(2008年5月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)
(探索日=2008-5-18、with石黒氏)
(兵頭二十八先生 より)
函館山要塞は現在、その約半分ほどが地元散策者のために整備・開放されているのだが、立ち入りが推奨されていない場所も多い。かつて函館市土木部のために要塞全域の図面を作った測量士さんの二代目氏を伴って、その現状を撮影してきた。(測量図はPDFになっており、コピーできます。)
まずは、ロープウェイ山頂駅の横の展望広場。団体観光客が記念写真を撮るこのスポットに、地元民もほとんど知らない地下要塞への入り口があった。
この通り柵がしてある。
この天井部分は、戦前はもちろんなかった。
懐中電灯なしでは咫尺を弁ぜず。
要塞の中心的な司令所跡だけあって、廊下が広い。
行き止まり部分は、こんな風になっている。知りませんでした。
次は勇躍、津軽海峡に最も近い高地へ向かわんとす。
登山道から少し逸れると、地元の人が山菜取りに往来する踏み跡があり、植生をかきわけつつそれを辿ると、まず戦前の炊事場もしくは便所のようなところを見る。
つづいて、重砲を1門くらい設置したと思しい砲座が。リセス部分は即応用の弾薬を並べるところ。近くには地下棲息部もあるが、見慣れた構造だったので、写真を省略。
ここは、鞍掛山の尾根線の端、監視&弾着観測用陣地の真下である。
たいした広さはない。哨兵が寒気や風雨を凌いだのだろう。
いきなり崖っ縁! 海面までの落差113mである。これじゃ観光コースにはできないと分かる。
植生が繁茂しているが、これを刈り去れば、青森県の山まで一望であろう。
たぶん戦中は、鉄板で天井をこしらえてあっただろう。したがって哨兵は雨ざらしではなかったはずだが、ガラス窓があるわけでなく、風雪の日は、眼鏡を持つ指が凍えてたいへんだったろう。
監視&観測壕は、ご丁寧に複数のポイントに構築され、連絡壕で結ばれていた。
もしロシア艦隊が津軽海峡を強行突破しようとした場合、当要塞の備砲では、おそらく阻止できなかったろう。しかし敵に「通峡はムリだ」と思わせたら、用は足りたのだ。
日露戦争中は山の下の方には「棲息部」など造らなかったから、WWII中に急遽、準備する必要を感じたのだろう。
岬から見上げるとこんな感じで、尾根に要塞施設があるとは、分からない。しかし米軍の偵察機からは、バレバレだったらしい。航空写真も残っている。
おしまい
(管理人 より)
私は、廃村ないし廃ビルを一つ丸々会場として使えるサバゲー場を作ればきっと儲かるんじゃないの?と信じている者なのだが──私はサバゲーを一度もした事がないので、単なるたわ言だが──こんな要塞が近場にあるのなら、きっともう少し利用価値などあるんだろうなあと思う。本当は全然無いかもしれないけども。
因みに、サバゲーのインドアフィールドなら既にレンタルしている所もあって、そんなに大もうけしているようにも見うけられない。あらま。
それでも函館山要塞、興味深い場所である事に疑いは無い。私は一度は観てみたいのである。