武藤章の南京攻略構想の謎

 「当時中支那派遣軍は前述の如く自ら兵站機関を持たず、南京までの距離は図上直距離でも上海から四百キロメートルはあるし、松井大将の持っているものは単に鉄道一聯隊と通信隊若干及び偵察飛行二中隊に過ぎなかった。我々参謀はもし南京まで追撃するとせば如何にしてこの困難を克服するかに就て、苦心惨憺たる状況であった。」
 ――これは『軍務局長 武藤章回想録』のp.80に見える、巣鴨で武藤自身が書いた手記の一部である。
 この昭和56年刊の文献、なぜか武藤本人の手記の部分までもが、旧かなでなく、旧漢字でもなく、また、当時の中将が「情況」ではなく「状況」と書いたか? ……等、不審な点も、ある。
 が、「四百キロメートル」は原文のままだろうと信じて、以下を書こう。
 たまたまわたしはこの部分を、2月25日配信分の「読書余論」のための抜書き作業をするなかで、見直したわけだが、ある人に対し、この箇所の記憶を受け売りして、「上海と南京の距離は400kmあったのですよ」と説明し、そのあとから、「待てよ」と思った次第だ。
 400kmといえば、「東京→大阪」間の直線距離に10km足りぬだけだろう。荷物いっぱいの歩兵たちにとっては、ものすごい距離ではないか。まして馬で曳いた野砲はどうやって南京城壁までたどりつけたのか?
 そこで地図で確認してみると、果たして、上海と南京の間は、どう測っても直線で270kmくらいでしかなかった。これは「東京→名古屋」の直線距離よりも数キロほど長いだけだ。
 この「上海→南京」を、直線でなく、右往左往を重ねたところで、どうしても400kmにはなるものでない。
 しからば全体、400kmという数値はどこから出てきたか? ひょっとして、それは「青島から南京まで」の直線距離ではないだろうか?
 蒋介石はさいしょ、上海ではなく、青島に総攻撃をかけそうな動きを示した。それで武藤は、敵は青島の日本人を鏖殺するための総攻撃をかけるだろうと判断し、逆にその青島から南京まで攻め返す策の案出に、よほど没頭していた時期があったのではないか。
 さもなくば270キロを400キロと間違って記憶していた理由は説明されにくかろう。
 なお当時、「青島→済南→徐州→南京」と、迂回的ながら、一本の鉄道が通じていた。またこの鉄道に並行して、有名な「大運河」も機能していた。輸送動脈が十分にあったから、蒋介石も、青島と上海ならば数十万もの大兵を集中させやすかったのである。日本軍側から見れば、その輸送路を逆用して、敵に反撃できる。
 蒋介石顧問のドイツ人は、まず青島を攻撃するという気配を示して東京の注意を青島にひきつけ、急に裏を掻いて上海の日本人を屠ろうと考えたのかもしれぬ。陽動策としてこれは合理的だったろう。
 さて今年は南京陥落70周年紀年だそうだが、そんなことはアメリカ政府も去年から分かっていた。日本人は当年の当月にもならないとまったく危機感を抱かぬ太平楽民族だが、異国人はそうではない。前々年から対策の世話焼きを始めているのだ。
 そのひとつが「靖国では黙れ」というワシントンから日本国総理大臣への指令だろう。
 これは、ブッシュ政権が北京中共の味方をする気になったものでは全然なくて、その逆である。アメリカ政府は、シナ政府の南京プロパガンダに、今年は日本政府に代わってカウンター工作をしてやろうと思っているのだ。だから宣伝下手の日本人がノイズを上げると、足手纏いの邪魔にしかならぬから、とにかく靖国では黙っていろというのだ。「日本政府の大衆宣伝は、無策もしくは下手すぎてもう見ていられない」というところだろう。
 もちろんクリント・イーストウッドの硫黄島映画は、この南京大屠殺のrevise運動、カウンタープロパガンダ工作の一環にすぎない。
 〈イーストウッドが南京映画を撮るぞ〉――というガセは、ブッシュ政権の企図に早々と気付いた北京の工作係が、イーストウッド氏を貶めるための苦し紛れの中傷の試みだったのだろう。
 アメリカが先手をとっている。この大きな、しかしシンプルすぎる構図が見えていないのは、日本の阿呆評論家たちだけだ。
 北京指導部は平均的日本人よりはるかに利口なので、アメリカ政府の決意に気付いている。たちまち、彼らは弱気になった。彼らは「30万人」説はアメリカ国内でアメリカ政府の誘導により疑問が呈されると予感している。しかし「20万人~10万人」説も譲ってしまうと、東京裁判はデラタメな裁判であって後世を納得させ得ないものであることが、世界に認知されてしまう。
 北京は、南京プロパガンダがアメリカ政府の妨害で今年の秋に不発に終わった場合、東京裁判そのものの神話的権威がなくならないように、どうすればよいか、そのフォローを、もう考え始めている。