「ほ」氏にお答えします

 ご推薦のサイトを拝見しました。
 なるほど、「清張氏のリアル推理はぜんぶ外れた」という話をどこかで読んだ記憶があるのですが、「朝鮮戦争が米軍の謀略」ですか。
 ご本人は死ぬまでそう信じていたんでしょうか。1980年代に古代史にのめりこむあたりでもそうだったんでしょうか。じつにますます興味深い作家に見えてきました。
 ところで藤原彰さんのエピソードをお知らせくださり、有難う存じました。60年安保の少し前は、オルグの成功が党員の大手柄となる時代だったようですね。
 便利なもので、インターネットを使いますと、藤原氏の略歴が知られます。まとめてみました。
 陸軍経理将校の息子さんとして大正11年に生まれる。大軍縮期ですね。そして東京の代表的な陸士予備校だった府立六中から士官学校へ進んだ。加登川幸太郎さんによれば、一般中学から士官学校に進むと、陸幼出身者の要領のよい暗記に一驚するんだそうですが、藤原氏の頃はもう陸士も短縮教育です。昭和16年、19歳で見習い少尉。
 そのご大東亜戦争で陸大どころではなく、隊付き将校コース。昭和19年にシナ大陸で大尉の歩兵中隊長として打通作戦に参加し、負傷(右肺盲貫銃創)。同キャンペーンは連合軍の飛行場を潰すという作戦目的は達成したんですが、部隊の給養は最悪で飢餓病死が多発したようですね。また北支では、後方の高級将官の贅沢三昧も目撃しました。
 1945年の復員後、東大に入りなおし、1949年文学部史学科卒。50年に歴史学研究会書記。アカマル教授の多かった一橋大でも教えました。
 歴研はアカマル集団で、1954年に『太平洋戦争史』(全5巻)を出してアカマル流帝国主義史観での開戦経緯説明の定番となっています。
 その1年前の服部卓四郎の『大東亜戦争全史』とくらべますと、当時のアカマルの水準というものが分かります。高級軍人の目よりも高いところから戦争を総括している。このような「社会科学的」な切り口は1976年くらいまではほとんどアカマルだけが持っていました。なにしろ岩波文庫のアダム・スミスの担当は小泉信三とかじゃなくて、マルエン専門家だった大内兵衛だったんですから恐れ入るしかない。つまり、才能があったのに、旧軍での待遇には不満だった藤原氏が、東大でアカマルに染まったのは無理がありません。また旧陸軍は大学関係者からはとことん嫌われました。富裕家庭の秀才君を、二等兵にしてしまって、内務班で私的制裁でイジめたんですからね。学生が予備士官に全員志願しなかったのも日本の町民特有の困った問題なんですけどね。
 1961年に藤原氏が書いた『軍事史』のどこが偉大であるのか。これは巻末の参考文献をみただけでも分かるでしょう。同書を最初にわたくしが読んだのは大学生時代でしたけど、さすがにこの文献一覧は量が多すぎて、メモを全部とるのを諦めたほどです。最新のUSSBSも見ているし、明治期の本までぜんぶ目を通している。東大図書館も空襲では焼けませんでしたから、国会図書館にも無い資料も混じっているのはうらやましかったですね。と同時に、何かを批判するならこのくらい読み込むのは当たり前なんだとも思った次第です。
 日露戦争で日本はマキシム機関銃を実用化できなかったとか、小山弘健氏や林克也氏の本に依拠している武器の話には間違いも混じってしまうんですが、逆に、これだけ資料を読んでもここは分からなかったのだなと見当がつくから良いわけです(後で大江志乃夫氏が防研史料を使ってこの間違いの修正にかかかる)。
 1984年に防大教官が『失敗の本質』というオリジナリティのあまりない水準の本を出してタイトルだけでバカ売れしたんですが、そこに書いてある要素は藤原1961本にほとんど書き尽くされていた話でしょう。ミッドウェー作戦は5分違いの不運などではない、依然戦艦中心だったから、偵察、通信、そして母艦掩護で手薄になったのだと、藤原本は真相をえぐっていました。「すべてを自分に都合よく楽観的に判断し、希望的観測のうえに作戦を立てるという非合理性が、最後まで抜けなかった」(p.215)──こんなことももう1961年に書かれていたわけです。
 常に「天佑神助」をあてにしただとか、後から司馬遼太郎が批判することになる要点も藤原氏は書いていました。
 「日本海海戦時代の大艦巨砲主義、日露戦争の白兵突撃を、兵器の質的変化がおこった第二次大戦に、いぜん金科玉条としていたことに、その[戦略戦術の]硬直性があらわれている」(p.215)なんてのは、まるっきり司馬&NHK史観に受け継がれていますよね。
 兵器関係の誤記があるので絶版なんでしょうけど、惜しいことです。まだ読んでいない人は、図書館で必ず読みましょう。
 藤原彰、小山弘健、林克也といった旧いアカマル先生たちは、「日本があんなふうに戦うしかなかったのは情けなく、悔しい」と思っていたのではないでしょうか。つまり心底は愛国者だったんじゃないでしょうか。
 ところが全共闘自爆以後、さらに日支国交回復直後から百人斬りとか重慶爆撃の話をしている新しいアカマル先生たちは違います。彼らは心底から「反日」ですね。そして、日本をどうする、ではなくて、自分が注目されることが執筆の目的です。
 よくわからないのが鹿砦社の人たちで、このグループは日本がソ連や中共に占領されれば良いと思っていたのでしょうか。冷戦終了と同時に大転向したようですが、チャンスがあったら昔話をぜひ訊いてみたいものです。
 1996年にP・デービス著『地雷に浮かぶ国カンボジア』という最初の「地雷本」が出まして、このネタに出版不況にあえぐライターと版元が飛びつき、以後毎年複数冊が刊行される異常事態となりました。こんなもの個人で買う人がいるとは到底おもわれない。点数のピークは98、2002、03年ですが、04年でガクっと減っています。その間には船橋市での「図書館焚書事件」が起きた。まあ、全国のアカマル図書館司書に買わせてシノギをしようというところまで志操は堕ちちゃったのです。
 ちかごろ石原東京都知事は「書店で売れている本から図書館は買いなさい」と指示を出したのでしょうか。そうだとしたら解せないことです。公立図書館として公平な蔵書整備は「くじ引き購入」以外にありえません。購入のための司書は要らないのです。