摘録とコメント(※)。

▼土屋元作『太平洋問題観瀾』大毎pub.大13
 加藤(友)内閣のとき、ローマ法王庁への派遣大使の費用を議会が削除したのを、加州に多いイタリア人が怒った。アイルランド人も同様。
 K.K.K.は排日に関わっていない(p.12)。
 米国議員は議会で果物を齧る。
 ピューゼット・サウンドは英人ジョージ・バンクーバーの命名。18世紀末の人で北米航路を発見しようとした。
 本多利明はカムチャッカ遷都論を唱えた(p.119)。
▼荒木浅吉「太平洋戦争における潜水艦作戦について」(『海幹校評論』S41-1)
 駆逐艦に対する浅深度発射法を日本subはついに実用化せず。米は13m潜望鏡と磁気魚雷でなんとか実用化。
 戦艦はsubに対して何事も為し得ぬのは商船同様。
 ミッドウェー後、過集中subの通過許しが多かったので、8-12に米はSJ・潜水艦搭載レーダーを『ハドック』に装置。
 米は航空哨戒に重点をおき、基地から800浬まで毎日飛ばしていた。
 日本subは20ノットの米戦艦用につくられているので、高速な空母を追いかけられなかった。
 パッシブソナーは日本近海では効かないが、南海では非常によく聴こえる(p.47)。
 ※陸海の幹部学校の記事(大学紀要に相当するもの)をもれなくインターネット公開しないのはいかがなものか。稀に国会図書館に納入されている巻号を見るのは、寄稿者が一人でも多くの国民に見せたくて個人寄贈をしたものか。『新防衛論集』や『陸戦研究』もネット公開したら良いではないか。
▼月刊軍事問題研究 1966-12(pp.39-59)・勝山幸雄「新戦争論ノート,液体燃料問題と現代国家戦」
 日本がインターウォーの20年間に人石やらなかったのに独は1941までに460万トン。
 石油は同一熱量を得るのに石炭の50~30%容積で済む。質量も6割で済む。
 ボイラーの熱効率も石炭は重油より数割悪い。
 蒸気機関の熱効率は10%、ガソリンは27%、ディーゼルは33%になる。
 積み込み能率は、石炭が毎時20トンに対して重油は40分で200トン。
 WWⅠでドイツ=オーストリー側は820万トンの石油しか得ず。連合側は2800万トン。これは平時needsの各々80%と209%を意味した。
 ドイツはAir、sub用の燃料は何とかなったものの、自動車用が決定的に不足し、西部戦線の帰趨を決した。
 Ferdinand Friedensburg 氏の研究が参考になる。※ていうかほとんどその紹介?
 車両数は、西部戦線で連合軍の20万台に比し、ドイツ=オーストリー側は4万台(全保有の四分の三)しか使えなかった。
 ルデンドルフ“大戦の思い出”によれば、1918-9-15ブルガリア敗れると石油供給脅かされたため停戦要求したと。
 railway network では仏より密だったが、それに頼りすぎたのが独の敗因。
 1940-10にナチはルーマニアに「政変」おこさせて石油を制圧した。※日本学ばず。
▼『ザ・ジャーナル・オブ・ジオグラフィ』1972-9、(pp.363-9)
 1962~64に沖縄のcivilミニストレイターだったS.McCune氏の寄稿。
 沖縄は1944まで要塞化されなかった。
 1950の朝鮮戦争で、沖縄は米軍にとっての a staging and supply base となった。
 ベトナム戦争期を通じ、The Keystone of the Pacific である。
 北京とグァムのちょうど中間にある位置関係。香港と東京のちょうど中間でもある。
 奄美大島は1609に薩藩のものになり、1953-12-25に米から鹿児島県に返還された。
 今日でもスーパータンカーは沖から油を陸揚げする。
▼週刊読売 S43-3-29号
 戦中の空襲で焼けた城:名古屋、和歌山、大阪、松山、仙台城大手門。
 石川、鳥取両県は無被害。京都、奈良、熱海は目標から外された。※なぜ熱海? 終戦の交渉予定者が疎開していた?
 戦略爆撃調査団によれば、B-29のべ33000機参加中、喪失485機、搭乗員戦死3041人。
 内地戦災死は50万人。
 S20-5-26-0105に皇居正殿出火。4時間後に鎮火。皇居の大半を焼く。
 二百数十機が日比谷公園、三宅坂に落とした15万発の焼夷弾が類焼したもの。
 皇居炎上については『昭和史の天皇』vol.2が詳しい。
 B-29はS19-5頃にインド経由でシナ奥地に50機駐留。19-6-15夜、成都から20機で北九州を爆撃。成都からはそれ以遠には届かない。
 19-11-1、マリアナから単機東京偵察。11-24、70機が都内と中島飛行機を空襲。続いて名古屋の三菱系と神戸の中島系工場を空襲。20-1から一転、都市爆撃に。27日に銀座・有楽町一帯。
 20-3-4に150機編隊による東京雲上盲爆。これでマリアナ基地整備が認識された。
 東部軍管区参謀いわく、当時「何機撃墜」と発表していたのは、無線傍受によって帰途の海上墜落をモニターしていたのが根拠であると。
 20-5-14に名古屋城と熱田神宮が焼け落ちる。
 皇居内宮殿は5-25深夜(正確には26-0105)に焼かれた。
 その頃には沖縄に700機、硫黄島に300機、マリアナに1000機のB-29が展開。にもかかわらず北海道はB-29で爆撃されなかった。函館、釧路が艦上機で、室蘭はミズーリ・アイオワ・ウィスコンシンの艦砲射撃でやられた。しかしターゲットは重要産業目標のみで市街地は助かった。小樽は山が迫った地形と海軍の艦載AAのおかげで特に小被害。※小樽は左翼の一大拠点でこの歴史を消したくてたまらない。
▼C・グラインズ『東京初空襲』
 ノルデン照準器は敵手に渡せないので、自作となった(p.72)。
 蒋は日本の報復を怖れ、シナ着陸を望まなかったが、無視された。
 1939~41の東京の米大使館には爆撃用産業地図がなかった。ソ連海軍武官が豊富な情報を持っていた。
 工業地帯の上を飛ぶ利点は、AA少ないこと、目印を失わないこと。
 「ごく短い説明の中で……皇居がどこで、それをどうやって避けたら良いかも示しました」(p.112)。
 「…神社やお寺──皇居を爆撃しようなどとは決して考えてはならない……」/ドーリトル(p.114)。
 「ドーリトルは、天皇の宮殿を爆撃しないようにとの訓令を、何度も何度も繰り返した」
 同伴エンタープライズは、偵察哨戒機を運用。
 SBD爆偵は、日本のピケット船の発見を、無線ではなく、通信筒の投下によってエンプラ上のハルゼーに知らせた(p.135)。※このテフシの徹底は、逆に、日本側のいかなる些細な通信も米側では傍受ができていたことを物語る。真珠湾接近に気付かなかったなどあり得ない。
 アメリカでは前の座席が上席。
 21発の爆弾と1465発の焼夷弾を投下。死者45、負傷153を与えた。被撃墜ゼロ。
 B-26は離陸距離が長すぎて不適だった。
 J・ドゥーリトルは逆宙返りを最初にやった男。
 天皇を殺そうとする企図はなかった(p.43)。
 甲板は150mある。艦速は72km/hである。あと37km/h加速すれば離陸できた。風速は20ノット。
 アーノルドのS-2副官がターゲットリストをつくる。鉄鋼、マグネシウム、アルミ工場、航空機産業、精油工場、海軍施設……。
 FDRは1-26頃、モンゴルから重爆で日本空襲できないか、下問。アーノルドは、ソ連の協力なく、不可能と答申(p.55)。
 各機は500ポンド爆弾×3、500ポンド分の焼夷弾を積んだ。1機に5人のクルー予定。無線はテフシ要求上、取り外され、230lb軽くなった。
 尾部のキャリバー.30×1梃のみ残し、別に擬キャリバー.50×2をつけた。下部銃座は非実用的なので、取り外した。
▼イアン・ハミルトン『思ひ出の日露戦争』松本泰 tr. S10年
 訳者序、日本軍部訳版は省略アリ。
 第一軍には外人17人が観戦武官となっていた。
 山県は野砲の機動性について熱心に語った。
 児玉は日本語一点張りだ。
 福島は外国語に通ずるが決して外国人とうちとけない日本人だ。
 歩兵は草鞋も携行した(p.18)。
 コメはビスケットよりはるかに消化が早く、たちまち空腹を感ずる。
 現地給仕兵は日英混血。
 ロシア軍は対岸河岸段丘の上に放列を敷いていた。※ノモンハン同様。ただし砲兵用の壕は無い。
 日露とも、砲兵に機関砲を交えて配している。
 日本軍の散兵突撃は、次第に密集してしまい、しかも途中で伏せ射を頻繁にさせるものであったようだ(pp.61-3)。※歩兵学校で大いに改善の余地があったわけである。
 仙台兵の裸を見てたくましいのに感心する(p.90)。
 露兵捕虜を日本兵が曳きたてて行くのを見、さすがにショックを禁じえない(p.104)。
 ロシア兵の突撃は、剣付き鉄砲を初めから前に伸ばし、首を下げて走ってくるだけ(p.119)。。
 規律悪く、住民を掠奪したのは軍夫(p.123)。軍夫の日給は6銭。増加食付き。
 英国は南阿でまず軍用道路をつくって泥濘を克服したが、日本の兵站部にその着眼なかった。
 露軍は暴露していることを勇気と履き違えている(p.140)。※cf.セバストポリ三部作。
 ボーア役に日本から観戦武官行っている。
 ロシア下士官は軍隊手帳も読めず(p.155)。
 遼陽戦はモルトケのコーニグラッツ攻略のマネ、とみている(p.239)。※独語のケーニッヒと朝鮮古語の「王」はなぜ似ているのか。
 大山は仏語を話す。
 ロシア銃鎗は日頃、研いでいないので、先が丸くなっており、厚い生地を通らない(p.297)。
 第一軍の負傷原因。砲弾20、小銃100、スパイク2。
 コメ食は寒地ではカチカチに凍結し、絶対に砕けない。
 ロシアは203高地でも砲を山嶺に露出させていた。15榴を直接射撃に用いた。
 乃木は世界の軍事新聞を多量に読んでいた。
▼W.シャイラー『フランス第3共和制の興亡』井上勇 tr. S46年pub.原1969
 offensive a outrace 徹底的攻撃。
 attaque brusquee 奇襲。
 アルダン・ド・ピック大佐「勝つためには、進まなくてはならない」
 ペタンだけは、火力が優勢なときのみに攻勢を限定しようとしていた。
 ジョフルはサンシール士官学校を出ず、エコル・ポリテクニク出。
 ベルグソンの反主知主義が軍人含む全仏人に影響を与えた。
 アングロサクソンと違い、利己主義的個人主義の仏には慈善ナシ(p.119)。※つまり教会任せ。
 ガリニエは複数の外語に通じる最も知的な将軍。
 WWⅠ中、急速昇進した将官が、戦間期の若手将校の昇進を甚だしく抑制した(p.194)。
▼村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』S55年
 土木技師は、18世紀後半の道路・運河時代に、miliatry engineer から区別された技術職業部門の草分けで、1850~70年代にジェントルマンのプロフェッションにつぐ高い社会的地位を得た(p.149)。
 だから土木技術者を civil engineer と呼ぶ(p.231)。 
 狐狩りは冬の風物詩。
 はじめ軍医は無資格者がなり、除隊後、民間で開業が許された。これは1858の医師法で規制された。
▼“Makers of Modern Strategy”
 ハートは1920年代後半の軍事評論界ではまだフラーのジュニアパートナーでしかなかった(p.601)。
 フラーは艦隊のアナロジーを陸上にもってきた(p.602)。
▼陸軍技術本部『蘇軍兵器冩眞要覧』S7-12
 スコープ付き小銃は、歩兵、騎兵聯隊に各一小隊分(20人)。
 軽機は各i小隊に2梃。狙撃聯隊は合計54梃。軽機の火力は歩兵25名に相当とされている様子。
 蘇軍に於る重機関銃の装備は著しく優良にして狙撃聯隊に54銃あり。
 小口径砲には、大隊砲と聯隊砲がある。
 大隊砲は、歩兵砲小隊に平射および曲射砲が各1門である。
 その種類には……
 グルューゼンベルグ 37ミリ歩 平射 3357mレンジ、これ、当時普及中。
 ローゼンベルガ(クルップの主任技師の名、駐退砲架応力計算の泰斗) 37ミリ歩 平射 3200mレンジ。
 マクレン、最も多数。37ミリ歩 平射 3200m。
 ゴチキス 47ミリ 3200
 エフ・エル 57ミリ 曲射 600歩射距離。当時の曲射砲の主体。外装式木台座。
 リホニン 48ミリ 曲射 600歩射距離。
 ゲー・エル 90ミリ 曲射 500歩射距離。
 アーゼナ 75ミリ 曲射 500歩射距離。
 聯隊砲は狙撃聯隊内の聯隊砲兵Bn(2コ中隊)に6門。
 その種類には……
 1927年式76ミリ聯隊砲。普及努力中。ゴム輪帯。レンジ7060m。
 1902年式76ミリ野砲。
 1909年式76ミリ山砲。共に過渡的に聯隊砲に代用中。
 この他、31年型ボフォース(47ミリATGにも75ミリ曲にもコンバチブル)あり、その47mmタイプは新式対戦車砲としてS7-5のパレードに現る。初速560m、レンジ6600m。
 ※ここから参本がソ連のATGを47ミリと思い込んでいたことが想像される。とすれば1式47ミリはイタリア口径の真似ではなく、単純にソ連の同格品を作ろうとしたのかもしれない。
 野砲はすべて1中隊が3門で、特異。
 師団砲兵は12榴が計9門、野砲が計12門だった。
 軍団砲兵は、10加が計9門、15榴が計18門だった。
 師団砲兵のアイテムには……
 新式76ミリ野。S7パレードに表れ、砲身長く、砲口制退機有り。
 1900年または1902年式76ミリ野。レンジ8500m。
 1909年または1910年式122ミリ榴。レンジ7600m曲射。すでに旧式。
 軍団砲兵のアイテムには……
 1910年式107ミリ加。レンジ12700mシュネデル製。※日本の14年式はコレの追随か。
 1910年式152ミリ榴。7600m。
 山砲には、1909年式76ミリ。レンジ7000m。
 騎砲兵のアイテムには……
 1902年式76ミリ騎砲。
 1909年式76ミリ山騎砲。
 重砲(諸元は参本調整の『蘇連邦軍要覧』を見よ)には……
 ウィケルス式120加。※ソの122ミリはもともとヴィッカーズ?
 1904年式155加。
 シュナイダー式155加。以上は対砲兵戦用。
 ウィケルス203榴。
 シュナイダー280榴。以上はべトン陣地破壊用。
 カネ式155加。
 254ミリ海岸加農。以上は陣地砲兵。
 オブホフスキー製305ミリ榴。陣地砲兵。特別強固目標。
 高射のアイテムには……
 1914/1915年式76ミリ高。現制式。高度5500m、トラクター牽引。
 ボフォース80ミリ。試験中。トルコを通じて買った模様。高度9700m。
 「ビ」式40ミリ機関砲。情況不明。高度4600m。
 エリコン20ミリ両用機関砲。数十門購入。
 探照燈は米「スペリー」式を輸入。電気FCSも米から購入、研究中と。
 蘇軍は手榴弾を重要視し、歩騎兵は略々手榴弾嚢を有し、其内に最小限2発を携行す(p.61)。※やはりシナ軍の手榴弾主義はソ連譲りだったのか?
 “1931年砲兵必携”によると……
 76ミリの炸薬量は約0.785kgのトリニトロトリオール。
 122ミリは地雷弾で4.312kgの炸薬。
 107ミリはトロチルで2.048kgの炸薬。※日本の10加はまったく負けている。
 152ミリは地雷弾で8.8kgの炸薬。
 TKの新編成として、Ptは5、Coは16、Bnは50両に改編中。
 現在蘇軍所要戦車数は1453両。ただし旧式豆式全部含む。
 装甲自動車のアイテムには……
 A.b27年型。
 六輪型。
 ブロネフォード型。以上新型。
 オスチン型。
 フィアット型。
 蘇軍型半装軌。以上旧型。
 牽引車のアイテムには……
 ボリシェウィク型。高射砲用。トレーラー複数を引く。
 コムナール型。20H、15H用。農業用に普及させて徴用する政策。
 テイヤガチ。シトロエン・ケグレス型。1930-1建造。
 ゲペウ自転車隊と、宣伝用印刷車が存在(p.94)。
▼S53年『防大紀要 第三十六輯 体育学篇』兼坂弘道「軍隊剣術の変遷(1)」
 維新後の軍隊では槍術中心の銃剣用法が行われていた(p.145)。
 山県の命名になる抜刀隊とは、剣術に自信なきため突撃発起できない官兵に勢を与えるために西南役中に選抜されたもと士族の警視ら。
 同役では洋式片手剣に対する日本式両手[もろて]軍刀術の優秀さが立証された。
 1660にフランドルの戦闘でルイ14世の兵士が短剣を銃口に縛着した。1670バイヨンヌ氏が実用化。さらにヴォーバンが装着法を改良。1703には槍は駆逐された。
 M10前後、真剣勝負にて軍刀の不利あきらかとなり、銃剣が採用さる。
 日本文献中の矛の初登場は古事記の「天の沼矛」「国平の広矛」。
 日本書紀・皇極3年に、長槍[ながほこ]と見えるのが槍の字の初出。
 建武元年の戦で「長柄」の負傷者が記される。槍の実戦投入(南部文書)。
 次が太平記の建武3年の二井寺衆徒のもちものとして登場する。
 宝蔵院流は、僧徒がはじめた。
▼諏訪哲郎『現代中国の構図』
 人民公社は対ソ戦の要砦としてつくられ、農業的な意義は無かったと。