竹で防具をこしらえなかったのは、ささくれが危険だったから?

 William J. Prom 記者による2019-11-25記事「The U.S. Navy in the War of 1812: Winning the Battle but Losing the War, Pt. 2」。
   米連邦議会内の鷹派が無謀にも主張したように、合衆国がカナダを併合できるかどうかは、オンタリオ湖、エリー湖、シャンプレン湖の支配にかかっていた。

 シャンプレン湖は南北107マイル、東西14マイル。リシュリュー川が北流してセントローレンス河までつながっている。

 1812-9-28に海軍長官ポール・ハミルトンは、シャンプレン湖の合衆国海軍の指揮官としてトマス・マクドノー少佐〔当時の米海軍ではルテナントと呼ばれる〕を任命した。

 合衆国は同湖を1813-6まで支配した。
 しかしマクドノーの副官のひとりが、英国砲艇を追跡しているときにスループ船『グラウラー』と『イーグル』を座礁させてしまったので、以後は英軍が支配した。

 その2隻は英側のものとなり、それぞれ『フィンチ』『チャブ』と改名された。

 マクドノーの手元に残されたのは、修理が必要なスループ船×1隻と、人員が手配できない砲艇が2隻だけとなってしまった。

 同湖の英側司令官ダニエル・プリング中佐は、湖畔の米軍兵舎と倉庫を破壊し、数隻の民間船を捕獲した。

 マクドノーは艦隊の再建を急いだ

 8月3日、英スループ×2隻とガレー船×1隻が、ヴァーモント州の岸に係船して修理中であったマクドノーの艦隊を襲撃。米船×2隻を捕獲して去った。

 この時点でマクドノーは中佐〔当時の米海軍ではマスター・コマンダントと呼ばれる〕になっていた。彼には部下も艦艇も大砲もすべて足りなかった。

 しかし英軍も、湖の南方隘路を塞いでいる米軍を追い払えなかった。

 英軍は、セントロレンス河から、橈漕船をセベラル隻、湖へ増派した。そこでマクドノーは、新海軍長官のウィリアム・ジョーンズを説き、こっちも15隻の橈漕船を現地で新造できるだけの人員と需品を受け取った。
 需品資材の多くはしかし、ガレー船ではなく、本格帆船の建造に充当された。

 オリバー・ハザード・ペリー中佐が1813-9-10のエリー湖海戦で勝利すると、英陸軍の南進ルートとしては、シャンプレン湖しかなくなった。

 そこでマクドノーはオッター・クリークの河口で、艦艇の新造を冬のあいだも続けさせた。

 2隻の砲艇ができたのに加えて、マクドノーの船大工たちは、700トンのコルベット『サラトガ』を、たった40日で竣工してくれた。

 『サラトガ』の武装は、8門の24ポンド砲、6門の42ポンド砲、12門の32ポンドのカロネード砲(短砲身で海戦用に特化している)。

 さらにマクドノーは1隻の建造中の蒸気船も購入したのだが、エンジンの信頼性が低すぎると分かって、スクーナー船仕様に艤装を変更させた。
 これが『タイコンデロガ』である。武装は12ポンド砲×8門、18ポンド長砲身砲×4門、32ポンドのカロネード砲×5門。

 4月に湖面の氷が融けると、マクドノーは『サラトガ』および新造砲艇×6隻を進水させた。それに必要な武装と乗員は不十分であったのだが。

 5月14日、大佐になっていた英海軍指揮官プリングは、先手をとるべく、新鋭のブリグ船『リネット』と8隻の橈漕船でもって、オッター・クリーク河口を襲撃した。しかし陸上砲台からの米側の反撃を受けて、撃退されてしまった。

 2週間後、マクドノーは、『サラトガ』『タイコンデロガ』、セベラル隻の橈漕船、スループ船の『プレブル』をシャンプレン湖に進出させた。『プレブル』の武装は、12ポンド砲×7門、18ポンド長砲身砲×2門である。
 これで一時的に湖の支配権は米側に傾いた。

 そこに4人の脱走英兵が、情報をもたらした。プリングは、『サラトガ』に対抗できる新艦を起工させた。また、11隻の橈漕船もあらたにセントロレンス河から呼び寄せるつもりだという。

 7月になると、その新造艦は『サラトガ』より大きなフリゲート艦であることがはっきりしてきた。8月前半に完工すれば、英軍は撃って出てくるであろう。

 ジョーンズ海軍長官は、オンタリオ湖のような決定的な作戦をすることなくマクドノーが建艦競争ばかり進めようとするのにうんざりしていた。しかし、新規に18隻の砲艇を整備するのに必要な資材と船匠をシャンプレン湖に送った。

 19日間で新ブリグの『イーグル』が完成した。18ポンド長砲身砲×8、32ポンド・カロネード×12。
 8-27にマクドノーは、『サラトガ』『イーグル』『タイコンデロガ』『プレブル』『モンゴメリ』、10隻の橈漕船を、カナダ国境近くに集めた。それにより英艦隊をリシュリュー川に閉じ込めるつもりだった。

 その北方では、英総督ジョージ・プリヴォスト将軍が、1万4000人の陸上侵攻部隊を編成して、シャンプレン湖西岸からニューヨーク州に攻め込ませる準備をしていた。

 この軍隊は規模も最大級だが、ナポレオンとイベリア半島で戦った歴戦兵が混じっているところが、おそろしかった。

 英側の湖艦隊司令官は9月2日にジョージ・ダウニー大佐になった。

 マクドノーは英軍の水陸からの南下をおそれて艦隊を下げた。
 マクドノーは、英軍を迎撃するには、西岸中央のプラッツバーグ湾が、水深もあって最適だと判断した。マクドノーには2年の現地経験があり、土地については完全に把握していた。

 陸岸に布陣した味方砲兵(6ポンド砲)からの支援射撃が受けられるし。

 英軍には、新造フリゲートの『コンフィアンス』が加わっていた。
 1200トンもあった。進水したばかりで、船匠や擬装員はまだ乗ったまま。
 焼玉を発射するための炉も備えていた。

 ダウニーは、1814-9-11に米艦隊との決戦を求めて南下。

 英艦隊は備砲の射程にアドバンテージがあった。
 米側は、よほどひきつけないと、砲力が対等にならない。

 砲戦は午前9時から始まった。
 ダウニーは砲架からはじきおとされた大砲の下敷きとなって早々に戦死した。

 旗艦の将校はダウニーのシグナル・ブックを探したがみつからず、そのため、いまや艦隊の指揮権は『リネット』のプリング中佐が継承すべきことを信号できなかった。

 砲戦開始から1時間で、『タイコンデロガ』は英艦『フィンチ』をいためつけ、『フィンチ』は近くの小島に座礁した。

 英艦隊の砲艇多数は、投錨して戦闘していた米艦『プレブル』をその場にいたたまれなくした。

 『イーグル』も錨鎖を切って南へ逃れ、『コンフィアンス』と砲戦中の『サラトガ』の近くへ。

 『サラトガ』は『コンフィアンス』からの射撃により2度、火災が発生した。

 米軍艦は片舷に大砲を集めていたので、混戦になると、ケッジ(索をたぐって船の向きを変えるための小錨)を使った。

 米艦隊はこの海戦で決定的な勝利を収めた。おかげで、南下してきた英陸軍の大部隊は、ニューヨーク州進撃をあきらめた。

 米側は先に布陣して予行演習までやっていた。
 それに対して英艦隊は、ことに最大の旗艦『コンフィアンス』のコンディションが実戦に堪えるものではなかった。その操砲員は素人だった。タマなしで装薬だけ発火させたり、装薬なしでタマを装填したり、ワッディング(球丸を発射するときにガスぬけしないように装薬とのあいだに充填する襤褸きれのようなもの)を弾丸より前方にこめたりしていた。

 艦砲の仰角を変えるのに必要なくさび形の台木の調節も、適宜にできていなかった。

 この楔は発砲のつど押されて、砲身の仰角を持ち上げて行く。それをそのまま放置していると、弾丸は敵艦の舷側を越えてしまうのだ。

 米側の『タイコンデロガ』と『プレブル』は商船転用の軍艦だった。また米側水兵の多くは、商船の乗組員を徴傭したものであった。

 遠距離砲戦では『サラトガ』は不利だったが、近距離になり、ケッジによる船体転換がすばやくなされたことにより、逆に、砲弾投射総量で『コンフィアンス』を凌駕することができた。

 シャンプレン湖での敗退にもかかわらず、英海軍は全地球的に優勢であり、米国は海軍力の準備を怠りすぎていたツケを支払わされた。