「新々・読書余論」――『1889年のエッフェル塔のエレベーター』(1961年刊、Robert M. Vogel著)

 オンラインで読めるようになっている本邦未訳の珍古書を、摘録をまじえて恣意的に短くご紹介する「ちんこハンター」第四弾です。
 AIを使った下準備の全文訳を、上方の篤志機械翻訳助手さまにお願いしました。
 テキストを公開してくださっている「プロジェクト・グーテンベルグ」さまはじめ、各位に御礼を申し上げます。

 原題は、『Elevator Systems of the Eiffel Tower, 1889』です。
 著者は、スミソニアン協会米国国立博物館の機械・土木工学副館長である由。
 1889年のエッフェル塔に備えられていた、3タイプの昇降機を調べた。

 注目すべき理由。1889以前だと、電力モーターが普及する前であること。塔の脚部の曲率にエレベーター・シャフトを沿わせるという、今日では選ばれない技法にチャレンジしていたこと。

 1832年にウェールズのエンジニア、リチャード・トレヴィシックは、高さ1000フィートの円錐形鋳鉄塔(計画は中止)のために、構造物の空洞中心管内で圧縮空気によって上方に駆動されるエレベーターを構想した。これが頓挫し、プロジェクトが忘れられたのは、彼の評判にとって幸運であった。

 19世紀初頭から、さまざまな形態の動力駆動ホイストとエレベーターは使用されている。
 巻上ロープの破断のリスクは、除去されなかった。だからそれらは、工場や倉庫で、人ではなく貨物を垂直移動させる役目に、使われることが多かった。

 筐体が落下する事故を確実に阻止してくれる、最初の実用的な安全装置を考えついたのが、ニューヨーク州ヨンカーズの機械工エリシャ・G・オーティス(1811~1861)である。

 アメリカ合衆国では、1855年に、最初の貨物用のエレベーター・システムが据え付けられた。それは蒸気ピストン動力を使うものだった。
 乗客用の、最初のエレベーターが、何だったのかは、つきとめられぬ。しかし、おそらく1857年、オーティスがニューヨーク市街の店舗に設置したものであったろう。

 南北戦争後の10年間に、高層ビルがしだいに出現し始め、ホテルや店舗の経営者は、機械によって顧客を地面から1階か2階上げることで得られる商業的利点を徐々に認識するようになった。初期には蒸気が動力だったが、ビルの高さが増加するにつれ徐々に、油圧、さらに最終的には電気システムに、置き換えられた。

 液圧エレベーターを工業的に実用化させたのは、大砲で有名なウィリアム・アームストロング(1810~1900)であった。1846年、彼は、丘の上200フィートにあるタンクからの水圧を利用した水力クレーンを開発した。

 超高層ビルが、エレベーターの発明を促したのではない。反対に、エレベーターの継続的な改良が、ビルの軒高の急速な増加を可能にしたのである。

 欧州人は、エレベーター筐体をケーブルで吊る方式を、本能的に信用しなかった。

 電気モーター動力で昇降するシステムを最初にこしらえたのは、ドイツの電気技師ヴェルナー・フォン・ジーメンスその人である。彼は1880年にモーターとデッキ下のウォームギアによってラックを登る車を実験した。

 エッフェルは、塔の昇降機については、バックマンという人物に任せようとした。
 バックマンは当初、ねじとナットの組み合わせて、筐体を「ねじ上げる」システムを考えた。

 オーティスのヨーロッパ支店であるアメリカン・エレベーター・カンパニーは、当初、規定によって入札に参加ができなかったが、フランス国内では塔の昇降機は調達できないとわかったときに、契約をかちとった。1887年7月のこと。

 オーティスは、急勾配を上下するケーブルカーに似たシステムを提案した。動力は油圧。

 フランスの面目を保つため、東と西の橋脚に据えられた国産のエレベーターが、塔の第1段階まで、来場者を運んだ。

 第2プラットフォームから上への垂直輸送は、レオン・エドゥーのプランジャー・システムとした。水圧動力利用。
 エドゥーはエッフェルの古い学友で、フランスで数千のエレベーターを建設していた。

 脚注。ワシントン記念碑内には、工事の材料を上げるため、1880年にエレベーターが設置され、その後、乗客サービスに切り替えられている。毎分50フィートのスピードで、高さ500フィートまで持ち上げた。

 脚注。電気動力エレベーターの今日的な完成体は、1904年にオーティスがシカゴの劇場に初めて設置した。モーターはケーブルを巻き取らない。送って動かしてやるだけ。ケーブルの他端が、カウンターウェイトに取り付けられている。100フィートを超える上下のためには、長い間、この方法しかなかった。

 《完》