台場山に砲台なんてあったのか? その現地検証

(2008年6月8日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

2008-6-3/兵頭&石黒

(兵頭二十八先生 より)
 川汲[かっくみ]峠、およびその脇500mにピークがある「台場山」(標高485m)は、函館の五稜郭から北東へ15kmほどの位置にあります。
 明治1年の10月(旧暦)、今の森町の「鷲ノ木」に、榎本軍の艦隊が、陸戦隊を上陸させました。
 土方歳三はそのうち400人ほどを率いて、太平洋岸を東進します。
 そして川汲温泉の下流で内陸方向に転じ、箱館へ通ずる峠道(今の道道83号線とコースが概ね重なる)をラッセルしながら南進し、旧暦10月24日に川汲温泉に投宿したといいます。
 土方は、まずそこを本陣にして、支隊を先行させ、夜のうちに、川汲峠に所在していた50人ほどの哨兵を鎧袖一触で追い散らすと、翌日、粛々と湯の川まで下りてきて、さらにその後に、榎本軍本隊が陥落させた五稜郭へ入城し、本隊と合流しました。

 その当時、新政府軍(含む、旧松前藩士)が、到るところに哨所を設け、哨戒・連絡用の役人を散開的に派していたことは、間違いがないでしょう。
 けれども、この土方軍のコース上では、土方軍との間には、ほとんど真面目の戦闘は生じなかっただろう、と想像することができます。

 といいますのも、まとまった人数の部隊を何日間も駐留させるだけの後方兵站を、準備できたはずはないのです。季節は、新暦だと12月初旬でした。当時の日本軍(武士団)は、精神面でも装備面でも、蝦夷レベルの寒気に負けてしまっており、集落を離れては、部隊の野営なんてできませんでした。

 土方軍が、川汲温泉を占領してしまえば、あとは、そこから函館市街の湯の川温泉まで、ほとんど山林ばかりで、ロクな人家もありませんでした。道路は、駄獣だけが通れる、羊腸の小径があっただけ。荷車など使えません。しかも積雪期です。川汲温泉以外、夜に寝られる場所は得られなかった。旧松前藩主体の新政府軍は、策源である箱館港から25km以上も山道を糧食や弾薬を運んでいって間道の防ぎを万全にしようという気に、そもそもならなかっただろうと思われます。

 おそらくは、川汲温泉以北の集落での防衛が失敗した以上は、川汲峠で400人からなる土方軍をくいとめようとも思わず、単に「物見」用の役人などを置いていただけでしょう。役所組織ですから、雑用係・荷物持ちも含めれば、50人くらいもいたのかもしれません。

 台場山は、別名「毛無し山」とも言ったそうです。いつからそう呼ばれていたのかが問題です。自然に尾根線に樹木が生えていない山は、道南のあちこちにあります。尾根より少し下がれば、樹木がある。炭焼き用の伐採や焼畑などの人為によるものではなく、ほぼ周年の自然の寒風が、内地人の想像を絶して酷烈なわけです。しかし台場山の場合は、哨所とするために山頂を伐採して、それ以後、「毛無し」になったのかもしれません。
 台場山は、ピークを「不毛」にしておけば、360度の眺望が得られました。しかも、川汲峠のすぐ脇にあるわけですから、この峠道ルートに一箇所、歩哨線を設けるとしたら、まさに屈強のポイントでした。

 しかし、例の「二股口」のような、陣地防禦に適した地形かといえば、大いに疑問があります。上述のように、後方連絡線が甚だこころもとないので、わざわざ築城をしてみたところで、弾薬・糧食の日常的な補給が得られません。もし敵軍により浸透・迂回されれば、簡単に後方策源から遮断されてしまう、そんな「孤塁」です。北から南へ攻めてくる、まとまった部隊を、ここで阻止しようと試みることは、合理的ではなかったでしょう。

 ですから、この台場山の山頂に、榎本軍が、新政府軍の逆襲に備えて、大砲4門を設置していた、とする函館市の歴史解説は、何かの間違いではないか、と兵頭は疑うのです。
 あるいは、山頂の人工的な窪地の痕跡が、四稜郭を想起させるため、つい、四稜郭の解説情報が、混入してしまったのではないでしょうか? 

 榎本軍が、川汲温泉に歩哨の1コ分隊を配して、2名くらいづつの輪番交代制で、台場山上から物見をさせていた、ということはあり得ましょう。
 さらに、山上に、旧松前藩の旧式大砲や大鉄砲を据えて、緊急連絡用の「号砲」としていた可能性もあったでしょう。つまりは狼煙の代わりですね。
 号砲であっても、いちおう大砲があれば「台場」と呼ばれたことでしょう。

 今回は、そんな疑惑の現地を、確認に出かけてみました。以下、写真でご報告します。

道道83号線の左入り口

 私有車で、函館市街から「函館南茅部線」を川汲方面へ走る。矢別ダムを過ぎたあと、道路の左側を注視して行くと、この「旧道」の入り口を発見する。(もし川汲トンネルまで到達してしまったら、見落として通り過ぎたことになる。)
 この旧道は川汲トンネルの開通前はバスも通っていたという。つまり、明治元年の駄獣道と完全に一致しているわけではないことは覚えておきたい。
 黄色い板に「4209m/20m」と書いてある標識は、尾根上のNTT中継所までの道のりを表しているらしい。上の数字が「のこりの距離」、下の数字が「すでに通過した距離」。だいたい200mおきに立っているので、よそ者のハイカーには心強い案内だろう。
 このゲートは鎖錠されているけれども、2輪車ならば支柱の脇をすりぬけることができる。地元民が、原付バイクで山菜を運搬しているのに、途中で擦れ違った。

入り口の看板

 見ての通りの注意書き。晴れた日であれば、マイクロ中継施設が山道から見えるようだ。本日は小雨で、山全体にガスがかかっていた。
 他に、熊が出没するので入山するな、という看板もある。また、「この道は夫婦で」云々という私設標識があるという情報を事前に仕入れていたが、今回、途中で目にすることはできなかった。

峠の道標

 「429m/3800m」という里程標識を過ぎると、まもなく、この道標が立っている。ここが旧「川汲峠」で、おそらく明治元年時の古道と、位置はそれほど違っていないだろう。

分岐点の看板類

 ここからは、舗装道路を離れ、未舗装の車道に入る。草露で足元が濡れるのを覚悟しよう。

第二の分岐点

 かつて登山者を迷わせたという、この白い標柱の矢印は、赤ペンキで抹消されていた。入り口まで200Mではなく、まさにここが入り口なのだ。抜き捨てた方がよいのではないか? 白い標柱の背面をみると、「H九 函館道有林〔管理センター?〕」と読めた。ここから、未舗装の車道を離れて、急斜面の登攀にかかる。

台場山山頂へ

 旧川汲山道入り口からここまで、野郎2人連れの足で、1時間強であった。
 3本の標識が立っているところが、台場山のピークだ。狭い。
 明治2年4月に土方隊が青銅砲4門の台座を築造したと書いてあるのが読めるが、土方隊がこの毛無山あたりから新政府軍の警戒隊を駆逐したのは明治1年であり、また、明治2年にあらためてここを「台場」にしたのは五稜郭の榎本政権であって、そのときは「土方隊」は関係はなかろう。
 4月9日には新政府軍が江差の北方の海岸に上陸しているから、榎本政権が焦っていたのは確かであるが、焦点はすぐに大野街道や木古内へ移ったはずだ。ますます、川汲峠に築城などしている暇はなくなったであろう。

山頂凹み

 山頂にはあきらかに人為的に「カルデラ湖」を掘って、その「外輪山」を胸壁にしようとしたのではないかと見られる痕跡が残っていた。しかし地積は著しく狭く、反動で後退するタイプの野砲を4門も密集させても合理的でなかったことは一目瞭然。小銃兵の配置や、操砲員が複数いることや、弾薬の集積場もかんがえると、今どきの迫撃砲サイズのものを1門置くのがやっとこなところで、それですら、戦術的価値は疑われただろう。

山頂から函館市街方向

 どなたか新撰組の愛好団体が立てたとおぼしい右の看板に「函館戦争の火蓋を切った地」と見える。が、大鳥啓介軍が七飯町の峠下(いまの昆布館があるあたり)で本格交戦をしたのが明治1年10月21日(旧暦)だったそうだから、そっちの方が早かったのではないか。
 ちなみに、近世以後~近代以前の日本の合戦の「夜襲」は、闇夜に火縄銃隊が照準もつけずにバンバンと撃ちかけて気勢を挙げて敵を退散させてしまうもので、鎗や刀で肉薄するようなものではなかった。これは『名将言行録』を精読すると、わかります。
 なお、「台場山」の看板の下には「火の用心」と書いてあったらしいのだが、既に判読不明状態である。

川汲温泉方向

 この500m下が川汲峠。そこから左へ4kmほど行けば、川汲温泉のはずである。小型の旧式大砲では照準すらつけられぬ距離だ。

外輪山の小ささを見よ

 こんなところに、いかほど小型とはいえ大砲を4門も並べたと思いますかい?

垣ノ島A遺跡から出土した足形付土板(大船遺跡の展示パネル)

 これはオマケ。川汲の近く、南茅部に、垣ノ島という地名があり(海の島ではなく川沿いにある)、そこから6500年前の縄文時代前期の墓が集中して見つかった。中に、嬰児の足型が刻印された土板が副葬されているのが判明した。こういう土板は、それまでも知られてはいたが、用途が不明であった。成人の骨とともに墓から出てきたことで、古代日本人の子煩悩ぶりがハッキリしたのだ。
 つまり縄文人は、自分の子供の足型を取り、その土板を囲炉裏で炙って固くし、それを自分が死ぬまで、竪穴住居の内壁に吊るして眺めていたのだ。そして40歳代くらいで本人が死んだとき、本人がずっと大切にしていた土板が、墓に一緒に投入されたのだ。
 腹が減ったら他人と子供を交換して食ったというシナ人との、何という差異であろうか。

鹿部(しかべ)間歇泉

 これもオマケ。鷲ノ木から川汲まで歩く間に、土方軍は鹿部温泉郷を通過したはずである。この間歇泉は大正13年の工事で噴出したものなので、箱館戦争当時にはなかった。

おしまい


(管理人 より)
 私は兵頭ファンである。
 兵頭本『[新訳]孫子―ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法』の2刷が出た事を全く、喜んでいるのである。
 既に兵頭二十八先生は知る人ぞ知る人物ではない。そして『兵頭二十八』は必ずもっと有名になると私は盲信しているのである。
 有名になっても全くビタ一文も私に得はない。それが私が純粋なファンたる所以であり、私はなんて良いヤツなんだろうと自画自賛したりもするのである。ともあれ、台場山に砲台なんてあったのか? それをアナタは知りたくないですか?


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