清張と遼太郎

2.26に信濃町で軍事学セミナーの一日講師を務むるべく、函館発羽田行き飛行機上の人となった「わたし」は、たまたま機内で消化するためセレクトした細谷正充著『松本清張を読む』を三分の二ほど読んでしまい、ほとんど驚愕する。
 「防衛庁が三矢研究をやっとった1963年に、松本清張は『現代官僚論』を書いていたのか…!」
 「わたし」の講演では、「なぜ司馬遼太郎は1967年に『殉死』を書き、翌年から『坂の上の雲』を書き、74年に『歴史と視点』を書き、86年から『この国のかたち』を書いたか」を、アカマル系の戦後ミリタリー関連書の出版史にフットライトを当てながら説明する予定であったのだが、松本清張という巨大なアカマルの存在はすっかり閑却していた。その清張という謎をかくも面白い摘録で知らされた「わたし」は、もはや当初の講演構想は抛擲するしかなかったのである。
 司馬遼太郎と対蹠的に貧乏であった松本清張は「敗因探求」の本は書かずに一足飛びに官僚研究に向かった。おそるべし、清張。
 そしてこれほど面白い要約の書ける著者細谷氏の前途は洋々としているではないかと思いつつ、「わたし」は、新橋のホテルで読み残しの頁を開くのであった…。