering Them With Grenades」。
フラッギングとは、ベトナム戦争中の前線の宿営地等において、味方の兵隊が、夜、寝ている上官の将校に手榴弾を投げること。怨恨による場合もあったが、殺傷、または精神的に動揺させることによって、その将校が部隊からいなくなってくれることを企図したこともあった。
卵型のM26のような破片手榴弾を「フラグメンテイション・グリネイド」と呼ぶ。つづめて「フラッグ」だ。
当時の米軍の個人用手榴弾には、1個づつのシリアルナンバーが打ってなかった。また当時の鑑識技術では、爆発破片からは指紋は取れなかった。したがって、破片が調査されても、犯人を特定できなかったのである。
フラッギングを受けた将校とはどのような将校か。やたら規律を厳しく押し付けようとする、新米少尉。戦術眼の無い下級将校。とにかくその将校の下にいては、部隊が安全でなくなると部下たちが感じたときに、手榴弾が投げられる。
爆発させない、脅迫だけのフラッギングもあった。態度を変えさせたい将校の名前を書いた手榴弾を、安全ピンをつけたまま、その将校のベッドに置いておくのだ。
有名になった、トマス・D中尉のケース。
ベトナムを離任して、明日、本土に帰還するというときに、部下の手榴弾で爆殺された。
事件は1971-3-15に起きた。場所はビエンホアの米空軍基地。部隊は陸軍砲兵。
将校だけのパーティが盛り上がっていた深夜1時、
爆発音が基地に響いたので、ベトコンの襲撃かと皆、色めきたった。
だが爆発音は1回のみ。すぐに続報が広まる。誰かが、将校宿舎の開いていた窓に手榴弾を投げ込んだのだ。
この手榴弾により、少尉1名と、中尉1名が死亡した。その中尉が、トマス・D。
投げた犯人は、ビリー・S二等兵だった。
人種差別構造が疑われた。
ビリーは黒人兵で、犯行前に、反戦的な発言をしていたという。本人は犯行を否認。1972年、陪審は無罪評決を出した。
銃後の米国民は、フラッギングなどという、昔からある軍隊の闇について、それまで知ることはなかった。この事件で、初めて知った人が多いのである。
手榴弾はWWIいらい、各国軍の一般的装備である。しかし米軍に関しては、朝鮮戦争まで、手榴弾による上官殺害は、ほとんど報告例が無い。
ベトナム戦争において、とつじょ、フラッギングが始まった。
これにはシステム上の理由もあった。
ベトナム介入が泥沼化すると、ペンタゴンは、兵と将校に、前線勤務をローテーションで義務付けるようになった。兵は1年間ベトナムに渡って従軍すればまた本土へ戻してもらえる。それに対して、将校のベトナム勤務は、半年間ローテであった。
この制度が、将校と兵との紐帯を構築至難にした。同じ徴兵なのに、小隊長や中隊長は、兵隊たちよりも後からベトナムにやってきて、わずか半年後、兵隊たちよりも先に米本土に帰る。
これでは指揮官と部隊の一体感など生れるはずがない。
現地の部隊に、次々に新人の下級将校が米本土から落下傘式に赴任してくる。摩擦が生ずるのがあたりまえである。ようやく部隊や戦場に慣れてきたかなという頃にはその下級将校はベトナムを去るのだ。
※ROTCの大卒者は徴兵動員でいきなり少尉=小隊長にさせられることがある。部下のベテラン下士官よりは、なにもかも劣っているのに、最前線の小部隊指揮官になるわけ。
麻薬濫用率が高くなったことも、フラッギングの背景だとされる。
S二等兵は、法廷で認めた。あの夜は、ラリっていたと。
のちにアラバマ州の司法長官にもなるロイ・ムーア大尉は、1971年には第88憲兵中隊を指揮していた。彼は反抗的な兵隊を取り締まる責任者だったが、そのために何度もフラッギングで脅されたという。やはりラリっている兵隊が厄介だった。
※当時から、黒人×麻薬=無敵 という構図があったことが、この記事の言外に示唆されている。
本土でベトナム反戦運動がさかんになると、前線では、兵隊の士気と規律がみるみる低下した。米政府が米軍の撤収を決めるのは時間の問題だと誰もが思ったので、危険を伴う命令を指揮官が出しても従わなくなった。
ある陸軍大佐いわく。1971年までに現地の米軍は組織として崩壊していた。兵隊は戦闘命令を拒否し、将校を殺害し、ラリっていた、と。
コリン・パウエルは1968から69に、少佐として二度目のベトナム勤務をこなしていたが、回想記によると、毎晩、寝る場所は変えるようにしたという。部下の大隊員からいつ殺されるか知れなかったので。
※こちらの場合は、部下の白人兵による、黒人将校殺しが、めずらしくはなかったことを示唆する。
一統計によると、ベトナム戦争中、陸軍と海兵隊の中で800件のフラッギングが記録されている。
別な数え方では、1000件以上だという。
1969年と70年だけでも、陸軍は305件のフラッギングを報告した。
遺族に苦痛を与えないために、名誉の戦死ということにして公報上は処理されたケースも多かった。
1973に徴兵が終わり、以後は、ヤク中患者を軍隊から排除しやすくなった。だからイラク戦線やアフガン戦線ではフラッギングなどは報告されないのだ。

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