▼朝日新聞社『鉄の博物誌』S60年
1309の「春日権現記絵巻」に、焼け跡で竹火箸で焼け釘を拾うの図が。
1735英で石炭のコークス化に成功。これで製造した鋳鉄は薄手の鋳物にできた。これで機械の枠台をつくるようになり大発展。
※ギリシャの大理石に類似する加工性良好で強い素材を英は大量に入手した。
1779英コールブルックデールのアーチ橋が世界初の全鋳鉄構造物。
1820頃、炭素を減らしねばりのある錬鉄普及。
1855ベッセマー法でスチール量産に目処。
1860’sには錬鉄の構造物。錬鉄のつなぎは鋲接。
1880’sには鋼の時代に。
1894、日本の高炉製鉄がタタラ製鉄を量で上回る。
幕末大阪湾の砲台に「重い屋根」を支えた鋳鉄支柱ありと/松村貞次郎
M16~18、兵庫県生野鉱山に初の国産鋳鉄アーチ橋。
石炭の亜硫酸ガスが鉄をダメにするのでコークス必要。
石炭を燃やす蒸気機関のポンプで炭坑排水が容易になり、これが石炭を増産せしめ、大量の鋳鉄製造を可能にした。
B.C.2500アナトリアでニッケル含む隕鉄から初めて短剣がつくられる。
これがヒッタイトを経てエジプトへB.C.13~10世紀。
シナでは殷周時代、青銅器の他に、隕鉄の小型儀礼用の鉞と戈あり。
剣伝説。干将(陽で亀文)、莫邪(陰で浸理)。また楚に竜淵、太阿、工市の三剣。
鹿島灘には海砂鉄がうちよせる。それで古来製鉄していたことが『常陸風土記』に。
ムカデは金属神。俵藤太の大百足退治は、蒲生氏が製鉄に関与していたから。
犂先は鋳物。鍬は鍛造。
刃物、大工道具の地方特産品化は江戸後半から。
千葉の久留里(君津市)は戦中に海軍の短剣などをつくった。館山に近いため。もともと鎌の産地。
鹿児島の豚包丁。これは沖縄経由のシナ洋式だという。※蕨手刀もイノシシさばき用を兼ねていたのか。
▼宮崎市定・他『京大東洋史1 古代帝国の成立』S27初版
※もともと京大の支那学は、東大教養漢学に対抗した、西洋史式の東洋史研究。
新疆にはもとイラン・アーリア人いたが、そのごトルコ人が天山山脈を越えて来て、同地をウラル=アルタイ語化した。
広東からは東北貿易風を利用してマレーまで南下できる。
漢末の三国時代~唐末の五代まで740年間、割拠的傾向強いが欧式に封建諸侯化せず、豪族は朝廷における特権貴族であることで満足した。
春秋時代にはまず交通運輸のために堀や堤防を作る。のちに農業用に役立てられる。
※19世紀に河渠淤塞し内線不良となり、反面海外から汽船が高機動集中できるようになるともうOUT。
宋いらい、君主独裁の制度が完成し、簒奪おこりにくくなり、政権が2代以上安定するように。科挙が完成し、官僚制が機能しはじむ。
奴隷は狩猟者および採集者には実際に用がない(p.24)。
仰韶遺跡からは、男よりも女の方が人種的に多用な骨が出土。※先祖は父なくして生れた──の意味は?
北方新石器時代に武器出土せず、闘争少なかったと言える(p.25)。※佐原史観のヒント?
孔子に先立つ時代において、鉄器と牛耕法の発明あり。
殷代、男奴隷を臣、女奴隷を妾とよぶ。殷は山東を討伐し、凱旋するが、西方の周に亡ぼさる。
春秋の斉が富んでいたのは海岸に臨み魚塩を得ていた由。
戦国初、中央に位置した魏の文化が一番高かったが八方から侵されて弱くなり、優れた人材は秦に逃げた。
匈奴は西方スキタイから騎射を学び強大に。秦も戦車から騎射兵に代え、他国に抜きん出る。
私有財産の蓄積と所有を通し、家父長による強い家族統制おこる。これが孔子流の哲学になる。ただし相続は均分。
漢の民衆主食は粟で、西アジアの小麦粉文化とは大いに違う。
▼護雅夫 ed.『東西文明の交流1』
殷代の車は車制からみてオリエントわたりである(p.110)。
ユーラシア北部の半農半牧者のうち、もっとも早く純遊牧化したのがスキタイ。
アッシリアでは、戦用弓は馬を降りて射た。
直飛する三角ヤジリ(三翼)は、ヒッタイト・アッシリアの平面ヤジリと違って騎射可(p.131)。
黒海北岸スキタイは、物資欲しさに南岸ギリシャ植民民市を保護。
サルマタイはスキタイ風短剣を持たず、重矛と長剣を用いた。弓は2次的となる。
戦国時代の斉に槍騎あり。しかしスキタイは用いても短槍。
▼石母田正・他 ed.『古代史講座 13』
車両の発明は、高地から低地に鉱石を運ぶため。
青銅技術は初めメソポタミア、ついでインダスに伝わる。
インダス文明域の広さは同時期メソポタミアの4倍、エジプトの2倍。しかも域内等質。大都市はモヘンジョダロとハラッパだけで他は村落。しかして2都は設計酷似す。600km以上離れているのに……。その大きさは他文明を凌ぐ。
インダスではコブ牛、象が輸蓄とされ、農耕蓄はなかった。多人種都市(p.10)。
前2000に馬使用していたアーリア人のイラン周辺南下により、インダスとメソポタミアの貿易は途絶し、双方亡ぶ?
アケメネスペルシャの制度を、もともと西域に節する秦が採用した(p.15)。
下インダスは、前1000後まで「流風遺韻」の文化影響を残す。
フェニキアのシドン王は、アッシリアの攻撃を受け海上亡命を企てたが予知され捕えられ殺された。後の反乱では、アッシリアは島要塞をとれなかった。
フェニキア海軍は、ダリウス、クセルクセスのギリシャ遠征を導く。
亡びた東フェニキアはドリア山地人がギリシャを奪うや復活しカルタゴに継承。
ヘレニズムは前30ローマのエジプト占領をもって終わる。
インド洋直線横断航路はプトレマイオス朝末期に。紅海北部への航海は危険だったが、ナイル中流コプトスから海岸に出る道を整備。
アショカ王磨崖法勅第13章に、西方ギリシャ5王に仏教使臣を派遣したとある。
インドとローマの貿易はまったくローマの贅沢品入超。
北インド(ガンジス)はローマと交流せず。
淮南子によると始皇帝は今の広東付近の南越を攻めるために南嶺の一部に霊渠を開鑿し糧食を補給させたと。
ビルマルート北端で漢勢力の南端。漢は水系外の陸路支配に限界があった(p.164)。
安史の乱前後にアラブ人による南海貿易が、その効率のよさから陸送間接西方貿易を圧倒。
異民国が中国になつくことを「郷慕」と表記。
戦国時代に鉄製農具が普及し、水利土工が楽になり、水田限界が北上する。
成都は秦代に運河がつくられたことから、稲と魚で民に凶年の憂いがなくなったと、漢書・地理誌。
地溝はダムや池のことで、河から水をとりいれるに非ず。前漢~後漢に淮水でこの工事さかん。畿内で同様工事したのが4~5世紀。
20歳のアレクサンダーが35000の兵とともにB.C.334小アジアに上陸したとき、全軍の食糧はわずか10日分。
▼木村正雄『中国古代帝国の形成』
エジプトと違いシナでは洪水期がすなわち農耕期。だから低平広開で洪水の害を防ぎ得ないところは、農耕地にならなかった。
殷末に王位の兄弟相続制が父子相続制に代わる。周初には財産の長子相続が確立する。
春秋の鉄器普及以後、耕作地責任が単家族毎に分割さる。以後を古代、以前を原始とする。が、治水は個々の家族の管理能力に余ったので、ギリシャ的私有市民には発展しない。
晋の定公はB.C.451~3頃、晋陽城を水浸しにするため渠を掘る。後、農業用水となる。
呉王夫差は中原に兵・糧を送るため2本の溝を掘る。
漢書・溝洫志いわく、鄭国渠が秦に莫大な軍糧を得さしめ、その収入で秦は六国を統一し得たと。※欧州大陸は軍用輜重を運河に頼らず。よって興亡パタンがシナと異なる。
黄河の大堤防は戦国時代にまず斉がつくり、対抗して魏、趙もつくる。※長城のプロトタイプ?
江南では国家権力の背景がなくとも農地の開拓が可能であった。
メソポタミアの塔は洪水時の避難場所として神聖。
▼『海事史料叢書』第6巻・村上雅房「船行要術」永正2年
船は黄帝がはじめて作り、「烏江ヲ漕渡リ玉ト云リ」。
「司天ヨリ運ヲ尅スルヲ天刑ト云」
※千早フル 神ノ瞋恚ニ天道干シ 博ク晒サレ 行キナ止マリソ
防州の上ノ関より、長門関まで、東西に長い。春夏は東風が吹きやすい。秋冬は西風が吹きやすい。
「四季ノ乗様、北国ハ春夏ハ地ニ添ヒ乗リ、秋冬ハ沖ヲ乗、南前ハ春夏ハ沖、秋風ハ地ニ添フ」
「昔ハ沖乗尤禁タリ。其故ハ冬ノ日ハ猶更夏ノ日利ト云モ一日ノ始終ヲ見スベシ。乗リハ難成故也」※これが瀬戸内海である。
無風ニ船ヲ出シテ沖ノリハセサル事也。
陽中ナリトモ風強ク、横波ナラハ本櫓ヲ用ヘシ。瀬戸内也トモ大将貴人乗セタル船ハ本櫓ナルヘシ。
「遠灘ヲ渡ナラバ水ヲ煎シテ樽ニ入ヘシ。水変シ人損ス。唐渡ハ赤土ヲ入、是ハ七日\/ニ色変スル故也。亦潮ヲ水ニ用ルモ赤土ニテコシテツカフ也」(p.301)。
遠灘夜ニ入事夏ハクルシカルマシ。冬ハイム事也。
▼リデル・ハアト『英帝国崩潰の真因』江本茂夫 tr.S15年、原1939
“When Britain Goes to War”もしくは“The British Way in Warfare”の訳。
WWⅠ後にハートが造言「平和を求めんと欲せば、戦争を予知せよ」
自由の最高到達点は偏見よりの解脱である。
過誤や誤謬をなくすように努めることが消極的ではあっても正解への道だ。
W・マッケクニイ大佐の李鴻章伝を読んでいる。
本書のアメリカへの影響。“Nation”1939-10-14
本書のためにホア・ベリシャ前陸相が辞任した。
本書脱稿後、著者は神経衰弱に罹っている。
日独伊が国際連盟加入の小国に加えた連続的攻撃は、連盟の主桁である仏英への間接的接敵法だった。
WWⅠ後、フォッシュはライン国境を主張したがウィルソンに阻止され、英も見捨てる。クレマンソーは独に優しかったがポアンカレに代わられた。ポ氏はルール占領して失敗。再び緩和したときはナチが出ていた。
文明を完全に維持するためには次の戦争に於いては何人も勝利を得ないことが必要(p.12)。
クラウゼヴィッツの見解は、ナポレオンが兵員の優勢に屈服した戦闘にクラウゼヴィッツ自身が参加したことに、明らかに影響されている。
クラウゼヴィッツの時代には陸軍の装備に重要な変革がなかったから、兵員の優勢が戦闘毎に戦闘を決していくと主張し得たのだ。
クラウゼヴィッツから半世紀後、「武装国家」の著者フォン・デル・ゴルツは、防御が攻撃よりも強大であるという観念は単なる謬見と公言した。
戦車をもたなかった独軍は、ガス弾と発煙弾を多量に射つ新砲撃法に加うるに「各個前進」という新歩兵戦術を併用して、敵の最強拠点に向かって努力を集中せずに、抵抗力最少の線に沿って強襲することにより、正規戦術を覆した(pp.18-9)。
死体を埋めたり、便所をつくらぬ敵は、戦意完全喪失の証拠。
ルデンドルフは東部での楽勝の経験から、西部での攻勢所要兵力を楽観した。
大戦略とは戦争後の平和状態も考えること。
「電撃戦」という軍人の夢は実現の可能性を次第に減ぜられている(p.35)。AAの発達で air raid も無力になろう。
永続的安全保障の最大可能性は、集団保障の組織を育成するにあり(p.39)。
防御が有利になったから、集団安保が現実的だ(p.45)。
1937-11に発表した論文。各国は何をなし得ないか。それは攻勢だ。
フォン・ブロムベルグ元帥は守勢の有利を早くから認めており、ドイツは西部で攻勢に出たりしないだろう。
チェコをソ連が救援せんとしてもポーランドが妨害するだろう。
南欧の防衛力に関して楽観。1937。
ジブラルタル港は急に深いので錨地が狭く、スペイン側からの砲撃にひとたまりもあるまい。
WWⅠで独はなぜ英の中立を信じたか。要するにグレイがハッキリ警告しなかったからだと(pp.75~)。
近代戦では防御が強い。緒戦で占拠された国境地方からドイツ軍を直接行動によって撃退することは不可能だろう(p.81)。
ルーマニア政府はもしソ連と結べば農民暴動が起きてしまうだろうと懸念中。
戦艦建造はやめてSLOC防衛に回せ。
英空軍は目下、fighter中隊よりもbomber中隊をたくさん整備している。
いまの独軍は膨張しすぎて、戦間期ゼークトの軽量&奇襲指向を忘れている。※ハートは大陸軍削減論者。
ポーランド軍の楽観主義はその特殊な地形的条件からきている(p.109)。
スペインでのソ連製軽機は他国製より優秀だった。TKもおおむね優れる。重機は重すぎ、小銃は旧式だ。
ギベールは、国軍は国民性に即した戦術をもてといい、ナ氏はその書を座右に。
1918独作戦部長ヴェッツェルは、英軍には粘りがあるが仏軍にはないと。
長弓隊も杭柵をつくる間なく攻撃されたときは敗北した。於パテー、1419。
フォッシュは仏の針打銃が敗因とみた。→だから火器進歩=勝だと。
モルトケいわく、動かないで射撃する兵は、前進しながら発砲する者より有利。
マスタードガスはMGと同様、防御兵器。
ハートは戦略攻勢(先占待敵)、戦術守勢(MGの吸引殲滅)を説く(p.147)。
英の「地方軍」はナポレオン三世の脅威より生まる。
空襲は侵略ではなく襲撃にすぎない(p.157)。
限りある燃料積載量が、帆船時代に遂行された厳重封鎖を不可能にした。よって近年では封鎖艦隊は自国港にとどめておく遠隔封鎖。
日本は食糧自給できるので英国よりも爆撃に脆弱ではない。空襲損害は列強中で英国が最も心配される(pp.182-3)。
WWⅠ直後、英国は最大の空軍国だった。英家庭では末っ子が優遇されるのに、空軍は逆にまっさきに削減された。
ルール占領に英が抗議すると仏は126スコードロンの大部分を海峡沿いに集めた。
WWⅠで英に投下されたのはわずか74トン。これで死人859人出た。
飛行機は陸上では攻撃される心配から全速飛行する。それでガソリンを三倍消費する。海上では経済速度で巡航してくる。だから海岸都市の方が危ないのだ。※バトルオブブリテンは立証した。
今日では機速が大なのて夜間飛行場を爆撃できぬ(p.192)。
平時演習で75%当てられる海軍砲手も実戦では2%に落ちるものである。つまり1/40となる。
スペイン内戦2年後、英政府は爆撃の正当性を調査する委員を派した。この調査は、その後の空襲を抑制させる効果があった。
「クラウゼヴィッツ及びその門下がナポレオンの事蹟を讃仰して作り上げた『絶対戦』、即ち無制限戦争の理論」
国際規約は戦争の後期の段階において破られ易い。エチオピアでは、イタリー軍は戦争が長びいて雨期に入りそうになる頃まで毒ガスを使用しなかった。かれらはその使用を用心深く隠していた(p.236)。
ヒットラーが1935-5に提言したように爆撃を海上および陸上作戦の隣接地域に限定することは結構なこと。
勝利は博するが、戦争終結の後が何うなるかを見透すことの出来ない短見の戦略家のために、最もしばしば最大の損害を蒙った国は常に戦捷国(p.241)。
WWⅠ後の仏軍は、方針でも訓練でも主に発射弾数増加に心を注いだ。
1915ベルギーとロシアの要塞が脆くも陥落したので仏は自国要塞砲を撤去。それが1916のヴェルダンの窮状を招く。ドゥオーモンとヴオーのコンクリート要塞を奪回したとき、それらは砲撃によっては無傷だった。ここからマジノ線を着想。同一箇所に3発命中しても耐える。内気圧高いのでガスも入らない。
戦時塹壕勤務は半月交替シフト(p.260)。
アルデンヌを最近ハートが旅行した印象では、ここはティルモピレと見えた(pp.274-5)。
オランダ兵は民兵式のいいかげんな訓練しか受けていなかった。
バルフォアの青海諭。海軍第一主義で、陸軍は遠隔アンフィビアス用の素質優秀なものとする。
1937、ダフ・クーパー氏は完全機械化論者に。
ブレンが使われるようになり、重機はいらなくなった(p.371、原294頁)。
1936のソ連大演習に招待された英使節団は米国クリスチー型改良の高速軽中戦車の数と性能に多大の感銘を受く。
広い戦闘正面に、あたう限り多数の「尖兵」を同時に前進させる法によれば、敵線の強弱を同時に検知できる地点が多くなる。突破口の拡大は休んではならぬ(p.466)。
敵の薄弱点が発見され、報告されるまで予備隊を待機させておく普通の方法は無効。
敵はわが予備隊の到着前に、後方から援兵を繰り出して弱点を強化するから。
天才的な訓練者は有能な指揮者よりもよほど稀である(p.494)。
ある砲兵将軍は、歩兵を訓練するには3年かかるが、砲手を訓練するには2カ月で十分だ、と。
ウィトリンガム大尉の近著『英国の大尉』。歩兵の個人的自発性を重視している(p.544)。
▼E・H・カー『ナショナリズムの発展』大窪愿二 tr. 初版S27年、原1945
訳者いわくこれ以前の本のまとめ本。
アクトン1862いわく、ナショナリティーは自由をも繁栄をも目的とせず、民族をもって国家の鋳型と尺度にするという至高の必要のためにそのいずれをも犠牲にする。
19世紀のドメイストルは国家は主権者と貴族からなると論ず。
国際法の初期の歴史の大きな部分は非戦闘員の財産と通商を保護する規定を作りあげることから成っている。
18世紀は仏語が主権者の国際語だった。そして平民は戦争中でも自由に商取引できた。
ネーションとピープルは分けて考えられた。
19世紀型近代ナショナリズムの始祖はルソー。彼がネーションとピープルを同一視した。
ナポレオンは最初の民衆的独裁者。
夜警国家の昨日は大体において財産保護にあり。財産なき労働者には、この場合、祖国は無い。
19世紀パブリックスクールとリセは、ブルジョアジーに公共業務の訓練をする学校。
国際貿易を平和の保障と考えるのはコブデン流。
ナチ=ナショナル・ソシャリズム。これは1895の独で発明された概念。
ビスマルク時代の英でジンゴイズム=大衆のナショナリズムがつくられた。