▼内田星美『近代日本の技術と技術政策』1986
陸軍からの留学は1870=M3桂太郎から始まる。
初めは組織・作戦を学ばせるためだったが、1879より、砲・工兵関係の技術留学が大宗に。
日露役直前の1903に工兵課の所管に軽気球が加わった。
M17にはオーストラリア政府から銃の依託生産を受注。
三年式重機には「レキザー」銃の長所がとりいれられている?(p.204)
▼フラウイウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』I~III、新見宏・秦剛平 tr.1975~81、原B.C.75~9
著者は防衛隊長だった。
破滅の原因は僭主。この僭主よりはローマ軍が寛大だった。
ギリシャ歴史学は二次史料の羅列だけだ。
軍勢は……無数のらくだに踏みつぶされてしまった(I巻p.53)。
安息日でも自衛のためにだけはユダヤ人は戦う。
麦は夏に収穫されるので、夏こそ掠奪の秋。
ユダヤ人は体力に於いてギリシャ人にまさっていた(II巻p.11)。
ローマは中東の平坦地では槍騎兵を主用した。
命令はすべてラッパ(p.113)。
ローマ歩兵は両腰に長短2剣を帯びる。
フェンスには牛の生皮がよい。
動物には自ら望んで命を絶つものはない。だから自殺は神への冒涜である。よって投降も不名誉ではない。
アスファルトを船の防水材にしていた。
城壁の破壊部分を大きくすることは退却をsuggestする(p.69)。
ローマ兵は鋲を多数打った靴を履いていた。
▼『島崎藤村全集・13』「フランスだより」S31年
大正5年発表の談話によれば、フランスの新聞はゴシップ載せず、未決犯人は頭文字しか出さない。
シーメンス事件当時、筆者は仏人から仏製軍艦売り込みに協力するよう迫られた。『ニコニコ』大5-9-1号記事。
仏人は勲章に執着する。
▼濱口富士雄『射経』S54年
唐~宋にかけ『○○経』という本が百出する。酒経、香経、筆経……。
易経の繋辞下に出る弓は未だ丸木弓。これが周礼の考工記弓人になるや、現代とほぼ同じ合成短弓に。
決・ゆがけは、親指につける象牙の器具。遂・ゆごては、腕を保護する。蒙古式。
詩経の車攻に、車上射を描写。
趙王の胡服騎射採用は『戦国策』に載る。
押し出し射法を難じ、自然な離れを提唱しているところを徂徠が訳し、日置流に採用された。
解説。日本の弓は耳のうしろまで引く。シナの弓は顎の下まで。
弓をひきつがえた状態=持満。
倭寇の頃、和弓はシナ弓より威力があった。南方では膠が解けるので威力が落ちるせい?
実戦では練習用よりも弱弓を用いる。強いと狙いがつかなくなる(p.72)。
原始の形では、右手親指のハラと人差し指の第二関節脇で矢を締め付けつつ引く。
地中海形では、親指と小指を一切使わない。三本指の第一関節で弦をひっかけて引く。
蒙古形は、曲げた親指で引く。だから親指保護の「ゆがけ」が必要。
柳は根付きよく、成長も早いので、軍営の周囲に植えられた。よって柳営という。
シナの騎射は「居鞍」。日本式は「立透[たちすかし](p.164)。
▼筑摩『現代日本思想体系 4 ナショナリズム』1964
神風連は明治5~9年に進歩派が敬神党を嘲笑せんとしてつけた仇名。
神風=カミガカリという記号認識は明治初からあった。
神風連とは、オランダ学万歳派が、新世代の英仏その他派に叛旗をひるがえしたものとも言える。
M8の神風連は髷は残し、刀は袋に入れて手に提げて外出した。
熊本城では乱があろうとは察していたが、まさか洋式武器のある城に攻め寄せるとは予期せず。
このとき、与倉知実中佐邸が襲われ、本人は逃げたが、聯隊旗は奪われた。M9-10-24のこと。※人事総覧をみると与倉はその後将官になっていない。
保田与重郎は『馭戎概言』を精読すれば思想戦が書いてあると1942に。
中野正剛は、国家改造計画綱領の中で、金融は統制下に置けと。米では銀行反抗のため行き詰まっている。国有化や半官半民にする必要もないと。
日本はいまだ……高度精密工業……について先進国に譲るところのものが少なくない(p.323)。
▼G・ダニエル『文明の起源と考古学』1973、原1971
1950’sまでの成果を収録。
ジョンソン博士はcivilizationを彼の英語辞書に収録することを拒み、古くから礼儀を意味したcivilityを選んだ。
都市化は urbanizatin
E・タイラーの定義だと、野蛮→未開(農耕)→文明(文字)。
モーガンの区分。火→弓矢→土器→家畜→鉄→表音文字→文明。
トムセンの三段階。石器→青銅器→鉄器。
ラボック。Neolithic~Palaeolithic (lith- 石の)
炭素測定法により、文明はザクロス山麓でなく、最初の農耕民のあらわれた三日月地帯よりももっと南のメソポタミアで生れたと確定。「歴史はシュメールから始まる」。
創世記11章。人々は東のほうから移動してきて、シヌアルの地=シュメールに平地を見つけ、そこに定住した……。
アベルとカインは、ステップ沙漠民と灌漑流域農民とを代表。
旧約のバビロニア人とはカルデア人。ジェネシスのアブラハムはそのウルに住んでいた。
「カルデアの」は長いあいだ「賢人」を意味した。
日干しレンガの耐久年は75年。だからテルができる。
ヒッタイトは象形文字を使用。
プンジャブには古代車が残り、現用されている。
マルサスが1798にシナを世界で最も豊かな国と言ったのは当時の西洋のステロタイプに基づく。
『人口論』から25年でシナ観は地に堕ちた(p.120)。
ランケ、ゴールドスミス、ヘーゲル、コンドルセは口を揃えてシナを停滞不変の国と呼んだ。
黄帝は青銅期の直前か。
シルクロードはB.C.3000には開かれており、仰韶の成立と一致し、それより6000年前からある近東農業をうけついでいるかもしれない(p.127)。
商期、ほとんどの交通は水路によった。
ワトソンいわく、商社会は、戦車と弓を主に使う点、青銅器近東都市文明に似ると。
食料生産革命はエリオット・スミスが言った。
弩がシナから西に渡ったと主張したのはJ・ニーダム。
▼ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』
アゼルバイジャンは別名・メディア地峡。イラン山岳防御帯の裂け目であり、肥沃で人口稠密、メディア人からペルシャ人の出発地。
カスピ沿山地は雨が多い森林で、大食糧供給地方。
エラム象形文字は、魚を除けば既に漢字とは全く違う。
ギアン出土の三足土器は、鼎に似る。B.C.2000末。
B.C.860以前のアッシリアはチャリオットのみで騎兵なし。アッシリア彫刻に国王が戦車で山河を越えるところを描いているのは、それが大苦労だったから(p.78)。
旧約エレミア:見よ、かれは雲の如く来り、その車は旋風の如し、その馬は鷲より早し……。スキタイの地中海征服。
シナとうてつ文の仮面の「新ヒッタイト王国」様式の類似。
▼F・ギゾー『ヨーロッパ文明史』上・下
1828ソルボンヌでローマ崩壊から仏革命までをGuizotが講じたもの。
文明の科学的定義はしない。
文明とは社会と精神の進歩、発展で、物質的豊かさではない。だから文明のために蒙った損失ならば忘れることができる。
ヨーロッパ文明の秘密は、社会秩序の諸要素の多様性、それらの要素が互いに他を根絶し得なかったことに求められる。その反対がアジア的専制なのだ(p.51)。
初期ローマ時代、イタリアには耕地はあっても農村はなく、都市から田園に出かけていくのみ。
上位ヒエラルキーが下位者を任命し、思想を強制するカソリックが12世紀以降定まったのは不幸。
5~10世紀、農村優位化し、都市が衰微し、人口は減った。
封建制→再び都市が活性をとりもどす。常に都市内にある教会が、農村封土からの逃亡知識人を吸引。→市民。
領主の土地の中に、収穫対象としての都市が囲繞されることになった。
自治市と領主との「防壁権」をめぐる戦いは11世紀に本格化。市側が勝つ。
市民は領主をさしおいて、王に接近する。12世紀。
12~13世紀の市民は常に胸ヨロイをつけ、槍を手にしていた(下p.32)。
▼渡辺已之次郎『華盛頓に於る日本の敗戦』大11
米国海軍はWWⅠで活躍できなかったため、戦後、腕試しがしたくてたまらないのだ(p.15)。
ウィルソンの頃まで、米大統領は海外旅行しないとの不文律あり。またウィルソンは講和委員に上院議員や共和党員を含めず、議会対策をまったく怠った。
当時のフィリピン総督はウッド将軍。
デンビー海軍長官による米国艦隊編成替は、太平洋に最新の重油焚き艦、大西洋には石炭焚き艦を配せんとす。
ハワイ軍司令官には、WWⅠ指揮経験あるサマロール将軍が任ぜられた。
ヤップ島問題は大9の国際通信会議以来。
グアムにもヤップにも海底線。ヤップからはグアム、上海、メナドに線が繋がる。
海軍の秘密主義が陸奥の既成艦たることを米国に知らせないようにして置いた(p.139)。
グアムは米海軍の軍政下におかれ、アプラ港には外国商船立ち入り不可。ただし貯蔵は石炭のみ。
サモアも米軍政下。艦船修理施設あり。「ボロック」にも海軍根拠地。
ハワイは、カリフォルニア、アラスカ、サモアより等距離。東部太平洋の支配点(p.143)。
ターンバル、フィスクらの海軍人は、早くからフィリピンは空軍力で守るのが合理的であることを説いていた(pp.242-4)。
▼鈴木兼吉『ワシントン会議に際して』大10
全権は国内では後援を訴えず、出航はるか後、無電で支持を呼びかけた。
マーク・ケーア中将の9月論文。subは半径6マイル[ノーティカルマイル]しか見通せないが、クルーザーは20マイルみわたせるから、水上制海こそ完璧な洋上支配也という(p.100)。
また同将はairはsubに絶対有利なので護衛も空軍にやらせろという(p.105)。
ヤップ島電信はもともとドイツ所有。ガム、ミンダナオ、セレベス(メナド)に線がつながっており、ロケーションは比島とグアムの中間。
▼常田力『ワシントン会議と永久平和』大11
「事実現代を溯る五十回の海戦に於て、六割で勝ったのは漸く一割位である」(p.163)。だから七割に固執した。
4国協定とは、奄美や小笠原が日本本土であると否とに係わらずこの防備を現状維持するとしたもの。
▼外務省調査部第二課『ドイツと植民地問題』S16年
ニューギニア殖民は濠の猛反対あったが英の許可があったので実行。東半分の北側をとる。
スペインは米西役の負債を軽くするため、1899、カロリン、パラウ、マリアン(アメリカが占領したグアムを除く)諸島を1675万マルクで独に売却した。
ガダルカナルのあるサロモン諸島ははじめから含まれない。
連盟を脱した日本に連盟は委任統治の返還要求の態度が示せない。米はそれを望んだ。英は日本の抑制のためにこれを自分たちの統治領もあわせて、ドイツに返してもよいとすら言っている(p.162)。
▼田中広巳「東シナ海と対馬・沖縄」(防衛大学校紀要・第40輯・人文/社会科学編、S55年)
幕府が沖縄を1609の遠征以来、薩摩藩に任せていたのは、軍事的脅威の面で幕府がぜんぜん警戒していなかったことを示す。
ロシアに対して対馬を、砲台+海底ケーブルで守れと主張したのは榎本(大日本外交文書・巻8)。
『ペリー提督日本遠征記』S28訳には、英国未着手の沖縄に着目したのがペリーであったことを示す手紙載る。「太平洋の諸島」は、別の箇所から沖縄と推測できる。
またペリーは日支両方への拠点として台湾を最重視していた。この構想は南北戦争で実現せず(p.48)。
台湾征討論者の西郷隆盛も台湾を沖縄や南洋、シナを制握するところとみなしていた。南進政策は、薩摩系人士の沖縄ルートの発展策である。
李鴻章は沖縄を清国対外発展の門戸とみていた(p.50)。
井上毅は日清戦に臨み、朝鮮は一国で独占できないが台湾は違うと。
『沖縄縣治要覧』大10版によると、M29年7月に沖縄分遣隊は撤廃されてしまった。M31~35までは大隊規模のみ。戦闘力ほとんどなし。
沖縄は日清戦争で、対馬は日露戦争で、各々前線から回廊へと役割が変化した(p.56)。 沖縄基地は米中心にみて価値があるが、アジア中心にみると永遠の価値はない。
▼石井通則『小笠原諸島慨史(その一)』1967
欧米人の初来島は1823、米捕鯨船Transit号の漂着。船長はCoffin。
1855ペリーが父島に。
幕府はペリーの記事によって同諸島が外人に占拠されていることを知った。
硫黄島(火山列島)居住は、M20以降、日本人が最初。定住はM37から。
ペリーは母島を占領せしめたが、合衆国政府はそれを否認した。
南鳥島は19世紀後期よりマーカス島として周知さる。
ついに確認できない「中之鳥島」があるらしい。
沖ノ鳥島と硫黄島は370カイリ。南鳥島と硫黄島は689カイリ。
軍機関としては、父島要塞司令部、海軍通信隊。
S19-4-4から全島民のひきあげ始まり、6-15に艦上機の第一回空襲。
マッカーサーは島民を残す意向だったが、米海軍が反対して強制送還になったという(p.27)。
▼小笠原戦友会 ed.『小笠原兵団の最後』S44年
硫黄島で降伏勧告させたのはサイパン捕虜。
トラック島に対する機動部隊空襲で杉山参謀長と永野軍令部総長が、東條、嶋田に代わられる。東條は軍政と軍令を兼ねる。
S20-1-1時点で父島に陸軍9200人、海軍6000人駐留。
終戦前の1年間は、木造の小型船団すら父島に寄り付けず。
母島からは晴天のときだけ父島が見える。蚊と蟻と鼠がすごい。
▼望月小太郎『華府会議の真相』大11
著者は山縣有朋にも近い、英語で話せる代議士。
林大使はロイド・ジョージの演説当日まで日英同盟は継続される如く誤解して、本国に報告を送っていた。
中南米諸国はぜんぜん参加しないことに決した。
加藤友三郎は日本語で。ハーバード大の市橋教授が通訳した。
加藤は自分の口からではなく、海軍専門委員をして7割をいわせようとした。これが6割屈服の原因だ。
加藤は将来にわたっても米英との海軍対等は求めないと言った。
日本記者団は6割を支持し、海相に迫った。
11-8には出席代議士を前に海相みずから7割必要を説いた。
ここでも日本外交は軟弱で男性的率直を欠き、堂々と陸奥復活を要求しないで、7割の比率を要求すれば陸奥も自然に生かされるというが如き態度。これはじつに見え透いていたので、7割要求もかけひきのひとつとみなされてしまったと。
海相は新聞記者にもなぜ日本が7割を欲するのかの理由を2週間にわたり全く説明しなかった。だから米国新聞は、7割説は一種の駆け引きだと批評した。
海相ははじめから、もし7割が失敗したら、随行部下である海軍専門家の責任にしようとしていたのである。
加藤を抜擢した権兵衛いわく、あまりに妥協性に富むと。
政友会代議士応援団は、ワシントンで7割をプッシュしたが、加藤が6割を呑むと、それを成功と言い囃した。
アラスカ買収の際、英とのあいだで軍事防備せぬ黙約あったが、キスカに米国第二の根拠地を設けた。1898の比島併合の際にも星亨公使に併合しないと約しながら結局やった。グアムは潜水艦根拠地にする予定である(p.88)。
マハンは『米国海権の現在及び将来』の47頁で、ハワイを北太平洋死命の地と呼ぶ。ホーマーリーやバイウォーターも。
ハワイを海軍策源地にすることは1916米国将官会議の決定。
海大教官ニーブラック大佐は、アラスカ、ハワイ、ミッドウェー、グアムの根拠地化を説く。ナイトとロッヂは、ハワイ、ミッドウェーを強調。
加藤海相は、ヒリピン、グワムは我国の鼻先に在るから危険であるが布哇は脅威でないといふ。
大型subはミッドウェー~横浜2250浬を13hで航海している?(p.95)
現にドイッチェランド号はキールからニューヨークを往復した。
1912のヘリゴランド防備制限会議も独が応ぜず、英は占領に苦労した。
山梨陸相は3-12の貴族院で、国防の第一線なる奄美大島小笠原方面に制限を受けるのであるから多少の不安を免れぬ、と。
以前の高平・ルート協定では、ハワイ含む太平洋島の現状維持は約束済み。
ハワイ併合は1898、台湾割譲は1895。
フォッシュもついてきた。
▼小松緑『ワシントン会議の真相』大11
ヒューズ案を知っていたのは、全権4名の他に、デンビー海軍長官、クーンツ海軍大将、ルーズベルト海軍次官、フレッチャー国務次官。
市橋の通訳は声がよくなかった(pp.32-3)。
海軍専門委員は、ルーズベルト、英ビーティー大将、仏ルボン中将、伊アクトン中将、加藤寛治中将。各国とも部下3名づつ。
フィリピン、グアムと米本土間のケーブルはヤップを通らざるを得ず。