2008年9月4日 函館7eゴンドラ 試し乗り

(2008年9月10日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
 横津岳の北麓、住所でいうと亀田郡七飯町東大沼に、「函館七飯スノーパーク」(旧名・函館七飯スキー場)がある。わたしは、この地名の「ナナエ」は、沿海州の「ナナイ族」と関係があるんじゃないかと疑っているのだが、まぁ余談だ。
 このスキー場は、従来、せっかくの観光資源を、冬しか利用してこなかった。多くの地元労働者と同様、兵頭はアルペン・スキーやスノボを嗜まないから、用の無い場所であった。
 しかし、もはやゴルフ客やスキー客ばかりを相手にしてイージーにガッポリ稼げる時代は過ぎ去ったのではないか――とすばやく時勢を見通したらしいホテル&観光開発会社が、営業多角化の一貫として唐突に、2008年夏シーズンにロープウェイ(循環式ゴンドラ)を開業したらしいことを、わたしは大沼プリンス・ホテルのロビーに置いてあったチラシで偶然、把握したのである。
 これは、うれしい驚きであった。
 さっそく、好天の日を選び、現地を偵察してみた。なにせ、HPやパンフレットではちっとも実態が想像できやしないのだ。

はっきりしない道標

 まず交通アクセスからリポートしよう。無料送迎バスがあるということに、わたしは現地に至って気付かされたのだが、それがどこを回って走っているのかは不明。地方の一住民のわたしとしては、とうぜんにマイ・カーでアクセスする。例によって、近所の石黒氏の仕事用の車に便乗をさせてもらった。
 函館市街から向かうばあい、国道5号線の、大沼トンネルの北側出口から、右折して、「大沼公園鹿部線」を、鹿部方向へと走る。
 途中に、ご覧の、デカい看板が立っている(この写真は帰路に撮影したため、矢印が左を向いている)。まさに、この看板の交差点で、右折する。(流山温泉にアクセスする左折路がある交差点まで行ってしまったら、それは行き過ぎだ。小学校よりも手前である。)
 なお、この看板の表示だと、ドライバーはここより2キロ先で曲がればいいのか、それとも、ここで曲がってから2キロ走ればロープウェイ駅に着くと理解すれば良いのか、迷うことだろう。この矢印の矢柄は、直角に曲げておくべきなのではないか?
 日本人がマニュアルや開発契約仕様書を満足に書けないという欠点は、日本語の助詞(テニヲハ)の規定力のあいまいさ(しばしば複数通りの意味解釈が可能であり、聞いた者が常にそのうちの一つであろうと判断し続けなければならない)に、遠因するのかもしれない。
 たとえば「街道でイク!」とわたしが叫んだ場合に、それぞれ聞いた人が、合理的と思えるコンテクストにあてはめて、あり得る複数の文意の中から一つを選択して理解するだろう。「で」という助詞ひとつに、じつにいろいろな含意を乗せられるようになっているからだ。
 このような日本語による生活にすっかり適応し切ってしまうと、たとえば看板の表記(カギ状になっていない矢柄を含む)が、どれほど外来者に曖昧な解釈をゆるす表記であるかという自覚や心配も、できなくなってしまうのかもしれない。

夏はやってないレストラン
山麓駅脇の食堂

 駐車場のすぐ脇にロープウェイの山麓駅がある。その山麓駅のすぐ近くに「レストラン」と「フード&ドリンク」という2つの食堂施設があった。「レストラン」の方は、写真の階段を見れば見当がつくように、積雪季用に設計されている。夏場は営業をしてないようだった。「フード&ドリンク」の方は、入り口に階段がないので、たぶん夏~秋専用ではないかとお見受けした。もちろん、冬も除雪して営業することは可能だろうが……。

ゲレ食メニュー

 これは山麓駅の乗り場に貼ってあったメニュー。「フード&ドリンク」なる食堂で提供されている品々のようだった。今回われわれは、現場からやや遠いプリンス・ホテルの「パン工房」(カール・レイモン直営店)のテラス席で昼食にしたので、体験はできなかった。

山麓駅のりば

 写真を拡大してスペック掲示を読むべし。かつてわたしは『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』という、今日では企画としてまず不可能なマニア向けハードカバー書籍を作った覚えがあるので、写真のような説明板を見ると、懐かしく、つらつら眺めずにはいられない。なお、このロープウェイは「交走式」ではなく「循環式」だ。あの本をつくったときには、「循環式」には個性的な味も無く、取材のし甲斐が無いと思っていた。しかし今回の搭乗で価値観が変わった。「循環式」は、任意の時刻に待たずに飛び乗ることができ、搬器(ゴンドラ)の中でファミリーがいくら騒いでもよく、しかも窓を開けて手や頭を出して写真撮影することができる。ゴキゲンだ!

途中からの眺め

 北海道駒ヶ岳の東南麓に、蛇行した川筋のようなものがみえるが、これは将来の噴火に備えた土石流阻止の工事痕だと思う。その周辺は広く無人地帯だ。北海道駒ヶ岳は、地下で恵山や恐山ともつながっているであろう活火山で、地表面は鎮静しているのだけれども、地震計には微振動が捉えられている。そのため、入山そのものがずっと規制されたままで、山麓の大規模観光開発も不可能になった。

遠くに羊蹄山

 視野をやや右に転ずると、内浦湾(太平洋)越しに羊蹄山まで望める。羊蹄山/ニセコ一帯は、いまやオーストラリア人に占領されつつあるらしいが、蝦夷の松島と呼ばれる大沼周辺には、シナ人/台湾人のパック・ツアー以外はまだあまり外国人を見かけない。

山頂駅に着く

 ロープウェイ業界では、そこがじっさいは山頂ではなくとも、高い側の駅を「山頂駅」と呼んでおくのが、ならわしである。搬器を降りると、係員が熊避けのベルを渡してくれる。皆がそれをガラガラ鳴らしながら散策していた。山頂駅およびその周辺には、売店は無い。

標高920m地点の案内図

 この案内図によると、七飯ゴンドラの山頂駅は標高920mに位置するようだ。そこから遊歩道(冬はゲレンデになる)を歩けば、さらに984mまで標高を上げられる。

展望の丘984m

 しかし残念なことに、横津岳の北の稜線の延長上に位置すると思われるこの「展望の丘」からの、大沼方向の展望は、植生にさえぎられて、あまりパッとしない。むしろ、ゴンドラの中からの眺めのほうが、パノラミックである。なお、「展望の丘」は、夏は運行していないチェア・リフト(確認しなかったが3~4人が横並びに腰掛けられるものだろう)の山頂駅の脇にある。
 このさい、ひとつ提案をさせて貰いたい。ホテル&観光開発会社は、この「展望の丘」から、横津岳の頂上まで、尾根線づたいの登山道(兼・クロスカントリースキーのルート)を整備し、横津岳の向こう側斜面のスキー場とも連絡すべきだ。冬なら羆も出ない。このように、「横のつながりオプション」をつけておくことで、利用客の方が勝手に面白い遊び方(orイベント)を創意工夫する。横断的利用の余地が大きいことによって、観光地の集客力は強化されるのだ。こういうことに、そろそろ地方の観光開発業者は気付いて欲しいぜ。

駒ヶ岳演習場と鹿部飛行場

 写真に撮っている辺り(駒ヶ岳の裾野)に、いまはほとんど使われていないと聞く陸上自衛隊の演習場があるはずだ。鹿部飛行場は、行ってみたことはないが、たしか本田技研と関係あり?

横津岳山頂とのつながり

 横津岳の山頂周辺には、国交省の航空管制用レーダーと、気象庁の雨雲レーダー等がある。(詳しくは、函館に引っ越した直後に自転車で探訪した折りの写真アルバムを参照されたい。)このアングルは、その諸施設を、尾根の北側から見上げていることになろう。

山頂駅外観

 2本の避雷針に注目。近くには、落雷で枯れたと思われる樹木も複数、見られた。かつて、四国の剣山のチェア・リフトを取材したときも、避雷木だらけでゾ~ッとしたものだ。

山頂駅脇から駒ヶ岳

 このロープウェイはまちがいなく、紅葉シーズンの新名所となるだろう。

空母からの発進

 循環式ロープウェイは、搬機がワイヤーを掴んで動き出すときの加速感が面白い。なお、ドアは全自動で開閉する。冬季は、ドアの外側にスキー板を差し込んで運ぶのだ。

小沼湖の鳥瞰

 小沼は大沼と水路でつながっている。その向こうに見えるのは、太平洋(内浦湾=噴火湾)。撮影時刻は午前11時半。

違う角度から位置確認

 これは同日の12時20分、小沼の対岸の「日暮山(ひぐらしやま)」の展望点(303m)に登って、東南東方向に見える横津岳の北麓一帯を撮影したものだ。スキー場の全貌は、くっきりとは望めていないが、だいたいこの写真の中におさまっているはずだ。


(管理人 より)
 ゴンドラには私は1度か2度しか乗った事がない。それは、それで良いのである。しかし、近日発刊の兵頭[座談会]本『零戦と戦艦大和』そして──兵頭本『新訳 名将言行録』。これは、1度といわず2度でも3度でも読まねばならないのである。ここを閲覧するような兵頭ファンの皆さんも、勿論そうしますよね?


零戦と戦艦大和 (文春新書)


[新訳]名将言行録 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち

” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) “

(2008年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) “

(c)Hyodo Nisohachi & Kosaki Takeshi

 マンガ『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』の英語版 :” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) ” (c)Hyodo Nisohachi & Kosaki Takeshi を、無料でリリースします。

●日本の皆様向け ご挨拶 /兵頭 二十八(原作者)

 かねて期していた通り、2008年8月8日から同月24日まで開催予定の北京五輪に合わせて、マンガ『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』の英語版をインターネット上で無料でリリースできることになりました。
 このような変則的な派生プロジェクトに賛同してくださった「(株)マガジン・マガジン」様には、あらためまして深甚の御礼を申し上げます。

 英文は兵頭が一人で書いております。内容は日本語版とは違えております。
 「この表現は変ではないか」と思われた方、どうか、各自のブログでその旨を公開してください。あいにくわたしは「ファン・サイト」の「掲示板」等は、読んでおりませんので、ご承知ください。

 「オレならこの英文の台詞はこうするぜ」という意欲満々の方は、この無料公開ページをコピーし、それを元に独自にフキダシの中や絵のディテールを加工し、各自のブログ上で公開されてはいかがでしょうか? わたしはそういう試みを楽しみにしたいと思います。(改変された場合は、改変者の署名をお忘れ勿く。また、日本語バージョンでの改変はご遠慮ください。)

 なお、日本語版のマンガには巻頭に附録されております、兵頭二十八による「セルフ解題」ですが、この公開版の英語バージョンでは、読むことはできません。陸戦隊が撮影した戦場写真や、長春の凍死者捨て場の写真絵葉書なども、無料公開はいたしません。是非、それらは書籍を御覧ください。

 日本語版のマンガにご興味のある方は、まずは書籍をお買い求めください(ISBN 978-4-89644-673-9、(株)マガジン・マガジン発行、税込定価一千円)。
 あるいは最寄の図書館に「購入希望リクエスト」をして、お読み下さると良いでしょう。シナ政府の反日プロパガンダを日本の危機だと思う人は、積極的に、最寄の図書館の購入希望カードを活用して下さい。

 オリジナルの日本語脚本(ト書き指定から全部入ったもの)にご興味のある方は、「読書余論」の2008年6月25日配信分(有料:¥200-)で、全文を確認できます。このメルマガは、バックナンバーも単発で購読できるようになっています。詳しくは、メルマガ配信元の「武道通信」のウェブサイトhttp://www.budotusin.netでどうぞ。


” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) “

(c)Hyodo Nisohachi & Kosaki Takeshi

State Commanding Terrorism

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Aggression To Annihilate Alien Merchants

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Mobilization As Legal Defense

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Punitive Blow

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Capital Is Lousy

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(管理人より)

 ついに、市販されているマンガの英語版──なんてシロモノをupするに至った当サイトである。もう少しうまい公開方法などあるのかもしれないので、わかる方は教えて下さいね。 (全ファイルをまとめると結構な大きさになるので個別にリンク張ってます)


やっぱり有り得なかった南京大虐殺―1937年、日本軍は自衛戦争に立ち上がった (SUN-MAGAZINE MOOK)

青森県の「船の博物館」の珍しい展示品・その他

(2008年7月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2008年7月17日に、青森市のフェリー埠頭に隣接している「みちのく北方漁船博物館」に行ってみた。これは青函連絡船の『なっちゃんレラ』または『なっちゃんワールド』に乗る前の時間潰しの場所として、ファミリーであっても最適だ。

 その前にまず『なっちゃんレラ』について説明しておこう。
 さいきん青函連絡航路に投入された最高36ノットの最新高速フェリーで、船体はアルミ合金。推力はウォータージェット。「レラ」は「連絡船」の略なのだろう。ベタだ、
 離岸してから接岸するまで正味2時間。その間、子供に窮屈な思いをさせずに済むので、引率者としては、飛行機や列車よりも有り難いのである。
 今年になって姉妹船の『なっちゃんワールド』も就航したから、時刻表的にも頻発となった。
 船体はSWATH型。原理的に揺れを抑え、なおかつフィン・スタビライザーで不快な船酔いをしなくて良いようにしている。20年以上前の「青函連絡船」とはもはや別次元に進化を遂げていた。17日に海峡内で前線に突入して横風に吹かれたときだけ、ちょっと揺れを感じた。

 ところで、東日本フェリーのウェブサイトでは、『レラ』に乗るにはいったい何分前から車で埠頭に集合していたら良いのかが、さっぱり分からない。
 わたしの16日朝8時発便の体験では、函館港のフェリー埠頭において、出航時刻の約23分前から2輪車の搭載が始まり、約18分前からトラックの搭載となり、約15分前から乗用車の搭載となった。だから25分前に着いていれば余裕だと思った。逆にそれ以上早いと、車の中で何十分もじっと待機していなければならなくなり、子供連れでは困ったことになる。(ガラスのピラミッドのような客船ターミナルは、徒歩乗船客の待機場所であって、車両ごと乗る人は、距離的に、そこを利用できない。青森の埠頭では、歩いて往復できる距離だが……。)

 ただし、オン・シーズンで車両数が多いときは、この時間繰りは違ってくるのだろう。
 乗船手続きは、15分前までにしないと、締め切られてしまうそうだ。当日にすべての申し込みをするならば、出航時刻の40分以上前に到着する必要があるかもしれない。しかし、5日以上前にインターネットで申し込んでコンビニで運賃も決済してある場合は、自宅のプリンターで出力した紙をゲートでかざせば、瞬時に乗船手続きが済む。その場合は、出航15分前にかけつけても、なんとかなるのであろう。
 係員は埠頭のあちこちにいるので、分からないことは、何でもその場で訊ねれば良い。

 昔は「二等客室」といったらもう座敷にザコ坐りで、あちこちの隅っこでテレビが大音量でつけっぱなしで、まるで〈災害避難民があつめられた地元の体育館〉のような雰囲気だったのだが、『レラ』の船内はすべて「椅子(指定)」であって、かつての連絡フェリーの雰囲気は払拭されていた。テレビも無い。それがすばらしい。
 しかも、よほどのオン・シーズンでない限り、人はガラガラ。指定と無関係に利用できる、両サイドのスペースの窓際ベンチ(テーブル付き)や、最前方のひろびろとしたスペースの長いソファに勝手に座って飲み食いしていれば、2時間で対岸に着いてしまうのだから、昔に比べると天国のようなものだ。
 それでも酔いそうな人は、前方ではなく、両サイドの窓際から外を見ていると良い。自分が移動していることを視覚的に把握しやすい。正面の海を見ていると、移動実感はほとんどない。
 離岸してしばらくすると、後部デッキ(オープンエア)にも出ることもできる。ただし悪天候時はドアが開かないはずだ。
 キッズルームもあるが、これはあまり広くないうえに、馴れた乗客のオッサンが昼寝スペースにしている場合がある。幼児を寝せたいときは前方のソファがいいだろう。
 人の目をはばからずに堂々と寝て行きたい大人は、ビジネス・クラス(昔の一等~特等客室)の高い切符を買えば、大きくリクライニングするシートを独占できる。たった2時間であるが……。

 さて、「みちのく北方漁船博物館」だ。
 ここは、青森のフェリー埠頭の前の道路へ出ないで、埠頭敷地内を自動車で青森市街方向、つまり西の方へ移動すれば簡単にアクセスできる。歩いてもそんなに大した距離ではない。目印は「船の博物館」と書かれた展望タワーである。もちろん道路からでもアクセスできる。

 特に皆さんが興味のありそうな、ロシア製の折り畳み鉄舟(一人乗り)と、アムール河水上警察のモーターボートの写真を掲げておく。
 折り目のところでどうやって防水しているのかは、確認をし損ねたが、写真で見ると、ゴム板を打ってあるようだ。銘鈑で読める通り、ノビォシビルスク製。
 ここは「漁船博物館」というよりは、《世界の雑舟コレクション館》で、他にも、かなりレアなものが転がっている。

 「ベトナムのザル舟」の実物まで蒐集されていた。わたしはこれを見て初めて、民話の『かちかち山』のルーツを悟った。
 皆さんは「タヌキの泥舟」という話を聞いたことがあるだろう。しかし、「泥で舟をつくる」という発想が、いったいどこから出てくるものか、疑問に思いませんでしたか?
 どうやらそれは、ベトナムであった。やはり日本人のルーツの一つは「呉・越」のあたりにあるのだ。
 ザル舟は、割り竹を編んで円い椀状にし、その網目に、牛の糞にゴム樹脂とサメ脂をよく捏ねあわせたものを、摺り込むように塗りつけて、その上からコールタールでコーティングする。これで、8年間も防水が保たれるという。完成品は真っ黒である。知らない外国人がその表面を見たら、まさに泥でつくってあるように見えるだろう。
 佐渡の「タライ舟」の前に、古代日本人が「ザル舟」の知識を、日本の現地で得られる材料だけで、なんとか再現しようとしたことがあったのではないか。しかしそれは、失敗したのだ。それが『カチカチ山』のタヌキの話となったのかもしれない。

 この博物館には、手漕ぎ舟体験プールという屋外設備が附属していて、もし転覆しても溺れ死ななくて済むような浅いプールで、いろいろなボートを漕いで遊ぶことができる。雨が降っても遊べるのかどうかは、不明。しかし屋内だけでも1時間以上は飽きることはないであろう。

 余談だが、今回は、「浅虫水族館」と「夜越山森林公園」と「モヤヒルズ」にも足を伸ばしてみた。
 青森県営の浅虫水族館ではキッチリとイルカのショーをやっていた。それはもはや全国の水族館のデフォルト・スタンダードなのであろうが、すばらしいのは人の少なさだ。混雑した水族館ほど、ファミリーとしてくたびれるものはないですからね。穴場だった。内部は近年にリニューアルしたと思しく、開設年の古さを感じさせない。
 規模の豪快さでは小樽水族館に、また、アトラクションの多彩さでは苫小牧水族館に負けているけれども、「疲れない」という点で、ホッと気の休まる場所であった。
 なお、水族館内には広い休憩所があるが、食堂はない。しかし駐車場に面して複数の民営食堂が営業していた。

 「モヤヒルズ」は朝9時台に到着したところ、まったく営業が始まっていない。よって、30分くらいで退散。観光ガイドブックに写真が載っている「ウォール・クライミング」は、小学3年生くらい以上でないと、遊びようがないだろうと思った。
 「サマータイム」とか言う前に、観光県の半官営施設が、積極的に、夏季は朝8時からスタンバイするように心掛けなきゃ、どうしようもないでしょ。「朝からやってるなら立ち寄りコースに入れてみようか」と考える人がいるはずなのだから。
 「24時間をいかに売ろうか」という発想が、ダメな観光地には、どうも無いようだ。都会から来る人は、「24時間をいかに買おうか」と考えて来ているのに……。
 もし雨になった場合は、近くの屋内施設である「ねぶたの里」に行こうと考えていた。ねぶた祭りを体験できない観光客に、疑似体験をさせてくれるスペースになっているようだ。しかし今回は偵察をしなかった。ここは朝9時オープンだと書いてある。

 夜越山(よごしやま)には、サボテンの温室と洋ランの温室がある。無料ではなく、ゲートで大人ひとり300百円がかかる。冬の悪天候時の観光コースとしては、悪くないかもしれない。しかし夏に子供を遊ばせようとしたら、ここじゃないだろうと思った。

 オマケ写真は、浅虫温泉の「辰巳館」の3階バルコニーから陸奥湾を写したものだ。正面が「湯ノ島」、右手の独立岩が「裸島」である。中央に「海づり公園」が写っているけれども、利用者は誰もおらず、見かけた2~3人の釣り人は皆、無料の岸壁から竿を垂らしていた。
 青森のねぶた祭りが始まる直前のタイミングであったせいなのか、ガソリンが値上がりしているからなのか、どこへ行っても観光客は少なかった。
 この辰巳館には昭和39年に火野葦平が投宿したときに描いた色紙がある。木造の本館が建てられたのが昭和13年だそうだから、支那事変の2年目でも日本人は田舎の温泉へ汽車で旅行していたことが分かる。
 目の前の「陸羽街道」(国道4号線)は、30年くらい前にはなかったのだろう。扇状に引っ込んでいた海岸線を埋め立てて直線的な道路をつくったのだ。これで浅虫温泉の風情もブチコワシとなった。ダンプカーや大型トレーラーが通る音が鉄筋のホテル内までよく届く。遮音しようとして雨戸を閉め切れば、むろん眺望も遮蔽される。
 たぶん辰巳館の主人は、旧館(本館)の手摺り付きの和室からの眺めが忘れられず、RCで新館を建てるときにも、わざわざ各室に手摺り付きのバルコニーを付けたのだ。しかし道路がこんなに五月蝿いと分かっていたら、別な設計を選んだかもしれない。
 かつての雰囲気の片鱗でも味わおうと思って朝4時台にバルコニーから海を眺めていたら、沖合い遠くから、イカ釣り船のエンジン音が、けっこうな迫力で聴こえてきた。

なっちゃんレラの船内
アムール水上警察用ボートの運転台
2台並べ
モスキヴィッチ1500ccエンジン
なぜか英語の銘鈑
重さ23kg折り畳み鉄舟×2
折り畳み鉄舟
浅瀬用にウォータージェット型もあるという
鉄舟内部
辰巳館3階からの湯ノ島


(管理人 より)

 私はいまだに東京より北に行った事がない。いつかもっと北へ行ってみたいと思っているが、機会があったらこの船にも乗ってみたい。
 ロシア製の折り畳み鉄船に興味のある方が一体どれ程いるのか私には皆目見当もつかないが、見る機会があればやはり、見てみたいのである。

細心かつ不敵な空き巣狙いについてのリポート/2008-7-19

(2008年7月19日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

●細心かつ不敵な空き巣狙いについてのリポート/2008-7-19/兵頭 二十八

 平成20年7月16日の朝6時半過ぎから、7月17日の夕刻5時頃まで、函館市美原地区の自宅を空けていた。夏休み直前で、旅費等が「オン・シーズン」価格になる前のタイミングである。出るときにうちの女房は、台所の窓の施錠を、しっかりしていなかったようだ。
 16日の昼頃、宅配便(光人社からのゲラ)が配達されたものの不在であったために、不在通知のスリップが、郵便受けに半分差し込まれた。〔あとできいたところ、『完全に投入されるとわかりづらい』という客からのクレームが多いために、常にそうしているのだとのことです。〕
 自宅には玄関スイッチの自動点灯装置がないために、16日の暮から就寝時刻にかけ、普段は点灯する玄関前の蛍光灯は、消灯のままであった。屋内にも灯火なし。そして玄関前の駐車場には、いつもの軽自動車なし。またいつもの子供の騒ぎ声もなし。
 16日の深夜、ひとりの男がやってきて、針金とプラスチックのメッシュで構成されたフタ付きの軽量ごみ袋置き箱を踏み台にして、かねて目をつけていたトイレの窓から浸入しようと試みた。このトイレの窓は、夏は、深夜でも数センチ、開けていることがあるのだ。犯人は、それを事前に見ていたのだ。
 〔我が家は袋小路にあるのでストレンジャーが通りすがることはない。つまり男は夜間に自転車などで町内を巡回しつつ、かなりな遠距離から、家々の窓の施錠状況を目視し、記憶しているのか、あるいは近所の日常に溶け込んでいる、深夜徘徊常習者である。出撃拠点は安アパートと考えるのが自然だろう。〕
 しかし、トイレの窓の鍵はしっかりかかっていた。犯人の期待は裏切られた。〔このとき、ごみ袋置き箱は、男の体重で屈曲損壊した。よって以後は「犯人」と呼ぶ。〕
 次に犯人は、台所の窓の施錠状態を確認した。なんと、鍵はかかっていなかった。
 そこで犯人は、屋外灯油タンクの下に置かれてあった幼児用の三輪車を持ち出して、それを台所の窓の下の花壇に据えて踏み台とし、台所の窓から屋内に侵入することに成功した。〔この貸家を管理している不動産屋さんいわく、もし鍵が完全に閉まっていた場合には、窓をカットして入ったかもしれない、とのことです。そのような浸入盗はもはやめずらしくないとのこと。〕
 犯人はダイニングルームのサイドボードの最上段に置いてあった5つのポチ袋(お年玉入れ)に目をつけた。なぜ夏のいまごろそんなものが存在するのかはうちの女房しか知らないのである。ポチ袋の中には千円札が1枚づつ入っていた。犯人はご丁寧にもその千円札を抜き取り、ポチ袋を元通りに戻しておいた。きっと犯人の身長は170センチ以上あるだろう。さもないとこのポチ袋の存在そのものに気付きにくいと思うのだ。〔わたしはちょうど170cmだが、ポチ袋があったなんて知らなかった。〕
 次に犯人は、電話台となっている半透明の引き出し付のクリアケースの引き出しの中を、ひとつひとつ、確認してみた。そこには名刺入れなどがあったが、現金は無かった。犯人は、引き出しを元通りに閉めたが、子供のいたずら防止用のフックは、外したままにしておいた。
 次に犯人は隣の座敷(寝室)に向かった。箪笥の上に、事務用の透明なプラスチックの引き出し付きの整理ケースが鎮座している。いかにも『この中には通帳、印鑑、現金、へそくり等が収納されていますよ』とささやきかけているようである。
 犯人は周到にも、まず、座敷の窓の施錠を内側から外し、2重窓をそれぞれ数センチ、開けておいた。これは、もし誰かがやってきたときに、即座にそこからエスケープするための道を、準備したわけである。プロである。
 そしていよいよ、ささやきかけている整理ケースの中を確認にかかった。犯人はその中にあった複数の事務封筒の中を覗いた。合計6万5000円前後の札が見つかった。犯人は上機嫌になったであろう。現金だけ抜き取ると、丁寧に封筒と引き出しを元通りに戻した。
 ところでわたしは今回の旅行の途中で宿の払いに当てるためにわざわざ数万円のキャッシュを青森県の銀行のATMからおろすという面倒なことをしなければならなかったのだが、寝室に常時こんな大金が置いてあるのならば、なぜ女房氏はそれを持ってくることによってわたしの手間を省いてくれなかったのであろうか? その理由も、女房しか知らないのである。〔17日の帰宅直後、女房はそこに何万円置いていたかを把握していなかった。17日夕方の被害届け額は総計2万5000円で、18日に近くの交番に追加の届けを出した。〕
 この犯人は現金以外にはまるで興味がないようであった。カードや書類や現金以外の物品などからは足がつきやすい。また路上で現行犯逮捕されたときに動かぬ証拠となって即OUTだと分かっているのであろう。絶対にアマチュアではないのである。
 次に犯人は2階に向かった。そこには兵頭氏の仕事場があった。倉庫と化している押入れの引き戸は開けっ放しであった。その中に整理用の引き出し付きクリアケースがある。犯人はまず兵頭氏の蛍光灯スタンドの自在アームを高々と上に伸ばしてスイッチを入れ、クリアケースの中をのぞき、分厚い封筒の中身を確認したが、すべて古い手紙等の束やメモ帖であって、現金は無かった。犯人は、80円切手のシートにも興味を示さなかった。またパソコンのUSBにも興味を示さなかった。
 なぜこの部屋で蛍光灯スタンドをつけるという大胆なことができたかというと、この部屋は、1階と違ってカーテンが閉められていたからである。
 この2階の部屋で犯人は、物音を立ててしまった。兵頭氏が肩たたき用に買っておいた軽量な丸木の棒を、押入れの中間の棚の縁からフローリングの上へ落下させてしまったのだ。現金にしか興味がない犯人は、兵頭氏の部屋には現金の匂いがしないと的確にも判断し、そろそろ汐時と考え、1階に降りて玄関から出て行くことにした。
 ここで犯人は、予期せぬ事態に直面した。なぜか、ドアが、玄関の内側から、開けられないのだ!
 パニクった犯人は玄関脇のトイレにかけこみ、窓のカフェカーテンを引きむしった。しかし、なぜか犯人はそこでまた考えを変更し、そのカフェカーテンとレール棒をにぎりしめたままトイレから出て、トイレのドアを閉め、玄関のタタキに立って慎重に2重ロックを操作した。〔考えを変えた理由は、犯人のガタイがデカいからだと思う。トイレの窓は、身長170センチで体重63キログラムの兵頭氏には容易にすりぬけられるサイズだが、胴まわりがもっと大きければ、ためらうであろう。〕
 じつは、この貸家は建て付けが悪いのか、玄関ドアの2重ロックの1つが、外側からは、通常の力では、かけられない。そのため兵頭氏は、しばしば、1つのロックしかかけずに外出し、今回もそうであった。〔ちなみに警察官氏によれば、このドアロックはピッキングには強いタイプだということです。〕犯人はそんな戸別事情は知らぬから、2つのロックを旋回させた。すると、1つは外れるが、1つは逆にかかってしまい、内側から玄関ドアが開かないという理解不能な状況に陥るのである。しかしベテランの犯人は、落ち着いて考えてついに真相に気付いたのであろう。
 玄関を出た犯人は、台所の窓を閉め、窓の下で踏み台にした三輪車をきちんと元の位置に戻した。ところがカフェカーテンとレール棒をトイレに戻す気にはならなかったと見え、トイレの窓の下、ごみ袋置き箱の脇に、そのカフェカーテンとレール棒を投げ捨てて、現場を立ち去った。
 さて17日夕刻に帰宅した兵頭氏は玄関のカギが開いているので変だなとは思ったが、この家には盗むような価値のある金品はないと日頃からタカをくくっていたので、空き巣にやられたと最初に気付いたのは女房氏であった。それは台所のカフェ・カーテンが横にひきよせられており、なおかつ窓近くの物品も移動させられていることから、浸入されたと感づいた次第であった。〔人から聞いた話ですが、窓を出入り口にする泥棒は、窓の周囲のゴチャゴチャした物品が嫌いなのだそうです。よって読者の皆さんには、「水の入った倒れ易く割れやすいガラスの鉢植え」などをやたらたくさん並べておくことをオススメいたします。〕
 女房氏が110番通報すると、5分か10分くらいで2人の制服警察官がやってきてくれた。またそのあとから続々と、証拠採集の警察官氏数人と刑事までがやってきてくだすったのには、恐縮した。たまたま珍しく他に事件が起きていい日だったのだろうか? わたしは「被害はお恥ずかしいような小額です。他の重大事件でお忙しいところ、申し訳ないです」という正直な気持ちをその場で伝えずにいられなかった。これは本心である。
 わたしは今の日本の警察が人手が足らず、住民のわがままもあって非常に多忙であって、現場の警察官諸氏は心身ともにヘトヘトだと聞いているから、『まあこの程度のコソ泥事件では、1人か、よくて2人の警察官氏が、かたちばかり指紋採取をして、被害届けだけを受理し、そのままお宮入りとなるのだろう。それでも有り難いと思わなくては』と覚悟していた。けれども、そんな予断は間違っていた。北海道警察のモラール(士気)は、すくなくとも函館に限れば、尋常でなく高いと実感させられた。
 なにしろ体格がすばらしい。まるで選りすぐりだ。しかも、あきらかに長年、剣道や柔道で鍛えないとこういう手にはならないだろうなという手をしている。組織文化の厳しさは、やっぱり陸上自衛隊よりはずっと上だ〔話には聞いていたが、間近で観察する機会はいままでは得られなかったのです〕。
 若い警察官氏がキッチリと被害届けを作成した。先輩の警察官氏がその書式を指導していた。「このひとたちには大学院卒並と同じくらいの月給を支払ってやってくれ。定員も最低2倍以上に増やすべきだ」と、わたしは心から願うものである。
 コソ泥がつかまりにくい理由も、今回、呑み込めた。被害者が被害に気付いたときに動転してしまい、的確に「ここを触られていますから、ここの指紋を採っておいてください」と、警察官に指示できないわけである。警察官の皆さんも忙しいから、やってきてくれるのは、まず当日の1回きりだ〔うちは例外的に18日にも2名の警察官の方をわずらわせてしまった〕。
 あなたは110番通報をしてから約10分間のあいだに、自宅の外と内側を自分で丹念に見回って、泥棒の「動線」を再現することができますか?
 ここにおいて、なぜ犯人が封筒や引き出しや、浸入した窓を元通りにして去るのかも、理解できるのである。それはふだんボーッとしている被害者が被害に気付くのを遅らせ、また、被害に気付いたときの混乱を大いに助長する効き目があるのだ。そのため、浸入盗犯が証拠をいくつか残したとしても、その証拠を警察官が確保できる率は、すこぶる悪くならざるを得ないのだ。
 今回掲載する写真は、8月16日夜に函館市美原の兵頭の留守宅に侵入し窃盗を働いた(おそらくガタイの大きな)男が残していった明瞭な靴底の跡です。これをわたしが発見したのは18日の午前で、まったくの偶然からだった。
 この靴跡は18日に警察官氏がわざわざ写真を撮影し、かつ、泥も採集してくれましたが、初回通報のときではありませんから、わたしとしては、これが捜査の資料にはならずに無駄になってしまう可能性を懸念いたします。それで、わたしが独自に撮影したフットプリントを、地域の皆さんへの警報として、公開したいと思いました。
 手際の良い犯人も、これを拭き取ることは考えなかったようです。ちなみに、なぜか室内には泥はほとんど落ちていませんでした。

犯人の靴跡1
犯人の靴跡2
犯人の靴跡3
犯人の靴跡4
犯人の靴跡5


(管理人 より)

 自宅に入った空き巣狙いの足跡をup。それが高度情報化社会に生きる者の心意気なのである。嘘。
 そうはいっても、私は遥か大阪から、函館で絶対に許されぬ事をしでかしてしまった犯人が、逮捕されて懲役800年くらいになると良いなと祈っている。


予言 日支宗教戦争

台場山に砲台なんてあったのか? その現地検証

(2008年6月8日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

2008-6-3/兵頭&石黒

(兵頭二十八先生 より)
 川汲[かっくみ]峠、およびその脇500mにピークがある「台場山」(標高485m)は、函館の五稜郭から北東へ15kmほどの位置にあります。
 明治1年の10月(旧暦)、今の森町の「鷲ノ木」に、榎本軍の艦隊が、陸戦隊を上陸させました。
 土方歳三はそのうち400人ほどを率いて、太平洋岸を東進します。
 そして川汲温泉の下流で内陸方向に転じ、箱館へ通ずる峠道(今の道道83号線とコースが概ね重なる)をラッセルしながら南進し、旧暦10月24日に川汲温泉に投宿したといいます。
 土方は、まずそこを本陣にして、支隊を先行させ、夜のうちに、川汲峠に所在していた50人ほどの哨兵を鎧袖一触で追い散らすと、翌日、粛々と湯の川まで下りてきて、さらにその後に、榎本軍本隊が陥落させた五稜郭へ入城し、本隊と合流しました。

 その当時、新政府軍(含む、旧松前藩士)が、到るところに哨所を設け、哨戒・連絡用の役人を散開的に派していたことは、間違いがないでしょう。
 けれども、この土方軍のコース上では、土方軍との間には、ほとんど真面目の戦闘は生じなかっただろう、と想像することができます。

 といいますのも、まとまった人数の部隊を何日間も駐留させるだけの後方兵站を、準備できたはずはないのです。季節は、新暦だと12月初旬でした。当時の日本軍(武士団)は、精神面でも装備面でも、蝦夷レベルの寒気に負けてしまっており、集落を離れては、部隊の野営なんてできませんでした。

 土方軍が、川汲温泉を占領してしまえば、あとは、そこから函館市街の湯の川温泉まで、ほとんど山林ばかりで、ロクな人家もありませんでした。道路は、駄獣だけが通れる、羊腸の小径があっただけ。荷車など使えません。しかも積雪期です。川汲温泉以外、夜に寝られる場所は得られなかった。旧松前藩主体の新政府軍は、策源である箱館港から25km以上も山道を糧食や弾薬を運んでいって間道の防ぎを万全にしようという気に、そもそもならなかっただろうと思われます。

 おそらくは、川汲温泉以北の集落での防衛が失敗した以上は、川汲峠で400人からなる土方軍をくいとめようとも思わず、単に「物見」用の役人などを置いていただけでしょう。役所組織ですから、雑用係・荷物持ちも含めれば、50人くらいもいたのかもしれません。

 台場山は、別名「毛無し山」とも言ったそうです。いつからそう呼ばれていたのかが問題です。自然に尾根線に樹木が生えていない山は、道南のあちこちにあります。尾根より少し下がれば、樹木がある。炭焼き用の伐採や焼畑などの人為によるものではなく、ほぼ周年の自然の寒風が、内地人の想像を絶して酷烈なわけです。しかし台場山の場合は、哨所とするために山頂を伐採して、それ以後、「毛無し」になったのかもしれません。
 台場山は、ピークを「不毛」にしておけば、360度の眺望が得られました。しかも、川汲峠のすぐ脇にあるわけですから、この峠道ルートに一箇所、歩哨線を設けるとしたら、まさに屈強のポイントでした。

 しかし、例の「二股口」のような、陣地防禦に適した地形かといえば、大いに疑問があります。上述のように、後方連絡線が甚だこころもとないので、わざわざ築城をしてみたところで、弾薬・糧食の日常的な補給が得られません。もし敵軍により浸透・迂回されれば、簡単に後方策源から遮断されてしまう、そんな「孤塁」です。北から南へ攻めてくる、まとまった部隊を、ここで阻止しようと試みることは、合理的ではなかったでしょう。

 ですから、この台場山の山頂に、榎本軍が、新政府軍の逆襲に備えて、大砲4門を設置していた、とする函館市の歴史解説は、何かの間違いではないか、と兵頭は疑うのです。
 あるいは、山頂の人工的な窪地の痕跡が、四稜郭を想起させるため、つい、四稜郭の解説情報が、混入してしまったのではないでしょうか? 

 榎本軍が、川汲温泉に歩哨の1コ分隊を配して、2名くらいづつの輪番交代制で、台場山上から物見をさせていた、ということはあり得ましょう。
 さらに、山上に、旧松前藩の旧式大砲や大鉄砲を据えて、緊急連絡用の「号砲」としていた可能性もあったでしょう。つまりは狼煙の代わりですね。
 号砲であっても、いちおう大砲があれば「台場」と呼ばれたことでしょう。

 今回は、そんな疑惑の現地を、確認に出かけてみました。以下、写真でご報告します。

道道83号線の左入り口

 私有車で、函館市街から「函館南茅部線」を川汲方面へ走る。矢別ダムを過ぎたあと、道路の左側を注視して行くと、この「旧道」の入り口を発見する。(もし川汲トンネルまで到達してしまったら、見落として通り過ぎたことになる。)
 この旧道は川汲トンネルの開通前はバスも通っていたという。つまり、明治元年の駄獣道と完全に一致しているわけではないことは覚えておきたい。
 黄色い板に「4209m/20m」と書いてある標識は、尾根上のNTT中継所までの道のりを表しているらしい。上の数字が「のこりの距離」、下の数字が「すでに通過した距離」。だいたい200mおきに立っているので、よそ者のハイカーには心強い案内だろう。
 このゲートは鎖錠されているけれども、2輪車ならば支柱の脇をすりぬけることができる。地元民が、原付バイクで山菜を運搬しているのに、途中で擦れ違った。

入り口の看板

 見ての通りの注意書き。晴れた日であれば、マイクロ中継施設が山道から見えるようだ。本日は小雨で、山全体にガスがかかっていた。
 他に、熊が出没するので入山するな、という看板もある。また、「この道は夫婦で」云々という私設標識があるという情報を事前に仕入れていたが、今回、途中で目にすることはできなかった。

峠の道標

 「429m/3800m」という里程標識を過ぎると、まもなく、この道標が立っている。ここが旧「川汲峠」で、おそらく明治元年時の古道と、位置はそれほど違っていないだろう。

分岐点の看板類

 ここからは、舗装道路を離れ、未舗装の車道に入る。草露で足元が濡れるのを覚悟しよう。

第二の分岐点

 かつて登山者を迷わせたという、この白い標柱の矢印は、赤ペンキで抹消されていた。入り口まで200Mではなく、まさにここが入り口なのだ。抜き捨てた方がよいのではないか? 白い標柱の背面をみると、「H九 函館道有林〔管理センター?〕」と読めた。ここから、未舗装の車道を離れて、急斜面の登攀にかかる。

台場山山頂へ

 旧川汲山道入り口からここまで、野郎2人連れの足で、1時間強であった。
 3本の標識が立っているところが、台場山のピークだ。狭い。
 明治2年4月に土方隊が青銅砲4門の台座を築造したと書いてあるのが読めるが、土方隊がこの毛無山あたりから新政府軍の警戒隊を駆逐したのは明治1年であり、また、明治2年にあらためてここを「台場」にしたのは五稜郭の榎本政権であって、そのときは「土方隊」は関係はなかろう。
 4月9日には新政府軍が江差の北方の海岸に上陸しているから、榎本政権が焦っていたのは確かであるが、焦点はすぐに大野街道や木古内へ移ったはずだ。ますます、川汲峠に築城などしている暇はなくなったであろう。

山頂凹み

 山頂にはあきらかに人為的に「カルデラ湖」を掘って、その「外輪山」を胸壁にしようとしたのではないかと見られる痕跡が残っていた。しかし地積は著しく狭く、反動で後退するタイプの野砲を4門も密集させても合理的でなかったことは一目瞭然。小銃兵の配置や、操砲員が複数いることや、弾薬の集積場もかんがえると、今どきの迫撃砲サイズのものを1門置くのがやっとこなところで、それですら、戦術的価値は疑われただろう。

山頂から函館市街方向

 どなたか新撰組の愛好団体が立てたとおぼしい右の看板に「函館戦争の火蓋を切った地」と見える。が、大鳥啓介軍が七飯町の峠下(いまの昆布館があるあたり)で本格交戦をしたのが明治1年10月21日(旧暦)だったそうだから、そっちの方が早かったのではないか。
 ちなみに、近世以後~近代以前の日本の合戦の「夜襲」は、闇夜に火縄銃隊が照準もつけずにバンバンと撃ちかけて気勢を挙げて敵を退散させてしまうもので、鎗や刀で肉薄するようなものではなかった。これは『名将言行録』を精読すると、わかります。
 なお、「台場山」の看板の下には「火の用心」と書いてあったらしいのだが、既に判読不明状態である。

川汲温泉方向

 この500m下が川汲峠。そこから左へ4kmほど行けば、川汲温泉のはずである。小型の旧式大砲では照準すらつけられぬ距離だ。

外輪山の小ささを見よ

 こんなところに、いかほど小型とはいえ大砲を4門も並べたと思いますかい?

垣ノ島A遺跡から出土した足形付土板(大船遺跡の展示パネル)

 これはオマケ。川汲の近く、南茅部に、垣ノ島という地名があり(海の島ではなく川沿いにある)、そこから6500年前の縄文時代前期の墓が集中して見つかった。中に、嬰児の足型が刻印された土板が副葬されているのが判明した。こういう土板は、それまでも知られてはいたが、用途が不明であった。成人の骨とともに墓から出てきたことで、古代日本人の子煩悩ぶりがハッキリしたのだ。
 つまり縄文人は、自分の子供の足型を取り、その土板を囲炉裏で炙って固くし、それを自分が死ぬまで、竪穴住居の内壁に吊るして眺めていたのだ。そして40歳代くらいで本人が死んだとき、本人がずっと大切にしていた土板が、墓に一緒に投入されたのだ。
 腹が減ったら他人と子供を交換して食ったというシナ人との、何という差異であろうか。

鹿部(しかべ)間歇泉

 これもオマケ。鷲ノ木から川汲まで歩く間に、土方軍は鹿部温泉郷を通過したはずである。この間歇泉は大正13年の工事で噴出したものなので、箱館戦争当時にはなかった。

おしまい


(管理人 より)
 私は兵頭ファンである。
 兵頭本『[新訳]孫子―ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法』の2刷が出た事を全く、喜んでいるのである。
 既に兵頭二十八先生は知る人ぞ知る人物ではない。そして『兵頭二十八』は必ずもっと有名になると私は盲信しているのである。
 有名になっても全くビタ一文も私に得はない。それが私が純粋なファンたる所以であり、私はなんて良いヤツなんだろうと自画自賛したりもするのである。ともあれ、台場山に砲台なんてあったのか? それをアナタは知りたくないですか?


[新訳]孫子 ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法

函館山要塞のマイナー編

(2008年5月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(探索日=2008-5-18、with石黒氏)

(兵頭二十八先生 より)
 函館山要塞は現在、その約半分ほどが地元散策者のために整備・開放されているのだが、立ち入りが推奨されていない場所も多い。かつて函館市土木部のために要塞全域の図面を作った測量士さんの二代目氏を伴って、その現状を撮影してきた。(測量図はPDFになっており、コピーできます。)

ここに入り口が

 まずは、ロープウェイ山頂駅の横の展望広場。団体観光客が記念写真を撮るこのスポットに、地元民もほとんど知らない地下要塞への入り口があった。

STV送信施設脇

 この通り柵がしてある。

いったいこの先に何が

 この天井部分は、戦前はもちろんなかった。

真っ暗、照明なし

 懐中電灯なしでは咫尺を弁ぜず。

ダンジョンです

 要塞の中心的な司令所跡だけあって、廊下が広い。

こんなに広く

 行き止まり部分は、こんな風になっている。知りませんでした。

岬の端が鞍掛山

 次は勇躍、津軽海峡に最も近い高地へ向かわんとす。

七曲から鞍掛山へ

 登山道から少し逸れると、地元の人が山菜取りに往来する踏み跡があり、植生をかきわけつつそれを辿ると、まず戦前の炊事場もしくは便所のようなところを見る。

鞍掛にも砲座があった

 つづいて、重砲を1門くらい設置したと思しい砲座が。リセス部分は即応用の弾薬を並べるところ。近くには地下棲息部もあるが、見慣れた構造だったので、写真を省略。

函館要塞最南端の棲息部

 ここは、鞍掛山の尾根線の端、監視&弾着観測用陣地の真下である。

その内部

 たいした広さはない。哨兵が寒気や風雨を凌いだのだろう。

上がってみると、これだ

 いきなり崖っ縁! 海面までの落差113mである。これじゃ観光コースにはできないと分かる。

ここから海峡を見ていたのだ

 植生が繁茂しているが、これを刈り去れば、青森県の山まで一望であろう。

かつて有蓋たりし支柱跡

 たぶん戦中は、鉄板で天井をこしらえてあっただろう。したがって哨兵は雨ざらしではなかったはずだが、ガラス窓があるわけでなく、風雪の日は、眼鏡を持つ指が凍えてたいへんだったろう。

左はもう崖、火サスの世界

 監視&観測壕は、ご丁寧に複数のポイントに構築され、連絡壕で結ばれていた。

眼下に立待岬

 もしロシア艦隊が津軽海峡を強行突破しようとした場合、当要塞の備砲では、おそらく阻止できなかったろう。しかし敵に「通峡はムリだ」と思わせたら、用は足りたのだ。

七曲登山道入口の防空壕

 日露戦争中は山の下の方には「棲息部」など造らなかったから、WWII中に急遽、準備する必要を感じたのだろう。

鞍掛山は113m

 岬から見上げるとこんな感じで、尾根に要塞施設があるとは、分からない。しかし米軍の偵察機からは、バレバレだったらしい。航空写真も残っている。

おしまい


(管理人 より)
 私は、廃村ないし廃ビルを一つ丸々会場として使えるサバゲー場を作ればきっと儲かるんじゃないの?と信じている者なのだが──私はサバゲーを一度もした事がないので、単なるたわ言だが──こんな要塞が近場にあるのなら、きっともう少し利用価値などあるんだろうなあと思う。本当は全然無いかもしれないけども。
 因みに、サバゲーのインドアフィールドなら既にレンタルしている所もあって、そんなに大もうけしているようにも見うけられない。あらま。
 それでも函館山要塞、興味深い場所である事に疑いは無い。私は一度は観てみたいのである。

平成19年度・防衛省オピニオン・リーダー視察

(2007年10月26日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

平成19年度・防衛省オピニオン・リーダー視察
《三沢(空自基地)2007-10-18&八戸(陸自駐屯地・海自基地)2007-10-19》

八甲田-猿倉温泉 編

十和田バスから八甲田

 今回のツアーは個人的に10月17日、南八甲田の猿倉温泉から始めることにした。函館から三沢に直行する汽車の便が、入間からC-1が飛来するタイミングより2時間も早いものしかないため、わざわざ駅まで迎えに来て下さる基地広報の人たちに余計な負担をかけてはいかんと思ったわけ。前日に青森県内に入っておき、朝10時代の十和田観光電鉄で乗り込めば、C-1便の三沢到着とだいたい同じ時刻になるはずだ。
 青森駅前のバス停広場に、高速バス乗り場があって、その案内所(ここでも暇つぶしができる)で「十和田湖」方面行きのバス切符を買って12時発のバスに乗る。
 バスで猿倉に直行すると、着くのは13時23分となり、ちょっと早い。そこで12時59分に途中下車し、八甲田ロープウェイに初乗りと洒落込む。ここは、怪著『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』で無念にも取材をパスした、公共交通アクセスがあまりよくないところだ。山麓駅には常時、数台のタクシーも待機している上、レストハウスでチープなメニューを注文すれば長時間の暇つぶしができる感じだったから、安心だ。

RWから雲谷方面を見る
八甲田RW山麓駅
八甲田山頂の天候

【上からの紅葉】
 交走式のロープウェイが、このハイ・シーズンは15分間隔で運行されていた。13時ちょうどのには間に合わぬので、13時15分のに搭乗。搬機は100人ちょっとが乗れる、大型であたらしめのものだが、ホーム進入後の強制揺れ止め装置がない。そのため、昔のロープウェイと同じように、ホーム直前で大減速して、自然に揺れがおさまる間、ノロノロと徐行する。交走式の場合、これが最大回転率の制約となってしまう。とはいえ八甲田の場合、観光ピークは秋の紅葉時しかないから、余計な投資はできないのだろう。
 紅葉と海が一望できる架空索道は全国でも有数ながら、9合目くらいで雲の中へ突入。これが山岳観光の博打たらざるを得ぬころで、天気が悪ければもうどうしようもないわけだ。地元民はこのリスクを弁える。それで、八甲田よりも手前の「雲谷[もや]ヒルズ」のホテルが、陸奥湾の眺望と、当日の行動の選択自在度の高さの両狙いから、人気がある。

山頂駅から

【山頂駅】
 山頂駅から一歩出ると、霧の中だし、風は吹くし、気温は2.8℃と来た。頭の防寒装備の準備を忘れた小生は、荷物が重いこともあり、早々に退散することに決めた。なお、山頂駅にも軽食喫茶店があるが、15分待つのにコーヒーは無用だ。
 山麓駅のレストハウスで(たぶん業務用レトルトの)カレーライスを掻き込みながら時間をつぶし、14時39発の十和田湖行きのバスが来るのを待つ(この便を逃すと、次のバスは16時34分まで来ない)。驚いたことに、やってきたバスの運転士は、12時59分に降りた前の便の運転士と同じであった。青森から十和田湖まで3時間弱のはずだが、いったい、どんなシフトなのか?

バス停から猿倉へ

【舗装された小径】
 15時03分に猿倉温泉のバス停に到着した。バス停から400mくらい、ご覧のような舗装された私道(?)を歩いて下って行く必要がある。途中、乗用車が何台も上ってくるのだが、これは、15時までやっている「立ち寄り湯」を利用した観光客たちであろう。

猿倉コテージ外観
コテージ内1
コテージ内2

●猿倉温泉は冬は6mの雪に埋没し、休業する。本館の隣に離れ(コテージ)がある。中が左右に二分割されており、吹き抜け二階構造で、ロフトのような二階部分に寝台が並べられ、一階の裏口テラスに各固有のミニ露天風呂がある。硫黄臭く、スケール(湯の華)が混ざりまくりな「元湯」。しかし洗い場が吹きっ曝しなので、秋季は、単に身体を温め直すという用途にしか向かぬと思った。夏場なら、面白いだろう。なおわたしは「家族+嫁の母」で予約したが、当日に子供が熱を出してしまったため、けっきょく単身で大人3人分の料金を払ってここで一晩過ごす事態となった。テレビはあるが、映るのは無料BSのみ(ケーブル契約なし。なにしろ電灯線が引かれておらず、自家発電だ)。

猿倉温泉

●本館の温泉は、外来客の立ち寄りにも開放される露天風呂と、宿泊客が利用できる「まほろばの湯」(内風呂+露天風呂)があり、後者が断然オススメだ。深夜、男湯の露天風呂から、北極星を正面に、市街地の「光害」を受けない無数の「男の星座」を、怖いくらいに眺めることができた。

猿倉から南八甲田

【南八甲田】
 19日朝、猿倉温泉の玄関付近から望む南八甲田の尾根。ところでわたしは朝食の焼き魚にサバの切り身を使うような旅館の食事を褒めることはできない。サバを出すぐらいならメザシ一尾を出して欲しいとマジで望む(それに目下、サンマがものすごく安いじゃないか)。しかし今回は体調がいつになく良く、ペロリと平らげた。


【十和田バスから】
 前日に頼んでもらっていたタクシーに、朝7時45分に猿倉温泉から乗車し、「十和田湖温泉郷」のバス停に向かう。そこから十和田観光電鉄バスの、8時40分発の、電鉄十和田市駅行きに、乗ろうと思っていたわけだ。ところがタクシーは速く、その前便の8時09分発のバスが来る前に、「十和田湖温泉郷」のバス停へ着いてしまった。タクシー料金は¥4110- であった(ちなみに尋ねたら、猿倉から三沢まで、通しでタクシーに乗れば、料金は1万円くらいらしい)。このバス停には屋根付きの待合ベンチがある他、目の前がホテルなので、もし長時間待つとしても、安心である。なお、地元(焼山周辺)のタクシー乗務員は、八戸行きのJRバスには詳しいものの、十和田観光電鉄バスには至って無知なようだったので、三沢へ抜けようとする旅行者は要注意だ。十和田市を横断した印象は、非常に良好。ここも住むのに佳い場所であると直感する。


そして三沢基地へ

三沢基地-八戸基地 編

三沢旧海軍レール
廃線間際の三沢の鉄道

【三沢基地内】
 電鉄の三沢駅の改札に空自の広報班長の准尉が待っていてくださり、JR三沢駅の裏口から空自のマイクロバスで基地へ入った。ここで附言しておく。地方の駐屯地/基地におられる「広報班の准尉」には三自衛隊共通したキャラクターが歴然としてある。それは、若い時の職種とはまったく無関係だ。わたしなどは二士入隊した経験があるので、准尉といえば徒弟の親方で、どうみたって三佐以上の「神様級」ということがよく分かっているから、その人たちが愛想よく広報の接待をしておられることに、心から恐縮するのみである。滑走路に来たら、なぜかF-18が四機いて、それは昼前後に離陸して行った。入間からのC-1は、追い風だったのか、予定より早く駐機していた。
 ここに掲げる2葉は、廃線マニアのために記念撮影(10月18日)した。三沢基地は昭和13年から旧海軍が建設し昭和17年にオープンした基地で、戦前から省線の引きこみ線が敷設されており、これまでずっと利用されてきた。それが、とうとう全部、跡形も無く撤去されることになったと聞いては、どうしても撮影しておかぬわけにはいかないだろう。燃料輸送は、今後はタンクローリーだけでするらしい。自衛隊の敷地には、八戸港から地下パイプラインが通じている。

三沢のF-2スクランブル

【F-2スクランブル】
 三沢は沖縄や岩国と違って、狂犬(海兵隊)が住まないから、住民の基地感情は良い。数ヶ月前に退役空軍人による顔見知りの女殺しが一件あったものの、問題にされていない。しかし内部を一巡すると、小川原湖畔に米軍家族専用のプライベートビーチ(日本人漁民は接近禁止)が設定されておるは、米軍人専用の広々としたゴルフ場はあるは、で、あきれるばかり。ふた昔前の在日米軍人は貧乏人のオーラが出ていたが、今はメタボ家族の満足感に変わっていた。「間借り」の空自はなんとも肩身が狭そうだった。
 象のオリは現役であったが接近はできず。地下壕構造のSOC/DCは見学を許された(当然、撮影禁止)。セクターとは航空方面隊のこと(三沢は北海道上空を統轄)。ディレクションとは「あああせよ、こうせよ」である。北海道の西海上で実機を使って空戦訓練中の「味方」機に対し、地上から口頭の英語でリアルタイムに敵情および指示を送るという訓練をしていた。しかし東洋人の英語発音にうるさいオレに言わせると、こんな不明瞭な発音の英語を使うなら、断然、日本語で指示を飛ばすべきである。すでに隣室には業者が入って、バッヂ→ジャッジの更新設備中であった。
 F-2は、先般のボロ露探機のリレー追尾のため、やはりスクランブルしたそうである(アラートの役はF-4と週替わりになっている)。アラート待機要員のGスーツの裾には黒いフェルト(?)のパッチが当てられている。これは、大急ぎで狭い後傾コクピットに滑り込むため、擦り切れ対策としてパイロットが特注しているらしい。写真は、スクランブルの真似事(離陸せず)。これでも大サービスだろう。
 この前の三沢航空祭では、車輛にモデルガンを積んで入ろうとしたバカな日本人がいて、米軍MPに追い返されたそうである。また、過去に火薬を運んだことのあるトラックで入ろうとした日本人が、やはりゲートで追い返されたという。米軍の飼っている火薬探知犬が、その車両の前から動かなかったという。犬、えらい。
 犬といえば、三沢基地では米軍の歩哨は実弾警備だが、自衛隊は警棒だけ。それを補うため、ある箇所では警備犬を放しているようだ。

ホーク模型

【ホークのカッタウェイ模型】
 陸自の八戸駐屯地にはホーク部隊がある。最新バージョンはフェイズドアレイ・レーダーではないものの、その代わりに強力なビームなので、このパワーに勝てるECMは難しかろうとの話だった。敵機は百数十kmで発見し、40km以内で交戦する。もしSSMに転用すれば、射程のポテンシャルは60kmになるらしい。六ヶ所対空射場ではL-90の実射もやっている。
 そう、なんと、まだL-90が現役で岩手に1個ユニットだけ残っているのだ。全国の廃止部隊から、最も砲身の散乱度が少ないモノをカニバリズムで掻き集めて装備しているので、命中率は驚異的に良いらしい。敵の小型RPVへの対処にホークなんか発射できないので、近接信管をつけたL-90はまだ役に立つはずだというお話であった。(お恥ずかしい話であるが、小生は、日本のL-90は近接信管のついたタマは装備していなかったとばかり思っていた。この話は、かつてL-90部隊の指揮をしていたこともある現役将校から直かに承ったので、嘘ではあるまい。)その岩手のL-90部隊も、来年(平成20年)には、とうとう消える予定である。廃品のL-90は溶断してスクラップにされる。

対地ロケットの子弾

【空対地ロケット弾の子弾】
 ASR、つまり直径70ミリの空対地ロケット弾は、低空のヘリコプターから斜め上に向けて発射した場合のポテンシャルとして、射程が10kmにも達する。しかもその弾種は、1本から9個の子弾がバラけて落ちる、ミニ・クラスターである。子弾はご覧のように立派な銅板張りのホロー・チャージ(対装甲穿孔用途)で、しかも、筒体側面の内壁にはタテヨコに溝が切ってあるから、対人馬用の破片効果も十分だ。エア・ブレーキは、3本足のヒトデのような形態であった。信管はもちろん弾尾にある。このASRを日本の演習場で発射するときは、単射しか許されない。そこで、実戦的なバラージ射撃は、わざわざ米国の射場で実施するのである。

地上ランタン

【ランタン】
 画面左下に、白と赤のランタンが置かれている。これはAH-1が飛行場以外の場所へ夜間に降着するときに、あらかじめ地表で左右にならべておいて、場所を指示してやる器材。
 ヘルメットはズシリと重いもので、空中で機体の行き脚を減速させると慣性で首が前のめりとなり、筋肉がよほど疲労する由。また、双眼鏡形のノクト・スコープは、ほとんど、トイレットペーパーの芯から覘く程度の視野しかない。これでヘリを操縦するのは非常なストレスが伴う由。そりゃそうだろうと同情する。
 バイザーには右目専用のモノクルがある。これを下ろすと、ヘルメットの向いた方向にチン・ターレットの20ミリ・バルカンが指向されるようになる。つまり、前席のガナーがTOWを誘導中に、後部席のパイロットが、20ミリを発砲できるわけ。
 余談だが、雑誌の『TIME』の暴露報道によると、オスプレイはどうしようもない欠陥品らしいね。低空低速でエンストしたときにオート・ローテーティングにならぬ構造のため、乗員全員死亡まちがいなしだと。また、自衛火器として3銃身のキャリバー.50をチン・ターレットに装備し、それをコー・パイのバイザーで指向できるようにし、後部ランプドアの内側には7.62ミリ機関銃を1梃、装備すると書いてあった。

カトケンOH
OH-1尾部
應蘭芳OH
AH-1
OH-1[1]
OH-1[2]

【AHとOH】
 AH-1はガナーは機体左側から乗り降りする。しかしOH-1では、パイロットもガナーも機体右側から乗降。ちなみにOH-1では前席が操縦者で、後席が偵察者である(AHと逆)。もちろん、AHと同じく、どちらでも機体を操縦でき、また、操縦免許なしでは、偵察者にもなれない。
 OHはグラス・コクピット化していて、すでに製造の終わっているAHとの計器類の世代格差は歴然としていた。座席まわりの寸法の余裕はOH(偵察・観測ヘリ)の方があり、AH-1は米国人には両足の横が窮屈じゃないかと思ったが、さすがにラダー・ペダル(尾部ローターの推力を変える)までの長さは米人用にできていた。
 航続力はOH-1の方が長く、3.5時間。AHよりも先に現場に進出している必要があるからだ。
 AHの作戦は常に2機単位で、左右に展開し、互いに視認できるギリギリの間隔を保って連携運動する……はずなので、どうしてAH同士の接触事故が、演習空域で起きたりするか、さっぱり分からない。

八戸展示タマ
八戸展示弾薬
真鎗木銃
八戸青龍刀
イタリア小銃
イランのスポーツ銃
トド撃ち銃
トド猟銃
八戸不発弾

【防衛館の展示品の数々】
 八戸は史料の宝庫でもあると直感した。「防衛館」の図書類では、南北戦争(津軽と南部藩のイザコザ。ちなみにディープな津軽方言は南部人には聞いても意味が取れぬという)関係に、貴重なものがありそうだ。地元のマニアが詳細な書目リストをつくってインターネットにUPすべきだと思う。
 実物では、この「トド射ち銃」だろうか。たぶん、端艇の舷側に尾部を押し当てて発射するのだろう。函館の北方海洋博物館にも、これは置いてない。
 旧軍の長木銃の先に真鎗の穂がついているのも激しくレアである。これは在郷軍人が本土決戦用に作ったと思う。
 東北にはB-29の空襲がなかったので、こんな貴重品がたくさん残っているのだ。「防衛館」の入り口に展示してあるB-29の不発弾は、たぶん、地元から掘り出したものではあるまい。

八戸ジオラマ1
八戸ジオラマ2

【防衛館のジオラマ】
 個人的に最高に笑わせて貰ったのが、この大ジオラマだ。なんと米軍と自衛隊が入り乱れ、着上してきたソ連軍を相手に「共闘」している。しかも老眼のせいか、米軍の戦車が、「ガン・ランチャー」(シェリダンやM60A2のアレ)装備の、ターレットにリアクティヴ装甲張りまくりの、摩訶不思議なものに見えた。とにかく、この駐屯地に模型マニアの隊員がいることは分かった。さらに頑張って欲しい。いや、このジオラマの規模を10倍くらいにしたら、きっと名物(呼び物)になるよ。

八戸隊員食堂

【隊員食堂】
 隊員のメシは業務隊がつくる。各駐屯地で伝統があり、美味いところはレシピが受け継がれ、定評が立つ。たとえば八戸の隊員食堂の場合、ラーメン(太緬・縮れ・鰹ダシ)をつくるとなったら、数日前から仕込みを開始するのだという。うらやましいね。試食の機会を得なかったのが残念だ。

150kg対潜爆弾
対潜150キロ爆弾

【海自八戸基地のP-3C関係】
 平成11年3月24日に、能登沖で北鮮の工作船に150キロの対潜爆弾を投下したことがあったが、あれをやったのは、この八戸の海自基地から飛び立ったP-3Cだった。安全を解除する風車がよく分かる。
 爆弾倉は、P-2Jとは違い、機内からアクセスはできない。これは、機内が与圧されている関係である。
 なにしろ高度60mで飛ぶ場合も多い哨戒機だから、双発だと、1発停止のときにリカバーができない。4発なら、エンジン2基が停止しても、海に突っ込まずに済む。PX(次期対潜哨戒機)への期待は大きいようであった。

P-3C洗濯中

【P-3Cの洗濯】
 八戸の滑走路は、東端が海に向かっている。画面の右側の煙は、鋼鈑工場の煙突。左側の煙は、チップから紙パルプを造る工場の煙突。そして駐機場の奥では、帰投したP-3Cが真水で塩分を洗い落としている水煙が見える。これは、機体が洗浄場に進入すれば、自動的に噴水がかかる仕組みである。
 画面のフレーム外、ずっと右手にある八戸港が水深12mあるかどうかは知らないが、過去にイージス艦が寄港したことのある港湾ならば、12mあると思って間違いない。というのは、今の軍艦で水深12mを必要とするのは、バルバスバウがソナーで肥大しているイージス艦ぐらいだからだ。
 P-3Cは、八戸からハワイまで、他のトラフィックを気にすることなく、どこまでもまっすぐにオートパイロットで飛行(燃料が軽くなるに応じて高度はステップアップさせる)し、10時間で到着する。さらにハワイから西海岸までは7時間だ。しかし、ハワイからの帰りはグァムに立ち寄る。偏西風のため、燃費が悪くなるのだ。
 八戸は、冬でもほとんど雪が積もらない。すべて八甲田山で降ってしまうためだ。しかし5月から9月にかけ、八戸には霧が出ることがある。その場合には三沢か厚木にP-3Cを着陸させることになる。比べて、三沢は晴天が多いことでは全国一かもしれない。米軍が手放さないわけである。

管制塔の光の信号機

【管制塔の信号機】
 管制塔内には、無線の送受に不具合があるときに、光学的に万国共通のサインを送る器材が備え付けられている。青または赤の光を、手持ちのライトから発することができる。

P-3Cボムベイ
投下傘

【P-3Cから落とすコンテナ】
 これはP-3Cから救難目的で海面に投下する、大小の物料コンテナだ。減速傘がついていて、中に真水の容器などを入れる。中間の赤白の布切れは、メモを入れて投げ落とす「連絡球」のエアブレーキ兼目印となるもの。

正しいホイスト

【正しいホイスト】
 救難ヘリに吊り上げてもらうには、この「輪っか」に正しく掴まる方法を知らねばならぬ。これは、腰掛けるものではない。
 遭難の現場が基地から370km以内なら、UH-60J(救難ヘリ)がこの方法でピックアップしてくれる。それ以遠だと、US-1などが必要になる。
 回転翼機は、速度等に関係なく、飛行中は、メインローターを毎分258回転に保つ。また回転翼機の最高速度はどうしても350km/hくらいなもので、UH-60Jはそれに近い314km/時を出す。ヘリは燃費が悪く、巡航1時間で、ドラム缶3本のジェット燃料を消費する。航空装備にとり、過去も、これからも、燃費と国際石油市況は、深甚な影響を及ぼすはずだ。原油と違って、精製後の石油製品は、何年分も買いだめして貯蔵しておくわけにもいかない(2年で変質する)。
 救難捜索機のU-125Aが、これからは中途半端な装備となる。というのは、同機の任務はいまや無人機で代行できるからだ。八戸のP-3Cは、函館気象台のために流氷状況を目視でリポートしてきたのだけれども、この任務も、燃料費の高騰のため、だんだん回数が減らされている。やはり、人工衛星と無人機で「代行できない」とは言いがたいミッションだろう。

集合写真

おしまい


(管理人 より)

 防衛庁というお役所も、何もしていないか或いはとんでもなくカタいようでいて、意外と楽しそうな事もしてるんじゃないかと、つくづく思うのである。多分、殆どの人がこんな懇談会があってるなんて知らないんだろうけども。
そんな事はともかく、本当に有難う御座いました。

写真で辿る 函館「八十八箇所」肝試しコース

(2007年6月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 女子供向けの市販の観光ガイドブックにはロクに載っておらず、しかも地元民すらほとんど知らずに過ごしているようなマイナーなスポットを、住民の義務心からインターネット上でご案内しておこうというシリーズ。今回は、市内の陣川温泉の北東の山中にある「八十八カ所」を紹介する。撮影は2007年6月8日に行なった。

 「八十八箇所」とは、四国まで実際にでかけられない庶民のために、ミニチュアのお遍路コースを作ったもので、全国にたくさんあるものだ。しかし、函館にもあったのだと知っている人は、あまり、いないのではないか。

栗の古木

 市街方向から陣川温泉まで登ってくる車道を、温泉を左手に見ながら、さらにそのまま北進すると、左手に劇団の建物があり、舗装はそこまでである。そこから先はいかにも山路で、人家もなくなる。そのあたりに自動車をとめて、徒歩でさらに砂利道を登って行くと、まずはこの栗の木に到達する。

洗心水

 これは栗の木の対面にある、水飲場らしき施設だが、ご覧のように、撮影時には水は出ていなかった。

ロータリー十字交差点

 さらに登っていくと、立ち木を中心にしたロータリー状の広場があり、道が四方向に延びている。地図によれば、向かって左側に折れると、北海道東照宮の裏手の道へ通ずるらしい。八十八箇所参拝道に行く者は、右側に折れる。(もし直進すると、谷に下って行き、その先は分からない。たぶん、森林の中でいきどまりだと思う。)果たして道を間違っていないかどうかは、石仏群が道の左右に現れるかどうかで分かる。

八十八カ所巡り開始

 参拝道に入ると、左右に石仏が並ぶ。ひとつひとつに、四国の霊場の名前が彫ってあって、どこのご本尊をコピーしたものなのかが分かる。

石仏の一例

 台座に「第○○番」と通し番号が彫られているのが確認できよう。しかし、この石仏群がいつ設置されたのか、その手がかりとなるようなDATEの刻字は、どこにも発見できなかった。

説教所の跡

 まもなくすると左手にこんなスペースがあるところを通り過ぎる。一部の地図によれば、ここは「説教所跡」だそうである。昔、講のようなものがあったのだろう。

この分岐は左へ

 ここは道なりに左に進む。

石仏は左右に並ぶ

 この写真はロータリー方向を振り返って撮ったもの。

左に下ると不動明王に達する

 ここで、広い道から左に分かれる細い道に入る。そちらに石仏も並んでいる。この細い道はループになっており、またこの広い道へ戻って来るので安心するように。なお、左折せずに広い道をずんずん直進すれば、そのまま蝦夷松山(667m)への登山道となっているようである。

湿地帯の板道

 細道はぬかるみが多く、とても小さい子供を連れてハイキング……といったコースではない。ただ、足場の悪いところには親切に板が敷かれている。

とつぜん衆生橋

 笹流川の支流である谷のせせらぎが聞こえると思ったら、とつぜん、近代的な人工物が目の前にあらわれる。この鉄製人道橋は昭和51年に架けられたことが銘鈑から知られた。地元のどこかに仏教信者の講のようなものがあって、そこでこの施設を整備しているらしい。渡ると、無人の休憩所と、不動尊像などがある。

不動明王像

 無人の休憩所の中には密教の曼荼羅図が掛けてある。その休憩所の隣がこの像。暗い時刻に一人で来たら、ややインパクトがあるだろう。

不動橋

 この石橋は、現状では谷を跨いでいない。想像するに、かつては鉄橋はなく、この橋だけがあったのだが、大雨かなにかで半分以下に壊れてしまったのではないだろうか。

帰り道から振り返る

 右手の金属製のパネル構造物は、灯明台である。

硫黄泉

 写真を拡大すると分かると思うが、この不動像は、鉱泉の近くに設置されていたのだ。(気付かず通り過ぎてしまった。)ある地図には「硫黄泉」と書いてある。最初にこの鉱泉が知られ、それから参道がつくられていったのかと想像できる。

帰り道

ループを辿り、硫黄泉から最初の参拝道に戻って行く。

元の参拝道に復帰す

 とつぜん、元の道に出て合流。分岐点とは、じつは数十mしか離れていなかった。

ロータリーに戻った

 もうあとは迷うところはない。下り道をテクテクあるくだけで、四つ辻に達する。なお、このロータリーまで地元の老人数人が自動車でピクニックに来ていたので訊ねたところ、鉱泉のことも、石仏群のことも、知らなかった。

栗の大木まで戻った

 拡大すると、舗装道路が見えるだろう。その先が陣川温泉である。右手の茂みの上に、地元の某劇団の建物の屋根が出ている。ここまで、歩いて40分くらいで往復できた。


(管理人 より)

 私は一度もお遍路が、各地にあるなど、知りもしなかった。行く機会があるのかどうかわからないが、各地にあるなら、敷居も低くなるだろう。
 身を清めたくなったら、利用しようかと思う。有難うございました。

霊巌洞リポート

(2007年6月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2007年6月23日午後、熊本市郊外の雲巌寺(曹洞宗・雲巌禅寺)を訪問することができた。

 写真の五百羅漢は、1779年以降の奉納だというから、1643(寛永20)年に60歳の宮本武蔵が『五輪書』を書き始めたときにはこんなものはなかった。
 1枚の遠景に見えるピークは、地図によると、おそらく河内山(363m)であろう。熊本市郊外の最高峰は金峰山(665m)で、雲巌寺は、その金峰山の西麓にある。

 五輪書の冒頭序文によれば、武蔵は「岩戸山に上」ったことになっている。岩戸山とは、この岩戸観音がおさめられている霊巌洞のある低山のことだろう。
 寺のパンフレットによると、今の「岩戸の里駐車場」があるあたりに見晴らしの良い場所(黒岩展望所)があり、そこからは有明海と雲仙岳が見えるようである。武蔵が戦場で負傷した、因縁の地の方角だ。

 岩戸観音は、文献上では有名なのだが、現状では厳重に格子戸で囲まれていて、目で見ることはまったく不可能だった。邪推すれば、摩滅が著しいのであろう。

 洞窟は凝灰岩質で、南西方向に開口しているから、旧暦10月10日の寅の刻だと、早朝4時前後の、月明かりの有明湾上空が望めたと考えられる。
 霊巌洞の開口は大きく、奥行きは深くない。だから平安時代以前から、蝙蝠の巣窟のような、陰気な場所ではなかったのだと想像できる。冬だから、不快な虫なども少なかったはずだ。

 本道から通じている小径は今では舗装されているけれども、大昔はずっと細い道だったのだろう。しかしご覧のとおりの南西向きの山の斜面なので、明るい感じだったろう。

 この寺は、熊本城からはかなりの道のりがある。タクシーだと30分かかるそうだ。しかも、大寺ではない。武蔵は、地元の者でもなければ誰もよく知らないような、さびしい場所を、わざわざ選んだ。さらには、13歳と16歳で勝負に勝ったとする兵法者も、誰も名前も知らないような者である。
 この無名の場所の選定、そして自分が斃した有名人の名前を敢えて出すことを避けている書きぶりは、意識的である。

五百羅漢と霊巌洞
霊巌洞への小径
霊巌洞俯瞰
霊巌洞を望む


(管理人 より)

 兵頭先生は、熊本での講演会の折にこの場所へおでかけになられたそうである。
 講演会もそうだが、先日の[観光ツアー]にも私は参加できなかった。
 世界は、優しい私に優しくないのだ。しかし、いつかは機会もあるだろう、それを期待する。

2007/3 新田原基地見学ツアー

(2007年4月7日と2007年4月14日 に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人 より)
 ここに提示した写真は確かに新田原基地見学ツアーのものである。けれども、『兵頭二十八の放送形式 ”絵の無い解説文を提示します”』のキャプションのものとは、厳密には一致しない。(勿論、一致するものも、ある)

 写真の入った郵便封筒が亜空間に消えてしまって、兵頭先生から私に届かなかったのが理由である。その後、写真は入手できた。それを符丁やキャプションを付けず適当に公開してしまうのが私『管理人さん』のいい加減な所である。
『このキャプションはこの写真を指しているのだな』という風にも楽しんでいただければ、私は嬉しい。




デモ・スクランブル

写真:(c)防衛省 2007

(2007年4月14日 に公開)


兵頭二十八の放送形式 2007年03月27日 05:37 絵のない解説文を提示します』より

【1】
 入間からC-1で高度7800mの飛行を続け、鹿屋へ(万一機体に機関砲で穴をあけられても、ヒマラヤ無酸素登頂と思えばいいわけだ)。与圧は1000mに合わせているので「差圧」はかなり大。おかげで、国内線のエアバスよりも耳は痛くなりません。
 いきなり余談ですが、なぜC-1をジェットにしたか、旧陸軍の参謀の自伝を読むと、よく分かるんですよ。彼らは、自前の移動手段で、他の官庁の誰よりも早く、連絡に行きたかったんです。高速参謀輸送機として考えていたに違いないと、最近は確信してます。
 さて写真は、海自のP-3Cの第一航空郡司令部です。なんとこの建物は昭和11年4月に海軍鹿屋航空隊が飛行場と同時に建設したもので、空から見ると「戦艦」に見えるデザインにしてあるそうです。またもう一棟の古い隊舎は、「空母」を模してあると。東シナ海の油田群の見張りは沖縄基地ではなく、この鹿屋基地の担当なんですが、詳しい話はオフレコにしといてくれと言われました。まあ、キッチリ「仕事」してますよ。
 P-3Cは以前は垂直尾翼に派手な部隊マークを描いていました。が、それじゃシナの潜水艦の潜望鏡からひと目みただけで日本側の発進基地がバレバレだろ、というわけで、いまではごく小さくなっとります。
 ちなみにシナ軍は、偵察機をあたかも民航機であるかのような塗装・マーキングにしてある、国際法違反精神マンマンな軍隊です。合成開口レーダーを積んだやつは、定石通り、どこに関心があるのか気取られないよう、日本の沿岸全部をなめて通っているそうです。
 北京から見ると、日本列島でいちばん気になるのは、山陰の島根県あたりでしょうね。ここにIRBMを置かれると、最も短い飛翔時間で北京に届きます。余談ですが、中立国には交戦国の領空侵犯を阻止する義務もありますから、もし巡航ミサイルを日本海から北京に発射すれば、韓国軍がそれを撃墜することになるでしょう。バリスティック・ミサイルじゃないと、ダメなんです。
 鹿屋の近くの東串良町には通信所があります。また錦江湾の東岸の福山町には、海自の開発隊群があり、潜水艦や魚雷を試験しています。「えびの」には潜水艦に指令を送る送信所があります。根占町には受信所があります。要するに鹿屋は対潜センターの一つだと理解ができるでしょう。
 鹿屋基地の航空燃料は、まず古江にタンカーで揚げて貯油し、そこから短い距離をローリーで運んでくる。この便利が良いのか悪いのか、沖縄米軍のKC-135が鹿屋に移転してくるのじゃないかと一時、噂されましたが、まずその目はなさそうでした。日本の基地で、米軍受け入れの余積を有しているのは、千歳だけでしょう。

【2】~【7】
 海自のヘリ・パイロットの訓練は、すべてこの鹿屋でOH-6を使ってやります。タッチ・アンド・ゴー(斜めにダイブし、接地はしないで、ぎりぎりホバーしてから、斜めに急上昇)を見ましたが、マークを向こう側に外してしまう訓練生が多いようでした。遠くからは見えないが、「バカヤロウ」と横の教官にはたかれているそうです。
 さて写真でご覧にいれますこの一連のディッチング・トレーナーは、全国でもここ鹿屋にしかない、海や湖に着水してブクブクと水底へ沈みゆく、しかも180度横転したり急角度に傾いたりしながらという天地無用なヘリのコクピットから、クルーが着衣のまま泳いで脱出する、その過酷な状況を何度でも容赦なく再現しちゃるという、掛け値なし〈命がけ〉の筐体マシーンで、NIPPI(日本飛行機株式会社)の謹製であります。
 警察や海保のクルーもここで年に一回くらいは溺死寸前の恐怖を満喫せねばならないらしい。ホントに脱出にモタついて水飲んで気絶して、プール内待機の海自ダイバーに救出される人がいるそうで、ヘリのクルーがカレンダーの上で最も精神的な重圧を感じている、「これさえなければ……」という悪夢の年中行事であると仰るのも、頷けます。ともかく、一年でいちばん血圧が上がるとか。
 手順ですが、まず両サイドの透明窓を、墜落途中の段階でブチ外す(あれ、外れるようになってたんですね)。そしてザンブと着水すると同時に、天井の大きなレバーをガクッと引き下げます。これが、エンジン緊急停止レバー。そして、ハーネスを外したときに天井(いまやアップサイドダウン)に落下しないように、片手で天井につっかい棒をし、片手で鼻をつまむ。このとき、酸素吸入チューブを口に咥える場合もあります。
 次がおそろしい! 海水(この施設は真水使用)が完全にコクピット内を満たし、視界を妨げる気泡が消えるまでの30秒間、その姿勢で息を止めたままひたすら待つのです。気泡が周りに充満しているうちは何も見えないですから、脱出はできぬというわけです。しかしその間にも、ヘリはどんどん真っ暗な海底へ沈降して行く。ダンナ、堪えられやすかい?
 脱出は着衣のままです(軍隊のヘリ用スーツは、急に脱ごうとしても到底脱げるものではないらしい)。個人用ゴムボートは先に水上に浮かんで膨らんでいるという想定です。これが見当たらなくとも、スーツには浮き袋もついていますが、それはまだ膨らませてはいけない。まず潜水のまま10mくらい機から泳いで離れてのち、水面に顔を出さないと、ローターで叩かれる危険があるわけです。
 機体の沈み方は、8パターンほど再現が可能で、そのすべてをマスターすれば、将来どんな事故に遭っても沈着に脱出できるそうです。ただし、対潜ヘリの場合、おそらくは、「気付いたときには海面に激突していた」というシチュエーションだろう、とのこと。海上ヘリの事故原因は、ローターの焼きつきなど機械原因のものは稀で、やはり、バーティゴーなど人的な原因がほとんどのようです。
 また面白いもので、水平線ではなく母艦の甲板を基準にしてしまって、艦と一緒になってヘリの空中機位を揺らしてしまう訓練生が必ず一定数あり、彼らは、海自のヘリのパイロットにはなれない、とのことでした。
 なお、このプール内には、訓練を実施するクルーの数だけ、潜水士が水中待機することになっています。

【8】~【10】
 鹿屋の史料館は、復元零戦(五二型)があるので有名ですが、知覧と違って館内撮影ができません。しかし今回は許可があったので、バカチョンで撮りまくった。遺憾ながら、そのフラッシュが非力すぎ、機体の写真は薄ボンヤリしとりましたので、割愛。機銃の写真を、ご堪能ください。

【11】
 これがよく分からないんですよね。陶器製の代用爆弾……とは思うのですが、なぜ傘が付いているのか……。
 こういう戦中の珍しい代用兵器を所蔵している人は寄贈してくれ、というお話でした。

【A】
 陸自の基地としてはコンパクト(キッカリ普通科1コ連隊)な、宮崎県の都城駐屯地の資料館です。比べると函館駐屯地は「1コ連隊 - 1コ中隊」なのに、もっと広々しとります。
 この建物はなんと、旧軍の聯隊司令部がそっくり使われとります。展示もシブく、これは貴重と思いました。ちなみに駐屯地の倉庫も木造で、メチャしぶ(何を恥ずかしがるのか、近寄らせてくれなかった)。『戦マ』時代に善通寺でこれとタイぐらいに古い木造倉庫を見た覚えがありますが、今はどうなっていますかなぁ……。
 さて、都城は上原元帥の出身地として有名なのですが、この資料館の歴代聯隊長の名前の中に荒木貞夫があった。う~む、そういう縁もあったのか。調べてみると、荒木が大佐になったのが昭和7年、歩23聯隊長だったのは昭和8年7月から10年4月までです。上原は昭和8年11月に老衰死。対ソ戦をやりたかったでしょうなぁ。
 この駐屯地からはイラクにも兵員が派遣されています。そのさい、住民の反対活動は皆無だったそうです。いい土地ですよ。出発前には高機動車の荷台をパレード仕様にして、市内を練り歩かせ、歓呼の声に送られたそうです。

【B】
 軽装甲機動車の車内。路肩爆弾への対策から、このサイズも二回りくらい大きくしたいところでしょうが、空輸の限界もあるし、日本の地方都市の道路はほんとうに狭いですからねぇ……。都城は、陸自のなかではかなり早く、軽装甲機動車を完全充足させて貰った普通科連隊だったようです。運用試験を任せられたのかもしれません。

【C】
 天井のフラップ・ドアの内側には、ウレタンフォームの分厚いクッション材が、貼り付けられていました。

【D】【D+】
 ちびヤンなどを通じて、すでに全国のマニアが多数の内部写真を撮っているでしょう。にもかかわらず、元雑誌記者の性、ついドアの厚みなどに着目してしまうのは、かなしい……。ちなみに、横のドアの窓は内側から開閉ができます。そこからも小火器で射撃ができるわけです。
 後部ドアは一見、乗員の出入り口風にも見えるのですけれども、後部シートの背もたれによって車内通行が前後遮断されており(背もたれの上を乗り越えるのは可能)、通常は荷室へのアクセス用にしかなりません。

【E】【F】
 「01ATM」です。ということは4、5年くらい前から部隊にあるのでしょうが、マニアをやめて久しい小生、実物を拝見したのは、これが初めてでした。このアイテムが、カールグスタフを更新しました。カールグスタフを持たされていた隊員が、これへの転換訓練を受けたわけです。では、まだ使えると思われるカールグスタフは、どこへ行ったのか? いけね、訊くの忘れた! あと、ロケランは?(w)
 カールグスタフは2人がコンビで、片割れが背中のコンテナに予備弾2~4発を入れて運搬したのですが、このATMにも予備弾はいちおうあるらしい。ただし、運用は1名です。
 つまり、ソ連の大機甲部隊が雲霞のように押し寄せることなどない――と、陸自は現実に目覚めたのでしょう。
 前後の八角ナットのようなものは発泡スチロールでした。実用時には、外して捨ててしまうんでしょう。
 まとめると、これって米軍に大昔からある「ドラゴン」がようやく陸自にも装備された、という解釈で宜しいでしょうか? なにぶん、武器マニアを卒業して久しいもンですから……。
 カールグスタフには時限爆発モードがあって、敵の塹壕の頭上アタックにも使えたのですが、いまやそんな機能は、想像しますに、充実した81ミリ迫と120ミリ重迫のVTモードにさせれば済むだろ、という考え方なのでしょう。

【G】
 「もしもし、道をお尋ねしたいのですが……」
 ――こんなスナイパーが各普通科中隊に1名、配備されるようになるとは、かつて誰が想像をしたであろうか。選ばれているのは最も射撃がうまい上級陸曹(なんと裸眼視力2.0を維持! ぜったいにPCはやってないね)で、双眼鏡をもった観測手と、二人一組で、わが中隊長を狙ってくる敵の狙撃者を、物陰から返り討ちにして行くのだそうだ。この中隊スナイパーの練成は、富士演習場に全国から集めてやっている。
 官給のカモフラは、地形地物にひっかかるので、隊員は、自分で引っかからないやつを自作していると語っていた。とにかく地面にプローンの姿勢をとったまま、動かないで何時間もじっとしている商売だそうだ。

【H】
 銃はレミントンのボルトアクション5連発、ただし最初の1発はチャンバー内だ。
 肩当を調節することができ、ボルトを後方に引いたときに、頬に触れるか触れないかという距離にアジャストしておく。ボルトは指の先だけで軽々とコックできるように、見受けられた。(狙撃担当の隊員は自分の狙撃銃の部品を決して他人には触らせたがらないという話だったので、遠慮した。)
 タマは7.62ミリNATO弾で、64式用のような減装薬ではない。つまり62式機関銃のタマなのか。消炎薬のような特殊なものではない、とのことでした。
 観測手は、とにかく横風を読む。陽炎で、分かるそうです。
 ポテンシャルとして1km先の狙撃が可能だそうですが、どうも、手ごたえが確実なのは、600mくらいまでらしいぞ。もちろん、劇画じゃないので人の眉間を狙ったりしない。「的」の大きさは、胴体サイズのようです。

【イ】【ロ】
 宮崎県の新田原基地です。「にゅうたばる」と正式に呼びます。略称「にゅうた」。新潟を「にいがた」と読むのに近いようです。基地内のPX食堂(民営)のカレーライスは300円で、「お代わり」もし放題でした。宮崎県は日本一物価が安いというのは、嘘じゃないっす。
 基地面積は、嘉手納の1/7、千歳の1/4です。しかし隊舎を増やす地積の余裕はぜんぜんなく、米軍もこの前に見に来て「こりゃアカン」と承知したそうです。だから沖縄からの移転はないでしょう。しかし築城よりは広いわけで、まあ、これからの自衛隊の最重要基地の一つです。「にゅうた」から戦闘機ですと65分で上海、30分で釜山です。
 「にゅうた」の一大特徴は、F-15のアグレッサー部隊がいることです。うまいパイロットが集められており、全国の戦闘機パイロットの空戦の相手となって、鍛えてやる。バカチョンの写真が悪くてすいませんが、各F-15の迷彩塗装は、全部色を違えてあります。これは、訓練生が、空戦でどの機を「撃墜」したのか、確かめやすくするためだそうです。
 空自のF-15パイロットは、全員が「にゅうた」で教育されます。うち、英語の適性のある半数が、米国に行ってしごかれます。
 「にゅうた」のF-4は、ストライカー任務です。まずF-2で教育を受けてから、F-4に転換するそうです。
 F-4の離陸を見ていますと、「起動車」(4輪トラックの荷台に小さいガスタービンが載っていて、そこから空気ダクトでエアーを取り出し、戦闘機のエンジンをスタートさせる)によるエンジン始動はごく短時間で完了しますのに、それからタキシングが始まるまでが、やや待たせます。これは、ジャイロがレーザーリング式でない旧式であるため、それを安定させるまでに5分くらいかかってしまうからだそうです。そこで素朴な疑問。空自の沖縄基地はF-4にスクランブルをまださせているが、「5分待機」をどうやって実現してるんだ???
 もし、「5分待機」指定のAチーム2機が、スクランブルにもたついてしまった場合は、「1時間待機」のBチーム2機が、代わりに飛び出すそうです。というのは、調子の悪いパイロットや機体をムリに上げても、絶対にロクなことにならぬからだそうです。
 F-15乗りなら、裸眼視力1.2~1.5を維持したいところでしょうが、現実はそうもいかないので、「裸眼0.2で眼鏡」というパイロットも今はOKだそうです。そして興味深いこととして、眼鏡によって視力1.5になっているパイロットの方が、裸眼で1.5のパイロットよりも、敵機を先に発見するそうです。
 おそらくその理由は、誰の目にも加齢とともに「乱視」の要素が入っているせいではないでしょうか? 虚空の中の微小な一点(ドット)を見極めるには、「乱視」が矯正されている方が、有利なのでしょう。
 ということは、裸眼視力が良いパイロットも、今後は、乱視矯正ゴーグルを装着した方が、良いのでしょうね。パイロット用にそういうゴーグルを、開発すべきでしょう。シナ空軍のSu-27の錬度はロシア空軍からみてもまだ酷いものだそうですけれども、ステルス設計のUAVくらいなら、飛ばしてきかねませんからねぇ。
 さて、戦闘機パイロットは、経済的に、割りに合うか? これは、絶対に合わないと断言できます。毎日出る航空加給食くらいでは、とても、とても……。
 たとえばF-16/F-2のシートは後傾していますけど、パイロットは戦闘中はゆったりとリクライニング姿勢などとってはいないわけです。前がよく見えませんからね。あれは、強烈なGがかかって、どうしても体が耐えられないときに、背中が楽におしつけられる、というだけなのです。戦闘機パイロットのほとんどが、首か、腰に慢性の痛みを抱えています。
 なにより、Gのいちばんおそろしいダメージは、毛細血管の破壊にあらわれる。空戦機動訓練のあとの操縦士の腕の内側には、蕎麦粉のような斑点が出るそうです。毛細血管が切れて内出血した痕跡です。まあ、腕くらいなら、野球の投手でも、毛細血管がボロボロになりますよ。それでどんなプロ投手でも、「なか三日」とか「なか四日」で毛細血管を復活させて再登板している次第ですが、戦闘機乗りの場合、Gがかかるのは、腕だけじゃないのです。全身の中で最も、血圧による疲労を受けやすい、脳内の毛細血管もまた、間違いなく痛めつけられてしまうのです。
 脳血管の障害で早死にしている「元戦闘機乗り」は、統計こそ公表されていませんが、かなり高率だろうとわたしは想像します。そこで兵頭は日本政府に提案する。このように文字通りに自分の生命を削ってパブリックにサービスしている戦闘機パイロットや海自ダイバーなどの遺家族には、特別な手当てがあって然るべきだ。特に子供の学資は政府が完全にみてやるべきではないのか。さもなきゃ、なり手がいなくなりますよ。
 あるいは航空関係の特殊法人が、こうした支援を担当してもバチは当たらないと思いますよ。
 この平時の訓練とは逆に、ホンモノの戦争の際には、軍用機パイロットの死亡率は、第二次大戦中とはまったく比較にならず、低くなるはずです。今日のミサイルや機関砲は、機体にロック・オンするので、パイロットを狙ってくるのではありませんからね。機体は失われるけれども、パイロットは生還する、という可能性が高いでしょう。
 そこで、昔とは航空戦備の考え方も、変えなくてはなりますまい。すなわち、パイロットの数よりも、機体の数を増やしておく必要があるでしょう。
 地上勤務員は、これとは逆です。旧軍の砲兵部隊の馬の係りになった兵隊は、朝は誰よりも早く起きなければならず、夜も、誰よりも遅くでないと休めませんでした(だから「竹橋事件」という暴動まで起きた)。今日の空自の地上勤務員は、この「馬の係り」と、まったく同じようでした。飛行機が離陸する何時間も前から滑走路上にいなければならず、飛行機が着陸してから何時間もまた、仕事が待っているわけです。パイロットは時間外労働はないが、地上勤務員には休むヒマがない。「1日10時間労働」「1日12時間労働」というのがデフォルトになってしまっています(自衛官に労基法は適用されない)。人員増が必要でしょう。
 それと、燃料。単年度予算で燃料を調達している今の慣行では、突如、石油が値上がりすれば、その年の訓練は、半分もできなくなるという可能性が、あるわけです。これはやはり、数年分をまとめてストックしておいて、時価の変動に関係なく、存分な訓練ができるよう、調達方式は格別に考えるべきでしょう。
 ちなみに日米空軍合同のコープノース演習は、日本側が米軍側の費用(毎回100人くらいが基地にくる)の半分以上も負担してやっているにもかかわらず、米国の財政が悪化すると、その年はあっさり中止になります。訓練も、カネ次第です。
 米空軍では、戦闘機よりも、むしろ爆撃機や攻撃機に、最も優秀な空中勤務者を配属させているそうです。パイロットの希望も、同様なのだそうです。これはやはり、有事には核弾頭を扱わせるためでしょうね。
 航空基地には必ずアレスティングワイヤーの設備があるので、F-15のような艦上使用があり得ない機体でも、テイルフックがあります。このワイヤーはいくつかのゴム玉で地面から浮かせておくのですが、そのゴム玉にフックがジャストミートしてしまえば、ワイヤーにはかからぬこともあるそうです。
 新田原の基地防空隊員(短SAMやVADS)は、釧路や根室から家族ごと移駐してきているのだそうで、びっくりしました。VADSのバルカン砲を正面からみると、真円ではなく楕円になっており、それでディスパージョンを適当に散らしているということを、いまさらながら、知りました。

【ハ】
 新田原には、F-15用のシミュレータがあります。内部は撮影禁止でしたので、加藤健二郎さんに撮ってもらった、この写真で我慢してください。左後方のお二人は、国民保護法の専門家である浜屋英博教授と、チャンネル桜によく出ている葛城奈海さんです。
 中のシミュレータの構成ですが、コクピットが中央に固定されていて、その全体を半径数mのドームが覆い、そこへアラウンドに画像(動画)が投影されるものです。隣室で、あるいは筐体のすぐ隣りで、教官がすべてをモニターしています。マイク付きヘッドギアで教官と交話もできる。
 おそらくこれは、F-15のパイロット候補者が、ごく初期段階で使うものなのではないかと、推測しました。というのは、SEGAのアーケードゲーム筐体のように、コクピットがぐらんぐらんと動くわけじゃないんです。まったく固定。しかも、キャノピーの後方には、ビジョンが投影されません。明らかに、空戦をシミュするものではない。主に、ヘッドアップディスプレイの計器の見方に慣れるためのものではないか、と愚考を致しました。
 民航機と違って、二機が併走するようにしてスクランブル発進するというのも、戦闘機だけの状況です。そのシーンが、ちゃんとこのシミュレータで、再現できるようになっていました。
 もちろんコクピットは本物のF-15の部品で構成されていて、スティックやスロットルの感触も本物なのです。
 ひとつ、発見をしましたのは、アフターバーナーを入れますと、機軸が落ち着かなくなるんです。上下左右に小刻みに振動し続ける(ように画面が揺れる)。ということは、ガンによる空戦には不利ですよね。タマが散ってしまって。超音速の空戦は、もし敢行するとしても、それはミサイル頼みでしかありえないのだということが、よく分かりました。

【ニ】
 新田原基地の周りは、もともと、茶、芝、大根の農家ばかりだったそうで、それが昭和17年に、陸軍航空隊の対南方の輸送基地となった。パレンバンに降下した空挺部隊は、ここがベースだったようです。
 写真の神社は、同駐屯地の中にある珍しい神社で、もともとあるものだから勝手に毀すわけにはいかず、さりとて変態左翼に宗教政策を攻撃される材料にされても困るぞという、ビミョーな空域である。


オピニオンリーダー及び防衛政策懇談会 新田原基地見学(19.3.14)  (c)防衛省 2007

おしまい