『愛と伝説のチャック・ノリス』

小崎さま
 どうもご苦労さまです。
 脚本家が作画について指南するというのもベラボーな話ですから自制して参りましたが、ご要望とあらば私見を陳べます。
 一般に、次のようなことが言えるかと存じます。
一、「アップ」のコマと「ロング」のコマが妥当な比率で混ぜられていないと、読者は、その場面の臨場感(人物の空間的配列)をリアルに意識することができない。
二、同じ「アップ」にも、変化を加えるべきである。人物一人の正面バストショットばかりが、立て続くのでは、人物の顔の描き分けに非凡な才能あるプロでない限り、幼稚な作風だという印象を与えてしまう。
三、同じ人物のアップでも、アングルを変えることができる。鳥瞰、俯瞰、あおり、ローアングル、背中、後頭部、手首だけ、靴だけ……etc.  モデル人形を使った角度別の見え方写真集も、デザイナー御用達の参考書店に、ありますよね?
四、「はなはだしい前景」と「はなはだしい遠景」をひとつのコマの中に描き込んでしまうことによって、平面の中に、かんたんに奥行きとひろがりを表現することができる。その好個の参考作品は、江戸時代の浮世絵です。
五、たまには「大きなコマ」を使い、その中に3個以上のフキダシを入れることによって、ひとつのコマの中に複数の時制を共存させることができます。台詞量が多いときはこれで流れを圧縮し、メリハリをつけ、スピード感を維持することもできます。アメコミが参考になる。
 以上をお読みになり、ぜんぜんピンと来ないという場合には、いっさいを打ち忘れ、すでにお描きになっているラフのまま、ひたすら作業を進捗させて下さい。
 なお、Google の「画像検索」の方法をご存知なければ、近くで、知っている人に尋ねてください。「湯島聖堂」「関帝廟」「道教」などのキーワードを試してみてください。そこからたぐっていけば、何でも出てくる筈です。
 それから、東京の「船の博物館」とか、大阪の「交通博物館」に行かれますと、たぶん、古い貨物船のカッタウェイ模型などが陳列されているはずです。
 また、大都会の大きな洋書専門店に行き、Ship 関係のコーナーで戦前の輸送船の写真集を捜索されては、いかがでしょうか。模型雑誌、または艦船専門誌に広告の出ているマニア向け洋書店なら、足を運んでみて損はしないはずです。
 以下、余談。
 日本の母船式遠洋捕鯨は「ノルウェー式」なのであって、明治以降の輸入品にすぎず、アイヌ人の鮭とり漁のような日本の「伝統文化」にはあたらない。
 沿岸に迷い込んだ海洋生物を六尺褌の男たちが捕獲するなら「伝統」だし「既得権」でもあろうが、遠洋に出て海洋資源をとりまくる伝統文化などは日本にはなかった。
 他国の庭先の公海でなんらかの権利を主張したいならば、その近場の他国には「どうぞ」と言わせ、他の世界の百九十数カ国(いずれも公海に対して権利をもつ)をも得心させるに足る、有効な道理の裏づけを有しているべきである。
 1850年代にアメリカ合衆国は奴隷制を容認していた。大国が自国内の人間の権利すら責任をもって保全しない、そんなおそるべき時代に、動物福祉は世界的な関心事とはなり得なかった。
 米国で南北戦争が終わると、英国でいちはやく、馬車馬のあまりな酷使のされ様に、都市民が不快感を表明する時代がおとずれた。〈人の次に、動物〉――なのは、人道の自然な進歩である。小説“Black Beauty”が書かれたのは1877であった。
 ちなみに1940の“Lassie Come Home”は米国作品であるが、著者は英国生まれであり、やはり英国での実話に基づいている。
 ヒトは、動物性蛋白質の摂取ゼロだと、健常に成長し活動することが至難に陥る。したがってヒトの生存は、太古から、他の動物を殺すことの上に確立されてきた。
 ノルウェー人アムンゼンは1911年に南極点に到達する。彼らノルウェー隊は、移動手段として犬橇を使った。往復の途中で、弱った犬は次々に屠殺し、他の犬の餌にするのだ。英国人にはこのマネができず、スコット隊は初めエンジン、ついで馬に頼ろうとして、大失敗した(全員凍死)。
 しかし、ノルウェー人であっても、西洋人には「クリーン・キル」の文化があった。人間は、必要があって動物を殺す。……である以上、その動物を殺すときには、なるべく苦しめるべきではないのだ。手際よく殺すべき義務がある。
 同時期に南極大陸に上陸した白瀬隊は、西洋人たちから顰蹙されていた。彼らはペンギンを半殺しにして放置してなんとも思っていない、とリポートされてしまっている。そしてなさけないことに、白瀬隊は、そうした流儀のどこが批判をうけるのか、感づいた様子はない。今の「2ちゃん」バカ右翼と同じ、閉ざされたローカル部族レベルにあったのだ。日本式仏教は動物に対する人道上の無関心をむしろ助長したのだろう。
 山本伊左夫師から教えを賜ったところでは、げんざいの米国各州では「大物猟」のハンターには、ライフル/ショットガンとは別に、ハンドガンの携行が認められる。しかし、ハンドガンでさいしょから大きな動物を狙い射つことは、私領地でもない限り、禁止されているはずである、と。なぜならば、エネルギーの弱い拳銃弾では、大型動物は即倒せず、「クリーン・キル」という人道上の大原則に反するからである。
 先にある都議会議員(民主党)にうかがったところでは、品川の屠場では、このクリーン・キル(対象は豚と牛)は、ほぼ理想的に達成されているようであった。しかし全国の都市と田舎を均したとき、日本の動物福祉の意識レベルが高いと、誰が言い切れるだろうか。西欧では2001年よりも前から、自分が口にしている豚肉が、はたして人道的な肥育を経たものかどうかに、高い関心が喚起されている。豚を主人公にした映画が制作されてきたのも、この運動と無関係ではないのだ。
 日本で飼い犬の扱われ方がマシになってきたとわたしが感ずるのは漸くここ数年にすぎない。以前は全国どこでも、みじめなつながれ方をしている番犬を見かけないことはなかった。(公園に毛を棄てる公共心ゼロな住民もいなかったが。)
 他人が所有し飼っている動物が、同じ社会の中でいかようなコンディションに置かれていようと、自分の目に入らず、また自分の口にする豚肉等が安ければそれで構わぬと、人道を捨象した価値判断を下しているへたれの反社会人たちが、「犬を食ってる奴らよりはマシ」だとか「ミンク鯨が減ればイワシが増えて良い」などと特亜工作員が書き込むのに喜んで便乗し、あたかも、何か勇気ある行為をしたような気になっているのが目下の段階だろう。
 最新のキャッチャーボートから撃ち出す電撃ハープーンが、すべての鯨種に対して必ず「クリーン・キル」になるという自信があるならば、「ハントの方法」についての非難には胸を張っていれば良い。しかしわたしは、この点も疑う。今の爆発開傘銛の装薬が最小限になっているのは、かつて、火薬の匂いで鯨体が広範に汚染されてしまうと、食肉として売れる分量が、それだけ減ってしまうという理由からであった。あくまで商売を優先し、クリーン・キルは二の次にしてきた歴史が、長いのだ。
 おそらく、十分なクリーン・キルを鯨に関して担保しようとすれば、捕鯨は商業ベースには乗らないのではないか。
 豪州人の反発は、人の家の庭先で、外貨に困っていないはずの経済大国がわざわざ政府の資金を投じて野生動物を捕殺させていることにある。
 不必要な、趣味的な殺しに見えるのである。それが自分の家の庭先でなされていることが、我慢ができない。
 いかにも、これが必要なのは、天下り先を減らしたくない水産庁の役人と、その予算(国費)にむらがる利権グループだけだ。
 奴隷制は19世紀の米国の伝統であった。古代ギリシャ人にとっても良き伝統だった。では、その文化を今、世界で復活すべきだと叫ぶことは、説得的に聞こえるだろうか。
 西欧人は、食肉用の牛・豚・鶏の肥育法についてすら、ドラスチックな人道化の措置を講じようとしている。普遍的価値のリーダーシップをとっているのだ。彼らは「高い食肉・卵・乳製品」を、うけいれるつもりだ。「低廉で安全ならば、畜産動物の非人道的な肥育方法は不問に附す」と考えられる日本人よりも、人倫問題のはるか先を進んでいるのだ。日本の仏教界は、21世紀にも、西欧議会よりも劣後していることが判明した。
 日本の熱心すぎる調査捕鯨の結果、商業捕鯨が万一にも認められたりすれば、人口爆発中の複数の後進国が捕鯨に参加させろと言って来る事態が当然に予想される。ことに厄介なのはシナだ。南緯50度より南の海には、貨物船は往来しない。高度の技術をもつ国だけが、軍事的に利用してきた海域なのだ。ここにシナの捕鯨船が常駐するようになったらどうなるか。世界経営に興味のある者なら、その事態のヤバさが分かるだろう。先進国でありながら後進国の先棒を担ぐ日本が先進諸国から顰蹙を買うのは理由があるのだ。
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