摘録とコメント。

▼杉江重誠『ガラス』昭和15年・改訂四版(初版S8年)
 内部に真空の空洞をもつガラス煉瓦。音と熱を伝えない。このガラス中空煉瓦だけで1933にシカゴでビルが建てられた。窓がないのに採光できる。
 ヨハネ黙示録に「水晶に似たる玻璃の海」と出るのはガラスの海のこと。
 石英質の砂、ソーダ灰、石灰石粉末をルツボで溶かすとガラスができる。
 出雲の国司が朝廷に毎年献上した美富岐玉とはガラス玉。
 日本のめがねは元和年間に浜田彌兵衛が東南アジアで学んできた。
 明和年代まで諸大名は、ビール瓶のようなくだらない舶来ガラス製品の購入のために大金を使った。
 日本の板ガラス生産高はS12年に世界一になった。重要輸出品。
 ところが必須の原料である硼酸・硼砂は国内で採れない。これがないと耐熱ガラス(硼珪ガラス)ができない。※つまりは防弾ガラスができない。
 ガラス製造はたぶん、エジプトで磁器のうわぐすり(釉薬)から発達した。
 梵語の「ルリベイドリヤ」がポルトガル語のvidroになり、そこから「瑠璃」「ビードロ」になった。七宝流しとも。
 ギヤマンはオランダ語のdiamantから。
 玻璃はラテン語のpolireから。
 ガラス製造屋は玉屋といった。
 「硝子」は江戸時代には「びいどろ」と読んでいた。それが大正13年いらい常用漢字の選定がなされて、「がらす」としか読めないようにされた。昔は「ガラス」などとは決して読まなかったのだが……。
 昭和6年からはケミカル/ファーマシーの分野で用語用字の統一平明化の作業が進められている。
 ガラスは珪酸のアルカリの混合物だから基本的に水には溶ける。耐熱パイレックスでも一日煮沸すれば鱗状片が生成する。
 だからガラス容器による化学実験ではアルカリ化を予期しなければならない。
 どんなガラスでも苛性アルカリには侵されやすい。
 ヂルコンをまぜると耐アルカリでは最強のガラスが作れるが、日本国内に産しない。
 硼酸がガラスの膨張率を小にし、弾性を増す。つまり温度変化に耐えさせる。
 1400度で溶ける。それを400~500度の雰囲気のなかで数時間かけて冷やす。
 昔は鋳型だと表面がザラついてだめなので、水にぬらした木型でガラス製品をつくった。
 ポンペイの廃墟の浴場に、厚さ半吋のガラス窓が使われていた。
 スティンドグラスは12世紀から。
 摺りガラス=マットグラスは人工的に傷をつけたものなので、きわめて割れ易い。
 表面張力があって糸状に縮まろうとする溶けたガラスをいかにして板状のままひきあげていけるかが工業量産のブレークスルーだった。
 ひきあげる速度を増せばガラスは薄くなる。写真乾板用の薄ガラスをこの方法で昭和7年から国産できるようになった。
 凸凹模様をガラス製造段階でプレスによってつけてしまうのを「型板ガラス」と呼ぶ。これは摺りガラスとは逆に割れ難い。
 昭和10年に2ミリ薄(世界最薄)の型板ガラスが国産化され、これが障子や住宅の戸に大量に利用されるようになっている。
 シリカ、酸化アルミ、酸化マグネシウムを多くし、酸化ナトリウム(ソーダ/アルカリ)を少なくした板ガラスは、雨や大気中の湿気で浸食されにくい。よって国産ガラスはすべてこれ。外国のガラスはこの配慮がないので、日本で使うとすぐに光沢を失う。
 古いガラスは素材中に鉄分が不純物として含有されており、そのために青緑色がかっていた。鉄分1%含有の厚さ4.5ミリの板ガラスは、太陽熱線のほぼ全部を吸収し、室内に熱を透過させないという特性がある。
 その代り熱を吸収して膨張しやすいから網入りの天窓ガラスとしては甚だ不適。
 支那事変直後に金属の代用品としてガスラ(グラス・ファイバー)が開発され、ネクタイやテーブルクロスをガラス綿だけで試作した。「ガラスの弾丸」も研究中(p.91)。※ホーローびきの拳銃弾ならば今日あるが……。
 そもそもグラスファイバーは1904に工業化されている。溶けたガラスを引き伸ばせば糸になることは紀元前から知られていた。
 WWⅠで石綿輸入が途絶したドイツがガラス綿を1914に大々的に工業化。また各国でも主に船舶の断熱用にガラス綿を試した。
 1914にロシア軍艦セバストポール(長さ450呎)は艦内の熱絶材料にグラスウールを用い、それによって380トン軽くなり、喫水が4吋浅くなった。
 しかし講和後は競争力がなく、また石綿が復活した。
 グラスファイバーは細ければ細いほど引っ張り力に耐える。それを撚り糸にすれば、ピアノ線の三分の一の強度にはなる。
 ロックウールは溶岩、玄武岩、安山岩を原料とした人工繊維。グラスファイバーは絹光沢の白色だが、ロックウールは茶褐色または灰緑色。ガラス綿より低廉。
 割れても飛び散らない安全ガラスはフランスの化学実験室で偶然のことから1903に着想され、二枚の板でセルロイドを挟んだトリプレックスとなる。
 非常に高価だが1924から箱型自動車の窓に採用された。自動車事故の怪我の半数がガラス切り傷によるものであったため。
 1930からは挟むフィルムが酢酸繊維になる。目下はビニール系とアクリル系を試験中。
 ガラスを製造工程で急冷すると表面が先に冷え、内部が後から収縮するので強力な引っ張り力が残る。これを叩いてもなかなか割れず、もし割れるときには一瞬に粉微塵になる。粒には鋭角がなく、手で掴んでも怪我をしない。これが強化ガラス。
 強化ガラスは切断加工ができない(すれば全部が粉微塵となる)。だから最初から製品寸法にしておいて熱処理をするしかない。強度は普通のガラスの7倍。
 カメラや望遠鏡に使うガラスは optical glass という。
 他の製品との違いは内部に「筋」が無い。逆に「泡」がわずかに残る。泡がまったくなくなるほどゆっくり製造していると、坩堝の内壁から不純物が吸収されてしまうため。
 鉄分含有は禁物。紫外線をブロックしてしまうので。
 天体観測用の大形レンズは冷却に数ヵ月かける。1時間にコンマ数℃づつ下げていく。 新しく買ったセトモノやガラスを水で煮ても硬くなることはない。このような迷信がなぜか家庭にある。
 スティンド・グラスは、断面がI字形、またはU字溝のある鉛のリボンでガラス板同士の境界をつないでいる。ガラス断面にもそれに対応した凹凸を彫る。日本では明治34年に製作された。
 重いガラスほど屈折率が大きい。鉛成分を30%も加えてもガラスは透明である。しかも比重から屈折大となり、光輝燦然としてくる。バリウムも。
 独のエナガラスのショット氏が紫外線を透過するガラスを1903に開発した。これで天文観測が飛躍的にパワーアップした。
 鉄、マンガン、銅を多量に加えると黒色ガラスができる。これにさらにニッケルを多量に加えると、紫外線だけを通すガラスになる。厚さは1ミリ半。これで暗中信号機ができる。20燭光で8哩の遠距離に通信できる。艦隊の無灯火行動に使える(pp.186-7)。
 紫外線写真は、証書の改竄痕を見破るのにたいへん重宝する。水の染み跡が可視化される。インキを消した跡も見える。
 眼鏡レンズはいかに透明でも9%の光は反射しているから、裸眼より9%暗い世界を眺めているのである。
 河原や砂浜に落ちている砂は鉄分が含まれているので、そこから造ったガラスは濃い緑青色にしかならない。
 ビール瓶は昔から鉄とマンガンで黒くしたガラスを使う。昭和の初めころに一瞬だけ、無色透明のビール瓶が製造されたが、すぐ元にもどった。
 大衆酒の瓶は大量に製造しなければならないので安い珪砂を使う。すると鉄分のため青いガラスになる(当時のふつうの一升瓶はコレ)が、これが面白くないのでさらにマンガンを加えて真っ黒にするのだ。
 明治19年のコレラ流行で生水が飲めなくなり、ラムネが普及した。今の玉壜はM30頃に登場した。
 普通のガラスで耐熱させようと思ったら、極力薄くするしか方法はない。
 パイレックスはアルカリ土類と重金属元素を含まない硼珪ガラス。
 体温計の計測時間を縮めるには水銀柱を細くするしかない。だが円形断面で細くすると目盛りが読めないので、楕円断面とする。その長軸でもなんと0.05ミリにする。
 ガラスは経年変化する。そのため古い体温計は、初期設定よりも高めの温度表示をするようになる。
 水晶の眼鏡(本玉眼鏡)はよくない。紫外線と熱線を全部通してしまうから。これはすでに文化3年に警告されていた。本玉でない江戸時代の眼鏡は、青みがかったガラスであった。
 鏡は影見。天の香具山の銅から日像の鏡を鋳たのが八咫鏡。
 現在のガラス鏡は銀メッキ。その以前は錫アマルガム。錫箔を貼り、水銀を塗り、1ヵ月後に水銀を除いた。
 銀メッキ法は1843に外国で発明された。銀引[ギンビキ]という。最終工程でベンガラまたは鉛丹を、剥離防止剤として刷毛塗りする。
 鏡の良し悪しは、表面に直角に掌をあて、それを横から見て像と比べて見ればわかる。
 銀メッキを極く薄くすればマジックミラーになる。
 模造真珠は太刀魚の鱗を溶かしてガラス玉に塗ったもの。
 天然宝石はガラスよりも熱伝導率が大きいので、冷たく感ずる。判断センサーには舌先が一番である。ガラスより冷たいと感じたらホンモノだ。水晶はこれで確実に分かる。
 科学的には紫外線を当てると蛍光の差で分かる。
 天王星が発見された数年後に新元素がみつかり、ウランと名づけられた。ついで同じ硫黄属の新元素がみつかった。地球を意味するtellusからテルルと名づけた。その数年後にセレンが発見された。これはギリシャ語の月(selene)から。
 日本の元素名はドイツ語系統が正式なのでウラン。ウラニウムは英語。
 ガラス戸をガタンと開けると必ず隅の方で割れる。
 熱湯でガラスが割れるときは曲線で割れる。ギザギザにはならない。
 レンズに黴は生えない。生えているところを拡大観察すれば、必ずダニの死骸があるはずだ。
 石英灯は大正13年に国産化された。2000度で溶かす。
 光学ガラスは、ドイツのエナガラス、英のチャンスブラザース、仏のパラマントアからの輸入であったが、「日支事変勃発と共に日本光学、小原光学等の各会社も亦光学ガラス製造設備の拡充を計り、主要軍需資材供給の重責を分担してゐる」(pp.287-8)。
 戦車、装甲自動車、装甲トラック、飛行機の窓ガラスには必ず安全ガラスや防弾ガラス(強化ガラス)が嵌込んである(p.288)。
 1787創立のマサチューセッツのボストンクラウンガラス会社は、州議会から、従業員の兵役義務を免除された?(p.294)。
 明治8年に『七一雑報』という雑誌があった。日本のプロテスタントがつくった最初の雑誌。この第一号の巻頭はガラスの記事である。※あるいは北海道開拓と関係があったのか。
 板ガラスの反射を使った手品のたねあかしは、阿部徳蔵『奇術随筆』にある。
 同じく西洋劇場の幽霊の出し方については、明治12年刊の『御伽秘事枕』。
 川柳ではびいどろは美人の隠語。
 十年ほど前に無色に近い透明なベークライト、正確に云って今のプラスチツクス(合成樹脂)ができたときに誰かがこれを有機ガラスとなづけた。
 安物石鹸には水ガラスが入っており、いつまでも手がヌルヌルする。
 明治40年頃まで汽車の窓ガラスには白ペンキで横線が太く引いてあった。窓があると知らずに頭を激突させる乗客が多かった。今でもまだ、ショーケースにガラス戸があることを忘れて横合いからさしのばした手を打ちつけ、きまりの悪い思いを苦笑にまぎらすことも度々である(pp.315-6)。
 マタイはなぜ新しい葡萄酒を古い革嚢に入れるなと言ったのか。新酒は醗酵が続いており、そのガス圧で古い嚢は破れて使い物にならなくなり、酒もまたこぼれてしまうから。
 明治5年9月に仁徳天皇陵の南の昇り口が崩壊して石郭があらわれた。その中に石棺があり、ガラス器が2箇あった。
 幕末の国産無色壜はほとんど薬用に造られた。
▼W.F.Wilonguby “Government Organization War Time and After”『世界大戦における米国総動員概説』資源局 ed. S9年、原1919
 WWⅠ中のロシア小麦はなお米市場を破壊し得た。
 そのロシアに休戦後は食糧を供給する必要がある。
 石炭は貯蔵に適さない。だからすぐ運び出せる鉄道のcapacityに生産量も制限を受けてしまう。
 「合衆国内に居住するドイツの臣民と取引するに際しては……単に彼等の国籍がドイツ人たるの事実のみを以てしては……『敵国人』と為さず」(p.163)。
 航空局は1917-6-30に「リヴァチー・モウター」を完成した。標準発動機。
▼C.G.Dawes『欧州戦に於ける連合軍軍需補給の実績』S2年
 1914以前は、補給の如き特殊事項を担任する将校は、劣等部類に属する者と看做されたることも少なくない(p.11)。 
 1918-10-31時点の貨物自動車数。米29869、英31770、仏80044、白4192、以上在仏。伊28600(在仏+在伊)。
 1918-10-31の在フランダースの獣数。米163795、英382927、仏642984、白38118、伊6804。
 同日・同所、自動小銃&MG数。米68011、英52145(ビッカース、ルイス、ホチキス含む)、仏75500、白4333、伊444(本国分含まず)。
 同日・同所の重砲弾薬(野砲クラスを含まない)数。米122431発(+さらに野戦軍より後方に310842発)、英3760896発(+216457)、仏2944400(+216457=英と同じ)、白33800(+225000)、伊14342(+225000=白と同じ)。
 英でsuppliesといえば、糧秣、油脂のことに限定され、米のsuppliesと対応する語はstoreだった。
 戦時中米国はFuel Administrationを設ける。
 アルゴンヌ~ミューズの戦闘では米軍は毎日15万トンのガソリンを消費した(p.110)。
 欧州各国にて使用せる鉄道用貨車平均で10t積載。平均速度は15~40km/hを超えない。
 動物輓曳車は1200~1500kgを積む。トラックは平均3tだった。前者は1日25km推進した。後者は80km/day。
 悪路の輓曳は300kgを毎時4km進められたのみ。
 空輸は末期に僅かに実施。
 恐怖心をおこさない騾が前線では100kgを運んだ。4km/hで30km/dayも。
 仏軍のソンム戦傷者はすべて河川で後送された。200tを4km/hで推進できたが、夜は動かせず、また長距離には却って不利。米軍は河川は利用せず。
 白、伊軍はTK遂に使わなかった(p.190)。
 米第一軍の9-26の発射弾数。75ミリ砲を322438発、2805トン。95ミリ砲を1347発、19トン。105ミリ砲を19476発、351トン。120ミリ砲を4317発、99トン。145ミリ砲を3905発、155トン。155GPFLPを3470発、1768トン。155Hを76918発、3700トン。220Hを2836発、312トン。
▼ Stephen Possony『今日の戦争』大内愛七 tr. S15年
 著者はオーストリア人。岩波刊なのでかなり多数の日本人が読んだ筈。
 訳者序、事変目的達成のために努力しつつあるわが国の産業界は、計画性が不徹底で、産業界自体が現代戦争に必要な資材の大きさを知らない。
 1934資料で、1梃のMGは前方2km、戦線13mを守り得るとされる。1km正面の防御には80~100梃いる。MGは6ヶ月ごとに取り換えを要する。
 当時の兵員トラックは15人とその必要物資を運べる。
 筆者はTKの最盛時は終わったとする。スペイン内乱より。
 スペインではGunとTKと爆撃機を同時に使用した時のみ戦線突破できた。
 WWⅠ中に爆撃で破壊された橋はない。
 WWⅠ中、対空砲の命中率は11000発分の1発から、1500発分の1発に向上した(p.58)。
 WWⅠ末のドイツで不足欠乏したのは、平時なら自給していた石炭や硝石であった。
 農産物の平時大量貯蔵こそは戦時の値上がりを防ぐ(p.152)。
 「総バーター勘定貿易」は、時の経過とともに、同一量の輸入を獲得するためにヨリ多くの財を輸出せねばならなくなる。これは1937に理論化されている。
 農民は労働者以上に国を愛しもせず、健康でもない(p.183)。
▼M.Debney『戦争と人』S19年
 ※タイトルの「人」とは「器材」の対概念。
 戦後、敗者の側には回想録が続出する。1871後の仏、1918語の独然り。
 WWⅠの仏将校は、普仏敗戦を体験した教官に育てられた。
 陸大卒業生は、「軍内貴族階級」「青年トルコ党」であった。
 ヒンデンブルク線=ジークフリート線。
 英軍は大会戦の後には詳細な会戦広報を出して国民を納得させた。フランスはこれをしなかった(p.34)。
 「器材戦」は必然的に「期限付戦争」を指向せざるを得ない。
 ルーデンドルフは自動車で麾下の徒歩旅団を誘導しつつ、リェージュ周辺の築城陣地に突然侵入した。
 馬匹はWWⅠ中、1日30kmの速度で前線~後方を往復。自動車はその3倍の距離を無休止で走った。
 1794仏将Pichegruは結氷に乗じ軽騎兵を以て北海テクセル島のオランダ艦隊を拿捕した。
 下級幹部は近代戦に於いて初めて重要な存在となった。
 フランス人は兵卒であっても指揮することが好きである(p.124)。
 フレデリックは敵近く行進して、会戦を拒否して遠ざかることができた。火器射程の関係により。
 仏軍操典の扉には「軍紀は軍の最も肝要な力……」と記してある。※これを真似して「承詔必謹」なのだな。
 「緒戦で戦争に勝てるのだ」と、「成功が確認できた場所に予備を進出させる」──この1870戦訓を、独はWWⅠでも墨守した。戦略的な“方向”が無視された。
 要塞は器材戦「兵器」であり、守勢をとる軍隊にあっては器材の価値が人間の価値を補い得る(pp.224-5)。※マジノ線の理由。
 ソンムでは塹壕がきわめて早期に粉砕され、兵は砲弾孔に陣替えしなければならならかった。だから永久陣地で人を節約汁。
 1882の仏教育改革いらい、百科事典主義が支配的。スペル、作文、判断の学力は低下。詰め込み式。「科学精神」をもつ若い世代をつくるという掛け声だが。専門教科がやたらに増やされ、膨張し、文部省に捨拾選択の自信はない(pp.275-6)。
 1917の仏軍反乱は統帥部に対してであって直上将校にではない。1918末の独軍反乱は、異階級人たる将校団に向けられた。
 デブネが戦場でみたのは、智者の崩壊と勇者の出現(pp.287-9)。
 航空写真標定と迫撃砲により、塹壕と鉄条網を攻撃前に爆砕しやすくなった。1918頃。 しかしコンクリート要塞は別だった。※だからマジノ線。
 仏政治家は会議冒頭では学のあるところをみせるが、やがてアングロサクソンの細部的、実証的な反論に尻尾を巻く(pp.300-1)。※フォッシュに欠けていたもの。
 普仏戦の敗因はアフリカ植民地の戦争しか知らない将校(p.304)。
 「La Paliceの真理」(p.333)。※1470~1525の仏将でPavieの戦いで戦死。最後まで勇敢に戦ったことを仏詩では「死ぬ前、元気だった」という。ここから「あたりまえ」の意に。
 遅蒔きの名案は大破局の註釈でしかない。
 フランス陸軍に於ては、参謀部が統帥(司令官)の代りをしたことはない(p.353)。独では皇太子を高級統帥者にしなければならないので、参謀がその無能を補う。
 独断=Initiative (p.356)。
 プロシアは自己の作戦計画は同盟国に知らせないが、同盟国の作戦計画に対しては閲覧の権を保有する(p.385)。
 多くのフランス人が権威の体制を待望しているにせよ、それは当然権威の中にこそ自由の真の保証者があると見るからである(p.433)。
▼川越重昌『兵学者佐藤信深淵』S18年
 信淵の没後3年目にペリー来着。
 「兵法一家言」中に、狩りで鎗刀にて打ち止めたり高崖からおっこちたことがあるが、刀も脇差も思いの外にその身は曲がるものだ、と。
 戦法の特色は、十分な楯によって敵陣に肉迫しようとすること。
 斬馬刀とは6尺棒の先につけた太刀で馬の脚を薙ぐもの(p.34)。
 ナポレオンは信淵と同年に生れた。
 「ワッソク」……背へ斜めに掛ける負い方(p.305)。
▼『眞山靑果全集 第十四巻』S51年
 附録の「月報」で福田恆存は激賞。西洋の作劇術を日本で最初にものにした人で、日本の近代演劇史に残る唯一の劇作家だと。菊池寛もかなわないと。
 東北出身。松竹の座付きになった。しかし晩年は数万人に一人の病気にかかって病床。
 M40の測量士は「××チェイン○○リンク」と測り回る。
 M40の自費出版には3000円かかる。
 「学派と学閥の闘争以外に何んの能も無い日本の学者達だ」
 北極探検では犬ぞりに鎗をもって乗る。
 M41の爪きりはハサミ
 「私どもの若い時にや、思ふの考へるのと云ふことが無かつたものだ」
 エスカリオテのユダが銀30枚でキリストを敵にわたした後、その罪を悔やみ、指を噛み、地を凝視して悄然と樹下に佇立する絵。
 If he had not been born. ……これはキリストがユダを呪った言葉としてマタイ伝に見える。その方が幸せだったと。
※とかく指先が震える人物が出る。著者は書痙か?
 M42、散弾の送蓋に「ワッパ」とルビ。
 2連銃に35円は出すが40円は出さないと。
 仙台藩では親不孝者は城下の芭蕉の辻で鋸引きにされた。
 暴れ者をとりおさえるには、細引きではない綱のようなものを被せるとよい。
 「財産を保護する為なら、法律上殺しても無論不論罪[ふろんざい]です」
 電柱には「コールタ」を塗る
 M40にお歯黒剥げした下女
 縄鳴子を張って待ち構へていると
 早稲田田圃に高圧電気の原導線を
 肱木の下には金網。万一切れた用心
 落合の火葬場の先にはまだ空地がある
 郊外が開ける前駆者は、湯屋と理髪屋
 石竹色=ピンク
※「大塩平八郎」大15雑誌『中央公論』発表。これほどクーデター決行者の緊張感になりきって表現しているフィクションは見たことがない。昭和の青年将校が刺激を受けたのは確実である。また、平八郎に対する河合のツッコミ、これは三島に対する森田のケシカケと同じではなかったのか。
 一日一度は川べりを散策しないと気色が悪い
 小前小者の貧民が御器をもたない新乞食となっていた
 兵庫の豪商北風荘右衛門が大塩らの上司の役人としめしあわせて西宮に内密の米市場をたてて、大坂に入津する諸国米を関東にまわしている
 檄文も配布してある(p.631)。※「檄文」はおかしいという人がいたが、実はおかしくなかったことがこれで分かる。檄は飛ばすものだが、撒くのは檄文で良いのだ。
 刀は仕損じる、槍で突け
 この混雑のなかに、常に知らない静かさがシインと聞えるやうな気がします。
 「大小を差していては人目にかゝるだらう」平八郎、大小を河中に投ず。
 真山の中学同級生が吉野作造。
 最後に常に自己にかえろうとする人間を描いた。
▼田中・藤巻・星野共著『不動明王』
 貴族の調伏合戦が、強そうな忿怒身像のファンを増やした。
 道長は法成寺を建立したとき、1万体もの不動尊を造像供養した。
 摂関期~平安末には修験道が不動信仰を庶民に広めた。
 右手の宝剣は慧刀と呼ばれる。智恵を「智慧」と書くのは不動明王の効験にあやかろうとしたもの。
 光背は迦楼羅炎と呼ばれる。
 日本では大師様と十九観と2様式あり、後者は古代インドの奴隷を彷彿とさせる醜悪な姿。※左肩に1本だけ垂らす弁髪は奴隷の髪形なのか?
 五大明王のうち3体は虎皮裙[こひくん]。また降三世明王の場合は獅噛[しがみ]の飾りも。※ある人いわく仁王の虎皮はヘラクレスなのであると。この場合は如何。