摘録とコメント(※)

▼ハーバード核研究グループ『核兵器との共存』
 1974フォード大統領がSALT-IIをあきらめたのは、もしソ連と合意が成立すると共和党の大統領候補に指名されないおそれがあったから。
 ダレスは、ソ連の西欧電撃戦だけでなく、他の方角に対する小規模侵略に対しても米国は核兵器を使うかもしれないことを暗にほのめかした。
 1957から62年にかけ、米の戦略兵力の拡張は緩慢。弾頭総計は、55年が2000発、62年で4000発である。
 1960にペンタゴンは初めて、SIOP(統合戦略計画)をつくる。すなわち、ICBM、SLBM、爆撃機の調整攻撃マニュアル。
 インストラクションとストラテジーの違いは、後者は、使わないことも含まれる。
 62年マクナマラのアンアーバー/ミシガン演説でカウンターバリュー(対工業力)の伝統が大転換、以後、米の核攻撃戦略はカウンターフォース(対軍隊)に。※カウンターパワー(対権力)の発想が甘ちゃん夢想家の米人には無かったのが共産主義との戦いでは致命的に不利となった。戦争が政治だと理解していないから、無生物を相手にしようとする。
 1960’s初期、flexible response 戦略が米政府により採用され、67にNATO正式ドクトリンとして承認される。
 1961に米は、政府の意見とは独立の「軍備管理・軍縮局」をつくる。
 ピークの年だった1958には、4日に1回の大気圏内核実験があった。63年、部分核停条約。そこで63にもピーク。爾後、核兵器開発は3年間、停滞する。
 60’s後半、B-47の全部とB-52の半分を退役さす。
 1970’sはランチャーもメガトン数も60’sより減り、命中率指向が明確に。
 キューバ後、ソ連は年率3~4%で国防費を増し、60’s後半に劇的に強化。1966のICBM292基が70年には1300基となり、米を抜いた。SLBMは1974まで抜けず。
 ※質的、つまり核ミサイルの信頼性や確実性や即応力の面ではソ連は米国を抜いたことはなく、じつはベトナム戦争末期でも米国がソ連に核戦争で敗北するおそれはまったくなかった。問題は、MADによる抑止を現実として受け入れるか否かの、精神衛生上の価値判断に尽きていた。これを受け入れない、すなわち、万一抑止が破れたときの米国都市民の被害を限りなくゼロにしようと動いたのが、トライデント+GPSという先制カウンターフォース能力の革命と、レーガン大統領のSDI構想の組み合わせだった。
 60’s後半、ソ連ABM、地下壕、SAMは劇的強化。B-52対策も。国家の「耐核性」を獲得す(p.148)。
 1960’s中頃、マクナマラは、軍事予算シーリングの正当化のため、「確証破壊」なる説明を用いるようになるも、SIOPはカウンヌーフォースのまま。つまり、予算上、十全なるカウンターフォース(第一撃のみによる勝利)を実現できなくなっただけ。
 1930に米が、62にソがスパイ衛星を飛ばす。1969SALT開始、72に妥結。衛星で監視できない戦術核は、交渉対象にならず。
 1970から米によるMIRV化はじまる。ABM突破が目的。70年の4000発が、77年の8500発に著増。60’sは全く数が固定だったのに。
 ソは1970’s中頃からMIRV付き新世代ICBM(SS-17~19)をつくり、弾頭数で77に米を抜く。ただしSLBMのMIRV化は70’s後半までできず、ポセイドンによる米優位をゆるす。※けっきょくSLBMでソ連が米国を脅威することはその後もなかった。
 70’s中頃、バックファイア展開。以後の交渉の争点に。
 1970’s初め、シュレジンジャー国防長官は「限定核オプション」を強調。弱さゆえのエスカレーション理論だった。
 SALT-Iの特徴。ABM、中共の核装備を背景に、ソ連は競争を休む必要を感じた。米は爆撃機を対象外とすることに成功。
 米市民はABMを嫌った(p.155)。
 70’s後半、500基のミニットマンIIのうち300基が、出力2倍、精度向上型に更新。
 1980カーターの「リターゲティング」「相殺戦略」「CキューヴドI」「長期核戦争」ドクトリン。シュレジンジャー案に手を加えたもの。
 B-52は、1956~62年にかけ、対ソ大編隊の戦列に並べ終える。
 1977、SS-20の欧州配備。
 デタントのおわり。1970にソ連はアンゴラへキューバ兵を送り込む。フォードはSALT-IIを一年凍結。78、ソ連はエチオピアへキューバ兵を送り込み、カーターの足をすくう。79-9、キューバ駐留ソ連旅団が問題化、SALT-II調印遅れ、3ヶ月後、アフガン侵攻を見る。
 包括的核実験禁止条約交渉は、1982-7にレーガン政権により正式打ち切り(レーガン戦略は81に示された)。
 1962が米核兵器の出力総計のピークだった。
 ソ連のブラックボックス性は、Bomber、ICBMで劣勢の60’s前半には、幻のギャップを信じさせ、大増強しているさなかの60’s後半は、逆に過小評価をさせた(p.172)。
 1962のICBMの平均出力は、米が1Mt、ソ2Mt。1982ではその四分の一。
 WPの戦術核は、危機の際、ソ連から空輸される(p.208)。
 米は1982には6000の核弾頭を欧州の70箇所に貯蔵しており、危機の際には、それを300箇所に分散する計画(p.258)。
 1960’sのソ連ICBMは、目標の1マイル以内には命中できず、5Mt×4発を以てやっと米サイロ1基を破壊できた(pp.267-8)。
 ※つまり7割以上の確実性で敵目標を攻撃したければ同時に4発を集中せねばならない。数千発の弾頭があっても、じっさいに破壊しつくせる目標数はその四分の一以下でしかない。核大国といえども、カウンターフォースを採用する以上は、核弾頭は決してあり余ってはいないのだ。核兵器はいささかも絶対兵器ではない。石原慎太郎世代にはなかなかこれが分からない。
 1960’s後半、米巡航ミサイルがBMに代替さる。
 ICBMサイロの電源は数日間しかもたない。
 米は交渉を通じてソ連のSLBMに対する依存度を高めさせようとした(p.301)。※GPSとコミでないソ連のSLBMはまったく信頼性がなく、かつ西側の圧倒的な対潜作戦力の前に脆弱。だから米としては都合がよいわけ。げんざいロシアはSLBMを事実上、捨てている。
▼倉田英世『核兵器』
 1956-9仏の原発運開。
 1960-2-13仏の初の原爆はプルトニウム型。
 1963、実用原爆の量産態勢。
 1968-8-24水爆実験成功。
 U-238は高速中性子で核分裂を起こし、U-235は低速中性子で核分裂を起こす。高速中性子の数はたくさん得にくいから、U-235がたくさん必要。
 U-238が低速中性子を吸収するとPu-239に化ける。だから、低濃縮ウラン235を核燃料に、ありふれたU-238を壁材に用いた幼稚な原発→最初のプルトニウム原爆、というのが最も楽なコースになる。
 Pu-239も低速中性子で核分裂する。
 核融合は、DやTなど軽い元素の原子をクーロン斥力に逆らってくっつけるために高熱を必要とすることから「熱核反応」とも呼ばれるわけ。
 Dの生産単価はU-235の三百分の一で、出力は1000倍。
 融合反応で飛び出す中性子は、分裂反応から出る中性子よりも3倍も速い。よって、U-238の分裂や、中性子爆弾に使えるわけである。
 3F水爆は、U-238がLiDより安いので最も安価。
 ガス遠心法は、6弗化して気体化したウランを遠心分離し、軸側に集まる軽いU-235を次々とふるいわけて濃度(純度)を高めていく。これはガス拡散法のような、フルスケールの工場運転は必要としない。少しづつ、こっそりと造ることができる。※だからシナは最初の原爆がウラン式だということを米に対して隠すことができたのである。
 原子炉を数週間だけ運転したところですぐ停止させてU-238を取り出すと、核分裂性のPu-239がいちばん多く手に入る。時間をおくと、分裂しないPuの仲間が増えてしまう。※そこで米国が三菱と日立にライセンスを渡している2系統の商業原発は、炉全体をバラさない限りU-238を取り出せない設計になっている。これだと衛星からの監視が容易である。
 使用済み燃料からPu-239を取り出すことを再処理という。U-235は物理的濃縮(遠心もしくは拡散法)しかできず、面倒なのに比し、Puの取り出しは化学的な溶媒抽出でよいため、簡単。
 Pu-239は70%純度(通常発電所から取れる)でも兵器化はできる。
 Dは天然水を遠心分離して得る。Tは原子炉内でLiに中性子を照射して作り出す。
 放射線は光速である。中性子は、その半分~数百m/secである。
 γ線は高密度物で阻止する。中性子は、水素、炭素など低密度物でよく阻止される。
▼高榎Ibid.
 ローレンス・リバモア研のシミュでは、5~20発の中性子爆弾で、ソ連の1コMDを破壊。旧来核では10~40発要した。中性子爆弾の威力は現在の1Ktが最も良い(p.173)。
 トルコ、英、伊が受け入れたIRBMを、ノルウェーとデンマークは拒否(p.177)。
 ダレスは1957-10に「大量報復」をひっこめ、ペリフェラルな限定核戦(キシンジャーに沿うもの)に傾く。
▼ゴールドシュミット『核開発をめぐる国際競争』
 米国が、イランやトルコに対するソ連の進出の意図を未然に封ずることができたのは、核の独占のため。
 ネヴァダ核実験は1951から。はじめは戦術核のために新設された。※満州の中共軍をやっつけるための小型弾頭が多数必要になった。それがたちまち完成したので毛沢東も戦争を諦めた。
 1953にカナダで新ウラン鉱脈が発見され、ベルギー領コンゴ(1960閉鎖)やカナダの初期ウラン山(いずれも寿命尽きかけ)に代わった。
 1950年以来、米英は5000万ポンドを南アに投資してウラン採鉱を振興した。1958~60の最盛期には、年間に投資額に等しい売り上げ。これはgold収益の四分の一に相当した。
 ベルギーから昔買ってあったウラン10トンと、ノルウェーから供給された重水、数トンで、フランス最初の3基の実験重水炉ができた(p.153)。
 英仏採用の天然ウラン型動力炉は、プルトニウム生産炉から発達したものである。
 他方、米ソの濃縮ウラン型動力炉は、原潜エンジンから発達した。
 トリウムは、インド、ブラジル、マダガスカルに豊富にある。
 1957-12-16、スプートニク打ち上げ後の初のNATO首脳会議(於パリ)で、米国は、ミサイル発射基地の設置を受諾する同盟国に対しては、核爆弾を米国の管理の下に置く中距離弾道弾の供与を提案した(p.202)。
 英国が戦時中に支出した資金は、20億ドルに及ぶ米国の投資の約百分の一に過ぎなかった(p.74)。
 日本政府から在モスクワ大使館あての電報の件は、ポツダム会談が始まる前に、ワシントンには知られていた。この電報の内容は……天皇制の維持に対する保証を正式に宣言することによって……日本を即時降伏させることができると……数ヵ月来説得に努めていた国務省の一部の説の正しさを裏付けるものであった(p.94)。
 1944年、ボストンのある地質学の教授が、20年も昔の南アフリカの文献中に、トランスヴァールの金鉱石の中にウラニウムの存在を示すものがあることに気がつき……その結果、幾つかの鉱物標本は、微量のウラニウムを含有していることが発見された(p.119)。
 戦後、たいした費用をかけないでウラニウムと金を同時に分離する新しい化学的処理法が完成するに及んで、この発見はさらに重要性を帯びたのである。
 プルトニウム生産炉で1947年、照射により黒鉛が老化し、機械的なひずみが生じたので修理したが、1948まで正常運転できなかった(pp.119-20)。※チェルノブイリもこれが疑われた。
 カナダは、ウラニウムや、重水炉の使用済燃料棒を米国の再処理工場におくって抽出されたプルトニウムを米国に売却し、米国の核軍備に直接貢献する立場にある(p.121)。
▼ヴァルター・マルムステン・シェリング『戦争哲学』S17、原1939
 ※モラルを道徳と訳しているので話がおかしいところがある。またruleを何でも「法則」と訳しているのではないかと疑われる節もある。
 カントは「判断力批判」第28章で、戦争は一民族の考え方を高める、と。
 ヘーゲルは戦争についてはただ「法律哲学」324節で触れたのみ。
 カルル・リンネバッハ:「我々は一つの命題に対して反対の命題──然もそれは別な箇所で言われている場合が多い──を探し出す時にのみ、クラウゼヴィッツを理解することが出来る」(第14版索引の序文)。
 シャルンホルストはシュタインの社会改革をプロシア軍制改革のベースと見た(p.303)。
 デルブリュックは『戦術の歴史』の中で、14世紀はじめの火器が騎士をおわらせたのではなく、15世紀末の農民槍兵こそがその原因と主張。
 ゼークトは少数精兵主義。そして、同じ立場の「イギリスの軍事著述家」がある、と(p.315)。
 デルブリュックは、クセルクセスは百万の兵など率いてなかった、と疑う(p.358)。※明治期の日本の参本が編んだ日本古代~近世の戦史が非実証的な出来なのに比し、その手本とされたデルブリュックの欧州古代戦史は、このような疑問のオンパレードである。ただし、現代の常識から過去を安易に断定するというトルストイ氏流だが……。
 pp.407-12、435-6、445-6、465-6が、国会図書館の本では欠損。※おそらく共産主義等に関する陸軍省の検閲の結果。
▼『入営者必携 模範兵講習録 第4号』日本国防協会、S5
 陣地戦で突撃すると景色が同じなので必ず迷子になる。WWⅠでは磁石が必携だった。そこで俘虜が多かったのは欧州兵が弱いわけではない。
 空砲にモノを装填して発したもの→陸軍刑法の「違令の罪」。
 陸軍懲罰令。「免官は其官を免じて一等卒となし、降等は一階級を下す」。
 重営倉は、まともな飯と寝具が三日に一度。軽営倉はそうではない。
 教化卒は、兵器はもたせられず、外出もできない。
 諸令。特別大演習はD対抗。特種演習は、特別陣地攻防演習が主。
 金鵄勲章は軍人のみ。
▼滝沢正勝 ed.『入営準備 模範兵講習録』第2号、S5
 朝鮮、台湾、関東軍の三司令官は、天皇に直隷している。
 「陸軍教化隊」は姫路10Dの管轄。
 冬は6:30AM、夏は5:00AM起床。
 三八式歩兵銃の表尺鈑は400~2400米。
 軽機は左上方にタマが偏り易い(p.66)。※11年式のこと。
 ひとさし指をゆるめると、LMGは故障おこす。
 肉眼でパイロットの帽子が見えたら、高度200m。
 「間の外」から撃突する剣術。
 騎兵の「なみあし」は100m/分、伸暢駈歩[しんちょうかけあし]は420m/分。それ以上を襲歩という。
 日露役の沙河会戦で滝原三郎少将は、砲は前進するより長射程であることが有利だと痛感した。
 太田道灌は、浜辺の千鳥の鳴き声が次第に遠くなるのを聞いて潮の干いたのを察知した。陣中勤務では次のことを心得よ。
 埃の低く濃く起きているのは歩兵前進。
 埃の高く薄く起きているのは騎兵前進。
 埃の高く濃く断絶するのは砲兵前進。
 虫の声やんだら潜行兵。
 敵国住民が傲慢で勢い込んでいるのは近くに大敵兵あり。逆ならば敵兵少なし。
 飛行機工場勤務兵は自由が多く、安全なので、だらける。
 騎兵砲兵用の馬ははじめから軍馬補充部で育てたものだが、輜重の馬は壮馬を購買するので、御し難い。
▼大井成元・口述『メッケル将軍の思出』S14-5月、軍事史学会
 桂はパリに自費留学しようと出かけたが、ドイツが包囲中のため、ベルリン留学に変更した。
 大山は同じ船でフランスに調査派遣させられたが、両軍の士官を見比べて、仏側が恥なくたるんでいるのをみて独に傾いた。
 陸大以外の要職者も参謀旅行に参加させた。
 将来の独仏戦について、M26頃メッケルは、プロイセン陸大教頭として次のように講義した。とかく指揮官は敵の築城に吸引されがちだが、それは少数で監視せしめ、主力はパリを目指すべきである、と。それでそのための陣地線一点突破がさかんに研究された(pp.34-5)。
 「要するに将来の戦術は機動にあり」(p.35)。
▼嘉納吉彦『日本航空燃料史』1956
 ※資料として一級である。
 S6の上海事変では、30%混合することにされていたベンゾールがストックなく、海軍機は苦しんだ。
 そこで代りに四エチル鉛を使用開始。ベンゾール同様、これもS7に米から輸入。 
 S7に海軍は佐世保、横須賀にベンゾール貯槽を急増設。※まだ霞ヶ浦にしか航空機がない頃。
 初のオクタン価測定機材も米よりS8に輸入。
 当時、米の最高オクタンは87だった。
 北樺太オハ原油は、潜水艦用の重油にはなったが、航空用には年間1200キロリッターしかならぬことが分かった(p.14)。
 しかし中支渡洋中攻用にはオハ加鉛(74→92オクタン)使用オイルも特製。当時、米は100を輸出中。
 水噴射はアンチノック剤代わりに使える。重クロム酸カリ0.3%混入で防錆完璧となり、メタノール50%混合で不凍となる。噴射は高ブースト時のみ、燃料よりやや少ない量、行なう。
 この装置のために噴射式気筒をS18から造らねばならなかった。
 S19には全エンジンの三分の一が噴射式となる。
 燃焼のend-gasをかきまわす等して冷却すれば、「機械的に」オクタン価を高めることができる。
 揮発油の燃焼には3.5倍の酸素を要するが、アルコールは2倍強で済む。酸素消費量あたりの発熱量は、アルコールが上なのだ(p.123)。
▼白樺会『北樺太に石油を求めて』S58
 大15~S18まで、ピーク時には内地と同量、31万トン/年の原油を海軍に納入した。しかし大14で自主採油はなくなった。
 油田はロシア人が自噴しているのを早々と発見しており、1885にはその開発を考えていた。
 ちなみに千島・樺太交換条約は1875である。
 日本が北樺太に油田があるという事実を承知したのは、迂闊千万にも1905に陸海軍が北樺太を占領した際のこと。英ではとうからこの油田に注目していた。※テディが樺太占領を日本に勧めた理由も、とうぜん、これであったろう。
 ニコライエフスクの騒ぎの波は北樺太にも及んだ。日本の会社は一時全員、南に避難した(p.10)。
 利権回復後、ソ連はこの油をすべて極東で消費したようだ。
▼榎本隆一郎『回想八十年』S51、原書房
 米と違い採油量の少ない日本では航空ガソリンは分溜だけでは量があつまらず、イソオクタン(メタン原料の航空燃料)の合成をしなければならなかった(p.135)。
 水からガソリンをつくる怪人のエピソード(pp.136-7)。
 関東軍は満州事変後のS7年6月頃、燃料(石炭・石油)、鉄鉱石、アルミニウム原鉱石の三部門の調査を企画した。
 石油は内蒙ジャライノールがかねてから有望とれさていた。※だから田中隆吉?
 満州での試掘は失敗。石炭と油頁岩のみ有望と判断された(p.142)。
 ※じつは北支~満州の油田はシナ人とアメリカの石油会社が合同で綿密な調査をすすめており、石油がどこにたくさん出るかもほぼ判明したのだが、それを日本に知られればすぐに占領されてしまうので、シナ大陸に石油はまったく出ないという偽情報を広めて、米資本は一時撤退したのである。これを日本の敗戦後に中共が占領する。
▼成田精太『ソ連國力の解剖』S24
 モスクワ炭田の1940採炭実績は1300万トンだが工業用に不適。
 WWII中にモスクワから210工場を移転した。
 戦時中に沿ヴォルガ工業地帯が台頭。ウラル=沿ボルガ油田の1938生産高は130万トン。戦中に500万トンに達したかも。1941末クィブィシェフ遷都。
 ウラルでWWII中に全武器の4割を造った。
 コーカサス油田は1945に1100万トンと産油半減。1937には2100万トン。
 グローズヌイ&マイコップ油田は、占領、破壊、移転で壊滅。
 WWII初期ドイツの石油消費量は1000万トンで、ソ連よりずっと少なかった。
 ウラルの軍需生産はWWII中に6.6倍に。
 WWII英米の対独空爆は1500km以上飛ぶことはなく、1200~1300kmだった。
 ミンスク=バラノウィチ鉄道は最もパルチザンにやられた。ヴァルダイ高地からレニークラヴィッツじゃなかったレニングラド辺の湿地と、ピンスク~キエフ湿地は、春季泥濘化し、大軍移動困難。
 6-22は東部の雪溶けすぎの最大限早い時期。ヒトラーの侵攻開始予定日。
 例年ソ連工業は1~3月に鉄道フリクションのため生産下落、4~6月に回復する。
 1940のイラン縦貫鉄道は、バンダル・シャプール~テヘラン~バンダル・シャー(カスピ沿港)まで1394km単線で、機関車×109両、貨車×1350両だった。トルコからも単線。
 ヴォズネセンスキーによると、戦時、春蒔の労量へらすため秋蒔作物が増加された。
 戦中、英は在外資産売って財政賄ったが、ソ連にはシナ朝鮮の鉄路と東欧にしか在外資産なし。
 1939、人口密度はウクライナが一番高い。
 医員は1940でも76%が女。42年は83%だった。
 戦後ドンバス炭鉱の復興に7年かかった。食糧作物に変えてしまった綿畑復旧も困難。
 WWIIウラルでは兵器に必要な圧延鋼に傾斜。
 帝政時代、火力発電は液体燃料とドンバス炭使用。
 1937ごろ100気圧ボイラー設置。
 1949末のTD54型ディーゼルトラクター以前のトラクターの大部分は石油(ガソリン?軽油?灯油?)で、これを重油(軽油?)に替えて30%燃料節約と。
 ソ連では軍人の衣食は軍事費ではなく個人消費に勘定(p.309)。
 兵器バイヤーは政府なので価格を上げずに、経営を補助金で維持させる方針が、1949からはメーカー採算を強化する方向に変わり、兵器が値上がりした。1949-3-10ズヴェーレフ財務相。
 1948末までの兵器買い付け値は1939のまんま。1946末に軍人サラリー上げる。