英国は155mm自走砲「AS-90」を20両、ポーランドへ送る。まずそこでウクライナ砲兵を訓練する。弾薬4万5000発付き。

 雑報によると、4-15にセバストポリで、キロ級×2隻にカリブルのキャニスターを積み込んでいる作業が撮影されている。

 ※さっさと沈底式機雷をクリミア半島周りに敷設しろよという話。無人の半没艇にやらせりゃいいだろう。

 また、ロシア国内を飛ぶ双発民航機の「スホイ・スーパージェット100」は、エンジンのスペア部品を西側から買えないために、飛行が続けられなくなった。他の国内旅客機の機種も、秋までには同じ理由で飛べなくなるという。

 次。
 Kamil Galeev 氏の長編連投。2029-4-21。

  ※カミル・ガリーフ氏が投稿頻度を上げている。相当に注目されているので、本人の心にも火がついたのか。次回寄稿までインターバルが9日くらいあるだろうと思って油断していたら、知らぬ間に3編くらい加わっていた。
 まずそのひとつを斜め読みする。前半部分、近代以前のウクライナ前史も興味深いが、そこはすっとばす。

 ウクライナは北米に似ている。入殖者が新しい国家を造ったのである。

 ロシアは辺境国家である。そこには、近代システムの一部だけを輸入するということはできない。システム全部を、先進コア地域から導入するしかないのだ。

 たとえばドンバスの、今分離を唱えている2地域が工業化したのも、2人の英国人のおかげだった。木炭製鉄のレベルからいっきょに、コークスを使う近代製鉄を導入してくれたのだ。

 また、サンクトペテルスブルグとモスクワのあいだに120以上の架橋をして鉄道を通してくれたのは、一米国人であった。

 故・ウォラースタインの弟子のダールギアムは、ソ連時代にモザンビーク共産主義者の宣伝について論文を書いたがそれはソ共中央委員会から発禁にされていた。彼は米国に移住してからコーカサスについてのすばらしい論文を書いている。

 それを要約するとこうだ。

 ロシア帝国は過去も現在も、辺陬帝国であり、先進地の外国人による「全部一括技術指導」を丸呑み移植するのでなかったならば、みずからは、新発明を大成させられない。

 コアな先進国にある「既成の解決法」をそっくり一括で輸入ができるだけなのだ。

 マリウポリの製鉄工場の煙突にはわざわざ米国から運ばれてきたピンク色の煉瓦が使われていた。ドイツから輸入すればもっと質の良い煉瓦を安価に調達できたのに、あくまで「システム一括」でないとロシア人は、新技術を機能させられないのだ。「いいとこどり」は、できないのである。

 リベットの1本まで、すべて米国製であるという。

 この流儀を導入したのは、じつはレーニンである。

 レーニンは1914年に米国工場の「テイラー・システム」について書いている。それは機械が人間を奴隷化するシステムだというのだが、一方で、そのシステムの先にしか、工業国はないこと、したがってそれが、中央独裁による社会主義への第一歩であることも察していた。

 ボルシェビキはロシアを工業化させるのは迂遠だと考えた。それよりも、西欧の工業中心を征服して吸収してしまえばよいと考えた。その思い付きは、しかし、失敗した。

 理念的には、すぐにも西欧工業のコア〔ルール地方など〕を征服すべきである。しかしそれは現実には無理である。

 1921にレーニンは論じた。まず「国内ブルジョア革命」の段階に進めないと、社会主義革命へは届かぬ、と。

 レーニンは、「社会主義」ではなく「国家資本主義」を公式に採用したのである。
 1921にこのことがハッキリし、ソ共内部に路線論争が生じ、スタがのしあがった。しかしこの話はまた後日。

 1920年にロンドンに、英国法にしたがう「全ロシア企業株式会社」が創設された。これがソ連の対外交易の窓口会社、第一号である。
 すぐに気付いたこと。もはや英国は世界の工業のトップランナーではなくなっている。米国だ!

 米国からの技術導入のためには1924に「Amtorg」社がつくられた。米国法にしたがうが、かんぜんにソ連政府が統制していた。

 スタは1927にこの社長として、オデッサ生まれでチューリッヒで経済学を学んだザウル・ブロンを据えた。

 ブロンが声をかけたのが、デトロイトの工場設計技師アルバート・カーン・

 スターリングラードのトラクター工場は、カーンがつくってやった。アメリカからすべての設備を運んで現地で組み立てたのだ。雛形は「インターナショナル・ハーベスター社」のミルウォーキー工場。それをそっくり複製した。

 同様、WWII中におけるソ連最大の「マグニトゴルスク鉄工製作所」は、インディアナ州にあったUSスチール社の工場を「完コピ」移植したものであった。だから独ソ戦は、クルップに対するUSスチールの勝利であったわけだ。

 ではプーチンは2000年から2010年代にかけて、どのようにロシア産業を復興させたか。これについて語るには書籍1冊分になるだろう。どこかの会社で出版してくれませんか〔と記者がよびかけているぞ! 日本で買ってやれよ〕。

 マリウポリの「イリイチ製鉄所」も、米国工場のコピーだった。1917に国家が接収したとき、レーニンの名前(イリイチ)に変えられたのだ。

 アゾフスタールは1930年代にスタが建てさせた。全面協力したのがアルバート・カーンだった。

 1937から38にかけて、スタの粛清が吹き荒れた。ザウル・ブロンはこのとき銃殺されている。

 ウォラーステイン理論から導きだされる予言。ロシアは、外国先進地から何かをまるごとセットでコピー移植するのでないかぎりは、独力で高速進化することは不可能な土壌をもっている。そしてそれを指導できるのは軍人であって、産業人ではない。

 ブレジネフ時代には、戦前の米国に代わって、西欧から技術が輸入されていた。

 ※沿海州に不時着した「B-29」のリベット穴にいたるまですべて「完コピ」して「ツポレフ4」をこしらえたというエピソードを思い出すよね。