▼江橋英次郎『航空兵魂』S19-2
著者は陸軍人。
海軍航空は大正2年に爆弾投下の試験をしたのが最も早い(p.63)。
青島の爆撃では、はじめは弾頭を下に向けたまま落下させるために小さい気球をつけて投げつけたが、成績きわめて不良。よって鉄板の矢羽根を弾尾につけた(p.71)。
大7-8~大11-8までの間、シベリアに陸軍偵察機×31、P×15が出動。
WWⅠ中、イタリアの要請で操縦将校20名、職工100名からなる航空団を派遣(大7-10)したが、11-11休戦で参戦機会を逸す。
しかたなくカシノコスタ飛行学校で10ヶ月伝習をうけて帰朝した。
フォールが来朝したとき山縣は「何事も自立が肝心だ、しかし今は彼れ等に教はるのが早手廻しだ」といったらしい(p.80)。
▼くろがね会 ed.『海軍報道班作家前線記録 第二輯 闘魂』S18-2(3万部?)
BANDA島とは、「黄金の実が生る樹」の意。パプアとは縮れ毛の意。
オランダ領東インドにはV.K隊(破壊隊)あり、宣教師らもその一員。新旧両派あり、ニューギニア南部はカソリック、北西部はメソジスト。
いまのニューギニアには、お祖父さんの頃には人も喰ったことがあるという伝説を持ったワレス族が、ずっと奥の大山脈地帯に住んでいるにすぎない。
村上元三いわく「華僑は世界の蝿だ」(p.115)。
海野十三いわく「マーチンB27(?)」は果敢だ。
▼尾川正二『極限のなかの人間』1983
マラリアの恐怖は徹底して事前教育されていた。だから1匹に刺されても心配した。
しかしアクリナミンはあまりにも苦いので飲まない兵隊もいた。
土民は男は赤い腰巻、女は腰蓑。体臭が異様にはげしい(p.22)。※水木しげる氏によれば、それはマラリアのため体を水で拭けないからであると。
マッチは防水を完全にしないと、湿気で頭部が崩壊する。兵器も、朝べたべたに油を引いておいても、夕方には錆が浮く。鉄製の将校小売に入れた新品軍服は折れ目から溶解する。
シナでもそうだが戦場でいちばん落ち着けない場所は、娑婆とは逆で、風呂と便所(p.35)。
30過ぎればもう老兵。
警報ラッパは「ヒコウキガ トンデキタ」と聴こえる。
ラバウルからの潜水艦が入港してコメが卸下されるが、ゴム二重袋が浸水して黴びていることがある。
三個小隊編成の中隊は165名、四個小隊編成の中隊は261名。長含め。
連隊長はジャングルの中で、食えるものは何でも手まめに拾えと訓示(p.67)。
防寒具になるものは、150センチ平方の天幕だけなので、2000m級の山地の夜は参った。
塩をとらないと、汗がまったくべとつかない。さらっと乾く。
コメよりも塩が欲しくなる。また、「動物質への渇きが、全身をつき上げてくる」(p.75)。
「動物質の欠如、疼くようなからだの渇き」(p.103)。
若い土民はたいてい、ピジン・イングリッシュが通じた。
乞食のこつは、とにかく現地人の言葉を使え。片言でも。
ピジンは若い男だけに通じる。f音はpとなる。火は「パイヤ」。※幕末日本人と同じ。
栄養失調の神経痛で、右手首が2カ月間、まったく動かないことあり。
「出陣以来の垂れのついた戦闘帽」(p.83)。
陸士出身者が「貴様」をよく使う。
北支戦線では、1日に40km歩いた。これが60kmになると、「五体はきしみ、五臓は顛倒する」。装備の重さで腰の感覚がなくなる。ついには炎天下で寒気を覚える。
敵と遭遇するとこの行軍を中止できるので、みな、喜んだ。
ニューギニアではさすがに湿気の関係でこれほどの強行軍はありえない。
腐敗して蛍光を発する木を背嚢に縛り付けて誘導の目印にする。
擲弾筒のタマは1万発に1の割合で、腔発を起こすとされていた。だから実弾演習は遠隔操作で引き金をひっぱった(p.151)。
K上等兵が実戦で擲弾筒を続けて6発くらい発射したとき、事故が起きた。Kの左手は吹き飛ばされ、頭部もめちゃくちゃ。筒は部分は花のように砕け散っていた。
佐賀県で生まれ育った朝鮮籍の特別志願兵の最期のことばがアイゴー・オモニーであった。
兵隊の1ヵ月分の俸給は10円(p.159)。
野ねずみは罠でとり、もぐらは野焼きでとる。
ジャングル内で砲弾は「ビシャン」という音をたてて炸裂する。
人の頭に弾丸が当たるとポクッという鈍い音が聞こえ、力が抜けたように死ぬ。
各人は防蚊頭巾と防蚊手套[てとう]を携行し、1個分隊用の蚊帳も用意。
南方の蟻はものすごいもので、ライオンが蟻に負けたという寓話は、ありえた話。
ブキツという国では男女とも一糸もまとわず。しかし余所者の裸は困るという。
言霊信仰があり、トウモロコシを撒くときに決してトウモロコシと言ってはいけない。言うとそれをモグラに聞かれてしまうから。
豪州軍に降伏するとき、銃の御紋章を帯剣ですりつぶした(p.224)。
一度に食いきれない小魚は煮沸して乾かしていりこにする。
豪州軍がそろえていた小冊子の中に“Japanese Eta”なるものまであった(p.240)。
収容所からは空母『鳳翔』で帰国した。とちゅう、病没者が出ると、いちいち停船して、水葬にした。
浦賀に上陸すると、青天白日旗をかかげたトラックが罵倒と揶揄をあびせながら驀進してきて老人を跳ね飛ばして過ぎていった。
▼航空文学会『陸鷲戦記』S17-10
比島の既設飛行場。クラークフィールド、カバナツアン、バギオ、デルカルメン、イラガン、タルラック、ニコラスフィールド、リマイ(バターン半島)、カブカベン(バターン半島)、コレヒドール。
またセブ、ネグロス、パナイ、ミンドロ島には、秘密急造滑走路があった。
バッファローは爆弾90kg積む。
メシ食ってるとき不時着情報入ると、整備兵は咽喉を通らぬ。
機附きや整備兵による離陸時見送りは、支那事変後半で廃れ、南方戦で復活した。
▼アントン・オーホルン『大軍を率ゐて』大2-5
乃木学習院院長が、子供用に訳せといい、吉田教授、安楽直治が分訳、さらに猿谷不美男が子供向きに抄訳。
ナポレオン戦中のドイツ(ザクセン?)軍部隊の話。当時の記録を参照したフィクション也。
この独部隊は仏軍の一員としてモスクワ攻めに参加。
けっきょくドイツ兵数千人がロシアに仆れた。
▼小糸忠吾『日本と国際コミュニケーション』他
UPのビッケル社長は、1917の赤色革命以来、ロイターおよびアバスが、ソ連の八百長報道に終始してきたと。W・ミルズは“戦争への道”で、WWⅠ中アメリカの新聞がいかに外国通信社電により惑わされたかを明らかに。リップマンとC・メルツは、1917~1920に新生ロシアのできごとがAPおよびNYTによっていかに誤って報道されたかを公表した。
1851-11にドーバー=カレー海底電信。
1865-3ロンドン=カルカッタ海底電信開通。
1866-7、ATTによるアイルランド・バレンシア=カナダ・ニューファウンドランド。すでにATTは全国電信網は整備を終えていた。それまでは欧州のニュースは快速船でハリファックス港沖に届くまで2週間かかった。9月、並行海底電線も完成。
1869にボンベイ=アデン。
1871-6-13に印度=シンガポール=上海=香港の海底ケーブル。
1871-6-26に上海=長崎が開通。
1873にシンガポール=豪=サイゴン=上海。
1873-2-17に東京=長崎。
昔のロイター電は通信料金節約のためラテン語を使って英文字句を簡略化しており、一般人が傍受しても読めたものではなかった。
1916-6に北海道の落石中継局からペトロパブロフスクに初の国際無線。ついで1916-11船橋中継局からハワイに向けて。そこからサンフランシスコに転電。1921、磐城局から直接、米本土に出力400kwで飛ばす。
1917にロバート・ランシングは、傍受し暗号解読したZimmermen電報をAPに公表させた。
1924頃、仏独から日本へニュースを送るには4~8時間かかった。
▼雑誌『選択』バックナンバー ※学生時代に都立日比谷図書館でメモったもの。
大慶油型原潜6100~6900トンは、2500km級ミサイル×12を積み、1990までに12隻完成させ、常時8隻を、ベーリング海からアラビア海に展開し、ソ連を狙う。チベット、新疆、東北に建設中のマイクロウェイヴ通信網で指揮する計画。(1983-2月号)
仏から持ち帰った再処理プルトニウムのなかにはPu240が12%含まれるのでさらに精製しないと核分裂爆弾にならない。再処理前の使用済み核燃料は数秒間被曝しただけで死ぬほどだが、再処理後は微力なアルファ線のみなので、Puを紙一枚の手袋で持ち上げてもOK。ただし手に傷がある人はダメ(1983-7)。
Mig-25のエンジン取り外しに2時間かかった。これは前線整備は考えていない(1983-9)。
ウスチノフ国防相は、パーシング2に対しては全面対米核報復をすればよいとする政治家。オガルコフは、対米第一撃武装解除が不能である以上、通常戦力を重視せよという純軍人(1984-7)。※つまりウスチノフは米ソ戦などありえん派で、オガルコフはやらねば派だった。
昭和60年度から首相官邸に工事するキャプテンシステムは要するに各省庁のデータベースにすぐアクセスできるというだけのもの。ランドコーポレーションや英戦略研究所の日本版と言えたのは、満鉄調査部(1984-6)。
国際通信の紳士協定では、通信の意識的なツー・ホップ(転電)は禁止。しかし英国は伝統的に転電を武器に国際通信シェアを拡大してきた。インテルサットの回線利用シェアも日本の3%に対し12%ある(1984-6)。
トルコは「もしイランが、イラクはもちろんクウェート、ヨルダンなどに侵攻すれば、一戦も辞さず」と凄味をきかせている(1984-9)。
南アの白人科学者が、南アが黒人だけに致命的なウィルスを研究してナミビアの刑務所でテストしていると国連機関に内部告発(1984-9)。※ディスインフォメーション?
オガルコフはロシア語を話せない低学歴の兵隊は役に立たないと強調。ソ連ASATはECCM上、レーダーホーミングから赤外線式に代えたとたんに命中率悪化(1984-1)。
ウォールステッター、ヒッチ、カーン、シュレジンジャーが、ゲーム理論に基づく「警告→エスカレート」主義を生んだ張本人。いずれもランドコーポレーションに拠点あり、マクナマラ時代に国防省の高官に任命された(1984-2)。
ミニットマンのサイロをマルパクしたのがSS-13のサイロ。イリューシン86はB-747のコピー。イリューシン76はC-141のコピー(1984-4)。
長野県では教育委員会ではなく校長会が教員人事権をもつ(1984-4)。
フランスの現在の核戦力増強計画によれば、4000km以上級核ミサイルのRV数は90’s初頭までにいまの三倍の500個となる。ちなみに米のINFは572基だ。
西独に対する攻撃に仏がどう対応するかはわざと不明瞭にしている。不明確戦略という。フランス独自の核抑止力「フォルス・ド・フラップ」。米が大量報復戦略を柔軟反応戦略に変えたとき、ドゴールは米の傘を離脱し、核武装した(1985-7)。
プルトニウムを使うW82(155ミリ砲用の中性子砲弾、長さ85センチ)は、1960’s配備のW48の代替だが、1発300万ドルもするのを陸軍は1000発要求し、1986から欧州に配備の予定。203ミリ用の新弾頭はW79。
1945に原子力の文民管理原則をトルーマンが定め、製造から引き渡しまでエネルギー省原子力委員会が専管し、軍はアクセスできない(1985-11)。
1977-3にソ連は200浬漁業水域を設定し、日ソ漁業条約は廃棄され、オホーツクとベーリングのサケマスは全面禁漁だと通告された。同年、オホーツクから米東海岸を狙えるSS-N-8×18基積載のデルタI、II、III級原潜が、太平洋海域に初めて姿を現す。
1986-2に底刺し網が全面禁止に。また樺太東水域での着底トロール禁止。1985は196隻のトロールと110面の底刺しが展開していた。
1982頃はペトロにデルタ×10隻いたが、作戦待機海域は中部太平洋だった。
85-4、サハリン東の穏やかな海で深度350mのそこびきをしていて「網が深みに落ちた。船が回らない」と僚船に伝えて沈没した第71日東丸124tは、おそらく原潜により引きずり込まれた。太さ5cmのワイヤーロープが、全長2kmの中央部で切断されていた。同海域は86年に「着底トロール禁止区域」となる。
アメリカは1981-11に『オハイオ』をワシントン州バンゴール基地に置いた翌年、北洋米海域でのズワイガニ漁を禁止している。米国防総省は、有事にはソ連SSNがバンゴール周辺に機雷をしかけるだろう、と予測している(1986-5)。
1986-2のパリにおける独仏定期協議で、ミッテラン大統領は、仏の抑止用戦略兵器をドイツ領土で行使してもよい、と宣言。その場合、西ドイツとは事前協議するが、決定権は仏にある、と(1986-4)。
▼『明治記念帖 乾・坤』大3-3?
秋田の小坂鉱山の銅山精錬所の写真。藤田組。
ちゃんと煉瓦煙突をナマコ丘の上に建て、下の工場から煙路でつなげている。
日立鉱山の写真では、阿呆煙突がモクモクと……。その左には大煙突が建築着工されている。大煙突基部へは∧形に下から煙路を這わせてつなげている。
ムカデ煙突はそのずっと左にY字形に見える。※よって『日本の高塔』のキャプションは間違っていました。スイマセン。