リトアニアはアフガン人通訳12人の亡命を受け入れる。

 波多野貞夫ed.『海軍大将村上格一傳』(S8-8pub.)に、海軍少将の 館 明次郎 が寄稿している話。

 大7=1918に、村上海軍教育本部長は、同年初めて実施された「機雷敷設検定作業」を各地で視察。その結果、把握されたこと。
 現供用の機雷は、その取り扱いが複雑で、とうてい戦時に多数を製造したり支給できるような実用品ではない。
 つまり、ごく少数の、熟練した将兵だけが安全に運用することができる。戦時に動員される予備役・後備役の、専門現役ではない将兵が手を出したら爆発事故続出必至のシロモノである。

 そこで新式機雷の研究を、水雷学校に命じたが、試作品は、感度が不適当だった。

 こんな調子では焦眉の急に間に合わないというので、英国毘社〔ヴィッカーズ〕の「H機雷」を基礎として、それを改良させることにした。
 爾後、大9夏季いらい、横須賀造兵部で、「仮称九年式機雷」として改良実験を継続。大14に完成したので、兵器に採用した。

 こうして、明治初期から長くつかわれてきた「起動電池式機雷」は革新せられた(pp.276-7)。