旧軍はいつから陽明学徒になったか

 ツアーご参加の皆様、お疲れさまでした。
 雨の中で山道を間違えたり(本当はあのコースのまま前進して良かったようです)、いいかげんな解説をさんざんいたしまして、恐縮です。
 また、いろいろ、お土産も頂戴し、ありがとう存じます。
 そのお土産の中に『日露戦争物語』というコミックスのvol.14~vol.18もありましたので、珍しく思い、拝読をさせていただきました。
 じつは去年頃から、人生の残り時間を計算しまして、いまのうちに長い古典の原文を読んでおかねば、こんご読む機会はますます半永久に来なくなるだろうと悟りまして、かつて以上に古典ばかりを読み進めておりまして(岩波文庫の『源氏物語』全六巻は、やっと今週読了したところです)、新刊やマンガを手にとるのは久しぶりでした。
 それで改めて感心を致しましたのが、明治32年に秋山真之が海大の山屋他人に書き送っていたという、黄海海戦の批評です。
 秋山はその中で「……拙速を貴ぶ戦役を長引かしめたる戦略的原因は……」と書いているという。
 ご承知のように、『孫子』のテクストには「貴拙速」とは出てきません。では、その非合理的なレトリックを、いったい誰が最初に言い出したのかにつきましては、『軍学考』その他でも何度か論及を致したところです。
 後代に至っては、王陽明が『武経七書評』の中で、『孫子』「作戦第二」(=作戦篇)の解説文の冒頭に「兵貴拙速。」としていたのが、幕末以降の日本人に大きく影響をしたのか……とも想像するように、最近はなりました。(この出典について愚生に教えてくださったのは大場一央氏です。)
 また丸山敏秋氏は雑誌『正論』の平成18年4月号上で、昭和13年制定の陸軍の『作戦要務令』にも「各級指揮官の攻撃部署は特に拙速を尚び……」とあったことを教えてくれています。
 東郷元帥も引用した「勝ってカブトの緒を締めよ」の諺は、『甲陽軍鑑』に頻出しておりますので、初期の海大では参考書として『甲陽軍鑑』がかなり尊重されていたのではないかとわたしは愚考しているのですが、『甲陽軍鑑』はいうまでもなく陽明学流とは志向性が違っております。
 「勝ってカブトの緒を締めよ」と「兵は拙速を貴ぶ」の間に横たわる懸隔・飛躍は重大でして、この遷移をあとづけてくれるような資料はどのくらい見つかるのだろうかと漠然と期待しながら、気長に古本などを読んでいるところであります。
 さてついでながら……。
 『日露戦争物語』vol.18中の、秋山テクストの現代語訳ならびにルビに二、三の意見があります。
 「断案」は、「自分流の研究はやめます」という意味ではなく、「自分なりに考えた結論」という意味だと思います。
 「時宜」のルビは「じぎ」と思います。
 「與りて」のルビは「あずかりて」だろうと思います。
 梶原一騎氏は歌舞伎や文楽の台本をじゅうぶんに読み込んでいた人であろうとわたしは勝手に思っております。古典の日本文のリズムに通暁していませんと、マンガの台詞だって、どうしてもそれらしい格好はつかず、幼稚で浅薄なキャラクターしか、描けぬのではありますまいか。「しょせんマンガ」ではないのです。