2019-3-7 木更津リポート

(2019年3月10日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 防衛省大臣官房広報室のお招きで、今年度は陸上自衛隊木更津駐屯地にお邪魔してきました。
 先の大戦末期に「橘花」が飛んだ元海軍基地で、今もその飛行機掩体などが残されています。
 現在は、陸上総隊隷下の「第1ヘリコプター団」と、東部方面隊隷下の「第4対戦車ヘリコプター隊」が同居しています(駐屯地司令は第1ヘリコプター団長)。
 また、所属等が未だ細部まで確定していない陸自のオスプレイを、SUBARUさんが整備している格納庫もあります。
 今回は、主に第1ヘリコプター団の主力装備を拝見しました。主軸がCH-47JA、花形はEC-225LPかと思いますが、わたしが興味津々でしたのは「連絡偵察飛行隊」という、第1ヘリ団隷下ながら固定翼機を飛ばしている陸自で唯一の部隊です。なぜこれから固定翼機が注目されるのか、その理由は、来月発売の拙著新刊を御覧ください。

LR-1とたぶんLM-1連絡機

 連絡偵察といえば旧陸軍の直協機じゃないですか。さしづめ「九八直協」を戦後に引き継いだのが、奧の模型の「LM-1」だったでしょう。引退済みで、今、国内には1機もないはずです。手前の双発高翼の「LR-1」も退役しました。これらの展示は営門脇の航空資料館にあります。なお1800mある木更津の滑走路には、C-1までが降りられるとか。

SA316の模型

 フランスの「アルエット3」型ヘリコプターは、米軍にさきがけて重対戦車ミサイルの「SS.11」を空中から発射できるようにしていたもので、米軍の「コブラ」もこれに刺激されて開発されたことでしょう。これを製作したのは、第4対戦車ヘリ隊の方かな? 「アルエット2」型も欲しいところです。

LR-2首輪

LR-2スピナー

LR-2の主翼下

 ビーチクラフト社の軍民共用ベストセラーである「キングエア」を連絡偵察機に改造した「LR-2」を陸自は7機保有し、ほぼ全国に展開させています。北海道だと丘珠飛行場。

LR-2の偵察カメラ

LR-2後姿

LR-2排気管

 航空撮影のためには機体の軸がフラついたら困るので、陸自がLR-2を買うときに、胴体尾部に下向きの空力安定フィンを増設してもらったそうです。今ではそれがスタンダード仕様。

LR-2右側翼

LR-2右エンジン

 LR-2のエンジンはカナダPW社製のPT6A-60A(1050軸馬力)×2。そのスペアパーツは伊藤忠商事が取り寄せてくれているそう。ちなみに「EMB-314 スーパーツカノ」のエンジンはカナダPW社製のPT6A-68C(1600軸馬力)×1です。「小型のターボプロップ・エンジンに特化したら米国メーカーとはバッティングせずに世界市場を支配できるのでは?」と経営判断したカナダPW社の技師たち。偉くね?

LR-2機内

 機内のいちばん後方にはトイレ設備もあり。2900kmも飛ぶうちには必要になるでしょう。双発機の強みは、たとい洋上で片発停止したとしても生還を期し得ること。ただし多座機ですので、スーパーツカノのような射出座席は設けられませんね。フライトレコーダーは胴体尾部近くに内臓されています。

EC-225LP全姿

EC-225LP前方側面

 欧州エアバス社製のEC-225LPは「メートル法」規格というところに整備員が感心するそうです。内部は総本革張り座席に特有の匂いがツンとします。客席とコクピットは化粧壁で仕切られており、互いに覘けません。しかし最前列中央の後方向きの椅子を倒せば極小のアクセスドアが現れる仕掛け。またVIP席の電話でパイロットとは随時交話できます。ヘリコプターなのに機内は普通に会話の可能なレベルまで騒音が抑制されているそうです。通信は、衛星を含め全周波数に対応。

EC-225LP 燃料タンク

 ジェット燃料をタンクへ圧送するときの注意書きが貼ってあります。

CH-47JAの気象レーダー

CH-47JA荷室

 陸自のチヌーク勢力は旧型のCH-47J型からJA型へほとんど移行しています。識別点となるのは、機首気象レーダーの有無でしょう。またJA型には燃料が7800リッターも入り、それを毎時1200リッター(ドラム缶6本)ずつ燃やして4時間40分滞空可能。レンジは1037km、もちろん洋上も飛び、GPSを頼りに海自フラットデッキ艦に降りる訓練もやっています。完全に繋止作業が終わらないうちにパイロットが機外に出ようとすると、怒られるんだとか……。テヘペロですね。

CH-47JA後輪スキー

CH-47JA前輪スキー

 噴火した木曽御嶽山へ災害派遣で飛ぶようなとき、このスキー(と言うよりスノーシューだな)を装着して、車輪の沈み込みを防ぎます。旧型は赤色。新型は黒塗装となっています。燃料満タン時でも荷物を4.7トンも運べるチヌークはどんな災害でもいちばん頼られるわけですが、なにせ自重が大なため、ビルの屋上などには気軽には降りられない。ダウンウォッシュも強力で、軽トラを横転させるほどだそうです。

チヌーク用消火バケツ

バンビバケット

 フクイチに水をぶっかけるために飛んだとき、CH-47のクルーはタングステン入りの耐放射線服を着込んでいました。UHが20往復で運搬できる液剤を、チヌークなら1回で運んでしまえるのです。最新の「バンビ・バケット」だと海水が7562リッターも入る。まあ5トンぐらいに抑えて行くのが実用的であるようですが……。

BBの表示

 バンビバケットはカナダ製でした。でもなぜ「バンビ」? おそらくディズニー映画の山火事シーンからの連想でしょう。そして戦前に『バンビ』の原作者はノンフィクション作品の『デルス・ウザラー』から山火事シークェンスのヒントを得たはずだというわたしの推定は、大昔に月刊『正論』で書きましたよね?


(管理人 より)

 春ですね。
 私は去年から花粉症になりました。不治の病と聞いておりますので悲しいです。早く春が終われば良いと思います。
 ところで、兵頭先生は花粉症を克服されたと以前お書きになってました。しかしそれにはアルコールを断ち、魚ばっかり食べる必要があるそうです。
 私は魚はともかく、アルコールは断てそうにないので、花粉症と付き合い続けるしかないのでしょう。

※後日談:やはりいかに兵頭先生とはいえ、症状は軽減したものの完治には至らなかったそうです。

航空自衛隊八雲分屯基地で確認できた 古い「待機車」

(2018年7月18日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 北海道の八雲町は、太平洋と日本海の両方に面する自治体である。その太平洋側に、航空自衛隊の八雲分屯基地がある。げんざい、第20高射隊と第23高射隊が所在し、ペトリオットSAMを運用する。
 もともとは第二次大戦の末期に急造された飛行場の跡地なので滑走路も最小限に維持されている。戦後、米軍のF-86が展開していた名残の、耐爆ハンガーの基礎構造が敷地内のあちこちに残っているのが、廃墟美として面白い。

 2018年7月16日(海の日)が一般公開だと広報によって把握した私は、空自の高射部隊だけが持っているレア装備である「待機車」の鮮明なデジタル写真をみずからこのさい撮影しておくべく、自宅から私有車を走らせた。

 なぜ今、空自の「待機車」に注目すべきであるか?
 じつは、この「待機車」のコンセプトこそは、自衛隊の全国の災害出動時に、被災地住民に多大の救援を即座にもたらすに違いないと、信じられるからだ。
 出来合いの優れた装備があるのだから、その陣容をもっと拡充したらよいのだ。

 ところがこの車両、古いせいなのか、『自衛隊装備年鑑』(わたしの手持ちのいちばん新しいのが2012-2013版)では紹介すらされていない。このような扱われ方が、かねがね、私には大不満であった。
 全国のカメラ小僧諸君! もっと「待機車」を撮影して、ネット上で私的にPRしまくり、この種の装備の大増強を当局に働きかけようではありませんか。

 八雲基地は、私はだいぶ前に『北の発言』の基地取材で単独公式訪問したことがある。そのときは正門から入ったと記憶する。しかし今回は一無名人としての気楽な趣味観覧である。
 しかるに午前10時過ぎにそこへ着いてみれば正門は普通に閉ざされており、基地開放イベントらしいデコレーションも看板も案内人も何も見当たらない。にぎやかな物音も聴こえてこない。
 今日は一般公開日じゃなかったですかと門衛の人に訊ねたところ、私有車の入り口は200mほど左であると教えられた。
 いぶかしみつつ指示に従い基地内に乗り入れたるところ、そこより、だだ広い滑走路脇の果てしない草原中を何kmも走行し、ようやく臨時駐車場まで辿り着いたのでホッとした。途中、前も後ろも見渡す限り誰も見えやしないという状態になったこと数度……。
 この季節の道南は草地が花畑状態。天気も偶然に快晴であるから、気分爽やかで結構この上なしだったのだが、もしこのワシがテロリストだったら、この基地はどうするんじゃ?
 ともあれ、「村人以外には知らせる必要など感じなかった村祭」の、引き返し不能点に余所者として飛び込んでしまったような仕儀となり、私は覚悟を決めて撮影を開始したわけであった。

 では写真を解説して参ろう。

 「待機車1号」の写真(イ)(ロ)(ハ)。これは当日展示していた車体ではない。駐車場警備の隊員たちの移動用ならびに臨時の休憩場として、仮設トイレの近くに偶然停められていた1台を、許可を得て外観のみを望遠で撮影したものだ。

待機車1号(イ)

待機車1号(ロ)

待機車1号(ハ)

 こんかい、再認識させられたのだが、「待機車」には「1号」と「2号」の2タイプがあって、実戦出動ではそれがコンビで運用される必要があるようだ。
 車内に24床分の折り畳み三段ベッド(人員移送モードでは35人分の長椅子に早変わり)がしつらえられているのは「1号」。
 車内にトイレ×4基と、冷・温水の洗面設備(同時6人利用可)と、温水シャワールーム×1が備えられているのが「2号」。
 エアコンはどちらにも無いと聞いたが、ネット写真を見ると「1号」の車内天井にはベンチレーターのようなものが見える。
 さらにネットを見れば、「1号」と「2号」を折衷した「自活車」や、それをもっとコンパクトにした「待機車3号」というものも、最近は登場しているらしい。(八雲は優遇されている基地ではないので、それらが無くとも不思議はない。また豪雪地帯でもないから「BV206J-01」大型雪上輸送車もたぶんあるまい。)

 残念ながら私は「待機車1号」の内部を拝観できていないゆえ、本当に空調が無いのかどうか等、これ以上の詳細は分からない。しかしペトリとともにある古い装備であることだけは確かだ。たとえば1995年刊の拙著『日本の防衛力再考』の49ページを見て欲しい。その下段の写真(紙焼き写真)が、当時じぶんで撮影した「待機車1号」。こんな頃から外見は変わっていない。

 ちなみに(イ)の写真の背後に見えているコンクリートの壁が、先述したF-86ハンガーの遺構のひとつだ。こういうのが多数、基地内に残っているのだ。

 次に、「待機車2号」の写真(外観4枚、車内4枚)。
 車重は14.3トン。1100リッターの水を内蔵できる。

待機車2号(A)

待機車2号(B)

待機車2号(C)

待機車2号(D)

待機車2号のシャワー室

待機車2号のボイラー回り

待機車2号の車内のトイレ

待機車2号の車内の流し台

 さて1995年の『日本の防衛力再考』いらい、これは私の持論になっているのだが、CBR環境下では、フォールアウトをフィルタリングできる空調と、車内で汚染も洗滌してしまえるシャワー施設等を備えた、特大型のシェルター車が多数、日本全国に必要になるはずなのだ。
 陸自も、海自も、文官も、必ずこれに感謝する日が来るだろう。

 そのモデルとすべき車両として、すでに空自が、「待機車」シリーズと「自活車」を各基地で保有しているわけである。
 これを発展させただけで、あらゆる災害出動でおおいに重宝する支援車両が、すぐにも充実するのだ。なぜ、人々はこの直感が働かないのだろうかと思う。

 ついでのおまけ写真は、軽装甲車機動車(2枚)。

 さらにおまけのパート2は、基地防空用SAM(6枚)。
 あの「短SAM」をすべての性能で上回るものなのだという。わたしゃぜんぜん知りませんでした。
 ミサイル(キャニスター入り)の再装填は「弾薬装填車」という別な車両で、半自動的にできるらしい。旧短SAMは、人力で弾薬箱をえっちらおっちら運んでいたから、大進歩ですわ。

軽装甲機動車 その一

軽装甲機動車 その二

基地防空用SAM い

基地防空用SAM ろ

基地防空用SAM は

基地防空用SAM に

基地防空用SAM ほ

基地防空用SAM へ

松前港における掃海艇『いずしま』の公開・2018-5-12

(2018年5月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2010年末に函館基地で『ゆげしま』(艦番679)を見学した折にはVIP待遇で送迎されてしまい、「写真小僧」となって全体撮影をすることが不可能であった(ガンルームで出されたカレーしか撮影できんかった)。今回、掃海艇としてより改善されている型の『いずしま』を、一無名人として外側からこころゆくまで撮影するチャンスをようやくに得た。
 じつは松前港では何度かこういう一般開放があったようなのだが、カーナビ付きの自動車をもっていなかった以前の私には、国道228号からどうやって下の漁港まで降りられるのか、その分岐点がさっぱり分からず、ついつい通り過ぎてしまっては、しかたなく諦めていたのだ。
 今回は、白神岬から江差方面へ走行中に、掃海艇の雄姿が見えたので、大磯橋を渡ってやや行き過ぎたぐらいのところからカーナビ地図を睨み、右後方へ折れ曲がる細道をぬかりなく下って、大磯橋の下をくぐり抜け、脳内INSを駆使してまんまと辿り着くことができた(ちなみに「松前港」と行き先を入力しようとしても、なぜか、できない)。
 果たして駐車場はあるのか――が、もうひとつの不安事項であったが、なんとそのあたりのどこに停めといても構いませんよと教えてもらい、ズッコケ拍子抜け。田舎はこれだからイイよね。

2018-5-12いずしま於松前港(1)

 (1)は、帰り際に、道の駅の「北前船松前」の駐車場から望遠した一枚。この道の駅のレストランがいろいろと最高なのである。他所から来た人には松前城周辺の料理屋もどきなどではなくて、是非にこっちを勧める。ただし11時前には営業しておらず、この日の利用は断念せざるをえなかった。

2018-5-12いずしま於松前港 (2)

2018-5-12いずしま於松前港  (3)

 (2)と(3)の背景に写っている小山上の建物は「松前灯台」ではなく、手元の地図帳によると「松前ディファレンシャルGPS局」らしい。

2018-5-12いずしま於松前港 (4)

 (4)を見ると、木造船体であることがよく分かる。掃海艇に使用できる金属はアルミのような軽合金以外は基本的にダメなのかと思っていたが、ステンレススチールも非磁性ゆえ、少量ならばOKなような話だった。クルーは出動時には磁性の持ち物をすべて陸揚げする。スマホの充電器もひっかかるそうである。

2018-5-12いずしま於松前港 (5)

 (5)この艇にはPAPという機雷処分具からリモコンで投下できる小型爆雷を除くと、20mmガトリング銃ぐらいしか武装がない。ところでもし敵のフロッグマンが不意に乗り込んできてこの火器でブリッヂを撃とうとしたらどうなるのか? ……ご安心。ハイアングルにしなければ、真後ろへは旋回できないように、巧妙なロックがかかっているのだ。艦橋を外せば、360度、どの方位へも銃撃は可能である。発射の震動やブラストはそれなりに大きく、グレーに塗った甲板のペンキも剥げてしまうそうだ。

2018-5-12いずしま於松前港 (6)

 『いずしま』の掃海訓練は陸奥湾で実施するという。艇尾から見た(6)の写真を見よ。黄色いのがPAPだが、その上方に赤白のブイが寝せてある。これで訓練海域を区切って、漁船が接近しないようにする。演習前に漁協の幹部に同乗してもらって、周知を図るそうである。
 以前の『ゆげしま』の潜水士さんは、〈水中ロボットなんてダメだ〉という評価だったようにお見受けしたものだが、今回の『いずしま』の潜水士さんはPAPに相当の信頼を置いているように私には印象された。そうか……時代は進歩しているのじゃな。

 艇内のあちこちも接写したかったのだけれども、朝一番の見物客だったため、無名人は無名人なりにマンツーマンで足早に案内をされてしまい、オチオチ撮影している暇もなかった。海自の松前警備所の近くでしか訊けそうにない、SOSUS関連の質問をすることも、すっかり忘れてもうたわい。
 なお、函館市街から松前港までの片道所要時間は、ちょうど2時間であった。


仁山(ニヤマ)の旅 2018-5-5

(2018年5月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 函館市街から大沼公園方面へ出ようとするとき必ず通るのが七飯町の「峠下」。そこから正面に見えるスロープが「ニヤマスキー場」だ。
 いったいそのスロープは、雪解け後のオフシーズン中は、どのようになっているのか? ずっと気になっていた私は、雨上がり・曇天・冷たい微風が吹くこの日に、試してみることに決意した。

 JR函館本線の「仁山駅」の南側踏切を、自動車で線路の西側へ超える。
 「あじさい温泉」の玄関には近づかずに、道なりに車道をもっと北へ進むと、スキーシーズンでないシーズンには、大駐車場への一般車両のアクセスをとざすゲートがある。その手前の草地で自動車を停めた。
 すでに山菜取りのおばさんたちの先客が複数パーティあった。
 写真(1)で分かるように、回転式ゲートが人間だけはフリーに通してくれるようになっている。午前11時少し前から、そのゲートの内側(スキー場)の砂利道を歩き始めた。

仁山の旅 (1)

仁山の旅 (2)

 (2)はおそらく「高速4人乗りリフト」の始点だ。
 広い1本の砂利道が上までずっと続いているので迷わずに進む(4)。丘の上に「高速4人乗りリフト」の終点が見える。すぐ左に並行しているのは「第1A線シングルリフト」だろう。ファミリーゲレンデを挟んで、さらに左端には「第1D線ペアリフト」も見える。
 振り返ると函館山が見える(5)(6)。

仁山の旅 (3)

仁山の旅 (4)

仁山の旅 (5)

仁山の旅 (6)

仁山の旅 (7)

仁山の旅 (8)

 登山道(というか、ゲレンデ整備車両の作業道)は、ところどころ、かなり前に舗装された跡が残っている。また、数回、索道線の下を潜る(8)。

仁山の旅 (9)

 高度を上げると、大沼トンネルが見える(9)。
 野生のエゾエンゴサクを初めて見た(10)。テラテラした緑葉は「オオウバユリ」の若い株である。これが8年ぐらいすると高勢にトウ立ちし、白いラッパ状の花が多数咲いて、寿命を終えるはず。マットな緑葉は、おなじみの蕗だ。
 もし大飢饉に遭遇したら、このオオウバユリの大きな鱗茎と、量的には僅かなものだがエゾエンゴサクの塊茎は、掘り出せば非常食になると覚えておくべし。道々、あちこちに自生していた。

 仁山の裏側は、「きじひき高原」に接続している。谷からは滝の音が聴こえてくるし、日蔭には残雪がある。その「きじひき高原」は熊出没地帯なので、そぞろ背筋が寒い。

仁山の旅 (10)

仁山の旅 (11)

仁山の旅 (12)

 さらに高度を上げると横津岳がよく見えてくる(12)。
 仁山スキー場で二番目に標高の高い、「第2ペアリフト」の終点が見えてくる(13)。

仁山の旅 (13)

仁山の旅 (14)

 (14)と(16)。眼下に「高速4人乗りリフト」の終点が見える。
 振り返れば、鹿部や南茅部の先の太平洋まで見える(15)。

仁山の旅 (15)

仁山の旅 (16)

仁山の旅 (17)

 遂に、「きじひき高原」の展望レストハウス直下の、このスキー場で一番標高が高い「第3ペアリフト」の終点が見えた(17)。ただしそこは熊出没地帯なので遠慮をし、「第2ペアリフト」終点の、広く開けた丘への分岐を進んだ。

仁山の旅 (18)

仁山の旅 (19)

仁山の旅 (20)

 (20)(21)は、その「第2ペアリフト」終点の丘のピークから見はらした風景。到達したのが12時頃である。だいたい1時間、歩いたわけだ。
 古い索道の搬器が物置小屋などに再利用されることはよくある(22)。循環式のロープウェイが、かつてこの近くに架かっていたのだろうか? 知るすべなし。

仁山の旅 (21)

仁山の旅 (22)

仁山の旅 (23)

 同じ場所から、きじひき高原の展望レストハウスを見上げる(23)。分かり難いが、その左下、一番標高の高い「第3ペアリフト」の終点もスカイラインに重なって見えるだろう。

 峠下の国道5号線がよく見える(24)。
 風が冷たいので、同じコースをすぐに下山開始。

仁山の旅 (24)

 靴などの装備が万全ならば、ゲレンデ直滑降コースでも選びたかったところなのだが、この日は雨上がりであったのと、機械で刈り払われた急斜面に、刺のある細くて目立たないノイバラがいち早く伸び始めていたため、一抹の不安を覚えて、冒険を自制した。

 スタート点の駐車場には1300に戻った。陽気がよければ、ここは適度な散歩コースじゃないかと確認したのである。めでたし。


恵山の旅 2018-5-1

(2018年5月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 今年のGWは、好天と言えたのは5月1日だけだった。週間天気予報にて「今日しかない」と確信したわたしは豚児を連れて、個人的未踏峰の「恵山(えさん)」へ向かったのである。
 恵山と、青森県の恐山は、地下でマグマ脈がつながっているという。

 途中、砂浜にある「なとわえさん」という「道の駅」に立ち寄り、ペットボトルの水などを調達。
 つつじ山を通り過ぎて、急勾配の車道を進み、「賽の河原」駐車場に駐車。舗装された道はここまでだ。
 よくわからんが、ここが「権現堂コース」の起点なのだろう。10時39分から徒歩開始。(1)の写真の手すり付き階段を上り、整備された歩道を進む。

 急坂にさしかかる前の緩傾斜の火口原を「賽の河原」と称している。標高300m。写真(3)や(6)が、低い視点からの眺め。
 この荒野のあちこちに石仏が立てられていて、遠目には人間の婆さんかなにかのように見えるのでギョッとさせられる。写真(5)はそれを望遠で撮ったものだ。
 (27)は「賽の河原」の一部を俯瞰したもので、遊歩道がナスカの地上絵のように見える。

 登山道は、道標や穴ぼこよけの柵など、よく整備されていて、樹林も下草もなく、迷いはしない。けれども、歩道の真ん中に巨大な岩石が幾つも落ちているのは気になる。どう考えてもこの山は落石名所だろう。
 それと、階段にした丸太が朽ちてしまい、錆びた固定ボルトの先だけが地面に飛び出ているところが無数にあった。

 往・復ともに数人の登山者としかすれ違わなかった。晴れた春の休日にこの人出とは、勿体ないことだ。
 (17)と(19)の写真では、起点の駐車場が遠望できるのが分かる。
 写真(20)では、眼下に恵山岬の灯台が見える。

 写真(21)は、真新しいエゾ鹿の足跡。こやつは8合目くらいまで登山したと思しい。
 自分の足を確認すると、膝から下が薄く黄色く変色している。特に靴の先が……。風化した硫黄の塵のせいだ。

 海抜618.1mの山頂には11時30分に着いた。すなわち権現堂コースは、体力の無い子供連れでも、片道が1時間10分である。
 写真(24)は山頂付近の避雷針のようなもの。
 終始、風が無い日で、助かった。恵山は海際の山だから、風次第ではえらいことになるだろう。
 山頂やや近くに鳥居と祠のようなものがある。(人が写り込んでいるため写真割愛。)
 (26)は下山開始直後に振り返って撮った山頂付近。

 元の駐車場に戻ったのが12時36分着。いろいろ差し引くと、下りは1時間弱というところか。

 そこから自動車で、道の駅「なとわえさん」の向かいの「ローソン恵山海浜公園店」へ。昼飯を調達。同店内のイートインコーナーの窓からは、行ってきたばかりの恵山山頂が見える。

 往復わずか2時間の適度な運動量で、いかにも火山らしい風景に浸れてしまう「恵山」。天候がよくない日だとお奨めできないが、この非日常的な観光資源は、もっと開発の余地があるはずだ。

恵山の旅(1)

恵山の旅(2)

恵山の旅(3)

恵山の旅(4)

恵山の旅(5)

恵山の旅(6)

恵山の旅(7)

恵山の旅(8)

恵山の旅(9)

恵山の旅(10)

恵山の旅(11)

恵山の旅(12)

恵山の旅(13)

恵山の旅(14)

恵山の旅(15)

恵山の旅(16)

恵山の旅(17)

恵山の旅(18)

恵山の旅(19)

恵山の旅(20)

恵山の旅(21)

恵山の旅(22)

恵山の旅(23)

恵山の旅(24)

恵山の旅(25)

恵山の旅(26)

恵山の旅(27)

恵山の旅(28)

恵山の旅(29)

調査船『かいれい』 於・函館港2018-4-21

(2018年5月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 「函館どつく」の敷地のさらに先に、「海洋研究開発機構」の敷地があり、そこの岸壁で『かいれい』を一般公開するというので、赴いてみた。前回の『かいこう』の公開は、行けませんでしたのでな……。

 機構敷地には十分な駐車場も付帯しているのだが、そこは11時半に近くならないとゲートを通してくれない。
 わたしは2kmも離れた無料駐車場からテクったので、そのゲートを難無くスルーし、早々と、ギャラリーの少ない岸壁の写真を撮ることができた。写真は足で撮れ!(死んだ親父の遺訓。)

 しかし途中の道案内密度は粗すぎるね。余所者ならば、カーナビかスマホなしでは、なかなか辿り着けはすまいと思いましただよ。

 岸壁の警備員さんたちは、救命浮き輪を背負っていた。

 俯瞰写真は、機構ビルの上階の展望窓からの撮影だ。このビルの中にはイカの生態を調べる大水槽などがあり、一部は公開されている。

 『かいれい』の性能については、基本諸元を表示しているパネルの写真をもって代えよう。
 公試運転では17ノット以上出せたようだ。実用は10ノット代前半か?

 全速で前進中にギアをフルアスターン(全速後進)に入れると、フネが停止するまでに2分近くかかり、その間にも船体は0.33海里、先へ進んでしまう――といった数値が興味深い。写真を拡大すればもっといろいろ読めるでしょう。

 『かいれい』の船尾は、さまざまな調査機材を海中に投入したり、引き揚げたりする機能が充実している。最も有名なのは深海調査艇だろう。ただし公開日には、そういうものを搭載している様子ではなかった。多数の海底地震計が積まれていた。

 深海調査艇と本船を結ぶケーブルは光ファイバーではなくメタルなのだそうだ。いっぱいに伸ばせば1万mだが、ふだんは7000mで常用する――と、乗員の1人が話してくれた。しかし巻き取りドラムのところには1万2000mと書いてあったぞ。

 おまけの1枚は、近くの「緑の島」駐車場から見えた、海上保安庁の巡視艇『おくしり』と、海自の掃海艇2杯(687=『いずしま』と689=『あおしま』)が並ぶ岸壁。

かいれい俯瞰

かいれいの基本諸元

かいれいの急ブレーキ性能

かいれい前半

かいれい後姿

かいれいの船首

かいれい全姿

深海探査機のリモコン部屋

機雷のような海底地震計測

最小限の武装艇でこの港は守られている

2017裏庭観察

(2018年1月27日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

(2018-1-19記)

 地道に続けている自由研究、今回は冬季の野鳥のおもてなしに焦点を絞ってご報告する。
 掲載した写真以外の所見としては、ウバユリが裏庭に自生していることが確認できたこと、16年に結実したサワフタギとイボタノキが17年は開花も結実もしなかったこと、が備忘に値する。
 来年は、エゾウワミズサクラ、トサミズキ等について、一応の結果報告ができるだろう。

 

◎アキグミ
2015年3月に定植したアキグミが17年5月に初めて大量開花。しかし実はひとつもつかなかった。
日蔭にならない限り、枝の延び方はすさまじいので、来年に期待する。
降雪後もかなり長い間、青葉(色は常に薄緑)を付けているのが、生命力を印象させる。

◎ハマナス
2015年3月に定植したハマナスが17年5月に初めて開花し、実をつけた。
開花は、アキグミの満開時とも重なるようである。
6月の写真で、隣のアキグミの花が全部落ちて、その跡に実がないことも分かる。
野鳥はハマナスの実をいちどに全部食べてしまうようなことはしない。1月下旬以降の厳寒期のために残しておくのは合理的かもしれないが、いったい他の鳥とどうやって申し合わせているのかは謎。12月の写真をみると、ひからびるまで放置されている実もある。

◎ウメモドキ
2015年3月に定植したウメモドキ。雌株だけで結実する。16年に初結実したが、17年はご覧のような大量結実。しかもそれが積雪期までにほとんどなくなってしまった。野鳥がウメモドキを好むという解説は、間違っていないと確かめられた。
不思議なのはこの樹種が北海道の山野には滅多に生えてはいないこと。つまり野鳥の間で情報が共有されていないはずなのだ。昨年に「安全である」と見極め、今年はためらわずにパクついたのか。

◎ニワウメ
開花が早いニワウメは夏には結実し、秋にはすべて食べつくされる。ヒヨドリが執心しているのをみかけたことがある。

◎ノイバラ
山野に勝手に生えるものであるため、従来まじめに観察したことがなかったノイバラ。放っておくと空き地のあちこちにこいつが生えてくる。それは鳥が種を撒布していることを強く示唆する。しかし5月の写真を見ると、前年の実がまだ残っている。全体量が豊富なのだ。土手の一画がぜんぶ古株のノイバラだらけというところもある。
しかし6月下旬の開花期には、前年の実はほとんどない。ちびちびと何者かが食べたのだ。

◎エゾニワトコ
間違いなく鳥か小動物が撒布し、日陰耐性もあるため、いたるところに芽を出して強健に成育するのがこのエゾニワトコ。物好き以外は「これがそうか」と認識しないと思うが、7月に実が赤くなれば遠くから目立つ。わたしは今年の春先から気をつけてこの植物を抜除しない方針に切り換えた。若株を移植すると、活着はするがその年はほとんど生育しない。
古株はおびただしく結実する。けれども、ご覧のとおり、8月にはほとんど食べられてなくなってしまう。

◎アロニア
17年3月に大苗を植えたアロニアが、その年のうちに開花し、結実した。こういうのは珍しい。よほどショップで栄養を与えられていたのか、それとも、もともと異常に強健多産なのか。「ロシアのナナカマド」ともいわれている由。とうぜん耐寒性。
9月の写真の左手にひょろっと立っているのは、ニホンカマツカ。2015年5月に2m株を定植したのだが、こちらは未だに開花もしない。
アロニアの実は黒くなるという解説も目にするが、こいつは赤いまま。積雪期に入り、しなびかけても、野鳥は1粒も試食せず。珍種と見て警戒しているのか?

◎カジノキ
放っておくとどこにでも生えてくる野生のカジノキ。テレビアンテナの下の地面から生えてきたこともある。鳥がタネを撒布していると確信する。地上部を完全に切除しても、知らぬ間に復活するぐらい、タフ。
実が7月に黒変すると、急速に食べられて、秋までにはきれいさっぱりなくなってしまう。大人気なのだ。なお北海道にコウゾは自生しないとされる。

◎ガマズミ
植えた場所によって、成長する株と成長しない株の差が顕著なガマズミ。巨大化すればもう放任でもいいが、小さいうちは春のサンゴジュハムシ対策が欠かせない。9月の写真の手前に見えるのはヤマハギである。ちなみにガマズミと種類が近いカンボクは、サンゴジュハムシにはたかられないように見える。
ガマズミは函館山の稜線でもふつうに野生株を見かけるので野鳥はその実が安全であることを熟知しているはずである。したがって12月になっても一部の実が残っているのは、鳥が自主的に「長く食いつなぐ」方針を立てているのだと想像する。おそらく、人間の目にはわからないが、特定の強い個体による「利用権」も設定されていて、それの無いザコ野鳥が盗み食いすることはできないようになっているのだろう。

◎クランベリー
北米の寒い湿地で繁茂していて、初期入殖者を餓死から救ったともいわれるクランベリー。しかしこれだけ地面に近いと、積雪10cmでももう埋もれてしまうから、冬の野鳥の腹の足しにはなるまい。
写真を見るとスズメが実の表面だけ齧ったような跡もある。

◎サンショウ
いたるところにゲリラ的に萌芽するので、やはり鳥が撒布していると疑える野生のサンショウ。実がピリリと辛いのは問題ではないらしい(鳥は苦味の感覚を持たないという話を聞いたことはあるが……)。刺があるので従来は抜き捨てていたが、これも今年からは保護することにした。写真の若株はユキヤナギの根本から生えてきた。日蔭にもかかわらず良いペースで伸び続けている。

◎シレネヒヤシントイデス
共通一次にムーミンが出てきたというのでこのシレネヒヤシンソイデスを連想した。15年に球根を植えたが16年はロゼットだけで薹立ちせず。17年にこのように開花。別に実は成らない。

◎タニウツギ
いたるところに生えてくるので鳥撒布が疑われるタニウツギ。耐寒性があり、半日蔭でも元気があり(そのかわり樹形はランダム化する)、すこぶる成長は早い。しかし開花や結実するまでに何年を要するのかはまだ把握ができない。
7月の開花写真の株は、野生で相当の古株であるということしか分からない。実がどんなものなのかも、情け無いことに、確認ができていないのだ。

◎ツルウメモドキ
16年秋に苗×2を定植した雌樹のツルウメモドキ。17年5月から勢い良く成長し、冬までに十分に延びてくれた。来年以降の開花・結実を期待する。雄樹は野生のが近くにある。

◎マユミ
これは函館山の稜線近くに野生していた、マユミもしくはツリバナと思われるもの。こんな寒風吹きさらしの豪雪地で大木化できるのなら、平地ではもっと育ってくれてもいいと思うのだが……。

◎ロシアンオリーブ
16年3月に定植したロシアンオリーブ。どうもトゲがないので「沙棘」とは違うのかもしれない。16年には開花しなかったけれども17年にはご覧のように開花。
しかしその後が不稔。枝だけはやたらに伸びることがわかったので、秋に空き地へ移植したところ、すこしも樹勢は衰えない。タフな植物だと確認できた。冬季には、アキグミよりもさらに遅くまで葉(アキグミと似た薄緑色)を付けている。


(管理人 より)

 私は東京都練馬区在住である。朝、出社する前に顔と髪を洗うのが習慣だ。
 そうしないと髪が硬いので整える事が難しい。一昨日の朝、寒波でお湯が出なくなった。給湯器が凍結した。一日だけ、一朝だけ、冷水で髪を濡らした。昭和40年代か。(知らないけど)
 皆さん。お湯は大切ですよ。

「ビッグレスキューあづま2017」演習における米陸軍「LCU-2007」号の雄姿

(2017年7月15日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 南海トラフ地震で陸路救援がむずかしくなったときには、関東以北から物資を海路搬入する。
 しかし陸上自衛隊は汎用揚陸艇(ランディングクラフトユーティリティ=LCU)を持っていない。それを日本に常時置いている米陸軍輸送科(輸送重舟艇中隊)に頼んで、まわしてもらわねばならん。
 それを訓練してみたのが今回の演習だ。

 まず6月25日に横浜ノースドックで、「LCU-2000」級の「07」号に陸自車両複数を積載。車両はほぼ「空荷」だ。いちばん軽い状態だ。
 LCU「07」号は、14時間から16時間かけて、ノースドックから沼津沖まで移動。
 26日朝に、海兵隊が使っている沼津海浜訓練場(地元の人は今沢と言うそうだ。最寄駅はJR片浜)に達着して卸下。
 わたしは26日の取材に出掛けた。以下、その模様を写真でご紹介しよう。

沼津海岸

 ビッグレスキューには静岡県や電話会社の人たちも参加する。さいきんは陸自さしまわしのマイクロバス(白色)が自衛隊っぽくないので、とまどってしまう。しかし街中では、これがステルスだよね。

LCUがやってくる(1)
LCUがやってくる(2)

 施設科の架柱橋の関係部隊がビーチにあらかじめ特殊マットを敷いていたようだったが、その作業はわたしが到着する前にほぼ終わっていたので詳細不明。
 地元ご出身の「武道通信」の杉山さんによると、昔は海水浴シーズンが終ったころに「千本浜」に御殿場の陸自が水泳訓練によく来ていたそうだ。

LCUがやってきた(1)
LCUがやってきた(2)
LCUがやってきた(3)
LCUがやってきた(4)
LCUがやってきた(5)
LCUがやってきた(6)
LCUがやってきた(7)

 LCUにもいろいろタイプがある。東北震災のとき「気仙沼大島」への物資補給を分担してくれたのは、米海軍が強襲揚陸艦に内蔵して運用する「LCU-1651」「LCU-1634」だった。
 わたしはそのタイプがここにも来るのだろうと予期をしていたところ、遣唐使船みたいなデカいやつが沖に現れた。ラニーミード級汎用揚陸艇といい、米陸軍の所属である。ビーチングする前からもう船首のランプドアを半分倒していた。

 急いでスペックも紹介しよう。
 長さ174フィート、幅42フィート、吃水は軽荷で8フィート、満載で9フィート。艦首に4フィートの水深があるところまで接近できる。
 艦の排水量はロングトンで575トン。満載時には1087トンになる。
 デッキにはM1戦車×5両か、20フィート・コンテナを二段積みで24個(無理すれば30個)、積載できる。無理すれば40フィート・コンテナ×20個でも行ける。
 ペイロードは350トンで、これはC-17戦略輸送機の8機分に匹敵する。
 空荷なら巡航12ノットで1万海里、満載時なら10ノットで6500海里動ける。
 乗員は13名。うち2名が下士官。自動操縦システムあり。※将校は不要らしい。
 米軍で、これより1サイズ大きな揚陸艇となるとLCMだ。Mはメカナイズド。

おれたちゃドローン担当さ(1)
おれたちゃドローン担当さ(2)

 ビーチにくつろいだ姿勢で作業を見物している2人組がいたので、デジカメの倍率を上げてみたら、1人がリモコンを操っているではないか。クォッドコプター型のドローンで達着と卸下の模様を空撮していたのだ。一枚目の写真を拡大すると、ドローンが飛んでいるのがわかるはず。たしかにこれでは鳥よりも見つけ難い。ピントもドローンには自動では合わせ得なかった。

LCUがやってきた(8)
LCUがやってきた(9)
LCUがやってきた(10)
LCUがやってきた(11)
LCUがやってきた(12)
LCUがやってきた(13)
LCUがやってきた(14)
LCUがやってきた(15)

 このLCUは、行き脚をつけるために機関を吹かしたときには黒煙が出るので、この訓練ではビーチングをごく慎重にそーっとやっていることがよくわかった。船体寿命をむやみに縮めないための当然の配意だと思うが、おかげで接岸は実戦よりも甘くなり、最初にゆっくりと出ようとしたパジェロが汀にスタック。10人がとりついても脱出させられず、けっきょく陸側から高機動車でワイヤー牽引した。海軍いわゆる「ゲタ船」、旧陸軍いわゆる「大発」を使った上陸作戦では、何らかのウインチ設備の事前の用意は必須なのだとわたしは想像致しましただよ。なお2両目以降は、勢いをつけて降るようにし、スタックを回避していた。同じ失敗は繰り返さないのだ。

グッバイLCU(1)
グッバイLCU(2)
グッバイLCU(3)
グッバイLCU(4)
グッバイLCU(5)
グッバイLCU(6)
グッバイLCU(7)
グッバイLCU(8)
グッバイLCU(9)

 船尾を読めば「ブロードラン」号と書いてあった。
 わが陸上自衛隊にもこういう船舶装備が必要だというのが近年のわたしの持論だ。だから多数の写真でご紹介した。
 参考までに。海自の人によると、輸送用の小型の平底船は呉軍港にたくさんあるのだが、瀬戸内海であっても、波を上からかぶってたいへんだということだ。つまり、尖閣用を考えるならば「大発」サイズでは不都合。

3トン半の排気管(1)
3トン半の排気管(2)

 陸自の6×6トラック(通称3トン半)の排気管は、高さ80cmのところにあり、水害救助でも、ある程度までは頼りにできることがわかる。

軽装甲機動車(1)
軽装甲機動車(2)

 軽装甲機動車の燃料キャップがこんなところについていたとは知りませんでした。その上のボルトは、中東などへ派遣されたときに予備のジェリ缶などを増設できるようにしたもの。初期型車体にはついていない。この車体はいうならば「バージョン2.0」のようだった。
 半透明のチューブは、燃料タンクの上部空間と通じている、ガス抜きドレーン。熱地では膨張するでしょうからなあ。
 背後ドアの取っ手の上の方には、蓋付きの「鍵穴」があり、ドアを外から施錠することができる。

陸自のゴムボート

 水害の救助に出動するときなどに重宝するこのボート、エアーコンプレッサーが使えないときには、足踏み式ポンプで数十分かけて膨らませることもできる。空気袋は内部で細分化されていて、ひとつに穴が開いても浮力を保つ。船外機も取り付けが可能。

ガス栓まわし器具

 おおざっぱな釘抜きのように見える金具部分は、ガス栓を回せるようにできているのだという。災害出動用の工具キットのひとつ。

考えさせられるパジェロ

 米軍のトラック類は、排気管を高々と屋根付近まで直立させて、てっぺんにはシュノーケルのようなものまで取り付けている。気候の温暖化により、これから水害が毎年のようにあるだろうと予想しなければならぬわが国で、民間バージョンそのものの、こうした排気管レイアウトでいいだろうか? もちろん排気管から水が逆流しなくとも、エンジンルームの配線が水浸しとなれば車両は立ち往生するしかないだろう。日本の軍用車のエンジンまわりはぜんぶ、水密化するべきなのでは?


(管理人 より)

 海岸に座る兵隊は渋い。私は先日、世界で有数のゴキゲンなビーチ『パタヤ』の近郊ラン島に行った。
 ラン島のビーチで1人、朝から夕方まで寝ていた。禁酒日なのに朝からビールが呑めた。炒飯も美味しいしサイコー。そんな頃、こんな渋い事をしていた人々がいたのである。さて、3連休が明けたら一心不乱に働こう。

 ホテルの近所のビアバーに、昼夜いつ見ても座っている白人がいた。
『ベトナム戦争をはじめパナマ・グレナダ侵攻にも従軍しました』という面構えの老人だ。

 もとよりリタイアした白人が多いパタヤだが、毎日ビアバーで特に何をするでもなく呑んでいる。余裕があるからできるのだろうが──これが意識高いヒトが云う『理想のリタイア生活』なら、私にはとても真似できそうにない。

 何度かタイに一人で旅行している。
 色々あるんだろうがタイの人は東京の人よりquality of lifeが高そうに見えた。単なる旅行者の目線だが。もちろん、タイも広いし、その全てなんて私は知らないけど。
 パタヤかフィリピンのスービックあたりにいつか住みたいなあ。

2016年の裏庭観察

(2016年12月25日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より )

 「トリパラ計画」についてご説明する。中年を過ぎて北海道のようなクソ寒い土地で暮らしていると、毎年自力で越冬している生物には畏敬の念を抱くようになる。その生命力に率直にあやかりたいと願う心境に達するのだ。
 だが、目にこそつかないが、越冬できずに凍死してしまう小動物もいるはずで、それは同じ土地で暮らす人間にも「恐怖」を共有させる。
 そこで、もし人間の営為によって、そんな境界線上の野鳥個体の運命を好転させることができるとしたらどうだろうか。
 通信販売がここまで発達すると、そこにじゅうぶんな空きスペースさえあれば、実験には僅かなコストしかかからない。
 かかる興味本位から、わたしは2013年以降、裏の荒地に各種の鳥の「食餌樹」――すなわち「いつか実が成るはずの木」の苗を植えてみるようになった。
 しかしこれは一筋縄では行かぬとすぐに気付かされた。
 商品カタログ上の売り文句で「耐寒性が強い」とか「土を選ばない」とか「半日陰でも育つ」とか書いてあっても、2年以内に環境にマッチせずに枯死、衰弱、消滅してしまうものが過半なのだ。定着し、越冬できても、成長が遅くて、2年経っても開花しないものもある。北海道に自生しているはずの種類でも、そのようなケースがある。
 それは品種をミスったのか、ショップの差なのか、植える時期が悪かったのか、わずかな日照の違いが関係しているのか、ヘンな硫安臭い安物の培養土を投入したのがまずかったのか……? 皆目わからぬ。断定的なことを1~2年にして言えるようになることもまずない。
 さりとて無制限に大量の苗木を試してみることなど許されない。だから、偶然に大きく左右される、手探りのワンタイム試行となってしまう。
 知らない子供が春先に闖入して来て遊び半分に枝をヘシ折ったり、真冬に自治体が雇った除雪ホイールローダーが勢いよく突っ込みすぎて幹をボロボロにしてくれるといった撹乱も突発する(しかしこのアクシデントによって、御殿場桜の頑丈さや梅の復活力の偉大さは分かった)。

 テーマは最近では、秋に結実して冬まで実が残る種類の樹木をミックスして成長させた場合、そこは“鳥のパラダイス”になるのか――を確認することに絞られつつある。
 こんな実験を進めるにあたってはいくつか気をつけねばならぬこともある。
 まず、将来この貸家から引っ越して実験地も長期にわたって完全な放置状態になる場合であっても地域には迷惑がかからないように周到にアセスメントしないといけない。たとえば鋭いトゲがあるメギのようなものは最初から選べない(ノイバラは植えなくとも既にはびこっているので許されるだろう)。苦くないのに毒がある実が成る種類も避けた方がいいに決まっている。また2016年夏のかつてない強風を教訓とするなら、長期的にやたら喬木化するであろうヤマボウシやエゴノキのようなものを残置して行くのも無責任だということになるだろう。万一、予想外に高く伸びてしまったときは、それが脚立で届かぬレベルに達する前に主幹をカットすべきだろう。
 こんなことをあれこれ心配すると、場所は北国でもあるし、比べ見られるものも寂しい数に限られてしまうのである。
 だからまとまったリポートを書けるのもあと数年後になりそうだが、とりあえず途中経過を報告しておく。報告なくしては地上のパラダイスは近づくまい。

ガマズミ 1
ガマズミ 2
ガマズミ 3

 2015年4月にガマズミ2苗とミヤマガマズミ3苗を散らすように植えておいたところ、本年は3株(うち1株はミヤマガマズミ)が結実した。
 雌雄異株の虫媒花なのでどこか近くに雄樹があるのだと考えられる。近所では見たことがないのだが……。
 写真1枚目の症状は「サンゴジュハムシ」の食害。この被害がまったくない株もあった。場所の差なのか? 撮影後に殺虫剤を噴霧したら食害は止まり、この株は秋に結実した。しかし放置しておいたら開花すらしなかっただろうし他の株もいずれ害虫から襲撃されたかもしれない。これは考えさせられた。
 写真の2枚目は開花状況である。白いボサボサしたのが花。わたしのバカな鼻ではほとんど匂いは分からなかった。
 背景の青花は、毎年こぼれダネで更新される一年草のヤグルマソウ。左の巨大な豆科の蔓は、宿根スイートピー。これだけで密林を構成し、絡み付かれたヤマブキなどの潅木は埋没してしまう。ヤマブキは一重なのだが未だ結実を確認できない。

サワフタギ 1
サワフタギ 2
サワフタギ 3

 北海道にも自生するらしいが見たことのないのがサワフタギ。2015年4月下旬に大苗を定植。同年秋には結実しなかったが、2016年秋には、わずかばかり結実してくれた。それが3枚目。見にくくてすいません。
 雌雄異株の風媒花なので、どこかに雄樹があって、そこから飛来した花粉で受精したとしか考えられない。しかし、それはいったいどこにあるのだろうか?

ラージエルサレムセージ 1
ラージエルサレムセージ 2
ラージエルサレムセージ 3
ラージエルサレムセージ 4
ラージエルサレムセージ 5
ラージエルサレムセージ 6

 2014年4月中旬に定植。その年も、その次の年も、常緑のローゼットだけが越冬して、花茎が立ち上がる兆候はなかった。しかしローゼットの面積は確かに拡大した。耐寒性なのは間違いない。そして2016年。いきなり開花したのである。 3枚目背景左寄りのヤマハギ(植えて2年目)は、この夏の異常強風で地際から倒伏した。ところが、2m以上も直立する「タカアザミ」はビクともしないものが多かった。野生の底力を見た。
 ラージでないただのエルサレムセージは、北海道では冬を越せないと言われている。
 実は成らない。

コモンセージ

 何のケアもしていないのに年々大株化する常緑の植物だ。こんなものも特記する価値があると思い、写真を掲げる。
 全草から、人のバカな鼻でも分かるほどの香気が立ち上る。そのせいなのか、ほとんど虫には食害されぬように見える。
 花期は短いものの、ご覧の通り豪勢。
 実は成らない。

クコ

 2015年4月中旬に、異なるショップからクコを1株づつ取り寄せて定植してみた。
 たちまちその月の下旬に2株とも主茎が寒さで枯れかかり、ひこばえだけが小さな葉を付け、夏になっても元気は回復しなかった。
 写真の1株は枯れ木のように見えるけれども、これでもまだ生きている。越冬はできたのだ。そして夏には葉が出たし枝も伸びた(柔らかいトゲあり)。しかし勢いは弱い。生きているのに枯れているような感じなのだ。もちろん2016年も開花まで行かなかった。もう1株などは、買ったときよりも株が縮んでいる。
 まだ結論を出すのは早いかもしれない。しかし北海道の野外ではこいつは無理なのだという判断に私は傾いている。気候が合えば、秋になる実はいわずもがな、葉まで生食できるという奇跡の木本植物だと思ったのだが……無念。

ウメモドキ

 2015年3月中旬に定植した小苗のウメモドキは、いつのまにか「消滅」。これは定植が早すぎて寒さにやられたと思う。
 しかし同年4月下旬に定植したもっと大苗の別のウメモドキは、同年は開花して結実しなかったけれども、2016年9月には立派に結実してくれた。
 ウメモドキは北海道には自生していないのではないかと思う。しかしホームセンターで鉢植えを売っていたのを見かけたことがあるから、全く育たないわけでもなさそうだ。
 不思議なのは、これは雌雄異株の木で、しかも風媒花。どこかに雄樹があって、そこから花粉が飛んでこない限りは、結実しないはず。
 では、わざわざ実の成らない雄樹を買って植えている人が、近くにいるということか? それはどんな人なのか?

コトネアスター 1
コトネアスター 2

 2015年5月上旬に定植したコトネアスターは、最初から結実状態で、その年にも開花しまた結実している。矮性なので積雪期には完全に埋もれてしまう。そして翌年3月に確認すると、枝の下方の実はまだそのまま残っている。ナナカマドのような苦い味ではないのだが、なぜか鳥の間では、この実は人気がないように見える。
 2枚目の後ろで倒伏しているのは、夏の強風に負けたタンジー。ただし枯れることはない。

カーラント

 2014年10月下旬に定植したカーラント。たぶん土が悪すぎるのだろう、矮性のままでちっとも成長する感じもしないのだが、翌年6月、はやくも結実。7月中旬には人が食べられるくらいになった。しかしこの実は冬までには綺麗に消える。野鳥が気に入っているのだろう。冬に残る実ではないのが、残念である。
 夏に結実する庭木としては「ニワウメ」もある。接木で売られており、2015年3月上旬に植えたのが16年にはもう一定数の結実を見た。こちらはヒヨドリが毎日数個づつのペースで腹に収めるのを観察し得た。
 晩秋に結実するはずのハマナスは、なかなか大きくなってくれない。カマツカ、マユミも然り。はあと何年待てばよいのか、見当もつかぬ。

イボタノキ 1
イボタノキ 2

 2016年3月中旬に定植して、いきなりその夏に開花し、いきなり結実。こういうのは珍しい。越冬できるのかどうかは未確認だが、報告する価値があると思うので、掲載する。
 イボタノキは雌雄同株。近くに同種の樹が1本もなくても結実するとされる。
 実の直径はごく小さい。12月初め、この近くに雌雉がいたのに出くわして、互いにびっくりしたものだが、雉の目当てはこの黒い実ではなくて隣のワイルドストロベリーだったようだ。

キンギンボク

 これは川の土手の大木の枝の下に毎年勝手に生えくるのを、1~2年前、別な場所に試しに移植してみたものだ。つまり野生で実生。土地に合っていることだけは疑いもない。
 成長が旺盛なので、生垣のように強剪定しても耐えるかどうか2年続けて実験したが、やはり弱まらない。
 スイカズラのような小花が咲き、それに続いて夏に実ができる。赤いのと黄色いのが混じるのでキンギンボクと呼ばれる由。実は有毒とされるが非常に苦いおかげで人による誤食はまず起きぬそうだ。それはありがたい性能であるが野鳥がついばんでいるのもまた見たことなし。写真の実は秋にはすべて干からびた。
 しかし、これが自然に生えてきたということは、何かのトリが落としたに相違なかろう。

ムラサキシキブ

 2015年4月末に植えたムラサキシキブ。越冬して2016年秋に結実した。実の直径が小さいので最小サイズの鳥でもウェルカム。

沙棘

 沙漠緑化に役立つ棘のある潅木、すなわちサキョク――といっても日本では誰もわからないので「ロシアン・オリーブ」などという商品名で売られている。ユーラシアの東西に分布するようだ。
 写真の株は2016年3月中旬に苗を植えたもので、まだ一度も越冬していないわけだから、ほんらいならば来年までリポートは待つべきだろう。が、この土地では珍しく、すばらしく成長が早かったから、特筆の意味でその姿をご紹介しておく。このスピードは「アキグミ」に通じるポテンシャルを感じさせる。(残念ながらアキグミは1メートル半を越えたのにまだ開花に至っていない。)ツルウメモドキやゴミシのような蔓植物の苗よりも高速で延びるとは、どういうことだ?
 背景の白ボルトニアがほとんど枯れている晩秋にも、沙棘の葉の色は夏と変わっていない。このまま常緑で越冬するのかどうかは、観察を続けないと分からない。もし来年以降も調子がよければ、いずれ開花して結実してくれるかもしれない。
 いったいどんなトゲが出てくるのかも未確認なので、家の窓からよく見える場所を選んである。
 手前のゲラニウムは、今年数種類を植え比べてみたもののひとつ。これらは来年末まで待たないと、どれがよく土地に合っていたか、見極めはつけられない。いずれリポートしよう。

青色フジバカマ

 2015年春に定植してこれで2年目の青色フジバカマが今年は豪勢な大株になった。花期もじゅうぶんに長く優秀。春には何もなかったような地面から夏に急激に大きくなるところもおもしろい。ただし3年目はどうなるかはわからない。無肥料の放任でも年々増殖するなら、それは大したものだ。
 実は成らない。

ヤナギラン

 地下茎でやたらに増えるヤナギランの芽はこの春には裏庭の数割をカバーする勢いで、いかなることになるかと期待をしたが、不思議なことに今年はさっぱり開花せず、肩透かしを喰わされた。例外的に1、2株に印しばかりの開花が見られたのみでシーズン終了。
 多年草でも株によって咲く年と咲かぬ年があったりする。これは球根のカマッシアでも経験する。だが、すべての株が一斉に咲かない現象というのは初めて観察させてもらった。
 実は成らない。


(管理人 より )

 メリークリスマス!
 クリスマスでの更新である。この姿、まさに兵頭流軍学門弟の鑑である。もちろん一人前の兵頭ファンたる者ならば、盆暮れ正月は無論の事、ましてやクリスマスなどに心乱されるなど不心得者との誹りをまぬがない。
 ひたすら兵頭本を読み、寄稿記事を追跡し、新刊が早く発売されるのを.朝夕と神仏に祈るのが正しい、いや当然の生活である。いくらなんでも休んで良いのはラマダンくらいだ。

 改めて、メリークリスマスである。ちなみに私は来週からタイで酒浸りの1週間を送ってきます。

 当サイトをご覧いただいている皆様、どうか良いお年をお過ごしください。
 今年もありがとうございました!

『旅順攻防戦』余話

(2004年2月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 別宮暖朗先生の新刊の宣伝として、同書に載らなかった周辺的な雑談をしようと思います。

 この企画に関しましては28cm砲弾の写真収集等、皆様にもご協力を賜り、有難うございました。どうも版元の都合でせっかくの貴重な写真が掲載してもらえなかったようなのは残念ですが、まあ、よくあることでしょう。

 去年、私はスカパーのラジオ放送で、花火のお話をしました。そこからおさらいしてみたいと思います。

 今の日本の法律では、花火に仕込める火薬は80kgと決められています。直径90cmの2尺玉にも、それより多くは入れられません。

 打ち上げる火薬は「割り薬」といい、黒ゴマ状の粒に練られていて、500グラム。これで高度600mまで上がるのです。筒と玉の間には隙間があり、そこから点火用の千切れた火縄を投入します。

 どの角度からみても球状に多重の菊が咲く、日本の打ち上げ花火の技術は、塩素酸カリウムが輸入されだした明治7年頃から、大正末にかけて完成したものです。

 この日本型の花火玉、基本構造はナポレオン戦争時代の「曳火榴弾」に似ていました。もちろん鋳鉄ではなく、腰の強い和紙の重ね張りを、殻の素材にしたのです。

 黒色火薬は開放空間で火をつけても爆発しません。これが爆発するためには、火薬全体に火が回るまでの一瞬の時間、発生ガスの圧力が閉じ込められなくてはならないのです。そして、その外殻がいよいよ内圧に負けて破裂する際には、全方向に均等にはじけとぶようにこしらえておかなければ、花火は球状には散開しません。

 興味深いことに、欧米の打ち上げ花火では、その「三次元シンメトリー」の理想は、最初から諦めています。なんと、筒状の殻を打ち上げて、筒の一方から、すすきの穂状に飛び散るようなものしかない。おそらくは「曳火榴霰弾」の発想なのでしょう。

 このように祝祭用の洋式花火では西洋を早々と追い抜いた日本人だったのですが、肝心の戦争で用いる「砲弾」や「爆弾」の技術では、近代日本の陸海軍は甚だ苦戦しました。じつは、この分野ではいまだに西洋には追い付いてはいないのですけれども、それは防衛庁周辺ではなんとなく秘密にされている雰囲気です。

 追い付けない原因は、シミュレート能力に関係しています。

 砲弾は花火のように空中で勝手に自爆するものだけではありませんね。多くは、何かに当たってから爆発しなければなりません。

 当たる対象が柔らかい地面だけであるなら、信管を敏感にすれば良いだけの話で簡単ですが、そうでない場合がしばしばある。たとえばコンクリートの半地下室です。たとえば岩盤に掘られた満州の塹壕です。たとえば軍艦のぶ厚い砲塔や舷側です。

 これらの「ハード・ターゲット」に砲弾を貫入させるには、砲弾の殻は強靭に造らなくてはならない。ところが、殻を強靭にこしらえますと、その中に充填できる比較的に僅かな黒色火薬では、細かな均一な破片を無数に飛散させることができない。比較的少数の大きな塊に割れますので、密閉空間内に飛び込んだときには、十分な対人殺傷威力と焼夷力を揮うのですけれども、開放空間での人馬に対する危害力は思ったほどではない。また、ハードターゲットそのものを崩壊させるような爆圧も発生できません。

 日露戦争で旅順要塞を攻略するために、日本陸軍は、本土の海峡防備のために置いてあった「28センチ榴弾砲」を、東京湾と由良から取り外し、現地に送りました。これは有名な話ですね。

 この大砲は、明治20年代の軍艦の甲板(それは硬い材木を何重にも張ったものです)を上から射ち貫き、内部で爆発させて、あわよくば弾薬庫に火災を起こさせてやろうと考えていたもので、発射する砲弾は、ぶ厚い、しかもとても硬くなるように熱処理した鋳鉄製。中に充填された炸薬は、長期保存しても安全確実で、しかも燃焼時の発生ガス圧の大きな粒状黒色火薬でした(ちなみに花火の玉に入っている黒色火薬は粉状のまま使うので低威力です)。

 日露戦争では、日本陸軍は緒戦そうそうに、陣地攻撃に有効な「榴弾」を撃ち尽くしてしまって、内地の工場がフル操業で砲弾を量産しても間に合わないような状態でした。しかし好都合にも、この28センチ砲弾だけは、各地の海峡砲台におびただしくストックされており、工場に改めて増産をさせる必要がありませんでした。

 当時すでに「ピクリン酸」という、黒色火薬とは比較にならぬ猛烈な爆薬が、陸海軍で実用化されていました。開放空間でも付近の可燃物に火災を起こさせる高熱も、同時に生ずるものです。が、これは極く不安定な物質で、砲弾に充填するときにいろいろと気をつけねばならぬことがあり、巨大な28センチ砲弾は国内を列車で運ぶだけでも手間でしたから、陸軍省は、黒色火薬充填のまま、旅順に向け海送させたのです。ただし、最初に送った二千数百発については、その信管(各要塞内に、砲弾とは別な倉庫に保管されます)から「延期装置」を外させていたことが、防衛研究所に残っている当時の電報綴りから確認できるでしょう(これら公文書史料はインターネットを通じてデジタル画像を読むことができるようになっています。「函館」「信管」といった複数キーワードで検索が可能でしょう)。

 延期装置というのは、信管の中にあり、軍艦の表面では起爆させずに、内部の奥深くまで穿貫してから炸裂するようにタイミングを遅らせるための小部品です。しかし28センチ砲弾は弾頭ではなく弾底側に信管がついていたので、この延期装置を外しても理念的には「瞬発」とはなりません。ある程度の鈍感さはあり、百分の何秒かは遅れて轟爆します。

 これはどういうことだったかといいますと、別宮先生の本に書かれていますように、陸軍の最上級幹部には、この28センチ砲で旅順港内のロシア軍艦を撃沈しようという意図は無かったのです。明瞭に、二龍山や東鶏冠山北堡塁などのコンクリート天蓋陣地内の敵兵員を制圧させる目的であったのです。浄法寺朝美氏によれば、厚さ60cmのコンクリートの下に居たコンドラチェンコ少将は28cm砲弾の命中で戦死しました。

 おそらく、その時点でのストック砲弾の性能と対象物との間の「摩擦」が読めた者が、参謀本部や満州総軍ではなく、陸軍省の中に居たのではないか。私はその筆頭者が、技術系の少将だった有坂成章だろうと思うのです。

 この砲弾の人員殺傷効果が徐々に効いてきたので、まず「203高地」が陥落し、ついで他の敵陣地も守備努力が放棄されました。前後して28センチ砲による軍艦砲撃も試みられていますが、講和後にロシア艦を引き揚げて調査したところでは、やはり鋳鉄製の28センチ砲弾には、日露戦争当時のロシア戦艦を撃沈する威力は欠いていたことが理解されました。

 旅順のロシア軍艦は、副砲をすべて舷側から取り外し、山上に据えて日本兵を射撃しました。砲弾や火薬、そして水雷までも陸揚げし、陸戦兵器として活用している。むろん水兵も、塹壕の補充用員として次々に送り込んだのです。このため次第に艦内では、漏水をポンプで排水したり、火災を消火する「ダメージ・コントロール」が人手不足ゆえに不可能になって、窮余の策として、いっそ導水バルブを開き、浅い港内に自から着底して、艦を水中で保存するという手に出たのです。そして守備軍司令官が降伏することがハッキリすると、こんどは軍艦を日本に再利用させぬようにと内部で機雷を炸裂させたのでしたが、すでに弾薬庫すら空でしたから、小さな穴が開いただけに終りました。

 当時の機雷には、爆薬が30kg以上も入っています。これでなくては戦艦を沈没させることができなかった。しかるに、28センチ砲弾の炸薬は黒色火薬が9.5kgのみ。また当時の陸軍として最新のクルップ製15センチ榴弾砲でもピクリン酸2.6kg、15センチ加農砲だと同1.6kg、12センチ榴弾砲では同1.3kgというところでした。

 本来なら、これでは撃沈効果など無いのですが、撃沈したと同じ結果をもたらすことができましたのは、現地で敵の「士気」を観察した結果です。これはウォー・ゲーム式の机上理論では分らないことだったでしょう。

 それならば、日本海軍の砲弾は万全であったか?

 日露戦争頃の戦艦の主砲の寿命は、120発です。つまり、主砲が4門ある『三笠』でしたら、一海戦で30センチ砲弾を480発以上撃つことなど考えていない。タマも、その分だけ積んでいたら良かったわけです。ですから海軍の徹甲砲弾は、陸軍のように大量生産向きな鋳鉄ではなくて、贅沢な圧延特殊鋼を採用していました。中味の炸薬はピクリン酸です。

 信管は、とても敏感だったと言われますけれども、やはり弾底に装置されたものであって、タマ先が何かに触れて炸裂するまでの間には一瞬のディレイがありました。その間に強靭な弾殻が敵艦の装甲内部に貫通し、内部のピクリン酸が轟爆することになっていたのでしたが、日露戦争後の調査では、これも次のような事実が判明したといいます。

 すなわち、軍艦の舷側のような堅い金属表面に命中した砲弾の内部では、信管が作動するより前に、衝突衝撃で赤熱した弾殻がピクリン酸を自燃させ始めてしまい、結果として緩慢な爆発に終っていたというのです。

 道理で、さんざんに砲弾を撃ち込んで炎上させ、ついに降伏に追い込んだロシアの戦艦が、いっこう沈む様子もなく、内地の軍港まで簡単に連れ帰ることができ、やがて日本の戦艦になったりしているわけです。

 こういうディテール情報は、明治末期には軍の上層部に共有されていたのだと思われますが、大正末期には忘れられてしまい、特に陸軍では、佐藤鋼次郎中将の嘆いた「歩兵科」至上の空しい戦術主義(これについては『SAPIO』バックナンバーをごらん下さい)が横行して、昭和の国家防衛を破綻させてしまうのです。

 28cm砲の据付に関しては『偕行社記事』という雑誌に、その工事を指揮した将校・横田穣(有坂に抜擢された)の回想が載っているのですが、なぜか最初の砲撃開始の時点で、話が終ってしまっています。これは、今にして思いまするに、谷版『機密日露戦史』の「203高地攻め直前に児玉がさらに砲床を動かさせたのだ」説と、背馳してしまう内容だったために、編集カットされたのではないかとも疑えるでしょう。

 奉天では日露双方が観測気球を活躍させていますが、なぜ旅順ではあまり役に立たなかったのでしょうか? これは、旅順が海のそばで、しかも大陸の縁ですので、連日上空に強風が吹いていたからだと考えられます。またおそらく、要塞内から射程の長い重砲で榴霰弾による曳火射撃を受ければ、地表付近のデカい気球だけに、照準も付け易く、ひとたまりもなかったんでしょう。

 それから海軍がとにかく旅順攻略を急がせた理由ですが、戦艦の主砲身の内筒交換の必要があったためではないでしょうか。実射120発で寿命になるというのですから、これを新品に代えておかねば、摩耗したライフリングでは命中が期待できなくなります。(訓練は、内とう砲という、同軸固定の縮小射撃装置=豆鉄砲でやっていたんだろうと思います。)30cm砲の内張り交換が朝鮮あたりでできれば良いのですけれど、その設備はなかったのでしょう。

 もちろん、機関その他の整備もやりたかったのでしょう。当時の国内のドックがあまりに作業能力に余裕がなかったので、時間に余裕をもたせたかったのではありますまいか。
 昭和19年刊の佐野康著『闘魂記』には、アッツ島で将兵を殺したのは艦砲射撃でも地上火器でもなく、敵機の猛爆であった、と書いてある(矢野貫一編『近代戦争文学事典 第三輯』)そうですので、28Hの対塹壕射撃の効果の程も想像できるのではないでしょうか。それは、密閉空間で炸裂したときだけ、決定打となり得たのです。

 ちなみに、これは前にどこかで引用済みの数値と思いますが、日本は日清戦争で50万発の砲弾を補給したのに比し、日露戦争では105万発を補給。この日露戦費の起債が、旅順陥落までは難儀を極めたのです。また支那事変&大東亜戦争では7,400万発を補給していますが、すでに欧米列強はWWIの4年間で各国とも億発単位で発射していたことをご想像ください。ちなみに1941~45年の合衆国は、無慮4百億発を補給しました。

 『旅順攻防戦』にはフランスのシュナイダー社製75ミリ野砲が出てきますね。この諸元が大正5年の『各国各兵種使用兵器概見表』(by臨時軍事調査委員)に載っています。

 名称   1898年式野砲(※1897年に仏が初めて駐退機付きの75ミリ野砲を完成しましたが、それと同じものでしょうか)

 砲身素材 ニッケル鋼
 機構   ねじ閉鎖、気水圧式駐退、空気式復坐
 弾頭   7.2kg(榴散弾)
 炸薬   130グラム(榴散弾子放出用)+10g弾子×300個+濃煙剤
      またはメリニット700グラム(榴弾)
 仰角   最大12度
 初速   532m/s
 射程   榴散弾曳火200~5500m可変、榴弾Max8500m
 発射速度 20発/分(急射の場合)
 放列砲車 1150kg
 1中隊   4門 

 ちなみにドレフェス事件は、仏軍の最新の120mm砲の秘密漏洩の嫌疑がかかったものでした。


日本海軍の爆弾―大西瀧治郎の合理主義精神 (光人社NF文庫)


(管理人 より)

 以前スカパーで『Salon 28』という兵頭二十八先生がメインパーソナリティのラジオ番組が流れていました。実話ですよ!もちろん私は聴いていました。録音したCDを紛失した事は、痛恨の極みである!
 もう1回やってくれないすかね、藻岩山ラジオとかで……。マンガ『波よ聞いてくれ』は本当に面白いなぁ。
  (2020年2月)