旧資料備忘摘録 A・T・マハン著『ネルソン傅』M39-6

 海軍教育本部tr. 博文館pub.
 原題 Life of Nelson The embodiment of the Sea Power of Great Britain
英海上武力の権化ネルソン傅。1897刊。

 海軍教育本部附の水上梅彦が、マハンに手紙で翻訳許可をとった。編集したのは海軍教育本部の谷信次。マハンからの返信の日付は1905(M38)年12月20日。つまり日露戦争に勝った後に企画されたのだとわかる。
 ※たった半年で大急ぎで大著を全訳した。だから文章が整っていないのだ。

 口絵をみると、ネルソンは母親似。

 1897-3の著者序言。
 威徳を既刈の野に拾いたかった。
 ハミルトン夫人との醜聞関係の証拠は、アルフレッド・モリソン編の『ハミルトン及びネルソン書牘集』に依拠した。モリソンからその本を1部、寄贈された。

 本文の第1ページに、大島貞益 が訳したと明記されている。水上は校閲しただけ。

 マハンの信念。伝記のキモは、本人の書簡だ。これがいちばん大事な情報源だ。身体に対する心魂のようなものだ。
 ※会話や発言の回想をちりばめただけの伝記などダメだというわけ。

 書簡というものは、後世に残すつもりなどはなくて、つい、その時点での本心が吐露されていることが多い。
 書簡を読みぬくことによって伝記作者は、対象人物を熟知することができるのである。

 常に、作者の初見の非をじぶんで匡すようにすべし。
 ネルソンの1805以前の手紙はない。

 ネルソンは1758-9-26生まれ。牧師エドモンドの第5男、第6子。ノフォーク州は英東海岸である。
 母は、ロバート・ウォルポールの姪孫。11人を出産したが、長生きしたのは2人だけ。母は42歳で逝く。この母系の遺伝子が多病。

 1770時点で英国とスペインはフォークランド諸島の領有を争っていた。1770にスペイン艦隊がエグモント湾を急襲し、英国旗を降ろさせた。
 そのニュースは1770-10に英国に達した。
 このとき反撃に動員された64門艦の艦長がネルソンの叔父(母方)のマリウス・サクリング大佐。ネルソンは12歳だったが家計の口減らしのためこの叔父の艦に乗船し、海軍少尉候補生となった。このような慣行は英国では認められていた。

 軍艦の日記はしばしば、人事に関しては、日付が捏造される。これは進級資格を作為するためで、英海軍のどの艦でもやっていた。

 ネルソンの遺した文章が英語としてあまり見本にならないのは、正規教育を受けていないため。
 ネルソンは少年時代から家居団欒の思い出がほとんどない。これが晩年の不倫につながる。

 英軍将校には、自分を昇進させてくれる先輩や贔屓の有力者が必要であった。一般に、外国軍港に駐在している将校には、自分の判断で部下を昇進させる権力があった。その権力がないと、統率もピシッとしない。

 しかし軍艦内の少年見習士官にはすることがなく、専門教育が進まない。そこでサクリングは、ネルソン少年を西インド航路の商船に、軍籍のまま、1年強、転勤させた。当時の商船は大砲を備えており、軍艦とあまり違いはないのである。やることは無数にあるので、いろいろなことも高速で覚えられる。

 ただし問題が……。英商船の乗組員は、英海軍を憎悪していた。水兵の強制徴用があったからだ。軍艦内では残酷な刑罰によって規律が維持されていた。
 
 海軍司令長官のセント・ヴィンセント伯爵いわく。人の勇怯を試みたくば、責任を与えることだ。
 ネルソンはカッター(4櫂立て、水兵12名)の艇長にしてもらえた。カッターよりでかいのは、ロングボートという。

 粗豪は少年の常。
 北極海へは少年は乗せないきまりだったが、艦長に頼み込んで随行。氷山の上で白熊を追いかけ、至近距離で銃が不発。継ぎ足しの火薬もない。艦長は大砲を放って白熊を追い払った。

 東インド航海は屈強の水兵でもよく病気になった。ネルソンも2年で衰弱し、骸骨のようになって、1776-9から英本土に。

 英国は西インドを、リーウォード=小アンチル諸島とジャマイカに分けていた。

 1778-9に先任海軍大尉になる。『ブリストル』艦の。

 流涕あぎとに交わる。

 ネルソンの身体はむしろ矮小。

 海軍大佐から少将に進級させるのは当時は席次=欠員のみと決まっていた。そこでネルソンを大佐ら少将に抜擢するため、パーカーはネルソンより先任の大佐全員を進級させた。100名。

 ネルソンは海軍生活18年で将官になった。そのとき39歳。

 1779-8、仏海軍のダステーン(ダスタン)がサヴァナーに向かう前の一瞬、ネルソンに交戦のチャンスがあった。もし仏軍がジャマイカを攻めていれば。

 ここでマハンの地政学講義。ジャマイカから、ニカラガ湖とサンファン河をおさえれば、カリブ出口、地峡を制し得る。どちらも第一運河の適地に連接している。

 中米では毎年、1月から4月までは乾季。病気は減るが、川も浅くなる。

 ヨークタウンで降伏したコーンウォリスには海軍軍人の弟がいた。1778には大佐。フランス革命戦争中は将官として出陣。

 ネルソンはこの中米遠征で胸と関節を悪くした。
 1781にすでに、原因不明の左手(肩頭から指先まで)麻痺。左足も。バースで療養したが全治はしなかった。

 仏提督にスュフラン あり。サフランと読んではいけない。

 英軍艦内には、塩蔵牛肉だけは十分にストックされていた。8週間も将校の食い物がそれだけしかないということもあり。

 ネルソンは米独立戦争中にカナダにも出張。そこで劇的に健康を回復した。

 ネルソンはニューヨーク港でフッドの艦隊に属したことあり。このときの外見は異様であった。レース満飾の古風な長裾制服、髪はぼうぼうで後ろに長く束ねていた。1797にはセント・ヴィンセント海戦に参加している。

 1809に、クラーク&マカーサー著のネルソン傅の第一版が出ている。

 1783-6-25、スピットヘッドに着す。
 ネルソンは、将校も水兵もひとつの艦に固定されるべきで、あちこちの艦を転々とするべきではないの主義。※コーホート主義。

 水兵の自発的な成り手がないのも、この、艦から艦へたらいまわしされる悪人事が原因だと。

 ネルソンの手紙にいわく。人として快楽なければ生くるも益なし。

 1784から1793のあいだ。
 戦後軍縮期。英海軍でもフネが足りず。

 正午に至れば、四分儀を手にしてまっさきに甲板に出た。

 軍艦が入港するときは、港の要塞は、軍旗を掲げる。当時の礼式。
 アンチグアには船渠あり。

 1794まで行なわれた航海条例。殖民地と貿易する船舶は、英国かその属地で建造された船でなくてはならず、その乗員の四分の三は英国臣民でなくてはならない。
 マハンの解釈。これは、水兵のプールとして平時に商船の船員を大量に育ておき、有事には海軍がその全員を強制徴募できるようにするためだった。

 カリブの島民たちは英国の航海条例を無視しがちであった。米国船がGB国旗を便宜的に掲げることを推奨したり。ジャマイカ島の総督は本国命令に公然と反して、米国との自由貿易を後押ししていた。
 遭難船にはいろいろ便宜をはかってやってよいという例外規定が抜け道になった。
 道理を付会して制限を超えようとするのは商業の常習なのである。

 後世かならずその冤を雪ぐ者あらん。
 昭々として寸疑を容れる地なし。
 
 魔女が焼いて邪神に献ずる犠牲のことを「ホロコースト」という(p.103)。

 渝わる=かわる。水が抜け出る。

 ネルソンは第三者への手紙の中で本妻のことを褒めることがない。最初から醒めていた。
 フランス革命シフトのせいだった。1793から七年間も家を留守にすれば、そうなるだろう。

 1777頃、自己診断によれば、肺病が悪く、精神も朦朧としていた。記憶がときどき飛んだ。ところが医師診断によれば、肺には疾病が無かった。

 1787時点でオランダ共和国に2党派あり。ひとつはフランスと結ばんとする。ひとつは大統領派で、英国を深く信頼。

 ネルソンは、強制徴募に大賛成であった。それは書簡を調べれば分かる。ところが初期の伝記作家たちは、その事実をねじまげた(p.118)。

 縄墨に拘泥する輩は、ネルソンの流儀が形式において疎慢であるため、ネルソンを嫌う。

 ナポレオンも言っている。戦場において、忽然と奇策が得られることがあるが、それは、平生胸裏に蔵するところのものが、浮き出すにのである、と。日頃考えていない者に、咄嗟の名案など出るもんじゃない。

 1788-1、ネルソンは英皇子(のちのクラレンス公。皇太子とは別)に招かれてロンドンを往訪問。
 このころ、英王は発狂しており、摂政の争いが起きていた。皇子は、王の命によって米国を訪問して戻った。戻ると、王の病気がよくなっていた。

 この皇子は王からは好かれておらず、しかも内閣と反目していた。ネルソンはこの皇子の肩をもったことがあったために、出世に不利に作用した。

 ネルソンと本妻の間がうまくなかったのは、子供ができなかったことも一因か。

 しゃこの銃猟。下手の横好きだった。しかし、肩に据銃する前に過早に発砲する悪い癖があり、危険だというので仲間はネルソンを敬遠した。陸地生活がほとんどないため、ロクに教習を受けていないのだ。また狩猟ではしばしば草露のためずぶぬれになるので、ネルソンも必ず風邪を引いたという。

 戦艦には74門艦と64門艦とあったが、ネルソンは、早く出動ができる64門艦の艦長にしてもらった。前後してルイ16世が処刑された。1793-21、フランス共和国政府は、英国とオランダに対して宣戦した。

 以下、1793-2~12月。ネルソン34歳の事績。

 トラファルガー海戦の意義は巨大。ナポレオンがモスクワ遠征を企画した原因なのである。そしてモスクワでケチがついたので、ワーテルローで最終敗滅する流れもできた。

 当時の出師準備は、まだ学問的に確立されておらず、一定の理説もなかった。
 英国はやたら軍艦が多いので、開戦と同時に水兵を充員するのにいちばん苦しむ。
 人気もないので、けっきょく商船の水夫を強制徴募するしかない。

 陸上での徴募は、原則として「徴募曹長」が責任者である。
 ネルソンは、できるだけ、水兵が、同じ郷土からあつめられた集団になるようにしたかった。団結が強くなるから。
 ネルソンはノーフォーク人であり、下情に通じていた。水兵たちと、好悪をともにすることができた。

 ネルソンの養子、ジョシア・ニスベットは、13歳で士官候補生として海軍に入った。
 対仏戦争の切迫が、そういう気運をもたらしていた。

 対仏戦の初盤の数年は、私掠船のために英国貿易はピンチにたたされた――と英国庶民は考えた。ネルソンは、違うと言った。小型の私掠船が活躍できるのは、バックに艦隊が健在だからなのである。

 ジブラルタルには水が乏しく、給水の便は悪い。
 近くのスペインの軍港、カディスで給水する。

 スペイン艦隊は巨艦が多数あって壮観なのだが、乗員の質が甚だ悪かった。
 すでにこの当時、戦列艦には乗員1000名あることあり。

 噂。フランス軍艦内には砲弾用の炉があり、烙弾を発射して英艦の舷側にめり込ませて焼夷するつもりではないかと(p.158)。

 ジェノバ政府は、中立の名義をもって穀類を仏南岸港に搬入し、仏国貨物とトレードしようとした。そこでネルソンはニースに転じてその阻止に努めた。

 この時点で英国がフランスを苦しめることのできる方法は、仏南岸への海外からの糧食搬入を妨害することだけであった。南仏の穀物生産は、住民を3ヵ月自給させることしかできなかった。輸入先は、シシリーとバーバリー海岸。なぜ仏国内の北の穀倉地帯から輸送しないかというと、輸送交通手段がなかった。

 ツーロン市は英軍による封鎖に苦しんで、市民が市長を勝手にとりかえ、ブルボン王家の白旗を掲げ、封鎖者である英海軍とスペイン海軍に、戦列艦30隻を引き渡した。

 古語に、「飢餓は獅子をも馴らすべし」という。ネルソンはそれが本当だと知った(p.161)。

 封鎖艦隊に補給がとどこおると、ついには、食い物が、塩漬け牛肉だけとなる。これは生肉や野菜と違って、栄養バランスが悪い。

 ネルソンは艦内衛生を保つ方法を知っていた。西インドで3年間、艦長をしていたとき、将校も水兵も、ひとりも病死させなかったという(p.165)。

 艦の乗員を、退屈にさせていてはいけない。それが病気を招く。常に、仕事か遊戯をさせないとダメ。

 キャリアの長いネルソンも、ナイル河口沖開戦の直後は、安逸だけを求めた。

 ツーロンから英軍を追い出したナポレオンはそのとき砲兵少佐だった。

 ネルソンはコルシカ島の封鎖を任された。ニースから仏兵が8000人、輸送船でかけつけようとしたが、1小艇も港に入ることができず、1兵も上陸できなかった。

 ネルソンの持論。英兵1名は、仏兵3名と対抗できる。

 ナポレオンによる仏海軍提督評。ナポレオンが見ていないところでは、安全策をとろうとし、ノーリスクで戦争しようとする、と。

 ネルソンの自己評価。穏順遅慢を忍ぶことができない。

 コルシカのような島を海上から封鎖するには、夜間は、艦隊から端艇を出して海面を巡邏させなければならない。

 艦載砲を陸戦のために揚陸したときは、操砲は水兵にさせるが、射撃指揮は、陸軍の砲兵将校にさせる。

 ネルソンは陸上砲台に臨場していて、敵の砲弾の断片のために、右目を失明した。明暗だけがわかるという程度になった。
 コルシカ島にはマラリアも流行していた。

 攻め手は、病院の場所に黒旗を掲げさせる。それが標示してある場所は砲撃しないと守備軍に伝えて(p.220)。

 ネルソンはあらゆる病気にかかったが、もともと身体が丈夫ではなかったので、大病になる前にことごとく治した。 

 俘虜は輸送船に載せてツーロンへ送る。
 
 ネルソンは後に語る。敵を殲滅するのは、こちらの艦数がすべてであると。 

 ジェノバ海岸には仏兵も駐屯している。したがってジェノバに入港する糧食の貨物船が、軍隊向けなのか、市民向けなのかは、判別することはできない。市民が軍隊に転売もしているから。

 ※この本では「策源地」という訳語を用いる(p.240)。海軍用語。

 ネルソンの時代、左舷のことを「ラーポート・サイド」と言った(p.247)。

 ネルソンは将官に昇進させられることを恐れた。地中海にはすでに英海軍の将官がいっぱいいたので、居場所がなくなって、フランスとの戦争で活躍するチャンスを逃してしまうから。

 すでに3年勤務している海軍大佐を、ポスト・キャプテンという。高級大佐。
 このポストキャプテンの序列の1位になってしまうと准将にされかねないが、7位に残された。その代わりの名誉として海軍省は、ネルソンに「海兵大佐」の肩書きを与えた。平時は有給無職の厚遇。実戦となれば、陸戦を指揮できる。ネルソンの他には4人の老巧大佐だけがこの肩書きを貰っていた。

 リヨン湾沖でも暴風は吹く。軍艦のメイン・トップ・マストを折られるほどの。
 地中海では、風位は定まらない。

 地中海のように天気のよく変わる戦場では、艦隊司令官は、軽快に機動できる乗艦を選ばなくてはいけない。
 ところが病弱老耄の司令官にとって、居心地のよいのは、鈍重ながらあらゆる設備に不自由をしない巨大戦艦である。そのため、艦隊司令官に不健康な者を据えておくことは、英国海軍にとっては、いちばん悪い結果をもたらす(pp.272-3)。

 1795年後半。ネルソン37歳。
 この当時、商船拿捕の適否は英本国で審査され、もし不当と判決されたときは、拿捕した艦長が商人に個人的に弁償しなければならない。審査の判決が出るまでは、積荷も船も万全に保管する必要もあった。

 この時点で仏軍が需要するパンは、マルセイユから供給されていた。
 リビエラ西部には小島が多く、海が浅い。ブロケイド破りの舟艇は、ここに遁入すれば、陸上砲台の掩護もあり、英海軍は追いかけてこられない。
 もちろん、夜間を利用する。

 胸部の疾病が一時、重くなり、ネルソンは、1795以降は、任地として地中海を好むようになった。それ以外の海域は、健康に悪い。

 ネルソンの正妻は、ネルソンの実父と同居していた。その家計は夫人がなんとかやりくりしていた。
 ネルソンは所得・私財の中から親族に多額の仕送りをするので夫人は不満であった。
 
 ジェノバ駐箚英国公使は、終始、墺軍の本営に在った。

 仏軍は、北イタリアの平野部を「金鉱」と呼んだ。

 フリートインビーイングを「現在艦隊」と訳す(p.330)。

 マハンの批評。ナポレオンはエジプトやロシアに多数の仏兵を棄てて来た。それができたのだから、英本土上陸作戦も、実行すべきだった。目標を、ロンドンと造船所の破壊に限定すれば、必ず成功しただろう。その代価として数十万人の仏兵が英本土で捕虜になるかもしれないが、じつに安い代価で、そのくらいは当時のフランスはすぐに新編成できたからである(p.333)。

 ナポレオンが戦史から得ていた判断。イタリアに外征するときは、シーズンは、2月から8月までに限る。それ以外だと、将兵が病気にかかるし、野戦がしにくい。
 ただし、年によってはアルプスの高所に3月下旬まで雪が残ってしまう。そうなると、2月には作戦発起できない。

 ナポレオンとネルソンの一致した見解。沿岸交通線防護のための海岸砲台は、かならず、射撃の覆域が相互に隣とすこしづつ重複するように点々と砲台を海岸に設ける。これに限ると。

 仏海軍が英艦隊に妨害されないでブローニュに小船隊を集めることができたのも、この準備をしておいたから。

 ネルソンいわく。陸戦司令官と海戦司令官の違いとは。海軍将校は、気象を所与条件として、好機が与えられたときにそれを捉えるしかない。陸軍将校は、気象がどうなろうと関係なく、まえもって作戦計画を立てて実行すればよい。海軍では、そのやり方は不可能なのである。海軍将校にとっての好機は、今日、とつぜん到るかもしれないし、ぎゃくに1ヵ月も、まったく条件が整わないかもしれない。それはどうしようもないのである。

 南仏海岸の仏軍は、糧食補給を、ジェノバ船の活動にたのんでいたらよかった。ネルソンはその交通を遮断できなかった。

 腹案としては、3000人の英兵を多数の輸送船に載せてニースからジェノバに到る北地中海上を遊弋させ、仏軍の補給線を寸断しようと考えていた。
 マハンいわく、もしこれを実行しても成功しなかっただろうと。

 けっきょく仏軍はロムバルディア平原を占領したことによって、糧食の現地自給が可能になってしまった。

 1796-6時点でネルソンは階級としてはコモドア=代将。なのに『アガメムノン』艦長も兼務していた。 
 
 リヴォルノは、局外中立港。英軍も仏軍も、軍艦を自由に入れることが許されない。

 コルシカ島を英軍が確保できるかどうかは、島民が積極的に英軍部隊に加勢するかどうかにかかっていた。

 ジョミニの評。ナポレオンはイタリアについてはすでに土地勘をもっており、現地がどういうところかよく知っており、陸上の道のりの長短を暗算できた。

 エルバ島はとうじはトスカナ領。広い良港があり、わずかな守兵でも防禦しやすい島だった。

 リボルノ封鎖中の英海軍は、出港する中立船舶には、バラストの土石の搭載だけを許可した。中立船の入港は、いっさい、認めなかった。

 ネルソンは、リボルノの商人たちがフランスに反抗して立ち上がるだろうという甘い期待を抱いていた。マハンいわく。商人は烏合の衆であり、互いに猜疑していて、協同一致などできない。少数でも団結力の強い占領軍には、抵抗はできないのだ。

 ネルソンの不思議なキャラクター。物事をなんでもじぶんに有利なように空想する。また、他人を軽信する。

 英海軍では、生肉が供給されなければ艦内に壊血病が発するという知識はもっていた(p.374)。

 マハンいわく。ネルソンの視野はナポレオンよりはるかに狭かった。

 海戦で降服した敵艦には敵の捕虜を集めて乗せて、曳航する。
 ポルトガルは英国の策源として重要だった。
 スペイン軍艦『サビナ』の艦長は、英スチュワート王朝の後裔であった。

 セントヴィンセント岬沖海戦。1797-2-14。
 夜間、霧の多い海象では、密な「双縦陣」が適している。

 降服のしるしに、ユニオンジャックを掲揚することもある。

 ネルソンによる、英陸海軍気質比較。海軍将校は、これが国家の利益だと思えば、じぶんのキャリアを賭けて即、行動する。陸軍将校は事前計画と命令にだけ従う。決して独断専行しようとはしない(p.457)。

 フリゲート『シーホーク』の艦長、フリーマントルは、新婚で、新婦を艦内に置いていた。
 ネルソンはテネリフェ島に陸戦隊を率いて上陸したところ、敵砲兵の散弾の1丸子が右肘に命中。けっきょくこの腕は切断手術するしかなかった。

 この縫合手術があまりうまくなく、疼痛が長引いたため、ネルソンは怒りやすくなった。当時の縫合糸は、綿糸だった。
 夜間は、阿片を用いなければ眠れないほどだった(p.474)。

 知力と胆略が1人の軍人に兼ね備わることは極く稀だ。ネルソンは、その2つを併せ持っていた(p.480)。

 ネルソンが溺れた不倫相手。世評も操行もふたつながら採るべき所なし。

 1798年、39歳。
 カムポェルミオ条約により、ベルギーはフランスに併合された。ライン河畔の境界地も仏領になった。
 英国が動員できそうな味方国は、地中海方面の小国だけとなった。

 ナポレオンはエジプト遠征の企図をうまく秘匿したので、往きも帰りも、英艦隊は途中で邀撃できなかった。大規模な仏艦隊の動きをまったく偵知できなかった。

 仏艦隊はマルタ、ついでシシリーを取るつもりなのではないかとネルソンは見た。
 これと対決するには、火船、榴弾船、砲艦の増強が欲しかったが、それはなかった。

 ネルソンは、必要な糧食を、中立国だろうとかまわないから強奪してでも調達する決意だった。それについては本国政府の允許を得ていた。

 マハンが参照した資料に、クラーク&マッカーサー共著のネルソン伝あり。

 ロゼッタは、複数あるナイル河口のひとつ。アブキール湾に面す。海戦は、このアブキール湾で起きた。
 この海戦のあと、アブキール島はネルソン島と改名された。

 ネルソンの狙いは、敵の縦陣の中腹をこちらの縦陣で衝くことにあり。
 それぞれの戦艦は、敵艦を片舷砲撃できる位置に達したら、艦首の錨を下ろして、海中に位置固定し、ひたすら砲撃を続ける。

 ネルソンはここでも鉄片が額部に刺さる重傷を負う。晩年、前髪を垂らしていたのは、この醜い傷を隠すため。ネルソンがトラファルガーで戦死したとき、その前髪を切り、記念として艦内の若い将校に与えられた(p.562)。※江田島にあるネルソンの遺髪は、その一部なのか?

 当時、索具には松脂が塗られていたので、火災に弱い。
 仏戦艦『オリオン』は火災から火薬庫が轟爆。

 ネルソンが各艦長に事前に訓示していた基本原則。こちらにABの2艦があり、敵にCDの2艦があるとき、決して、A艦B艦がそれぞれ敵の1艦を別々に追うようなことをしてはならない。かならず、AB合同して、最初にCかDかどちらか1艦を大破させる。そのあとで可能であるなら、討ち洩らしたもう1隻を追え。これが、帆船時代の海戦で大捷利するコツなのだ。

 ※レイテ海戦でも米機は堅確にこっちの『武蔵』1隻だけに集中してきた。
 ※相手が現代の軍艦の場合は、飛行機運用能力やミサイル運用能力を喪失させることが、撃沈することよりも肝要なので、同じ1艦に攻撃目標を集約するのは合理的ではなくなる。

 戦艦1隻には600名が乗り組んでいた。激しい海戦ではその中の100名が死傷する。艦内の惨状、おそるべし。

 ナイル海戦の手柄が評価されて、ネルソンは「ナイル男爵」に叙せられた。
 行賞として、海軍大臣は、諸艦の先任大尉を全員、進級させた。

 1789年後半。ネルソン40歳。

 ネルソンの頭の傷は、半年たってもまだひどく痛んだ。
 榴弾船は、大型の輸送船団を短時間で撃滅するために役立つ(p.570)。

 不倫相手のハミルトン夫人。33歳。名前はエムマという。亭主のサー・ウィリアムは68歳。エムマは後妻である。
 エムマの父母はきわめて貧しく、賤業に従事していた。
 17歳のとき、ハミルトンの甥チャールズ・グレヴィルが、無教養だが美貌のこの娘に実学教育をほどこしてやろうと思った。それは成功したが、操守道徳は教えなかった。

 ※ピグマリオン=マイフェアレディの元ネタかよ。

 この甥、愛人同様にしていたエムマを、家庭外に出さねばならぬ仕儀となった。それで、ちょうど、先妻を亡くしていたウィリアムに預ける=譲り渡す形になった。

 エムマとハミルトンは1791-9-6に英国で婚姻。それからナポリに戻る。ハミルトンは駐ナポリの英国公使。だから艦隊司令官がナポリに立ち寄れば、必ずエムマに会うことになる。 

 エムマはナポリ王妃とも親しい関係を築いた。ナポリ王妃は、マリア・テレジアの子。すなわち、マリー・アントワネットの妹だった。
 ハミルトン夫人は、体躯長大。骨太く、強実だが贅肉は無し。容姿佳麗、眼は鮮碧。髪はブルネット。
 亭主は、これを、我が家のグリシアン=古代ギリシャ人 だと表現していた。

 ハミルトン夫人は、生涯、1人の子も産まなかった。※ネルソンの種も含めて。

 ネルソンは40歳でハミルトン夫人に完全に屈服した。
 亭主のじいさんがそれをどう思っていたのかは全くの謎である。

 他国の侵伐を拒むところの正当防禦(p.601)。※正当防衛という訳語は明治時代には定着していないとわかる。

 ネルソンいわく。シシリー島ぜんぶをくれるといっても、じぶんは、他国の風習に曲従することはない。

 1799にネルソンはロシアの野望を疑った。エジプトのナポレオンに対抗するためという口実でコルフ島を占領し、地中海内に露軍のための要港を占領しようと考えているのではないか、と。

 バルバリー諸邦、チュニス、トリポリ。この3回教国は海賊を商売とし、ナポリやポルトガルとは常時戦争状態にあり。シシリー国旗をかかげてマルタに穀物を搬入する船を襲撃した。英国は、平時はそれを見逃してやっていた。

 訳注。戦闘をもって戦闘を支う、とは、資糧を敵地にとることで、プロイセンの名将某氏がこれを最初に言い出した。今は欧州諸国の常識である(p.628)。

 仏兵の籠もるセントエルモ城をネルソンは開城させた。同城はナポリ市を俯瞰する。
 まず休戦協定。それから「無条件降伏」(p.659)を要求。

 ネルソンはナポリ国王の名代として授権されていた。ナポリには軍法がなかったが、英軍の軍法会議で叛徒の指揮官(シシリー国王の部下である海軍代将)を裁き、『ミネルヴァ』号のマストで絞首刑に処した。罪跡明白なりとして。ただし文書記録がない。

 1799-1にトルコ軍将校がハミルトン公使宅にやってきて、この剣で仏兵捕虜数人を斬り殺した、と自慢した。ハミルトン夫人はその剣を手にとってキスし、かたわらのネルソンにも手渡した。ネルソンは公使宅に4ヶ月間、いりびたりだったという。

 1800年。ネルソン41歳。
 地中海は古参中将の任地。ネルソンは「赤旗」の少将。つまり少将の中では最古参。

 ネルソンの想像。ロシア兵5000人がマルタ島にやってくるに違いない。
 露軍はアルプスを越えてスイスに入った。

 フランスは英国と交渉して、在エジプトの将兵が無事に輸送されることを条件に撤兵を約した。
 ネルソンはしかしこの取引の噂に大反発。1兵といえどもエジプトを去らせてはならない、と。それでは同盟諸国軍の不利になるではないか。

 マルタの封鎖16箇月。フランスはその間、1回も島を援助できなかった。

 檣頭の見張り楼に、望遠鏡を携えずに登る少尉候補生は阿呆である。
 
 対艦射撃では、檣桁を破壊することが大事だった。

 ネルソンはディナーの後には葡萄酒を多量に飲んだ(p.735)。

 スウェーデンのカール12世は豪傑だが、生まれて初めて砲弾の飛翔音を聞いたときは走って逃げた。だれでも最初はそんなもの。

 1800年後半。ネルソン42歳。

 キース艦隊がジェノバを6週間、水陸から攻囲したところ、守兵は飢餓・疾疫に苦しみ、1800-6-5に降服した。
 ところが直後にマレンゴで墺軍が大敗し、マントバで殲滅されそうになった墺将が土地の支配権をフランスに与えたので、もとのもくあみ。

 ハミルトン夫人は船旅が嫌いだった。

 わざわざホストがハイドンを呼んで楽曲を奏でさせているのに、ハミルトン夫人は音楽に何の興味もなく、トランプに熱中していた。

 ナイル海戦のとき、ネルソンは歯痛にも悩まされていた(p.761)。
 ある人の記録。ネルソンは身体が矮小で、威容は無かった(p.763)。ネルソンはハミルトン夫人を崇拝していた。ウィリアム老人は病気で、家政を完全に夫人に委ねていた。そして夫人を褒めていた。

 ネルソンは鈍感な男で、正妻と、ハミルトン夫人が、同じ市にいても構わないと考えていた。ネルソン夫人は劇場で卒倒した。ネルソンがハミルトン夫人に扈従しているので。

 英国王はネルソンに海戦のことをまったく尋ねなかった。英国王はこの時点ではネルソンを軽蔑していたのだ。

 1800年の冬を最後に、ネルソンは、正妻と二度と同宿しなかった。

 フラッグキャプテン=艦隊旗艦の艦長。
 ネルソンの正妻は、晩年、娘のホラシアとパリに済んだ。ホラシアはハミルトン夫人との間に1801-1に生まれた子だろう。3歳になったとき、ネルソンはその養育を正妻に頼んだ。
 
 ネルソンは1801-1-13にトールベイで旗艦に乗り込んだ。この日が、ネルソンが正妻を見た最後の日となった。

 ネルソンは1801-1-1に藍色旗中将に昇進した。すぐに、対デンマーク作戦の内示があった。
 
 バルト諸国のアームド中立。
 1793から1800まで、スウェーデンとデンマークは濡れ手で粟の大儲けをしていた。中立国として貿易を独占していたからだ。
 紛議を醸したのは、バルト海諸邦の特産物である造船材料。英国はそれをフランスに渡したくない。

 デンマークは、英海軍による拿捕をまぬがれるため、商船を大輸送船団に編成して、軍艦数隻で護衛させた。これで臨検を拒否した。こちらの護衛艦の将校が、不法貨物はないと証言すれば、交戦国も臨検の権利はないのだ、と主張。

 これをめぐってデンマーク軍艦とは海上で小競り合いが発生していた。

 1800年、露帝ピョートル1世の対英不満。
 1800-9にマルタ島を英軍が確保した。このとき、英国政府は島をロシアにくれてやろうと思っていた。ネルソンは一時、その命令を受けていた。しかしロシアは1780に武装中立という反英政策をとっているし、今後も長期的に信用できないので、とりやめとなった。島の奪取にそもそも露軍がなんにも協力してなかった。
 11月、露帝は、露国諸港にあった英船300隻を押収。その水夫は内陸へ捕え去り、港の倉庫中の英国貨物は封錮。マルタ島と取引する肚だった。

 12月16日、ロシアはまずスウェーデンと、武装中立条約締結。於・サンクトペテルスブルク。ついでデンマークとプロイセンもそれに加盟。
 これは紙上同盟である。すぐには英国との交戦状態は発生していない。しかし英国としては、先手をとって撃砕するつもりで準備した。

 ナポレオンは巧妙だった。陸戦で露軍を撃破したあとで、その捕虜を全員、送還してやった。しかも、英国に奪われる寸前のマルタ島を露帝に寄贈することにより、露英を対立させようとしたのである。なお、ピョートル1世は、半狂人であると思われていた。

 同じ三層甲板戦艦でも、吃水には差がある。バルト海は、吃水の大な戦艦では活動ができなかった。

 片腕しかないネルソンは、洋上で、小舟から戦艦に上がるのがたいへん苦しい(p.792)。だからいったん出港したら、その艦に居っぱなしとなるのである。どこかに寄港するまでは。

 デンマーク攻撃にさしむけた艦隊の中に、榴弾艦が7隻あった。コペンハーゲンを焼夷するために。

 ネルソンはボンクラ上司を馬鹿にする癖があり、この方面艦隊の総司令官ハイドから最初から冷遇された。しかしネルソンとしては珍しく、ドッガーバンクで釣れたカレイを美食家のハイドにプレゼントするという賂い行為を工夫し、それから、文書での建策が頻繁にできるようになったという。おかげでコペンハーゲンに殴りこむ枝隊を任せてもらうことができた。

 慣習法的なルールでは、デンマークには48時間の(武装中立同盟を脱する)回答の猶予を与えねばならない。ネルソンは、それを嫌った。速戦決勝でなくてはいけないと。

 牡牛の角と戦うな。尻尾を攻めろ――とはよく使われていた比喩。

 ネルソンの腹中では、デンマーク海軍を屠ったあとには、バルト海で、ロシア艦隊との決戦が起きると予期していた。そっちの方を楽しみにしていた。

 スウェーデンの沿岸砲台が英艦隊に発砲しなかったので、英艦隊はゆうゆうとデンマークの沿岸砲台の射距離外から接近できた。デンマーク砲台は無駄弾を撃ちまくった。

 艦隊はまずコペンハーゲンから5浬に投錨(p.812)。※当時の大砲は5カイリ=9260m離れていれば絶対安全であった。

 デンマークは、檣桁がなくなっている老廃軍艦を、汀渚に接して浮き砲台として排列。その北端に、埋め立て台場の「三冠形砲台」が位置する。コペンハーゲン市外は南端にあり。

 ネルソンは軍議のとき、他将による危惧や不決断の発言を耳にすると、舌打ちした。
 軍議は、露艦隊がやってくることを恐れていた。ネルソンは、露艦隊の数が2倍であっても大歓迎だと言った。
 仏艦隊にはとにかく密接して射撃を交換すればよい。露艦隊には、機動で勝てる。そう考えていた。

 デンマークの陸上榴弾砲は、2浬(3704m)は届いた。しかし命中率が悪いので、ネルソンは平然と、その距離にいったん33隻の麾下軍艦を碇泊させて次の日の朝を待った。

 水深測量で竿を用いる場合がある。これは、敵にわずかな音も聞かせたくないときに。

 午前1時、諸命令の草案を決定。書記6名に、最前艦室で謄写せしむ。
 その晩、ネルソンは一睡もせず、30分おきに風位を尋ねた。

 ナイル海戦、トラファルガー海戦では、細かい計画など事前に立てるのは不可能だったので、大方針だけを示している。しかしコペンハーゲンでは、ネルソンはかなり細かく事前に命令した。

 敵の縦陣は浮き砲台と現役軍艦がつらなった物で位置は固定。その主力は縦陣前から5番目にあった。まずこちらの縦陣の先頭艦はその5番目の敵艦の真横で投錨して砲戦を開始する。こちらの2番艦と3番艦は、こちらの先頭艦を超越した位置に投錨してこちらの先頭艦を助ける。こちらの4番艦以下は、こちら先頭艦の尻につらなって投錨して砲戦する。こうすることにより、敵の5番艦以下は、逐次通過する英艦に連打されて、先に壊滅するはずである。敵艦が大破したと見たら、味方艦は錨索を切断して、北翼へ回れ。

 味方の榴弾艦は、平浅端艇を1隻曳航して、機会あらば、三冠形砲台を歩兵で襲撃する。

 いきなり、浅瀬に英軍の2大艦がスタックしてしまい、ネルソン大いに怒る。怒っているときは、右腕の肘から上の部分が動くので傍から分かるという。

 戦闘中、ネルソンは、艦の後甲板をずっと歩き回っていた。

 ネルソンは総司令官からの信号旗を無視して砲戦を徹底させた。敵砲台が沈黙していないのに艦隊をそこから立ち去らせれば、敵は、士気を回復してしまうので。

 戦端がひらかれてから1時間で、デンマーク軍の反撃が著しく衰えた。
 デンマーク艦隊の旗艦『ダンネブロージ』は火災を起こし、艦隊司令長官は他艦に移乗。その後、三冠砲台の近くにみずから座礁して、最終的に大爆発。

 英軍は浮き砲台を陸戦隊で確保した。勧降書を送り、もし抗戦を止めないなら、これら浮き砲台を捕虜ごと焼棄すると脅した。

 休戦は提議しなかった。接収した艦から捕虜をおろす間、一時的に発砲を止めよと要求したのみ。
 ネルソンは陸上のデンマーク軍に「停戦旗」を送った。

 けっきょく、両軍ともに停戦旗を掲げた。

 3月24日夜、露帝ピョートルが暗殺された。武装中立連盟の柱が折れた。しかしネルソンはそのことを知らなかった。

 4月3日、ネルソンは上陸してデンマークの皇太子と面会。
 デンマーク側は、脱盟によりロシアを怒らせることを恐れていた。英軍は、従わなければコペンハーゲンを焼き討ちすると脅した。

 ネルソンは交渉の席で言った。16週間休戦しよう。そのあいだにロシア艦隊を屠って、またここへ戻ってくるからと。

 4月9日、休戦協定。14日間、戦闘を中止する。デンマークは武装中立を脱する。その軍艦は修理しない。

 4月2日、コペンハーゲン駐在の露国公使から、露艦隊は一切の対英抗戦を中止したと連絡あり。

 この時点でロシア艦隊の一部は氷のために出動できなかったが、もうじき海氷が融ける頃だった。

 ネルソンはふだん、朝4時~5時に起床。就寝は夜10時。朝飯は5時~6時。このとき1~2名の少尉候補生を陪食させた。その予告は、彼らが前夜見張り上番しているときに知らせた。
 事務は朝8時までに片付けた。
 午餐には、艦内の将校1名を陪食させた。

 1801年6月19日にブリグに移乗し、バルト海を離れ、7月1日に英本土ヤーマスに上陸した。

 1801-2-9、仏墺はリュネピール条約を締結し、これより4年強、欧州大陸に兵戈を見ず。

 フランスは、マルタ、エジプト、バルト海(武装中立同盟)のいずれも、英国の海軍力のために企図が破られた。

 ネルソンの基本的な考え。英国の防衛の第一線は、敵の港とその近海である。そこで敗れた場合に、第二線として英本土海岸が焦点になるのだ。

 ナポレオンの英本土侵攻はあるか? ブーローニュ港などに250隻の艦船を集結させれば、いつでも2万人で襲来できる。
 海峡横断には12時間かかる。
 上陸点は、ドーバーの西(ロンドンから70マイル)と、ドーバーの東。そこに同数(2万づつ)の兵力を揚げる。
 それが理想だろうが、ネルソンのみるところ、ロンドンから100マイル以内なら、どこでもよいのである。
 
 テームズ・ガレーと呼ばれる、快駛艇あり。これは命令通信の伝達に重宝。

 ロンドン防衛のための「常置浮砲台は、一時移動するの利なるが如きことあるも妄りに移動すべからず」(p.881)。
 なぜなら、潮汐の関係で、旧位に戻せなくなることがあるので。

 仏兵が英本土に上陸したら、陸海から全力ですぐさまそこに集中して撃滅する。成敗は度外視してかからねばならない。内陸でのかけひきなど考えてはいけない。

 テムズ河口の主要水道には、浮き砲台として木艦を置く(p.884)。
 ネルソンは、浮き砲台のメリットとして、どんなに戦況が不利でも潰乱しないことであると見ていた。だから、移動してバラバラになるのは、よくないのである。密集して動かないのがよい。

 ネルソンは、味方の軍事力の分割については、それが特に弊害があるとは思ってなかった。基本的に敵を軽視していたので(p.887)。
 ※自軍の艦隊を分割してはならないという主張は、マハンのオリジナルであって、ネルソンは少しもそんなことは考えていなかった。それをマハンは正直に認めている。

 英国には「内国防禦海兵」というのがあった。海軍の予備兵だが、敵軍が英本土に上陸しそうなときには、海岸防禦に動員されることをあらかじめ承諾している。配置は陸上の陣地とは限っておらず、沿岸機動船のこともある。そのかわりに、敵が上陸しないうちに艦隊に強制服役させられることはない。数は2500名くらいいた。ところがやっぱりいざとなると応召しようとしない。385人しか集まらなかった。ネルソンは見込みが外れて、やはり敵国海岸で作戦しないとダメだと考えを切り換えた(pp.895-7)。

 手に優多の兵力を領握しながら、今、戦うべきや否やを諮詢するは、必ずその意、戦いを欲せざる者なり(p.898)。
 
 端艇による2列縦陣艦隊がバラけないようにするには、相互に綱で結ぶとよい。
 臼砲を搭載した平浅艇も、港内防禦に役立てる。

 ネルソンは片腕なので英本土の港の沖で大艦に乗っていると乗り降りが不便でしょうがないので、乾舷の低いフリゲートに座乗する。ところが小型艦は風波による揺れが大きい。天候が悪いときにフリゲートで船中泊を続けるのは、これまた苦行であった。

 ロンドンの細民は、フランス公使の馬車を引いた。歓迎していたのだ。ネルソンはそれを見て怒った。

 ネルソン43歳~44歳。

 ネルソンはハイドパークから馬車で4時間のところに土地と家を購入して、エムマとその母親を住まわせた。正妻とは事実上、離別。そのかわり1年に1800ポンドを送金する。
 土地は農園付きで、1周散歩すれば1マイルになる。

 老ハミルトンは、じぶんの夫人がこんなことをしているとは死ぬまで気づかなかったと考えられる。ハミルトンの書簡が残っていて、それを全部点検したマハンの結論。

 1802にその家を訪れた人の記録。ハミルトン夫人は、亭主の老人がもうすぐ寿命が尽きると期待していて、そのあと、ネルソンと正式に婚姻する気であるように見えた。
 じっさい、1年ぐらいして病死した。

 ネルソンは、就寝前と起床直後に、必ず拝跪して神佑を懇祷した。それを1日も欠かしたことはない(p.930)。これは幼少からの習慣であった。

 トルコの皇帝は、コペンハーゲンの功を賞してネルソンに勲章を贈った。

 ネルソンの持論。戦功の標章は、タイミングがとても重要である。戦乱のたけなわであるときに授けるのが、いちばんよい。もし、平和になったあとで叙勲すると、それは旧敵国人の感情を悪化させる。

 英国の細民は対仏戦争に大賛成だったわけではない。1793から1801のあいだに、4万2000人が逃亡して服役を免れている。だからネルソンは、海軍による強制徴募に大賛成だった。

 ネルソンの提案。海軍水兵として5年精勤した者には、年額2ポンドを年金として与えてはどうか。
 ちなみに、ナイルとコペンハーゲンで手柄を立てたネルソンに与えられていた年俸は、2000ポンド。

 海軍本部のヴィンセント卿は、改革のための予算と時間を確保するために、対仏作戦には消極的だった。
 
 1803年5月12日、パリの英国公使は最後談判書をフランス政府に交付し、かつ、通行券を請うて、パリを去り、16日、英国政府はフランスに宣戦した。同月、ネルソンは、地中海艦隊司令長官たるの辞令を海軍本部において得た。
 48時間以内にポーツマスで『ヴィクトリー』号に座乗し20日に出帆。
 これは、ハミルトン老人の病死の1ヵ月後だった。

 このあと英本土に戻るのは1805-8で、それはごく短時間の滞留である。

 ナポレオンは1896年には、いつでもナポリを占領できたが、敢えて進駐を控えていた。
 七島共和国とは、コルフ島とその姉妹島の一群。

 地中海にはボトルネックが2箇所ある。ジブラルタルと、メシナ海峡。

 ツーロン港の監視のために英本土を出港したネルソン艦隊の軍艦の一部は、連続2年間、海に浮かびっぱなしであった。22ヶ月間、まともな港の岸壁につけなかった戦艦もある。

 中立国しか近辺にないと何が不便か。艦員の健康に不可欠の生肉を購入しようとしてツケが利かない。金銀貨で支払わない限り、売ってくれない。

 飲料水を運ぶ運送船がないときは、艦隊がバラバラにならぬように、汲水地へ全艦隊で押しかけるのがよい。

 サルジニア島は土地が痩せていて、農業は不振であった。しかし、陸軍や海軍を展開するには、屈強の島だった。ツーロンへは24時間で船を到達させることができる。だから英国政府は、幾度もこの島を購入しようと、島の王様にはたらきかけた。

 ナポレオンはディスインフォメーションを飛ばしてネルソンを翻弄することが上手だった。

 水兵を病気にさせるような司令官/艦長では、戦争には勝てない。ではどうやったら水兵の健康を保てるか。同じ場所にフネを貼り付けないこと。頻繁に、監視対象港をローテーション式に変更させる。これで水兵は気分転換になり、病気にならない。その近くに、補給の頼りになる中立港がなくとも、場所を変えることの方が、精神衛生にはプラスなのである。
 補給の頼りになる港にも、頻繁にフネを近づけて、水兵を乗せた端艇を派遣して糧食を購入させる。
 病人には、新鮮な羊肉を与える。
 牛肉は、得られる場所では必ず購入する。
 冬期は、葡萄酒の代わりにグロッグを与える。訳注、これはアルコールと飲料水を混ぜたものである。

 壊血病のことを「貧血衰弱諸症」と訳している(p.1003)。

 ネルソンは視力の衰えも自覚していた(p.1007)。ネルソン45歳。

 ハミルトン夫人は女児を出産したが、この娘はすぐに早世。1804-1のこと。ネルソンは洋上にあり、手紙で知らされたのみ。

 ネルソンは主としてツーロン港の西側で監視を続けた。仏艦隊はアイルランドを襲うつもりではないかと個人的に予想したので。

 ネルソンが切望した情報。仏艦隊は、何日に出撃し、何日にどこへ到るべしという命令を受けているのか、その文書証拠。
 ツーロン港内の様子は分かる。だが敵将の企図だけは知りようがない。

 ネルソンの母親はフランス嫌いだった。ネルソンも、仏人とコルシカ人は信用できないと言っている。

 6月中旬の南仏海岸は、午後7時半でもまだ白昼同然である。※高緯度なので。日本の北海道よりも北。

 1804-5-12に英内閣の更迭。ヴィンセント伯は海軍大臣を罷免され、メルヴィール卿にかわる。その直前にはネルソンは「白色旗」の中将に昇進させられた。ネルソンはこの階級のまま、18ヶ月後に戦死するのである。

 ネルソンは1803-7-30に『ヴィクトリー』号に乗ってからというもの、上陸したのは、1805-6のマルタのみ。 
 つまりいつも艦上にいるので、乗り組みの将卒もその姿を見て、長期の監視任務で苦しいのはじぶんたちだけではないと覚るのである。

 南仏海岸では、夏でも週に一度は大強風あり。また、週に2日は波が高い。

 ネルソンはじぶんの方針として、『ヴィクトリー』に婦女を乗せることを禁じていた。とうぜん、ハミルトン夫人から何と言われても、乗せない。

 10月になると、朝食はランプの下で。寝るのは午後8時となる。

 午後2時から楽隊が奏楽する。3時15分に、鼓手が、「ザ・ローストビーフオブオールドイングランド」という1曲で、提督に午餐の準備ができたことを知らせる。午餐は3時に配膳される。通例は肉3皿、美菓1皿、最良葡萄酒4杯、シャンペン、クラレット。

 午後4時半~5時、コーヒーとリキュール。これでお開き。このあいだ、楽隊は1時間近く、演奏しっ放しである。

 マハンいわく。ネルソンは喫煙しなかったと思われる。記録中に、ひとつも煙草が出てこないので(p.1030)。

 夜の8時にパンチを飲み、9時に就寝。ただし連続2時間以上の熟睡は稀。

 ネルソンは壮年時代に関節痛にくるしんだが、肉と酒を断つ生活を2年続けたら、それは治ったという。

 ネルソンが若い頃、壊血病の原因は塩だとする説があって、ネルソンはいらい、ずっと、塩断ちしていたという。

 ネルソンは甲板上を1日に計7時間も歩いていた。だから運動不足ではない。

 ネルソンは長靴を履かなかった。片手では無理なので。いちいち従僕もわずらわせたくはない。

 天気が急変するときは、腕の切断面にリューマチスのような疼痛を覚えた。この症状は、若いときに切断した患者だと現れないが、中年以後の切断患者には、必ずあらわれる。

 太陽に視力をやられないように、額に大きなバイザーをつけていた。

 ネルソンのジェノバ封鎖のやり方は、国際法違反だといわれた。理由は、海岸から見てその封鎖艦隊が見えないので。
 ネルソンの反論。入出船の拿捕を実効的にできれば、それは問題ないのだと。
 ※口先宣言だけのブロケイドはゆるされないという通念があった。

 ネルソンの持論。ジェノバの船が大西洋に出ないようにするには、ジブラルタルで監視するよりも、ジェノバ港の沖で封鎖するのが合理的なのである。

 マルタの複数の英国商船が、アルジェリアの海賊に襲われて、1803時点でも人質にされていた。この海賊はサルジニアまで襲来し、上陸して牧羊者を攫う。牧者は小銃で武装しているが、やられる。
 ネルソンは懲罰したがったが本国政府に禁じられた。対仏戦の軍備が分散されてしまうので。

 ネルソンには「祐筆」がいた。軍僧のスコットである。ふだんは博士と呼ばれていた。マルチルンガルなのでコペンハーゲンの外交交渉でも重宝した。

 ネルソンは知識人同士の討論を側で聞いているのが好きだった。この癖はナポレオン
も共通。

 パリの新聞は情報収集の役に立った。スペイン経由で、発行日から10~15日には目を通すことができる。これを毎朝、スコットに朗読させた。ネルソンは仏語は聞くだけなら理解できる。

 ネルソンの艦内の椅子は革張り。それを複数、革紐で連結すると、簡易ベッドになる。
 ネルソンには、15歳の少尉候補生を、戦死後ただちに海軍大尉の決位に補する権限があった。
 夜間に落水者を救うため海に飛び込んだ少尉候補生も、大尉にしてやった。ただし、今後これをマネして海に飛び込んでも昇進はさせないと公布した。

 ネルソンの持論。司令長官にこのような任意の人事権がないならば、統帥などできないと。

 人、その為すべからざるのことを為すは、我、またこれを為して可なるの道理とならず(p.1055)。
 部下に念を押した。中立港の権利を侵害するな。ただし、その港が、仏国艦船が英国艦船を攻撃するのを許可した場合には、そこは中立港とはみなさないで宜しい。

 「小児玩弄の木片」(p.1059)。※M39に積み木という日本語はなかったらしい。  

 Maidstone はケント州の都市。

 当時、敵の財宝船を拿捕した艦長や乗組員には、その分捕り私有が認められていた。だから、スペイン船等を拿捕できる機会が多い地中海は、人気の赴任地だった。

 地中海艦隊司令長官時代のネルソンは資産がどんどん減っていった。正妻には年1800ポンドを送らねばならず、ハミルトン夫人には年1200ポンドかかり、他に、私有地私邸の維持費があった。艦内で、「官品」の糧食以外を飲食した費用もすべて私弁であった。

 フランス艦隊は、しばしば、いかにもすぐにこれから港を総出撃するかのような陽動を示した。封鎖監視中の英艦隊はそれにいちいち翻弄された。

 ネルソンの読み。地中海東部にロシア艦隊が増強されつつあり、したがって仏艦隊はそっちへはもう行かないだろう。逆に、ジブラルタルを抜けて、大西洋を横断し、西インド諸島を狙うのではないか。陸兵7000人を搭載して西インドに殺到したら、同地の英領は全部フランスに奪われかねない、と。
 オプションとして、アイルランド侵攻もあり得るが、それよりは西インドではないか。

 「直に牡牛の眼を貫けり」(pp.1067-8)。※ブルズアイという英文表現が分からず、やけくそで直訳しているようだ。すごい訳業である。 

 フランスの軍艦には、信号火箭があった。緑色と橙色があった。暇なときはこれを夜の花火代わりにして遊んでいた(p.1079)。

 英国はスペインとは10月10日に国交断絶。

 ネルソンは1805-1-11に、マグダレナに移動。これで、長期のツーロン封鎖は終わったことになった。

 持論。最も大胆な策が、最も安全な策になる。
 小国が敵陣営に呑み込まれるのを助太刀もせずに見殺しにするのはよくない。というのはその小国軍は、こんどは敵陣営の尖兵となって、こっちに攻めかかってくるからである。

 1806年。ネルソン46歳。
 ナポレオンの野望は、15万人で英本土を征服すること。
 陽動として、2万人をアイルランドに上陸させるつもりだった。

 当時の帆船軍艦でも、強い追い風なら13ノットを出せた。

 訳注。バルクヘッドは、艦室および事務室を、他の甲板と隔断するための板壁である。戦闘時にはこれを撤去して、往来を自在にする。この板があると、スプリンターの元となり、かつ、火災時の燃料になってしまうので。

 当時、戦艦の塗装に「ネルソン風」があった。2条の黄線を画し、四角形の砲門蓋は黒く塗る。これで、舷側が格子模様になる。

 戦闘序列にも「ネルソン式」があった。
 戦艦6隻で敵の11隻と海戦しようとするのは、当時でも、無謀であった。

 仏艦隊はまんまとツーロンを発してジブラルタルも抜け出た。ネルソンはその目的地が西インドだと信じたが、空振りになる。
 ジブラルタルでは潮が西から東へ流れ込んでいる。だから西風が吹いていると帆船は地中海を出られない。東風が吹いてくれないと困る。

 開帆を命ずる信号旗は緑色で、「ピーター」旗という。
 戦艦が輸送船を曳航しながら、西を目指した。

 西インド諸島海域まで、平均、時速5~6ノットだった。
 艦隊であるためいちばん遅い船に合わせるしかない。

 バルバドスまで24日だった。

 仏艦隊は、マルチニックに到着すると、病兵1000人を上陸させたほか、死体1000を埋葬したという(p.1147)。※そんなに多数ならば水葬にしないのはおかしい。

 仏艦隊はアンチギュア島で油断していた英国商戦14隻を拿捕した。

 仏艦隊司令長官は、英本土攻撃を、この西インドで早々とあきらめた。そしてフランス本土に戻ろうとしてまず北航。これは西風をとらえるためには必ず北米沖まで出ないといけないため。

 ネルソンは、無防備に近かったウインドワード諸島を仏艦隊が上陸寇掠しようとしていないことから、英本土攻撃の能力や気力はなくなっていると見抜いた。

 ネルソンは、艦隊からジブラルタル宛ての私的な手紙の発送を禁じた。こちらの動静が敵に知られてしまうおそれがあるので。

 海軍のための見張りや信号を担任している山上の哨所には、日没時と日の出時には、かならず2名の者を配置しておかなければならない。

 1805夏。ネルソン46歳。
 軍艦がロンドンに着いたら24時間、検疫のため沖で待たされる。司令長官すら勝手に上陸はできない。

 ロンドン庶民は群呼してネルソンの馬車について歩いた。ネルソンは対仏決戦の前から英雄の扱いであった。

 自分用の棺桶を、旧軍艦の材木で作らせておく場合もある。

 仏艦隊はスペインのカディス港を恃んでいるようだった。ネルソンは火箭攻撃を考えた。その次はブロケイド。

 中立の貿易船も拿捕して敵艦隊への補給を阻止する方法を政府と協議した。これはネルソン死後の1807年に英枢密院が免許状として具体化した。

 ネルソンは、大砲を撃ち合う海戦は、大砲の数と近さが決すると考えていた。三層甲板戦艦は、二層甲板戦艦よりも大砲の数は多い。しかし、遠くから撃ちかける大砲の弾丸の威力は、舷を接して撃ちかける大砲の弾丸の威力に劣る。
 この条件をつくりだせばよいので、それに自信のあったネルソンは、軍艦の隻数を問題にしてはいなかった。

 1805秋、ネルソン47歳。
 ポーツマスでビクトリー号に乗り込もうとするとき、民衆は黒山のように集まり、ネルソンの顔を見ようとした。流涕する者あり、跪拝して幸福を祈る者あり。

 ネルソンは艦長ハーディに、端艇の中で語った。かつては、歓声だけを貰った。今日は、彼らの心を貰った、と。

 あちこちであまり大騒ぎをしてもらいたくはなかった。というのは、こちらの意気が高いことがフランス側に伝わると、仏司令官は戦意をなくしてカディス港内から出てこなくなってしまう。それでは決戦を強要できないのである。

 ネルソンが艦隊の各艦長に与えた事前命令。これは簡易なものだが、明瞭なものではない。当日、何かの理由が旗艦に信号旗が揚がらなくとも、こういう意図を司令長官は持っているのだと知らせておいた。

 プライオリティの筆頭。こちらの艦隊をすばやく、敵艦に相接する位置へもっていくこと。
 次に、勝敗が決するまで、英軍艦は、敵軍艦から分離してはならない。

 機動は最小にする。単なる位置取りのためにまる1日を空費するようなことはしない。
 基本は、こっちの艦隊は、敵艦隊に対して、風上に位置する。
 反航で、敵単縦陣の先頭艦の風上側をすれ違うように、にじりよる。

 ついで、こっちの先頭艦が、敵縦陣の中央艦(前から6番目の艦)と7番艦の間に割り込むように機動する。味方後続艦も一斉に、最寄の敵艦のケツに割り込み反転。

 それから、敵縦陣の先頭の6艦を、こちらの縦陣の全艦で風下側を近接並走しながら袋叩きにする。敵は風上側なので逃げられない。
 
 敵縦陣のしんがりから2~3艦は放置しておいてよし。 

 場合によっては、敵の中央艦ではなく、敵の先頭艦にまず肉薄する場合もある。が、やることは同じ。とにかく敵縦陣の1番艦から6番艦までを後続から分断して、こっちの全艦でその6隻を至近距離から包囲し、あるいはなで斬りにする。

 こうすれば、敵の先頭艦は、こちらのしんがり艦が近づくころには、もう浮かぶスクラップになっているはず。

 全艦隊を、各16隻の2戦隊とする。第3の予備艦隊として、快速の二層甲板艦8隻の小艦隊を司令官は掌握する。これは2戦隊のどちらかへ、臨機に加える。するとその戦隊は24隻に増強されるわけ。

 まずさいしょに、敵の司令官が座乗している戦艦を確実に始末しなければならない。それはおそらく敵の縦陣の中央に位置しているだろう。その旗艦をやっつけるためには、その旗艦に先行する2~3艦も、同時に制圧しなければならない。

 次席将官は、ネルソンの信号が見えないとき、もしくは解らないときは、その麾下艦隊を、とにかく敵艦に舷々接するように位置させたまま撃ち合っていればよろしい。

 最初に中央艦を襲撃すれば、敵縦陣の先頭艦は、遊兵になってしまう。急に転回してもなかなかこっちの軍艦に追いすがれない。

 三層甲板の大艦は、風に逆らって機動することが難しい。強い風に吹き流されやすい。
 軽快なフリゲートが足りないと、敵艦隊の動静を失ってしまう。だから、ISRは戦艦よりも大切なのである。

 1805年10月19日~21日。トラファルガー海戦。ネルソン47歳で死す。

 敵艦隊は、フランス軍艦18隻、スペイン軍艦15隻。
 スペインの三層艦がいちばんデカくて、大砲が130門もあった。
 英艦隊には三層艦が7隻あり、その最大のものは大砲100門。この7隻以外はすべて、敵艦より砲数の少ない艦であった。

 10月20日は、朝から南南西の風。強雨あり。大波が西から捲いてきた。これは暴風雨の前駆である。

 敵艦隊をカディス港内へ引き返させぬように、過早の接近を戒めた。
 夜間や荒天のときは、艦隊を5縦隊に直した。さもないと離散してしまう。

 夜が明けると、英艦隊は北首して進み、敵艦隊は南首して進んでいた。彼我の距離は10~12浬。

 21日の昼に海戦がスタート。英艦隊は2縦陣となって、敵単縦陣の中央やや先頭寄りと、中央やや後尾寄りに、90度の角度で楔入した。

 砲戦では檣桁がズタボロになる。その状態で風に吹かれるとジブラルタル海峡近くの浅瀬に座礁する恐れがある。だから海戦が終わったならすぐに投錨できるような用意もしておく必要がある。

 フリゲート艦に与えた命令。カディスに逃げ込もうとする残存艦を追え。それを優先し、溺者救助などは後回しにせよ。

 海戦前には艦室内の余計なものはすべて片付ける。
 英側は、照準が確実でない限り、大砲の無駄撃ちは許さない文化あり。
 
 仏艦が第一弾を発した。すると、3ヵ国の軍艦は、皆、国旗を挙げ、その将官はまた将官旗を挙げた。これは烈戦を始める前の文明国海軍の礼式である。

 当時の艦砲は、2マイル弱の最大射程しかなかった。
 負傷者は、甲板上に散居させた。

 仏側がまさっていたのは、上甲板に多数配置した小銃射撃手。ネルソンはこうした運用を好まなかった。大砲の弾で死傷してしまうことが明らかなので。しかしこの日は仏側の小銃手は多大な損害をヴィクトリーの人員に与えた。 

 小銃の1弾がネルソンの左肩から肺に入り、動脈を傷つけ、背骨を貫通して、背中の皮下に盲貫となる。以後、会話はできるが、動けなくなる。

 ネルソンは下甲板に運ばれた。そのさい、じぶんのネッカチーフで顔と肩章を覆った。味方の将兵の意気を消沈させない配慮だった。

 ネルソンはしきりにレモネードを求めたので、介護者はそれを飲ませてやった。
 海戦がほぼ勝利にきわまった後、やっと艦長ハーディが見舞いに降りて来た。ネルソンはハーディと熱心に握手した。ハーディは、敵艦すくなくも12隻を捕獲したと報告した。
 最初から相手にしなかった敵単縦陣の先頭の5艦がようやく転回してヴィクトリーの方へ向かってきているので、動けないヴィクトリーの回りに、いまだ戦闘加入していない味方艦3隻を集めて護衛させた。

 ハミルトン夫人へは、私物一切と、頭髪を与えよと遺言。
 胸部より下は感覚なく、動かすこともできない。
 軍医は、助かる見込みはないと告げた。

 神よ、私は私の任務を果たしました、とネルソンはつぶやいた。

 ネルソンは、じぶんの死骸は水葬にはするな、と注文した。

 人事不省におちいってから15分で絶命。時刻は午後4時半。負傷してからちょうど3時間だった。
 砲戦は午後4時半までまったく止まなかった。

 版元の博文社の巻末自社広告で『陸軍解説』という200ページの本、題辞は陸軍少将東條英教君。