旧資料備忘摘録 2020-3-16

▼日本土木史編集委員会ed.『日本土木史/大正元年~昭和15年』S40、土木学会pub.
 油槽。
 海軍は、M43までは、露出式鋼製油槽で燃料油を大量貯蔵した。
 M44にはじめて、鉄筋コンクリート油槽を建設した。初期のものは、露出式で、容量3000トン。
 やがて、貯蔵油の蒸発損失を防ぐことと、防空の見地から、覆土式や土中式に。容量も、3万トンや5万トンに増えた。
 巨大な、重力式無筋コンクリート造りの油槽も出現した。この方式だと円形でなく角形。
 地下水を利用して、その上に貯油する、水蓄式油槽も。全体は円筒で囲まれる。
 水によって油を包んで貯蔵する水封式油槽も研究された。

 3000トンの油槽は、内径24m×深さ7.3mである。壁厚は、基部から3mくらいまでは厚く、そこから上端まではテーパー状に薄くなる。※788ページに図があって寸法が細かく記載されているが、手元にあるのが縮小コピーであるため、数字が判読できない。

 6000トンの油槽は、内径34m×深さ8mである。

 横須賀の箱崎にはS4に、岩盤直打ち式の2万トン油槽が5つもつくられた。
 父島にも、土中式の重油槽が建設されている。

 大正3年に日本は対独宣戦。青島でこっちから空爆するようになった。そこで、これ以後増設される油槽は地上露出式にはしないことになった。覆土して芝を生やして偽装する。

 コンクリートの側壁は直射日光を受けると膨脹して重油が滲出する。
 覆土にすればタンク内の気温変動は年間5度に抑えられる。

 無筋コンクリートは、WWIとその後の軍艦補充のために鉄鋼の値段がバカ高くなり、ペイしないので、苦肉の策として考えた。側壁に粗石コンクリートを積み、重力擁壁とし、内側に油密コンクリートを施工する。

 大11に、横須賀飛行場に200m×20mのコンクリート舗装。これで艦上機の離着艦を訓練させた。おそらく日本の飛行場舗装の嚆矢。

 複葉機時代の飛行機は横風に弱いので、飛行場は正方形に近いのが好まれた。S11の96陸攻登場を境にして、海軍は水上機と練習機以外は単葉機に切り替えた。

 S12からS16にかけ、海軍は、サイパン、テニアン、タラワ、ウォッゼ、トラックの竹島等には1200m滑走路、ケゼリンには1300m、ペリリューには1500mの滑走路を整備した。そのうちテニアンとトラックはアスファルト舗装だった。
 海軍の中型機が自走で旋回するには、半径70mが必要だった。

 飛行艇が着水するには、最低潮時でも水深2.5m以上なくてはならなかった。軽い水上機なら1.5m水深でいい。

 八丈島には、200m×1200mの海軍滑走路があった。

 S14に、内務省の防空研究所が発足した。水戸で、鉄筋コンクリート建物に対する爆弾静止破裂試験。

 針尾無線電信塔の工事詳細(p.780)。

 S13-7-16から4日間、饗庭野演習場で、国家重要施設の投下爆弾に対する抗力を試験した。
 鉄筋コンクリート3階建て×2棟。4階建て(地下室あり)×2棟に対し、93軽爆が、高度800~1500mから填砂爆弾と実爆弾(50/100/250kg)を投下。

 わかったこと。大型爆弾ほど、弾道が乱れず、狙ったところに当たる。単発投下と連続投下を比べると、後者の方が命中率が良い。

 50kg爆弾でも、鉄筋コンクリ床×2層を貫徹できる。250kg爆弾なら床板5層を貫徹できる。

 50kg爆弾を高度1500mから投下したときの着速は150m/秒である。

 100kg爆弾の炸薬量は46kgだった。50kg爆弾の炸薬量は20kgだった(p.772)。

 S19-9には、横穴式防空壕に対する500ポンド爆弾の静止破裂試験を実施。

 疎開飛行機工場(地下工場。中島飛行機大谷工場など)は、250kg爆弾に対して、硬岩なら7m、軟岩なら10mの掩護厚さが要求された。

 満洲の積雪は一般に60cmである。だから、満洲の要塞は、火砲・機関銃の砲身・銃身の高さが、地面から60cm以上に来るように設計しないと、実戦の役に立たない。

 要塞の守備兵は、全体を三分する。三分の一は、棲息掩蔽部で横臥。三分の一は守備位置につき、残りは雑用あるいは休憩にあたる。

 築城は、その完成にはまず10年を要する。満洲の築城はS9に開始した。
 要塞は、東西を通じて、早老性がはげしい。攻者の武器や戦術によって、簡単に、無力化されてしまう。

 南西諸島の宮古島の狩俣、八重山群島の船浮、北千島の占守島、幌筵島に、艦船の泊地を防護する臨時要塞を、S15から建設した。翌年、沖縄の中城湾も追加。4ヵ月の短期工事。
 以上、海軍の工事。

 以下、陸軍の土木。
 鉄筋コンクリートは、フランスの要塞でまず採用された Beton arme ベトンアルメ。砲弾に耐えられるかどうかで、抗力を審査された。

 陸軍発注の築城工事は、請け負い工事は皆無。直営でないと秘密が保てない。
 排水と防湿がとくに苦労する。かなりの地下なので。

 澎湖島の要塞化が大変だった。まず植林して地下水が貯まるようにして、飲用水を確保。そこからやる必要があった。

 ワシントン条約で余剰化した艦砲を、朝鮮、対馬、壱岐、津軽海峡などに据えた。

 台場と海堡は違う。海堡は、浦賀~富津岬の間を閉塞するための人工島。M14以降、この海保に数種類の要塞砲が据えられた。そのなかに「10cmカノン」もあり。※おそらく陸軍の「十加」の祖。

 大正~昭和初期の変りダネ列車砲。敵艦がどこに現れてもいいように、列車で要塞砲を機動させる。ただし、車両にあらかじめ据えつけず、車両はあくまで運搬に使う。線路の近くに急速に分解式の金属砲床を敷き、その上に、車両から砲塔を卸して据える。少数が試作され、試験成績もよかったが、実用に至らなかった(p.744)。

 昭和15年、内地に鉄材が不足したので、京都府 宇治川支流の田原川の宵待橋は、コンクリートブロック積みのアーチ橋にした。支間31.8m。

 台湾の主要港湾は、基隆から反時計廻りに、淡水、旧、後竜、梧楼、鹿、東石(その沖に馬公)、安平、高雄、台東、新、花蓮港、【薊のリが禾】【さんずいに奧】。

 朝鮮の港。
 木浦の最大干満差は5m。釜山は2m。
 沿岸流速は2ノット以下。

 仁川は潮差が10.15mで最大。
 北端の竜岩浦でも6m。

 東部海岸は、元山で0.5m、清津で0.6mとすくない。

▼小川博三『日本土木史概説』S50 共立出版pub.
 小浜港の名は上代の記録にすでにあらわれている。渤海や宋からの船が着いていた。
 応永15=1408には、ジャワからの船が着き、熱帯産の鳥獣を幕府に献上。修理して出て行ったという。その後、3度、南洋の船が来た。

 天正元年に信長に招かれた宣教師オルガンチノは、瀬戸内の海賊を避け、意図的に小浜から上陸した。

 戦国時代の100年間、日本にも、城壁で囲繞された都市が蔟出した。たとえば、山科寺内町。蓮如が土塁と水濠で囲まれた武装都市を計画した。先駆は、福井県の吉崎。後継にして大成したのが、石山=今の大阪市(p.78)。

 まず縄張り。その次に「しろとり」=築城。 その工事は、「普請」=土工と、「作事」=建築に分けられる。作事の方は、軽く見られていた。

 土塁の勾配は、土の安息角である30度が普通。

 「野づらはぎ」の石累は45度に積み、頂部の一列のみ、垂直に立てた。ここを「雨おとし」という。
 「打ち込みはぎ」の石累は54度に積み、上部の五分の一を垂直にする。
 「切り込みはぎ」の石累は60度に積み、雨おとしは上端四分の一である。以上は徂徠の『【金今】[けん]録』が伝えるデータである。

 木材は、冬に山元で伐採し、春の出水を待ってこれを流送した。

 電気雷管を使った発破を大々的に導入した工事は、1902年開通の中央線笹子トンネル(4656mで当時日本一の長さ)の工事。水力電気で坑内に電燈と電話を設備した。排土は架空式電気機関車で運び出した。

▼松下芳男『三代反戦運動史』1960-7、S29-11に出した本の再版。
 著者はM25-5新発田町うまれ。
 大2、陸士卒。大9、歩兵中尉で退職。

 日本の社会主義運動はM14からおこった。
 わが国の明治~大正の戦争は、資本主義が発達したから起きたのではない。むしろ戦争が資本主義を発達させた(p.20)。

 安倍磯雄はM36-10-20に、「欧州の非軍備国スイス」と演説し、日本も軍備を捨てることを説いた(p.38)。
 『平民新聞』も同じ誤解をしていた(p.55)。

 平民新聞の指摘。ロシアが2000マイルのシベリア鉄道を敷設する間に、日本は200マイルの京釜鉄道すら完成できない。

 満洲市場を開放すべきことは、米清条約が公認し、ロシアもそれに賛同していた。

 M37-2月19日夜、軍艦『日清』『春日』が到着したというので、日比谷公園で歓迎余興演説会があった。
 2艦は、M37-1-9にゼノアを発航し、2-16に横須賀に着いた。春日の回航委員長は、中佐の鈴木貫太郎である。日進は、竹内平太郎大佐で、この人は中将でおわった。

 M37-5-15、戦艦『初瀬』『八島』が沈没。その前後には、巡洋艦『吉野』、通報艦『宮古』、特務艦『大島』が、次々に沈没した。

 その前にマカロフ中将の乗艦『ペトロパウロスク』は4-13に触雷轟沈。

 平民新聞の記事。「……今や日本の海軍も亦、近日其の一等戦闘艦初瀬、巡洋艦吉野を失ひて、非常の打撃を蒙れり。」 ※『八島』の爆沈は伏せられていたことがわかる。

 トルストイのロンドンタイムズへの寄稿。6月27日掲載。書かれたのは1904-5-13。

 M38-8-10に黄海海戦、8-14に蔚山沖海戦。そのあいだにウラジオ艦隊の出没があって、輸送船『常陸丸』など13隻が遭難した。

 イギリス国内では、七年戦争以後、繊維産業が栄え、自由貿易主義となり、植民地無用論が萌芽した。

 フランスでは新兵は10月に入営する。2年兵役。日本では12月。

 M40-1-22の平民新聞。日本の人口は、3960万余。年々60万人増えている、と。
 M40頃、デンマークでは、リバタリアン=自由論者すなわち無政府主義者 の非軍備運動が盛んだった。
 イギリスでは、陸相ハルデーンが、志願制を徴兵制にきりかえたがっていた。

 M41-2-7、横須賀重砲兵の2等卒、福田狂二が、脱営して上海へ逃亡。もともと社会主義者で、M40-12に入営し、けっきょく大2-3-1まで、現役3年、監獄1年11ヶ月、逃亡5ヶ月。さいごは素剣と改名して、極右国家主義者になった。

 堺利彦の売文社の小雑誌『近代思想』。ラムスウスの『人間屠殺場』を佐藤緑葉に訳させて紹介した。
 大1の安部磯雄tr.のノルマン・エンゼルの『現代戦争論』とともに、評判になった。

 陸士生徒の藤縄作太郎は、騎兵科の秀才で、首席をあらそう優等成績だったが、大杉栄に感化され、卒業1ヶ月前に、病気のゆえをもって退校させられた。
 おそらく、陸士から社会主義者であることを理由に追放された唯一の人。藤縄はけっきょく、松島湾に身投げして死んだ。

 他の反戦軍人は、辞めた後で思想的立場を鮮明にしている。
 宇都宮徳馬(宇都宮太郎陸軍大将の長男)も、幼年学校を中退し、そのあとで、社会主義者になっている。

 リーグオブネーションズは、さいしょは国際同盟と訳されていた。大7末から、国際連盟と一定された。

 シベリア出兵は、大11-10の撤兵まで、4年3ヵ月、9億円を浪費し、3000名の陣没者を出した、無名、無益、有害、徒労の出兵であった。

 新発田出身の田口運蔵は、小学校で筆者の1年上。薬種屋の長男。仙台2高を放蕩で中退。門司で荷上げ人夫となり、密航してイタリア→米国へ。米国で片山潜を知って、渡露。ヨッフェに同行して帰朝。肺患で熱海に療養したが、再起せず、愛人の手にいだかれて死んだ。正妻なし。

 大14-4-11、陸軍現役将校学校配属令を制定。中等学校以上の学生生徒に対して、現役軍人をもってする軍事教練を正課とする。

 筆者・松下は、中尉のとき、弘前の歩52から、追放された。国際戦争反対の意見を抱いたことや、大杉、堺との交友が、とがめられた。
 将校として、非戦思想ゆえに追放された、最初の例となった。
 それは8月の末だった。M44-6に陸士を卒業してから、7年間も、津軽平野にいたのだが、背広姿で奧羽線に。妻と、1歳の長男とともに。

 水野広徳は、海軍大佐。大10-1に東京日々に、「軍人心理」を発表したのが、とがめられた。WWI後の欧州を見たことで、考えがガラリと変わった人。

 大10頃、予備陸軍少将の河野恒吉も、軍縮に賛成だった。

 犬養毅は、大3から、正規19個師団でも兵役年限を短縮すれば予備役を増やせるから増師の必要はないと説いていた。大11-2-7の衆議院本会議では、正規22個師団あったが、それは半減できるとした。歩兵の在営年限を1年とし、陸幼、陸軍軍医学校、経理学校、獣医学校は廃止する。学校と青年団には、軍の訓練を施す。
 ※つまり宇垣の大14の法案を先取りしている。

 水野の新聞での主張。
 大11時点で日本は、年利7歩で外債を募集していた。
 シベリアに捨てたのは7億円。海軍が要求する10年間の建艦費は20億円。

 大13-1の東京日日、軍が「新国防方針」を策定したと報道。総理大臣加藤友三郎、参謀総長上原勇作、軍令部長山下源太郎の3人が、沼津御用邸に行って、摂政宮に、説明したと。
 水野は、その方針の仮想敵国は米国だと見抜き、中央公論誌上に論陣を張った。

 日米が戦争になったとき、日本に同盟する国などひとつもないだろう。
 こっちが短期戦が必要だから精兵を多数養うのだといったって、このほうの注文どおりには、むこうで卸してくれない。3年とか5年の経済力の持久戦になるだろう。

 日米間の緊張は、利害の衝突ではない。感情が衝突しているだけである。

 大14-4-1からハワイ~南太平洋で、6ヶ月の米海軍大演習あり。
 水野はS20-10-18に、伊予の大島(疎開先)で、病死した。

 ワシントン条約以降は英国は敵ではない。香港の要塞化はできなくなり、シンガポールが要塞最前線になったのだから、緊張は緩和したのである。

 ロックフェラー財団は、毎年莫大の寄付を、国際連盟の衛生事業に申し出ていた。

 馬場恒吾は、情報局からもっとも嫌われた。S16時点で、四大綜合雑誌は、中央公論、改造、文芸春秋、日本評論 であった。
 講談社の『現代』と、『公論』は、国家主義や神がかりにおもねって、知識人にそっぽをむかれた。

 松下は、赤松克麿とは35年、つきあった。

 S11-9-10に、陸軍管内の各工廠における、職工の団体的行動が禁止された。造兵廠長の永持源次中将の名で。これで官業労働総同盟は解体させられた。20年の歴史があったのだが。

 蓑田胸喜は、軍部の機密費で雑誌『原理日本』を発行。していることは、銀座のまんなかで肥びしゃくを振り回すようなもので、だれも恐れて近づけなかったのである(p.311)。

 大審院判事の尾佐竹猛(法博)は、天皇機関説をとるとて、文官高等試験委員を辞職させられた(p.311)。
 蓑田は、熊本県の郷里に帰臥していたが、精神に異状をきたして、S21-2、「縊死をとげた」(p.311)。

 水野に対する言論圧迫(S8以降)あり、水野はこう詠んだ。
 国を憂ひ世を慨くとて何かせん 唯成る様に成れよとぞ思ふ。
 軍閥のあまりの暴状見る時は、戦へよ而して敗れよとさへ思ふ。 ※あきらかに「しこうして」ではない。

 S8に水野は書いた。四面楚歌の日本がもしどこかの国と戦争になれば、そこからけっきょく、全世界を相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる。
 某国大使の暗殺を謀ったと、法廷で揚言した若い将校がある。

 新名丈夫の懲罰召集。大15の徴兵検査で、強度の近視眼のため、兵役免除(第二国民兵)だったのに。
 海軍は、大正の兵隊をたった一人取るとはどういう意味かとねじこんだ。陸軍は辻褄を合わせるため、いそいで大14~15検査の兵を、250名召集した。だから40歳をこえた女学校の校長先生などの二等兵が、聯隊の中に見られたのだ。

 松前重義の場合。東條反対派の東久邇宮に近いというので、45歳の第二国民兵なのに、海南島で二等兵として電信柱かつぎをさせた。

 松前は東久邇に何を語ったか。東條内閣は、生産を減退せしむることのみに専念しているに等しい。東條を辞めさせるには、彼を元帥伯爵くらいに奏請するしかないのでは? これは細川護貞の証言。
 細川は近衛文麿の女婿。その細川いわく、吉田茂以下の家宅捜索によって反東條の人士にイヤガラセを続けたのは、東京憲兵隊の高坂某である(p.358)。そして彼の最終ターゲットは近衛だったと。

 松下じしんは、S16-9-1に私服の憲兵に自宅から引致され、そのまま拘留された。嫌疑は、軍事評論家の海軍少佐の石丸藤太に、機密の陸軍の戦時編成を知らせたというのだが、それは秘密でもなんでもない情報だった。2ヵ月ばかり、あちこち、ひきまわされて終わった。

 代議士は、議会中は、現行犯または内乱外患罪でない限り、その院の許諾なくしては逮捕されない。

 細川証言。開戦の詔勅に署名するとき、東郷と賀屋の2人だけは、即座に署名することを拒んだ。

 東久邇著『私の記録』いわく。対米戦がはじまって、戦局が有利なときに、蒋介石の仲介で日米戦争を停止してもらえと進言したが、何度も拒絶されたと。

 松下の都内の自宅は、S20-5-25の空襲で全焼。
 松下の娘は、陸軍の造兵廠に勤労動員されていた。

 非戦という語は、日露戦争の当時。大正以後に「反戦」となった(p.376)。

 愛国的平和主義者は、非戦というよりも、戦争終結論を考えるべし。そして戦時中は、国家の敗戦を防がねばならない。
 松下は、何もせず、何も発言しない、消極的な平和主義者を尊敬できない。

 国家の敗北を喜ぶような平和主義者ではありたくない。

▼ジェームズ・A・ミッチェナー著、清水俊二tr.『南太平洋物語』S27-5、原1946
 “Tales of The South Pacific”
 1948にピューリツァー章を受けている。
 ミュージカルは、この19章の中の「士官で紳士」と「フォー・ダラ」の2章を膨らませたもの。オスカー・ハマーシュテインとジョシュア・ローガンが脚色。
 訳刊は、19章から5章分を割愛した。米国でも、ポケットブック版はそうなっている。

 著者は1941から43にかけて、南太平洋ですごした。事務担当の海軍将校として。
 1942-4に、ニューヘブリディース諸島のヴァニコロ島に上陸。PBYの修理ができる兵隊たちを引率していた。不時着機をそこで修理するとともに、毎日気象を報告するのが任務。

 蚊柱がすごい。アタブリンという薬がまだなかった。
 原住民は高原に住んでいて、海岸からはすぐに姿を消す。海岸部は日中は暑すぎて、彼らにも、無理なのだ。
 「士官で紳士」は海軍将校のモットー。
 海軍少尉は、1年間は昇進できない。陸軍なら、1年で中佐にされ、空軍なら、大佐に任命されるような逸材でも、海軍では、横並びに中尉にしかなれない。

 昼飯後、2時まで寝てよい。
 大尉になって10ヵ月経てば、米本国に帰還する資格を得る。

 看護婦は将校待遇なので、下士官とつきあってはいけない。しかし将校はたいてい既婚で、所属社会階層もスモールタウン出の看護婦とは違いすぎるので、看護婦はしばしば不幸なセフレになる。
 看護婦が将校に、既婚かと尋ねれば、彼らは嘘は答えない。だから看護婦は、ここでは、その質問をしない。
 日本軍は、湿って暗い内陸の洞窟に部隊本部を設ける。米軍は、海岸の近くに作る。

 日が昇るとトタン屋根がパンパン音を立てる。最初はそれが銃撃かと思う。

 マラリアは酷かった。汗をぐっしょりかいて、皮膚がただれる。脇の下には無数の水泡。二の腕の間接もただれる。プラス、皮膚病にもかかる。
 部隊には黒人の炊事係も。

 パイロット用の救命筏は、二酸化炭素ガスでふくらませる。それが日本軍の岸の方へ吹き流されようとしたとき、上から飛行士がパラシュートを投下してやった。それをアンカーにすることで、押し流されずにすむ。

 機密書類を運ぶ鞄は、海に投ずると、8秒以内にまちがいなく沈むようにできていた。飛行機が墜落したら、確実にそれを捨てろと言われていた。

 このあたりの土人は特に親米でもなかったので、伝令や監視には使うなと言われていた。
 熱帯では、三ヶ月や、星の光でさえ、洋上の艦隊の姿を浮かび上がらせてしまう。

 トンキン女。これはベトナム人である。円錐状の傘をかぶっていた。

 フランス殖民人たちは、土人も含めてすべての若い女たちを、バリハイに移した。それはアメリカ兵から守ってやるためだった。

 「魚雷ジュース」。魚雷に使われているアルコールにウィスキーの味をつけただけの密造酒。あきらかにPT部隊が横流ししていた。

 椰子の葉の筋が、現地では縫い糸代わりになる。

 象牙椰子。拳大の果実で、松ぼっくりのような表面。中に堅果があり、乾かすと象牙のように固くなる。

 熱帯で、時間はずれに寝ようとすると、眠りにおちないうちに夢を見る。それも、奇怪な幻想ばかりである(p.153)。

 商売上手な下士官は、ひとりの将校に蛭のように吸い付いて離れない。楽をするには、それに限るのだ。

 紳士が議論しなければならぬことはただひとつ。誰が勘定を支払うか、である。

 豚を信仰の対象としているところは、世界中でここだけではないか(p.187)。
 ジャングルに野生の豚がいるおかげで、働く必要がない。

 酋長は、歯は丈夫そうで、ひじょうに痩せていた。

 著者はハーバード出である。
 酒保は米語では「ワイン・メス」という。ところが実際にはワインは置いてなくて、ビール、ウィスキー、ラム、ジン、ブランデー、ビター、コーディアル(甘味をつけたアルコール飲料)だけがある。

 日本の優秀な戦闘機乗りは、ショートランド諸島付近で、曇った日に、米機のすぐ下にしのびよって、銃撃する(p.201)。

 ブーゲンビル島は、暗い陰気な島だ。
 ムンダの飛行場は、シービーズによって、太平洋でもっとも長い滑走路になった。

 電気洗濯機がすでにある。
 ヌメアのまともなフランス人は皆、ペタン派。始末におえない混血児たちは、ドゴール派だった。

 海軍では、マーク・ミッチャーが、頭にぴったり合う野球帽をかぶることを始めた(p.254)。

 このあたりでは、おそろしい台風は9年に1回の周期で襲来する。季節は1月から3月にかけて。

 海軍のメシは、フネの上では佳良だが、陸ではまずい。水兵用になるとさらにまずい。

 トルペックス爆薬を満載した輸送船は、嵐のときに接岸をゆるされない。沖で翻弄されるしかない。
 荷揚げ場のトラック運転手は、黒人兵。

 LCS-108は、上陸用舟艇だが、固有の武装もある。25名の武装兵を運べる。乗員は30名。

 サンフランシスコのことは「フリスコ」と呼ぶ。南太平洋に派遣される前に、最後に拝む米本土の町である。
 トンキン女とのエピソードの主人公。アメリカ海兵隊中尉ジョー・ケイブルは、戦死して墓標があった。

 ※はっきり分かることは、こいつはノンフィクションなど書いてなかった。作り話が6割以上だということ。
▼服部龍太郎『定本・日本民謡集』S38-10
 沖縄。
 鼓を打てば…… しかし、ままさぐわ(継子)を打てば、物名が立つ

 奄美民謡は、内地と同じ音階。琉球民謡は、シナ音階のおとしごである。

 カツオを釣るには、生きた餌のキビナゴが必要。昔は、いけす樽の水を3時間ごとに汲み替えねば、キビナゴが死んでしまった。雑魚=カタクチイワシ=タレクチ。
 明治期にはクーラーがないから、カツオが大量に釣れると、船上で煮熟しせねばならなかった。
 大正4年以降、船底に海水を循環させる設備ができた。
 発動機がない頃は、8梃櫓の手漕ぎだから、あまり遠くにもいけなかった。

 九州方言。烏をカラサという。
 おまや=you  おどま=I

 おどんがうっ死んだちゅうて だいが泣あて くりゅうきゃ 裏の松山 蝉が鳴く。(五木の子守り唄)
  ※正調は二拍子。戦後流行ったのはなぜか三拍子で、朝鮮の影響といわれた。

 田原坂の歌は、M37の対露戦争スタート直後につくられた。作詞は九州日日の記者。作曲は熊本の芸妓だったと。
 美少年とは、敗報を味方まで伝えるために派遣された騎馬伝令。

 黒田節。峰の嵐か松風か 訪ぬる人の琴の音か 駒ひきとめて聴くほどに 爪音[つまおと]頻[しき]る想夫恋。

 トイチとは、「上」の字を分解したもので、情人。

 吊り橋の鬘は、火で熱して柔らかくして結ぶ。耐久力は3年しかないので、明治の中ごろから、スチールワイヤー化されていった。

 祖谷[いや]の粉ひき唄。徳島県。
 ……稗の粉にむせた お茶がなかったりゃ むせ死ぬる。

 石材の切り出しは、昭和10年ころまでは、ノミと槌だけの重労働だった。
 岡山県の北木御影石は、彫刻しやすい。東京九段の靖国神社の大鳥居は、これである。

 熊野三山の本宮へは、以前はプロペラ船で行った。大正9年に、熊野川に導入された。それまでは陸で人夫4人が舟を引っ張って歩いた。新宮から2日もかかった。乗っている者にとってはあまりにうるさいので「つんぼ船」「おし船」といわれる。

 和歌山県の串本に大正6年にアメリカから初めて、世界一周の水陸両用機が着水した。

 淀川は川底が浅い。せいぜい三十石船。長さ15間、幅2間。屋根はなく、ゴザをかけて苫船にした。明治の中ごろまで、外輪蒸気船と共存していた。
 八幡町からケーブルカーに乗って男山にのぼると、桂川・宇治川・木津川の合流しているがよく見える。

 岐阜県の郡上八幡。盆踊りが7月なかばから9月のなかばまで2ヵ月も続く。藩主が青山氏のとき、士農工商の融和をはかろうとしたのが始まりという。
 ※落下傘領主が、土豪との軋轢を避けようとしたのか。

 石川県の富来[とぎ]祭り唄。
 わしの心と 荒木の山は ほかに木がない 松ばかり

 北陸の五箇山。徳川時代に加賀藩に属し、硝煙をつくって年貢として納めていた。藩内流刑地でもあった。大槻伝蔵の土牢跡がある。

 越中おわらの踊りの写真。※これを見て思ったこと。古式の盆踊りが続いているところで、人々の手足が「ナンバ」になっているかどうか、確かめてはどうか? そんなところはないと思うぞ。

 福島県の新相馬節。
 待つ夜の長さを四五尺つめて 逢うたその夜を のばしたい。
 おらも若いとき二十四五の頃 山の木萱[きかや]も なびかせた。

 庄内に特有の「はんこたんな」。頬被りをしたその内側、くろ布を、鼻を覆うようにぐるりと頭に巻く。両目と口は、見えているが、鼻だけが隠される。汗よけ、日よけだと。

 田沢湖には大正時代は、鉄類をいっさい使わない刳木[くりき]舟しかなかった。湖の主が金気を嫌うというので。※そうではなく、酸性が強いので釘はすぐボロボロになるからだ。

 江戸時代、箱根から西が関西だった。
 箱根の最後の雲助だった人に聞いた。ほんとうにカゴをかついだ最後の2人。ただしくは「人足」という。掛け声は「ヘッチョイ、ヘッチョイ」。帯は、結んだ先を尻のほうにだらりと垂らす。これは、馬になぞらえて。

 福岡の博多どんたく。品川女郎衆は十匁。十匁の鉄砲玉。
 ※揚げ代が銀10匁だった。コメ1斗が買えたというから、下級女郎である。
 どんたく は、オランダ語の休日=ゾンターク から。

 山形の、紅花摘み唄。
 花を摘むのも そもじとならば 棘[いらか]さすのも何のその

 北九州炭鉱節。 あんまり煙突が高いので の煙突は、蒸気捲き揚げ機を運転するためのボイラーに附属した大煙突で、150尺が2本あった。場所は、伊田の堅坑。

▼岩畔豪雄『戦争史論』1967
 商業競争と殖民地が戦争の原因になると言ったのは1781年のベンサム。

 英軍のロケットはナポレオン戦争中からある。径12センチ、射程7500m。
 ポルトランドセメント=コンクリートは、1824に英人が発明した。

 アカイア時代=ミケーネ =青銅時代。
 ドーリア、イオニアは、鉄文化である。

▼森正蔵『転落の歴史』S23、鱒書房
 エチオピア侵略したイタリアに対し、連盟は、ラクダや馬などの駄獣の輸出を禁じた。

 ソ連の大粛清はトロツキーのさしがねだとする史観に著者は同意する。
 リュシコフ亡命ドラマ(pp.86-7)。

 1939にルーマニアはドイツと条約を結び、年19万トンの石油を輸出することに。年産は620万トン(pp.146-8)。

 その頃、イギリス本土は名実ともに不沈の航空母艦であると同時に唯一の前進基地であった(p.246)。

▼A.Vagts、望田幸男tr. 『軍国主義の歴史 I』1973
 9世紀に欧州では騎士が武器所持の権利を独占した。
 ローレンスは白兵突撃に反発。

 プロイセンの伝統。軍人は回想録を残すべからず。死後公表もダメ(p.38)。

 プロイセン参本の戦史はまったく脚色。普墺も普仏も。
 ナポレオンの演説も、じつは構成の自筆脚色である(p.42)。

 フォッシュはイエズス会員から権威のありがたさを学んだ。
 USグラントは、過去戦例は禍いだとみていた。
 アダムスミス以降、戦争に1章を割いた経済学者はいない。

 1790-2の仏法令。すべての軍人は最下級から出発しなければならない。
 革命後の仏軍では、砲兵>工兵>歩兵と騎兵 の順にステイタスがあった。

 ボナパルトは、気球も蒸気力も嫌いで新兵器に無関心だった。抑圧すらした。

 デルブリュックは、戦術=より少ないミス と強調。
 グースステップはフリードリヒ・ウィルヘルム3世時代に始まる。

 ナポレオン戦争中のオーストリー兵は、ベルギーの畑を踏み荒らさないように下令されていた。

 ナポレオン以前、仏歩兵はテントを馬に運ばせていた。デルブリュックは指摘す。じゃがいもの普及とナポレオン戦争とは時機が重なっていると。

 ボナパルトいわく。軍隊は殺されるためにある。
 プロイセンのナショナリズムは、官僚から出た。

 30年戦争でドイツが荒廃した原因は、農民が飛び道具の所持を許されて射なかったから(p.68)。

 15世紀の戦場から、コミーヌは、単発の射手は数千人そろえなければ価値は無いとした(p.72)。

 18世紀の砲兵隊はかならずLineの左翼に配された。これは、名誉が低いことを意味した。

 古代ギリシャは総労働力の25%を兵隊に動員できたが、18世紀後半では、1%が限界。

 七年戦役で、4000人のプロイセン将校が死んでいる。将官は31名。
 決闘は黄金時代のスペインで様式化して北欧まで及んだ。

 ギベールの頃、工兵隊を、 corps du genie といった。

 シャルンホルストは、断固たる決意をもつ国民党は、二流の指導者、蒋軍のもとでも勝利できると考えた。

 米南部は1930年代でも、他地域より機械化が遅れていた。
 米でも製鉄は平炉が主。屑鉄が必要である(p.236)。
 1940年の輸出では、英国と日本に、おのおの18万トンもの屑鉄を供給していた(p.236)。※英国は米国の資源なしではその工業力をフル回転させられなかった。

 三翅プロペラはMGとのシンクロが難しくなるので、一時、翼銃が主流化したのである(p.273)。

 米国の工作機械は、1846~64のメキシコ戦争や南北戦争での小銃注文から発展する。フライス盤や、炭化タングステンの刃なども発明された。

 米は液冷エンジンでは欧州に劣った(p.275)。

▼『軍国主義の歴史 II』1973
 ジーメンスは、独砲兵士官だった。嫌気がさして辞め、独軍最初の電線を架設した。
 将校だけでなく兵士が結婚するのにも当局の許可が必要だった(p.17)。

 バーデンはドイツ諸邦中で最もリベラルだったが、全国家収入の九分の一を軍に支出した。

 クリミア戦争は、英陸軍は望んでない。中流階級がイケイケだった。
 ウェリントンは軍事衛生には無頓着だった。輸送も徒歩ばかり。それがクリミアで反省された。

 オーストリーに近衛連隊はない。
 駐在武官制度は1816から始まる。

 WWI以前、武装可能な人口などどうでもよく、使える将校の動員可能人数が、戦争の予想を左右した。

 軍用鉄道工兵は、南北戦争が最初。
 ファークツの見方。ドイツ海軍が予算をとりすきたから、陸軍が負けた。

 エリウ・ルート国防長官のもとで、ミリシャはナショナルガードに改められた。
 F・ハーバーは、ルデンドルフに対し、1年以内に勝つ見通しがある場合のみ、イペリットを使え、そうすれば報復を避けられる、と提案した(p.166)。

 クラウゼヴィッツは、225kmまでなら威令がおよぶが、750km以上ではも不可能だと考えていた。

 Marmont(1774-1852)いわく、逃げろという合図を出すのは、いつも、密集隊列の最後列の兵士たちである。

▼Alfred Vagts “A History of Militrism”3
 欧州大陸の貴族や将校は、雄弁とはいえない。特に英国人貴族と比べると。ナポレオンは、命令は得意だったが、話しかけるのは下手であった。

 WWI後も、欧州大陸貴族は、討論が苦手だった。
 ロシア革命の成功因は、ボルシェヴィキが兵士に対して語りかける言葉をもっていたこと。白軍将校には、それはなかった(p.26)。

 独仏は昔から、演習でいためつけられた農地に補償する制度が整っている。

 ※この訳者は、コペンハーゲンが奇襲という動詞だということを知らない。どうりで全体に読みにくい。

 イギリス人は、予知を主張することを嫌う。国家的な、長期の大計画というものが嫌いなのだ。
 ドレッドノートは居住性が格段によかったから、支持された。

 1982-12まで、ウエストポイントは、ドイツ人の訪問を拒否していた。

▼『軍国主義の歴史 IV』ダメ訳者 望田幸男 1974
 仏は、戦間期に、ドイツが、対・国防軍の武装警察をもつことを許さなかった。
 ホーマー・リーは、反スラブの話も書いている。レーニンは読んだ。おそらくヒトラーも。

 ヒトラーがダンケルクで停止したのは、彼の1914-15のフランドルでの体験が根拠。戦車戦に向いていないと。

 ヒトラーとチャーチルはノルウェーの重要性を理解していた。どちらの国でも、プロ軍人はノルウェーを軽視していた。

 FDRの信念。相手国が反撃するのがこわいから、こっちの方針をひっこめようとするのは、やってはいけない外交戦術である。

 スターリンのクラウゼヴィッツ褒貶は、ソ連の New Times 1949-12-21に出ているという。

 ローマ兵が装甲の重さを嫌って脱ぎ捨ててしまった話。J.Clarkが1944に英訳したFlavius Vegetius renatus 著『Military Institution of the Romans』に三箇所ある。

 トルコはパイクを17世紀に入っても持たなかった。これはモクテクックリの1752の『Memoirs』236頁に出てくる。

▼W.Schwinning著、湯原俊tr.『砲身及び銃身の設計製作並びにその材質』白水社S20-1、原1934

 ドイツでは1900年に、「砲身応力計算及び設計に関する総合的の研究」が刊行されている。

 粘性=靭性。

 水冷MGの命数限度は1~2万発。口径が大きいほど寿命は短い。原因はエロージョン。よって艦砲は数百発以下で寿命になる。

 ドイツの鎖栓は水平式。他国は螺旋式。
 小銃装薬は薄板状。火砲用は棒状。

 長距離砲ではWWI後も英仏はクルップを凌げなかった。
 しぼりこみ腔は、銃口直前では水平洞である必要あり。※スクィーズボア。

 砲身を多層に焼くのは、応力を内側と外側とで等しく分担させるため。

 鋳鉄と真鍮の乾燥摩擦は非常に低い。

 ライフリングの山のことを隔墻という。

 単肉砲身では、肉厚を10口径以上にするメリットはない。
 自緊処理。水圧で内圧をかけて砲腔を塑性的に拡大させる。砲身中に、静応力が生ずる。

 水圧をかける前に、砲身全体を型コンテナーに入れる。

 内管をとりはずすには、まず全体を熱して、内側に水を通して内管だけ冷やす。

 WWIの仏砲はライフリングが浅かった。独のは深い。深すぎると気密が悪化する。
 自動火器の薬莢は、太いのが便利。
 MGは続けざまにしゃげきしたら、水冷でも5000発以下の銃身命数である。

 仏小銃弾は被甲せず、銅に10%亜鉛のムク弾(p.92)。
 シングルベースはダブルベースよりエロージョンが強い。

 銃身表面は、輻射を高めるために、いぶし色にする。
 火砲の素材は、砲身内面の蓄熱量をできるだけすくなくするものを選ぶ。内側材は、特に熱伝導がよいこと。
 クルップ野砲の優秀なものは、腔発しても砲身に亀裂を生じなかったという。※これは榴霰弾だ。炸薬200グラム。

▼渡辺和敏『改訂 街道と関所 ――新居関所の歴史』S58-11、初版はS51-12
 場所は、浜名湖の今切渡船発着所。
 戦国時代以前は、今切の地形はなく、ただ、浜名湖からひとすじの浜名川が遠州灘に注いでいた。浜名湖も淡水湖だった。
 とうぜん、今切地形とならなかったなら、江戸幕府もこんなところに関所は作らなかった可能性がある。

 1405と1475に地震と津浪が発生。浜名川の堤が崩壊し、浜名橋が維持できなくなった。

 新居宿は、元和五年七月からは、幕府直轄地。
 元禄15年から幕末までは、吉田藩領。

 幕藩時代の関所や、街道途中の無架橋箇所は、ただ幕藩体制の維持に貢献しただけで、全国的な経済発展をいちじるしく阻害した。

 「五街道」の定義は不定。幕府にとっては、道中奉行が管轄する街道はすべて重要だった。今日の国道。

 東海道の各宿駅には、平均して、57軒の宿屋があった。
 東海道は、参覲交代の6割が利用したので、本陣が充実している。

 参覲交代は前田利長の1602の江戸参府から始まる。
 その後も、加賀藩への出入りを監視する関所網が、特に徹底していた。琵琶湖北岸だけで3箇所もあり、京都と勝手に連絡できないようにされていた。

 相撲取りは、人足が担いでくれない。無理なので。だからじぶんで裸でかちわたりするしかない。

 天保14年の大井川には482人もの川越し人足がいて、500梃の輦台をかついでいた。
 大井川と天竜川が、東海道筋の2大急流。川筋が一定せず、したがって堤を恒久維持しづらく、さらに人足業者たちが反対運動するので、橋はかけられなかった。

 万治2年より前は、江戸市民が旅行するには、幕府留守居役の証文が必要だった。爾後は、町奉行の証文でよくなった。

 今切では、女の検閲は、下りも上りも改めた。
 坊主と前髪男性は、比丘尼や少女ではないか、確認した。
 長持は、上りも下りも中身を改めた。

 赤穂浪士の江戸潜入は、関所管理者たちの落度であった。だから元禄15年閏8月に吉田藩に管理させることにした。

 手負いや死人の詮議をきびしくしたのは、正徳1年から。
 関所では、少女とは、零歳児から、振袖を着用している間の女児。

 京都所司代と京都町奉行は、別々に並存していた。

 鉄炮手形は、上り鉄炮については不要。

 置き手形。幕府の要職者や、大藩主たちが、江戸から鉄炮を持参して上方へ移動するとき、関所に手形を預けておき、帰るときには、その置き手形を回収するだけ。

 新居では武器あらためが厳しかったが、箱根では武具は素通し。鉄炮でも。

 関所手形は、発行月と、その翌月の晦日まで。しばしば、女性連れはこれに遅れてしまう。
 関所の宿場に滞在し、飛脚で手形を取り寄せることもできた。

  ※汽船は、このガチガチの陸上交通とりしまりを、不可能にしてしまった。よって、明治維新。

 京都所司代、大坂城代は、手形の発行者。

 ふつう、海路の鉄炮輸送は禁止されていた。
 のちに、廻船が、今切湊をすどおりして遠州灘を横切るようになったので、下田番所や浦賀番所が新設される。

 開門は、人の顔を見定めることができる明るさになったとき。閉門は、その逆の時刻であった。

 吉宗は、関所手形は、請ふままにあたふべし、とさせた。万民よろこぶことかぎりなし。
 他方で吉宗は、関所破りの者を拷問することを許可している。

 たびびとは関所を嫌い、新居宿にはできるだけ投宿しなかった。

 東海道の交通量は、元禄から増えた。
 関所所在地では飯盛り女は公認されず、グレーゾーン形態になった。

 助郷は迷惑な制度なので、村では金銭を宿場に与え、宿場はそのカネで雲助+馬や浮浪者を雇って、継立人足にした。

 関所があるだけで、土地の人気が、別なものになった。

 くずし字の「か」は、「一」の下に「の」のように見える。
 「おかげ」は御蔭参りの幟。

 文化3年、祭礼で花火が許可されていた。享保年間には花火興行すでにあり。

 天保飢饉後、天保7年9月の三河山間部の大一揆。鎮圧には鉄炮が必要だった。

 江戸時代後期、海苔の生産が活発になった。
 浜名湖の漁民は、夜船手形を発行された。殺生=漁業の他に、船を夜、出してはいけなかった。

 関所近くでは女が漁船に乗ることも禁じられ、漁村、大迷惑。
 鉄炮領も、関所近くでは禁止。

 そこで、「流しもち」猟が発明された。
 トリモチを、菜種油で煮ると、水につけても粘着力がなくならない。それを、100m前後の縄に塗り、湖面に漂わせる。水中の餌をさぐりたい鴨は、その縄が邪魔なので後方にはねのける。そのとき、羽根に縄が粘りつく。

 参覲交代を廃止したのは、その先手をとらなければ、雄藩が実力で打破しかねなかったから。
 諸藩の財政負担に余裕をもたせれば、それが海防資金にもなる。

▼カレル・チャペック著、栗栖継tr.『山椒魚戦争』イワブン1978、原1935
 日本での初訳刊は1970だった。

 チャペックは、第三紀の大山椒魚の痕跡がヒトの祖先の化石と勘違いされた事件に触発された。

 海底人の噂。海底に街がある。その魔物は身長120センチくらいで、尻尾がある。

 ローマ法王庁の門標には、ピオとあるだけで、肩書きも番地も記されてはいない。

 進化に立ち遅れ、すでにほとんど死滅していた動物のかすかな存在を、にわかにはなばなしく復活せしめたあの強力なエラン・ヴィタール(生命の飛躍)こそ、奇蹟なのである(p.175)。

 山椒魚の寿命は、1年よりかなり長い(p.193)。

 ※チャペックは、ウェルズやハクスリーの影響をこうむっていることを、作中で、隠していない。

 収集家は、コレクションに新しい品を加えられるなら盗みや殺人も辞さない(p.215)。

 テン(●【トウ】小平のトウの字)とかいうシナ人海賊が、山椒魚シンジケートの飼育場を襲い、抵抗した職員を射殺した。この海賊船団はミッドウェーの近くで米軍砲艦により撃沈された(p.241)。

 山椒魚は、不死身に近い戦争用動物になる可能性をもっているが、性格が平和的なのと、生まれつき攻撃に対して無防備なのが、その障害(p.254)。

 山椒魚には、もちろん精神はない。その点、人間に似ている――とバーナード・ショーなら言うだろう。

 1日には、86400秒しかない。

 山椒魚の宗教を説明するくだり(p.286)。※レムはこのスタイルに影響されているのでは?

 アジビラのコピー。ところどころ(十四行削除)とか(七行削除)とかあり、わらわせる。

 山椒魚文明の動力源は、海。干満、暗流、温度差。タービンは人間が供給。

 ドイツの学者ハンス・チューリング博士は……(p.341)。※あきらかにチェレーンのパロディ。

 「現代で、決定的なものは、もはや、空中戦ではなく、水中および地下でおこなわれる戦争なのである」(p.346)。

 征服した民族や階級を絶滅させないで、奴隷にしたことによって、常におかした人間の歴史的誤りを、山椒魚=サラマンダー がくりかえす、と諸君は思うだろうか(p.354)。

 英国では、Xは基督の略字である。

 われわれ人間にとっておそろしいのは、彼らの数や力よりも、彼らの成功し勝利しつづける劣等性である(p.363)。

 チーフ・サラマンダーの布告。大英帝国によびかける。兵糧攻めの報復として、アイルランドをのぞく英国諸島に対する無制限封鎖をおこなう。

 山椒魚海軍の小型潜水艦が、6週間のうちに、英国の保有総トン数の4/5を沈め、英国内ではサラブレッドが食い尽くされた。

 英軍は、バクテリアや石油をテムズ川に流して山椒魚を毒殺しようとした。報復として山椒魚は、英国海岸を120kmにわたって毒ガスで覆った。

 山椒魚は、海水からGoldを得る方法を発見した。

 「今日、海のある国は、みじめだからな」(p.403)。

 山椒魚はついに陸地の1/5を水没させた。 ※小松左京はこれに影響されたのか。
 海ナシ国は無事だった。

 チャペックは、プラハのカレル大学で、哲学博士の学位をとっていた。父は医者だった。
 『山椒魚戦争』の初出は1935-9-21~1936-1-12。

 英訳の題名は、直訳すると「山椒魚との戦争」。

▼太田戌三『兵器』S12-6
 S弾(7.92ミリ、弾丸10グラム、初速875)、D弾(8mm、弾丸12.8グラム、初速690)とわがくに三八式実包(6.5ミリ、9グラム、762m/秒)の比較表。
 射距離 400mでは、仏D弾は高さ0.54m、独S弾は高さ0.39m、三八式小銃弾は地上高0.49m。

 射距離 600mでは、1.42m、1.13m、1.36mである。
 射距離 700mでは、2.10m、1.87m、2.09mである。

 38式歩兵銃の制式の発射薬量は2.15グラムである。初速は775m/秒。一般に初速762mとされてゐるのは誤りと見られる(pp.52~54)。

 鋭敏弾頭信管。米軍は37mm機関砲のタマ。対空用。微弱抵抗に接してもたちどころに起爆する。遠心式安全解除機構付き。

 繋維機雷の索は、周囲28ミリ~38ミリ(径ではなく外周)、長さは100mを普通とする。

 ドイツの「鎖送式」の機雷敷設潜水艦。上甲板のすぐ下に75個の機雷が列をなして前甲板の下から艦尾まで並んでいる。これを後方へずんずん押し出して、潜水艦の尻から次々に敷設する。

 ドイツの「落孔式」の機雷敷設潜水艦。UC-5号など。船体前半の下方に6個の孔あり。その上にチューブあり。機雷72個を急速に敷設できた。チューブは垂直ではなく、じゃっかん、艦尾の方へ流れる感じ。つまり行き脚がついているとき、開口が抵抗とならない。

 浮沈式機雷は1907年にLeonが考えた。所期の深度の前後を浮沈する。敵艦の装甲の薄い艦底を下から直撃せんとするもの。圧搾空気で動く機関が内蔵されていて、それによって缶底のプロペラを回し、浮沈する。深度センサー付き。

 漂流水雷。漂ひ廻るもの(p.252)。

 浅海用管制敷設水雷。沈底機雷で、おわんの蓋状。

 浮流水雷。ある一定の深さを保ち、流水と共に動くもの。
 1585年、イタリー人のランベリーが考案。アントワープのシュルト橋をこれによって爆破した。

 機雷に電気をとりいれたのはコルトで1842年。しかしクリミア戦争では掃海作業が一枚上手で、ロシアの敷設水雷は失敗した。

 露土戦争では、トルコの『スナ』が機雷で爆沈している。

 南北戦争のチャールストン港その他では、水中の杭に榴弾を継ぎ足して斜めに差して支柱で固定するという「杙杭水雷」が使われている。

 連繋機雷は、機雷2個をつなぐ。そして沈置する。

 曳航爆雷。水上艦により爆雷をひきずって、潜水艦に当てようとするもの。
 肛魚水雷。潜水艦が機雷をひきずって、水上艦に当てようとするもの。

 日露戦争では日本は綿火薬の間に黄色火薬を挿入したものも造った。着発信管。

▼植木直一郎ed.『武士道全書 第二巻』S17-12
 編者は文博。
 巻頭解題。
 「軍書題説」は羅山。原文は漢文。元和5年に松平定綱から求められて応じた。兵書のことは不案内だけ辞するを得なかったと自分で書いている。
 「三略諺解」も羅山。寛永3年。将軍の命で書いた。三略の名は漢志には見えず、隋志に初見する(作者は「下【不の下に一、その右にオオザト】神人撰」とあり、黄石公などとは書いてない)。おそらく、唐以降の作であろう。

 藤原佐世の『日本國見在書目録』に「大公六韜」とともに「黄石公三略記」(下【不の下に一、その右にオオザト】神人撰)が載っている。

 三略は日本の阿呆武将にも理解しやすかったので、慶長四年、五年、九年の三度も活字版が印刷された。慶長11年には七書も活字版で刊行されている。それとは別に慶長20年に「黄石公素書」も出版された。
 六韜は慶長4年いらい再版されていない(七書としては別)ので、三略の人気がわかる。

 「諺解」という言い方は朝鮮由来である。
 シナ古典はこういうふうに紹介すればよいのかという先行見本が、朝鮮にあったわけだ。
 日本では羅山が「諺解」というタイトルで自著を発表した鼻祖である。「老子諺解」「中庸諺解」等もある。これは時好に適い、流行った。
 のちに「国字解」という熟語が発明されて、そっちに変わった。

 「兵法家伝書」は柳生但馬守宗矩の著。寛永9年に鍋島直茂に伝授したと書かれている。

 「不動智神妙録」は品川の寺の住職だった沢庵和尚の作。柳生宗矩のために書いて贈った。心法と剣法の相関一致を説いた嚆矢。沢庵は出身が但馬国だった。

 「士鑑用法」は北條氏長の著。
 天下の大道たる兵法の真諦は「方圓神心」の一語に帰着するとした。

 「大星伝口訣」は北條流兵学の核心。神心の大本は、「日神」=天照大神にあるとする。

 「紀南龍公訓諭」は、紀州の徳川頼宣のことばをまとめたもの。没後の称号が南龍院。没年は寛文11年。

 「土津家訓指帰」。はにつりょう(土津霊社/霊神)とは、会津侯の松平正之が没する前年の寛文11年に、神道を授けた吉川惟足が授けた称号。会津藩には、寛文8年に正之が定めた家訓が15条あり。それを、近臣だった遠山為草が解説した。

 「文武問答」は中江藤樹の翁問答の抄。巖井任重が撰んだ。その子の孚が嘉永4年に出版。

 「武訓」は貝原益軒。正徳4-8-27に85歳で没す。その84歳歳の著作。辞世は「来し方は一夜ばかりの心地して 八十路あまりの夢を見しかな」。

 「武道初心集」は大道寺友山の著。小幡勘兵衛、北條氏長、山鹿素行に師事。享保15年に92歳で没した。※友山と氏長を混同するなよ。

 以下、「軍書題説」。
 「本朝の吉備公は中華より帰りて……」(p.29)。※羅山の真面目。

 孔子は言った。「人を殺すの中又礼あり」と(p.29)。

 八陣とは、内圓にして外方なり。

 兵法の「【金今】[けん]決の符」。陰符である。六韜によれば、暗号のこと。

 梵語の摩利支は、漢訳すると「陽炎」。常に日月の前に行くので誰も捉えられない。※マーキュリーなのか。

 編者いう。素書は、それを註している宋の張商英の偽作だろう。

 鉄甲は3年に一度、修繕しなければならないので維持コストが高い。そこで宝亀11年に、諸州に令して、国郡の甲はよろしく革を用いなさい、と(p.40)。

 編者いう。七書のうち問対は、宋代にはじめて世に出たもの。また尉繚子は尉が姓で繚が名。梁の恵王時代の人。商鞅の門人だとか、鬼谷子の門人だとかいうが謎。恵王との問答をまとめたのが、尉繚子である。

 以下、「三略諺解」/林羅山。
 三略の中に「軍讖」が出る。古代兵書だが、初出は三略ではない。

 三略では、叛者はかへす とする。主人を裏切った者は雇わないというわけ。※アンチ孫子である。

 帰者[きするもの]は、まねく。心からしたがはんとするものは、招きよせる。
 服者[ふくするもの]をば、いかす。殺さない。

 功ある者を賞するときは、時をうつさずに与えろ。
 羅山は虎口を「こぐち」と読んでいる(p.65)。

 羅山は、川の堤防のことを「いせぎ」という。
 大将は、楽しむべくして、うれふべからず。
 大将は、謀はふかくせよ。疑ふべからず。※あれこれと悩みすぎるな。

 菜色。人民が物を食わないでいると色が悪くなることをいう。
 国を保つ物は、九年のたくはへをせよ。

 門のしきみより内側は天子が号令する。門のしきみより外側は、大将が下知する。【門がまえに困】=門のしきみ。
 ※これが書かれているから『三略』は重要だった。征夷大将軍は朝廷から制肘されないという根拠に使えるので。

 戦いの占いを禁ずる。太公望は、死んだ亀や枯れた木がどうして吉凶を知るものかといって、亀も木も破壊して攻撃発起し紂を滅ぼした。

 義士を使うのに財によってはならない。

 編者いわく。方伯は、四方にいる諸侯の長たるもの。

 羅山いわく、張良は、六韜と三略を学んだ。韓信は孫子と司馬法を手本にした。

 高鳥死して良弓蔵[おさ]まり……。
 越の范蠡は呉王を滅ぼしたあと、退いて五湖の舟にのって、帰り去った。張良は項羽がほろびたあとは病気と称して政府に顔を出さず、隠棲した。韓信は、高祖から与えられていた大国をとりかえされて小領主にされてしまった。

 羅山いわく。聖人の道は、万物、おのおの、その宜しき所を得る(p.89)。

 六合とは、四海と天下をあわせたもの。※世界か。

 賢人の政は、人民を支配するのに「体」をもってする。聖人の政は、人民を支配するのに「心」をもってする。
 体=形である。

 羅山は書く。「中國は、支那のまんなかの國々を云也。」(p.91)。

 人はかげの如し。「すぐなる木をたつれば、影もろく也。」(p.92)。ろく=まっすぐ。

 「各其所を失はしめざれば、道の化なり。」(p.93)。

 惑いが還る=まどいが止む。
 一悪ほどこせば、百悪むすぶ。

 羅山いわく。老子は、兵は恬淡をたつとぶと云[いへ]る。

 殺生[せっせい]君にあるときは國、やすかるべし。
 ※君主が部下を成敗する。悪人を殺し、罪なき人をいかす。

 蛟は水にすむ毒蛇の類也。

 以下、「兵法家伝書」。
 冒頭がいきなり三略の引用。兵は不祥の器だが云々。老子にも見えるが、もともと三略なのだと。

 「人をきるにはあらず、悪をころす也。」
 右内にかまへて、おもひつめたる心を志と云也。※八双の構えか。
 下作りによくかためたるを志といふべし。※これは下段の構えでは?

 表裏は兵法の根本。
 われ表裏をしかくれば、敵がのる也。のる者をば、のらせて勝べし。
  ※この「のる」は謡曲伴奏のリズム用語。

 武略の略とは「いつわり」のことである。
 禅では、「草を打って【虫也】を驚かす」という。

 「戸の内に有る くるろ」 ※くるり。枢機。

 「見の目付」※かんのめ けんのめ。

 かかりのときの 懸待。身はかかり、太刀は待つ。※こっちは顔から先に迫って行け、ということ。ほとんど介者剣法である。

 「水鳥の水にうかびて、上はしづかなれども、そこには水かきをつかふごとくに、内心に油断なくして、……」

 道幸の坊 だうこ と読む。今の「デクノボウ」。昔はデクルバウとも呼んだと。
 ※木の人形の手足がとつぜん動くように、無意識に手足を動かせと。

 放心……孟子ではないか。

 儒書を読む人が「敬」の字に拘泥しすぎているのは、「つなぎ猫」と同然。犬猫だって自由な放し飼いが良いのだ。自由に心を働かせろよ。

 末尾に、明暦3年9月とか、寛永6年11月の署名。

 以下、「不動智神妙録」。
 初心の住地より能く修行して不動智の位に至れ。

 初の住地の無明[むみょう]煩悩と、後の不動智が、ひとつになる。

 禅の問答では、問いが言い終わらないうちに、答えを言わねばならない。よしあしは問題ではない。留まらぬ心を鍛えるため。

 石火の機 という。

 臍の下に押し込んで心を余所へやらぬというのは段が低い。
 「敬の字の位」。孟子が放心を求めよといった位。それを目指せ。

 心をどこか一箇所に置けば、他は留守になる。心は、どこにも置くな。そうすれば、わが身いっぱいに行き渡り、大心になるから。

 心をつなぎ猫のようにするな。
 心を一方に置かざれば、心は十方に有るぞ。

 水上の胡蘆子(=瓢箪)を打てば、捺着即転。
  水に浮いたふくべを手で押せば、かならず脇へどく。一所にはとどまらぬ。

 慈円は、藤原兼実の弟。すこぶる和歌に長ず。

 「……礼儀正しく、妾婦を愛せず、色の道をたち、父母の間おごそかに道を以てし、……」 ※この色の道も男色だろう。

 人の善し悪しは、その人が愛用している臣下、その人が親交する友達を見れば、知られる。

 「貴殿乱舞を好み、自身の能に奢り、……」

 以下、「士鑑用法」。
 孫子いわく、兵は国の大事うんぬん。この「兵と云は、士をさして云。」 ※素行の前に北條氏長が間違えていたのか。

 孫子は、詭も道であると言ったのである。「大道は方圓曲直ともに道也。」
 元来 好悪 人我の情なし。※詭道が悪いとか良いとかいう価値区別はない。他人と自分の区別もない。

 端末いまだ見[あら]はれず……三略の引用。
 八極の2番目が「神心」。9番目が「四神相応、堅固繁昌」。

 よく方圓の道理にかない、神心の曲尺をはづさず……
 神心の曲尺にはづるるときは、好悪人我の情ありて、……。

 よく方圓神心の曲尺に安住せよ。
 この道理は、人々、具足して自己にあり。

 方圓神心の曲尺の理を守れ。
 前後左右、東西南北が「方」である。
 方位をぜんぶ集めれば一圓相となるから「圓」である。
 天地ができる前は「空劫」である。

 備えのひとつ。「常蛇」。※これは「常山の蛇」の意味だ。

 奇正。虚実は我にあり。奇正は敵にあり。

 味衆[あぢしゅう]。武士がひとかたまりになって引き退くこと。

 不覚には、裏崩れ、友崩れ、見崩れ、犬鎗、捨て首、作り首、女首、病首など。

 客戦では、軽く北[にぐ]るを追ことなかれ。
 我、人数を一に集め、その不意をうつときは、我客たりといえども、人数多し。
 糧を敵に因る、是、客を変じて主となすなり。

 四方に放心すれば、神心を失う。その状態をうたれれば、互いに助けることができない。人数が多くても、少ないのと同じだ。

 寡き者は、人に備ふる者なり。衆[おほ]き者は、人をして己れに備へしむる者なり。

 攻城では「證拠旗」というものあり。
 「雑人一揆をうつ心持」

 守城では、人質の婦人と味方の壮男を一所に置いてはならない。監視役は老弱の兵にさせること。
 城内では、万事の吉凶、謂べからず。

 上陸戦を「客船」法という。

 夜中にフロッグマンがやってくるのとまぎらわしいから、「夜中水練をいとふべし」。

 船戦では「火矢をなげ」る。

 陰書=暗号。
 大扱い=敵を寝返らせるための饗応。
 孫子13篇が用間で終わっていることは、之を軽んじては非である。※素行は氏長に学んだことがよくわかる。

 半渡をうつ、とは、此岸で闘うだけではない。こちらからは足軽を川の中ほどまでも出さなければいけない。

 序破急は、時により所により敵による。

 ここに部隊がいるぞと余所の味方に知らせるときに建造物等を焼くことがある。
 西を撃つとき東、東を撃つとき西に声を発[た]つ。

 腹心の臣下という語は、六韜が初出。
 遊士も六韜に出る。

 以下、「大星傅口訣」。
 前哲を尊信する。
 破軍星。北斗七星の第七星。陰陽家は、その指す方角を不利だとする。

 曲尺=きょくしゃく。

 陰旺として夜の戦に北にむかうべからず。
 日光を背に負つて、我影を前に見て敵を撃つべし。

 以下、「紀南龍公訓諭」。
 神君は、御領分はもちろん、他領の百姓町人にまで念を入れた仕置きをしていたので、いざ大変というときに情報が一斉に集められた。

 関ヶ原合戦について、「位づめの」勝ちだったと言ったそうだ。

 ふかんしょう=能無しの馬。
 つくり庭花ずき

 「牢屋」と書いている。

 殿様なので、百姓に向かっては「おかげによって」とはいわない。「影によつて」とする。

 以下、「土津家訓指帰」。
 名君は浸潤の漸[ぜん]を戒める。※サラミ戦術。

 笙はリード楽器で、そのリードを簧[した]という。

 黜=しりぞける。ちゅつ。
 陟=のぼる。のぼせる。ちょく。
 黜陟 ちゅっちょく =功ある者を昇進させ、過失ある者を降等させる。

 社倉は朱子が始めた。荒政・済救のシステムとして。

 以下、「文武問答」。/中江藤樹。
 立ふる舞。

 孫子の五事は道を第一とし、呉子の兵法は、和を以て先とす。道も、和も、みな、仁義の徳のことである。

 伝手=つで と言っている。
 磁石の針をすふがごとし。

 以下、「武訓」。/貝原益軒。
 文盲の武侠をよろこぶといった昔の余習が近世にも及んでいる。
 節制とは、人数をくばり、兵を行る道。いはゆる軍法。

 先に用意をしておけ。「中庸」に、およそ事は豫じめすれば即ち立つ、とある。

 弓と馬は、ことさら学ばなければならない。力が強くても、弓と馬は巧みに操れるものではない。
 他の武芸は、習熟したとしても、この治世では、一生の間、一度も用に立たないかもれしない。しかし馬と弓は使うときがある。特に乗馬は日用のことだ。

 小身の武士は、武芸をひととおり習い知っておけ。弓、馬、剣術、鎗、なぎなた、抜刀[ゐあひ]、撃剣〔これと剣術の違いが不審〕、拳法、捧、水練。

 もろこしには武芸十八手がある。
 「日本にも」、たくさんある。たとえば「刀をなげうつ法」。

 拳は、近年、元【文+武 の下に貝】[げんぴん]といふ「中華人」が来化して、此の土[ど]にて死す。その者は拳法の伝承者ではなかったが、中華にそうしうものがあることを日本人に教えた。それを聞いた日本人が、拳法をつくり出した。

 『兵録』にいわく。士をしらべる方法。用いてはならないのは次の5タイプだ。市中でゆるやかに遊んで育った者。花鎗花刀[くわさうくわたう]とて、はなやかにうつくしきを専らにする芸者。敵に勝つことを専らにしていないので。年四十をこえて、ちからよわき人。大言壮語、ほら吹き男。顔が白く、胆が弱い人。

 たしむ=たしなむ。

 商人は武士に用いず。これはからもやまとも同じ。
 農人は、他念がなく一筋であれば、ほとんど武士である。

 もろこしの長ずるところは、いさめる人が多いこと。忠義があり、気節をたっとぶ。そのうえに文字がある。

 それに対して日本は、すぐれたる武国である。ただ「中夏に比するに」、文学が甚だ劣っている。

 編者脚注いわく。支那人は自ら其の國を称して、中夏とも中華ともいふ。我が國の人が之を用ひるのは正しいとは謂はれぬが、徳川時代の學者には之を用ひた者は少なくない(p.278)。

 平手中務[なかつかさ]は信長を苦諫して自殺した。

 『国語』に、三時は農をつとめ、一時は武をならふとある。冬だけ山野で狩をして、軍陣の法をまなぶという意味だ。
 日本の武士も、春~秋に農民を使役してはいけない。

 敵に勝つには、おそれる=つつしんで用心する という気持ちが大事。これは臆病とは違う。
 孔子は暴虎馮河の人とはいっしょになれないと言っている。事にのぞんでおそれよと。

 曾我祐成が22歳、曾我時致(時宗)が20歳のときに、あだ討ちをやった。

 「乱にのぞみて兵をならふは、渇にのぞんで井をほるがごとし。」(p.285)。

 『史記』の王翦の伝に、3世代続けて将軍になればあまりにも人を多く殺しすぎて良いことがないと。

 「挑戦」とは、先に勇士数名を出して敵の同人数の勇士を誘い、本格合戦のスタートにさせること。賤ヶ岳に例があると。

 使ひ番は、大将の心をみかたの士卒に徹底させる役。ただの伝令ではない。他の職より有能でなくてはならない。

 『左伝』。進めるかどうかを見て、難しいと知ったら、退く。これが「軍之善政也」と。※この政とはカケヒキ、決心、軍略の意味である。

 程子に「蝎の頌」というのがある。

 以下、「武道初心集」。/大道寺友山。
 松本城のことは「松城」といった。天保年間。

 くだらない口げんかが起こるような場所へはそもそも行かない。
 そうすれば「不慮の首尾に出合ふべき様も是なく候。」

 敵へ内通降参の不義を仕る
 武士はいつも腰に扇子を離すな。みだしなみだから。

 本朝は、異国とは違い、いかほど軽い百姓、町人、職人でも、似合い相応に、錆び脇指の一腰づつは、たしなむのである。
 是、日本武国の風俗に候。

 心がけの深い武士は、湯あび申す所まで、「刃びき刀、或いは木刀などを指置候。」

 呉子には、備えは門を出づるより敵を見るが如くす、とある。

 「ぬき手」=腕組みをすること。失礼である。
 「いれ手」。ふところ手。これも失礼。

 寝床では主君の御座へは足を向けない。
 弓の練習でも、御座の方向へは射ない。
 鎗・薙刀をかけおくときも、切っ先を御座の方へはさし向けない。

 若者をいやしめて呼ぶとき「せがれ」とよびかけた。

 武士が戦場で乗る馬は、高は1寸より3寸まで。
 乗り換えを持たない小身の武士がそれ以上のやたら大柄の馬を求めるものではない。

 味噌の味噌くさいのと、兵法者の兵法くさいのは、「鼻向もならざる物」。
 武士が我が女房の心立てが悪くて用に立たないと思ったならば暇を遣わせ。
 それをしないで、奥様、かみ様と人にいわれる妻女に、「握り拳の一つもあて」るようなのは言語道断である。臆病武士の仕業である。我に手向ひのならぬ相手に対し、理不尽だからである。

 「吝嗇[りんしょく]は臆病の唐名[からな]なり」(p.325)。
 三宝/三方の棄物。始末に困る物という意味。神前の道具なので粗末にもできない。

 城下の外曲輪に住居つかまつるさむらひの家宅は、変に臨みては悉く自焼して取り払うものである。家普請にカネを使ってはならない。

 二三の丸に建てる武家屋敷も、屋根を低く、梁間をつめて、普請を手軽くするのが制である。

 肌帯=ふんどしのこと。下帯。尻からげをしないからと、フルチンで過ごしている小者がいた。そのような「若党仲間」はたいがい、刀脇指の身も木竹なのである。ゆるしておいてはならない。

 面桶 めんつう と読む。木の薄皮を曲げた弁当箱。飯を入れる。

 鐵厚[かねあつ]なる重具足 を、若い盛りのときに調えてしまうものだが、これは、大差し物や大立て物と同様、年寄りになってから用にたてられないので、遠慮すべし。
 若武者であっても、負傷・病気の際は、薄鐵[うすがね]の具足でも苦労するものである。

 指し物や立物は、若いときから人に見せているものを中年になって縮小はできない。みっともないので。だから最初から、重くしすぎないように気をつけろ。

 小身の武士は、1本鎗が折れてしまったら、困ってしまう。困らぬように、「袋鎗」=首サック状の穂先 を用意しておくのだ。そこらへんの竹にでもすぐに据えて、臨時代用の鎗ができあがるから。

 下人どもには、傷モノでもいいから、寸の延びた刀をささせろ。
 若党には、胴丸、鉢鐵[はちがね]。
 「小者中間」には、「胸懸[むながけ]」、鉢巻、または鐵笠。

 若党には、じぶんの指し替え用の刀をささせておく。敵も兜をかぶっているから、それに当たって自分のが折れたら、すぐにスペアが使える。
 そして若党のスペア刀は、草履取りや、馬の口取りにささせて、召し連れるのが、武士の心得である。

 今から60年ほど前の浪人たちが「乗り替えの壹疋も繋ぎ申す程にのうては」と口にした、その意味は、500石以上の知行でなくては困るという意味だった。
 「せめて痩せ馬壹疋も繋ぎ申すように」というときは、300石の意味だった。
 「錆び鎗の壹本も持たせ候ように」というのは100石。
 その頃は武士に意地があって、じぶんの口から石高の数字を挙げられない。だからこのように言った。
 鷹は飢えても穂を啄ばまず、武士は食はねど高楊枝などと言った(p.329)。

 意地の無い者は、かたちは武士でも、心は「夫人足」ぶにんそく に等しい。

 諸事御指南、頼み入り存じ候。

 乗懸馬。駄馬の上に旅人が一人便乗。このようにしないと旅行できないときもある。そんなとき、乗り慣れない小身の武士は、刀脇指が鞘走ったりする。そうならないように、大小ともに「さし堅めて」乗れ。
 三尺手拭で縛ったりはぜったいにするな。
 持ち鎗の鞘留めと称して縄で括るのも×。小荷駄の荷札には何某家来とある。その主君までが、心掛けがないとあなどられる。

 自分が水巧者だからといって、渡河を「自分越し」でやろううとするな。必ず川越しを賃銭を払って雇え。というのは、川中で馬が倒れることがある。主人の荷物を水浸しにしたり、下人に怪我をさせることになる。

 陸路をショートカットするために、四日市のり(伊勢湾を船で横切る)とか、矢橋[やばせ]から粟津まで船で行くとかもするな。水難に遭ったときに、主君に申し訳ができないからである。
 もののふの やばせのわたり 近くとも いそがばまはれ 瀬田の長はし。

 陣中では、味噌汁ではなく塩汁になる。メシも黒米。
 武田家の馬場美濃は「戦場常在」[sic.]と書いて壁に懸けて置いた。

 油断隙間無く

 織田家の佐久間は大坂の一向門徒を数年しても平定できなかったので信長に領地を没収され追放された。
 羽柴家の魚住も、小身のときはよかったが、大きな用には立たず。見限られた。

 主人の供をしているときに乱戦になってしまったら、主人に鎗を渡せ。
 主人の入った他人の屋敷の奧で騒がしくなったら、主人を玄関まで呼び出して貰い、救出せよ。

 才智発明の御生れ付にても、色の道には迷ひ易きを以て
 武道不心掛にて
 当家の悪魔、主君の怨敵(p.364)。こういう家中の出世頭に対しては必死必殺のテロを敢行せよ。相手を刺し殺し、即座に自分も切腹するのだ。
 国家安泰。殉死には百双倍も優る(p.365)。

 ※この本はS17-12初版で2000部、S18-7-8再版で3000部。最後のテロの勧めが、偶然にアンチ東條のようになっている。しかし脱稿はS17-4らしい。発行者は渡邊清。発行所は牛込区肴町34の時代社。武士道全書の第三巻は、素行の特集。S17-7刊行予定。第四巻は8月予定で、長沼たん齋や井澤蟠龍、室鳩巣ら。

▼新保満『カナダ移民排斥史』1985-4
 1920年代に日系漁業者が排斥された。
 WWIIでは、米国よりも早く(1942-2-26~10-31)内陸へ強制移住させられ、しかも、日系米人と違い、移動先で自活させられた。
 米国政府は日系人の財産をかなり良心的に保護したが、カナダ政府は動産も不動産も本人の承諾なく処分した。
 戦後の補償もゼロに近い。

 戦前、バンクーバーの野菜供給は支那人が支配していた。
 冬季燃料は薪。貨車1台分買い、畑に積み上げ、夏のうちに小割して乾かしておく。

 19世紀から20世紀前半、英国下層民の蛋白源は、鮭罐詰だった。
 缶詰工場は、人家に近くてはダメ。遠浅ではダメ。漁場の近くでないとダメ。風浪を受けるところではダメ。
 流木を柱として海の上に建物が張り出すようにする。そして不用物はぜんぶ、海に捨てる。

 空罐は、1920年代までは、支那系が手作業でつくっていた。1930年代に、機械化。

 ブリティッシュコロンビアでは1860年代から支那系大排斥。
 1886にはカナダ政府は支那人に head tax を課した。
 カナダ太平洋鉄道は、1885完成。

 1900年、鮭の頭を切り、内蔵もかきだす自動機械が発明され、「アイロン・チンク」と呼ばれた。
 支那系はキャナリーで働く。日系は漁撈。

 トローリングにはふたつある。
 trolling は、hooking=一本釣りとは違う、はえなわ漁業。両舷から6本のラインをたらす。スプーン疑似餌+フーチークーチーというナマ餌。

 trawling は底引き網。
 鮭漁船がガソリンエンジン化したのは1906以降で、それまでは2名による手漕ぎ+帆。

 フレーザー河は暖流が来ているので冬でも雨が降る。
 ボウフラのいる水は、最初にコンコンと叩くと一斉に底にもぐるので、そこで上澄みをすくって飲めばよい。だがチフスになる危険あり。
 さすがに支那人は水はかならず煮沸してからでないと飲まない。

 日系漁者に最も敵意を示したのはノルウェー系だった。

 1871年生まれの山崎寧は、1888にサンフランシスコで米海軍に入り、1500トンの巡洋艦モヒカン号の三等水兵になった。3年契約。

 バンクーバーの東にナナイモという港町がある(p.117)。1904年の話。

 日系漁民はWWI中に義勇兵としてカナダのために銃をとった(p.127)。

 1925-2-7、バンクーバーを訪問していた練習艦隊の『出雲』の汽艇が、曳船にひかれていたバージに衝突して、汽艇は沈没。乗っていた16名のうち11名が溺死した(p.156)。

 流木を燃料にしていると煙突がよくつまる。その場合、麻袋に重い石を入れて、上から落としてやると、掃除ができる。

 紀州弁。あなた=おんしゃ。わたし=わいた。来なさい=来いし。行きなさい=行かいし。行こう=行こら。

 漬物をたくさん食べると息がくさくなるので学校で白人から嫌われる(p.172)。

 カナダBC州では1912年頃から、日系人は Peaceful Invasion をしているのだと見られていた(p.188)。

 鮭にもいろんな種類があって、産卵のために帰ってこないタイプもあり。

▼大宮信光『化学の常識 おもしろ知識』1995-8
 ブリキよりトタンは錆び難い。亜鉛が鉄よりイオン化傾向が強いため。少し傷ついても大丈夫。
 ブリキは、錫メッキがすこし傷つくと、そこから錆びてしまう。

 筋肉や内蔵でもグルコースが使われるが、燃えたあとの乳酸が、肝臓や腎臓でまたグルコースになってしまう。
 無理なダイエットをするとカルシウムがなくなり、若い女性でも骨粗しょう症になる。

 鯨、イルカ、アザラシの筋肉にはミオグロビンが覆い。酸素との結合力がヘモグロビンより強く、長いあいだ潜っていられる。

 宝石とよばれるものに70種あり。うちポピュラーなのは20種。ダイヤだけが別格で炭素。他の宝石には炭素は含まれず、酸素+珪素+アルミニウムが主成分。

 喫煙は血中ビタミンC濃度を下げる。高齢者も、ビタミンCが減少する。欠乏により、貧血や骨の形成不全をもたらす。

 沃素は、日本では天然ガスとともに噴出する鹹水から簡単に得られ、完全自給している。栄養としても、海藻によって自然に摂取できている。米国では塩の中にわざわざ沃素を添加して売り、それによって、甲状腺機能障害を予防している。
 ※それゆえシナ人はフクイチ3.11騒ぎの直後、塩を買い集めようとした。伝言ゲームを通じて正しい情報が都合よくゆがめられる例。

 17世紀、インドの天然硝石が、英国東インド会社の手で欧州に売り捌かれた。
 19世紀、ラ米のボリビア、ペルー、チリで硝酸ナトリウム鉱床が発見された。ドイツでは塩化カリウム鉱石が発見された。両者を組み合わせることで、硝酸カリウムができる。
 1879年の戦争でチリが硝石資源を独占することにより、そのご30年間、チリ硝石を輸出した。
 1913、ドイツ人が空中窒素固定法によるアンモニア人工合成に成功。それを水と反応させれば硝酸になり、硝石も合成可能に。チリ硝石の時代は終わった。
 ドイツ人は水と空気から硝石を作り出したと言われた。

 天然ダイヤモンドを産出しない米国で、WWII中に、人造ダイヤの合成研究が加速された。苦心惨憺、GE社が1954-12に成功させた。
 純粋なダイヤモンドは、熱をよく伝えるが、電気は通さぬ絶縁体。シリコンの代わりに半導体基盤になるといわれている。

 水車でふいごを動かす。木炭の燃焼が加速され、炉内温度が上がる。鉄鉱石から還元された鉄が、木炭中の炭素を吸収する。炭素が吸収されると鉄の溶融点が下がり、鉄が湯になる。銑鉄である。
 銑鉄は鍛えることはできない。しかし鋼鉄と錬鉄(ちがいは炭素含有率)は鍛えることができるので、可鍛鉄とか鍛鉄とも称する。
 銑鉄は鋳物に使えるので、鋳鉄ともいう。

 2000年前のパルティア人は、銅筒、鉄棒、アスファルト、粘土壺で電池を造っていた。1932にイラクでドイツ人が発掘した。金メッキや銀メッキの電源用ではないかという。

 1874に英国に巨大なソーダ工場が建設された。今日のICI社。

 血の汚れは湯で洗うと蛋白質が変成して水に溶けにくくなる。水で洗い落とすべし。

 プロメテウスという言葉は、サンスクリット語のプラ・マンタに由来するという説あり。プラは英語のプリと同じで、先。マンタは、摩擦で火を起こす棒。

 火は、小さくできない。だからミニチュアを燃やす特撮は、どうしても不自然になる。どうして火を縮小できないかは、いまだに解明されていない。
 ※これが「勢」というものなのだろう。

 石炭をコークスにする必要がどうしてあるか。石炭中の硫黄分を除去しないと、それが鉄を脆くし、使い物にならないので。

▼永山久夫『たべもの戦国史』1985 旺文社文庫
 著者は1934福島県うまれ。

 古代兵士の糧食は「かて」と読んだ。字は「兵食」。
 コメを甑で蒸し、日にさらした「かれいい」。
 乾飯料と書いて「かれいて」と読む。縮めて「かりて」→「かて」。
 原料のコメのことも、カテと言うようになった。

 平安時代の「水漬け」は、夏にかれいいをふやかしたもの。冬は湯漬け。したがって今の茶漬けの元祖なり。

 兵隊は副食は現地で採集した。
 サトイモ、ヒョウタンは縄文時代にはすでに渡来して、村で栽培されていた。

 保存食として、ししびしお もあった。肉や内蔵を刻み、サンショウやニレの粉末、塩を擦り込んで酒に漬け、発酵させたもの。今の塩辛。
 行軍開始前に壺に仕込んでおけば、行軍中に発酵してくれる。

 戦国時代の精米はどうしたか。略奪した籾米を丈夫な袋につめ、岩盤の上に置いて、丸太捧で叩いた。

 遠征軍に従軍した膳夫を かしわで と呼んだ。

 はたご とは、もともとは旅行者が携行した籠で、その中に、食糧、炊事道具、雑品が詰め込まれていた。さらにさかのぼると、馬用の飼料籠である。

 木の葉を何枚も合わせて竹釘で刺しとめれば、立派な皿になる。

 ニンニクはおそらく弥生時代に伝来した。村で栽培されていた。
 現代の日本の村でも、軒下に1年中、ニンニクの束を吊るしている。これはおまじない。

 東国から防人を選んだのは、脱走防止が容易だから(p.23)。
 まず部領使によって難波でまとめられ、そこから船で九州へ送られた。

 文武天皇(697~707)のときに成った軍防令。そこには兵士各自が「飯袋」も用意すべしとしてある。おそらく、甕の水にそのまま漬ければ、中味の糒がもどる、そのような雑嚢だっただろう。

 日露戦争で前線に配給された糒も、このようにして利用されたはず。

 これについて詳しいのは、川島四郎(農博)の『炊飯の科学』。日清戦争と日露戦争では、飯包布[はんほうふ]が定められていた。麻布で、40cm四方。一端に麻紐付き。これを熱湯に投入したのだと。

 アルミニウム飯盒は日露戦争からある。

 熱湯容器が得られないときは、袋を濡らして土に埋めて、その上で焚き火すればよい。

 握り飯は平安時代には「屯食」とんじき という。屯にはあつめるという意味がある。

 古事記や日本書紀の時代には、1日2食だった。天皇からしてそうであった。

 おそらく、コメが強飯の高盛りであったので、腹持ちしたのだろう。
 しかし『日本霊異記』には労働者階級の間食が描写されている。
 『延喜式』によれば、辺境(陸奥)守備兵にも、間食用のコメが支給されていた。8合とあり、今日の5合相当。おそらく夜食にもしたのだろう。

 こわめし ではない ひめいい(姫飯)は平安末期から鎌倉期に浸透。こちらは消化がよすぎるので、上流階級も昼飯を喰いたくなったはずだ。しかもそれは精白米だった。

 江戸時代の柳亭種彦は、朝飯と夕飯だけでなく三度の飯となったのは農村からおこった風習ではないかと。日が長い季節、田舎では四食摂ることもあるそうだ、と書いている。

 戦国末期には三回常食は農民の間ではあたりまえであった(p.29)。

 北條氏執権時代に、土釜、鉄釜が普及した。それで、やわらかな姫飯も普及した。
 武士は、5合飯を、朝夕の2回、強飯にして喰っていた。とうぜん、椀に高盛りである。しかし室町以降、この風は廃れ、儀式にだけ残された。

 室町時代には、糒でなくとも、水飯や湯漬けにした。その素材は姫飯なのである。

 兵隊は長期行軍では籾米を運び、夜間に搗いて、早朝に腹ごしらえし、余りを腰弁当につくって出陣した。

 糒は、味では劣るので、自然に姫飯によって駆逐されたのだ。

 信長の時代に、茶が普及。
 醤油は室町中期から。天文年間の書物中にその字が出る。

 松の実は、日本でも喰われた。
 室町時代、魚鳥の料理は「美物」びぶつ と呼ばれた。魚は鳥よりも価値が上だった。

 砂糖羊羹も室町から登場。

 日本の年間降雨量は欧米の5倍(p.41)。
 そこで保存食には工夫が必要になった。夏は速成の漬物。寒気には長期保存できる漬物。塩分が高いのは、それだけ汗をかく国だからである。

 3月にはイタドリを食べる。4月には枸杞。6月にはボケ。

 軽卒の中より、武功の者が輩出する。それを登傭した部隊長こそ、抜群の手柄を挙げたというべきである――と、『北越軍談付録』。

 黒米飯とは原義こそ玄米だが、じっさいにはいくらか杵を当てて精米していたようだ。
 大豆は主に馬糧にされた。武士の食用ではない。馬番の中間は、盗み食いをしたが。

 小荷駄隊は、精白米を運んだ。すぐに食べられるように。

 大豆には、40%のタンパク質と、20%の脂肪が含まれている。澱粉はコメから摂ればよい。
 味噌のタンパク質は40%くらいすでにアミノ酸に化しているので、吸収が早い。

 陣中では、朝5合を飯にしておく。うち半分を即消費。昼になったら2合5勺を追加で炊き、朝の残りを喰う。昼炊いた飯は夕方に食う。さらに晩に2合5勺炊いて、夜食に備える。
 要は、常に1食分は握り飯の形で手元に置けということ。

 『北越軍談付録』にいわく。兵士各人に3日分の糧を持たせておかないと、全軍が飢餓状態となって、万事を抛擲して飯を炊く支度をなすこととなり、その隙を敵に衝かれてしまうのだと。

 陣笠に水を満たして木の枝から吊るせば、そのまま鍋になる。下で火を炊き、水中に、袋入りの糒。雑兵物語。

 コメを一度に渡すと、悪い奴は酒に造って無駄使いしてしまうから、4日分より多くは渡さないものだ。……この紹介も本書が早かった。

 松の皮はさらして粥にできる、と最初に教えていたのも、同じ、雑兵物語。

 行軍時には、鶴嘴以下の土工具一式も運搬した。というのは川のない場所に布陣するときは、井戸を穿たなくては、厩を設けられない。厩は本陣よりも先に優先して建設する。北越軍談付録いわく。

 打飼袋。焼き飯や干飯を入れる細長い布袋で、両端開放の構造である。
 肩からタスキにかけられる。

 曲げ物で包んだ飯は「めんつう」という。『武教全書詳解』によれば、飯にして2合5勺入るくらい。

 300人分の飯を行軍中に炊くときは、行李の容器のまま大鍋に投入して煮る。それを引き上げ、車両で運搬しているうちに、適度に蒸れて仕上がるという。

 慶長5年の関ヶ原のとき、美濃の大垣城(三成の城)に居住していた「おあむ」の物語。300石取りの父は、朝夕は雑炊だけだった。しかし兄が山へ鉄砲を打ちにいくときはさすがに菜飯を炊いて昼飯にもっていくから、妹もそれにあずかることができるので、さいさい鉄砲打ちに行けとせがんだ。
 当時は、ひる飯とか夜食は夢にもないことだったと断言している。
 回顧しているときは寛文の頃で、すでに人々は一日三食の時代。

 古来からの納豆産地は、西は丹波・近江。北は平泉・秋田。

 軍馬は、よいものを食わせないとすぐに倒れる。
 戦国時代、乗馬には1日に3升、駄馬には2升の大豆を与えた。生ではなく、煮てさまし、糠をまぶしたものであった。豆ガラの粉も混ぜた。
 しかし濃厚飼料だけだと疝痛になるので、青草、干草、藁も与えねばならない。

 煮豆を干したものも、行軍中には用いられた。
 馬糧の豆は、麻袋×2を鞍後方にふりわけた。

 納豆の発見は自然である。煮あがった豆を俵につめて駄載運搬しているうち、藁の納豆菌がヒートショックで覚醒し、増殖発酵を始める。2日すれば納豆ができてしまう。

 大豆タンパクの吸収率は、煮豆だと67%だが、納豆にすると90%になる。
 ビタミンB2 も合成されやすくなる。

 納豆を長期保存したければ、葛粉、麦粉、塩をまぶして戸板で日干しする。これが干し納豆。室町時代には存在した。分遣あり。

 戦闘の継続中は極度の緊張で、飯を噛んでいる余裕もない。だから積極的に「粥」なのである。

 江戸の海浜は昔は沼沢地状態で製塩ができない。それができるのは下総の行徳だった。そこで家康は小名木川運河と新川を緊急整備させた。デルタ地帯を串刺しにする水路である。

 1597の慶長の役での蔚山籠城は、厳冬期。12月から翌年正月4日までだった。それを3日分の糧秣だけで凌がねばならなかった。1ヵ月弱。

 そんなところに日本人商人がやってきて、米や水を金銀と交換で売ったという。

 1592の文禄の役では、イワシの干物を本国から朝鮮まで推進させた。

 常山紀談によると、清正軍は、慶長2年2月の最前線で土穴キャンプをしているうちに鳥目になった。地元民に教えられて鳶を食ったら治ったと。内臓であろう。

 『故老諸談』にいう。1582=天正10年のまずいもの自慢。家康が甲州で北條氏直と対峙していたとき。根芋の葉や茎を水で煮ただけの鍋。まったく調味料はなかった。若い井伊直政は未だ粗食に慣れていなかった。

 軍食でにぎりめしを焼いてあるのは、持ちをよくするため(p.89)。

 『続武家閑談』によると、真田信幸は、勝頼没落のみぎり、みちばたでスギナをとって飢えをしのいだ。稗粥も、まずいものだった。しかしその記憶があるからこそ、いま、家中を気遣うことができるのだ、と。

 ちなみにスギナは、茎も葉も、よくゆがいて水にひたせば、何の問題もない。調理方法次第である。

 北條氏康時代も大名すら一日二食であったこと、証言あり。『武者物語』。
 安政2年3月、秋田境で野鼠が大発生し、畑に撒いた大豆の種子を食い荒らされた。

 海水で飯を炊かねばならなくなったときは、塩は沸騰水の中で沈殿するので、まず釜の底に茶碗を伏せ、その上に米を入れて炊け。『海国兵談』。

 海上の船中で水なしで飯を炊く技。海水で米を洗い、甑で蒸す。『武門要秘録』。

 塩なしで野草を多食するとカリウム中毒になる。食欲もなくなる。だから遠征軍には塩が絶対に必要。

 囚人となった三成が、大久保相模守に語った。焼き味噌を湯に立てて呑むだけで、終日、飢えない、と。

 雑兵物語に出てくる芋の茎とは、サトイモの茎=ズイキのこと。乾燥品は長期保存もきく。

 戦国時代には日の丸弁当なし。唐辛子が防腐剤に利用されていた。

 海国兵談いわく。冬は2日分の飯をいちどに炊いてもよい。しかし夏にそれをやると、腐ってしまう。だから1日分が限度。
 夏は、釜に入れっぱなしでは腐敗が早まるので、容器を移し、半乾燥を促進させる方法を講ずる。
 このとき、湯気がさめるのを待ってから移すのはよくない。熱いうちに、別の容器に入れてしまうこと。

 ※自衛隊では、メシは圧すると腐りやすいと教えていたが、戦国時代には、むしろ釜から移して圧縮密閉しておけと教えている。

 雑兵物語いわく。1日に人は1升の水を必要とする。
 敵地に入ってすぐに井戸水は飲むな。人糞などが沈めてあるから。

 はこべ、露草が生えていれば、水が近い。

 海国兵談は寛政3=1791刊。子平54歳の春4月。
 究極非常時には人肉も喰うものだと言っている。さすが東北人。
 子平は1738-1793。

 毒見を「鬼取り」という。大名の飯椀の角の部分を試食する。中央ではなく。

 江戸時代の軍書いわく。行軍は、寅(午前4時前後)スタートし、申(午後4時頃)まで8里を基準とする。2里ごとに小休止。4里で必ず乾糧を使え。もちろん、季節等により臨機に変える。

 北條早雲は梅干推しだった。各兵は参集時に必ず持参せよと。
 江戸時代より前の梅干は、紫蘇による赤着色をしないので、唯の塩漬けである。

 タニシは農薬普及で姿を消した。昔は水田、沼地に無尽蔵にいた。清水で泥を吐かせてから味噌汁に入れるのがコツ。醤油で炒ったものを乾燥して携行することも。

 雑兵物語の防寒術。唐辛子を潰し、尻からつま先まで塗る。手には塗らない。それが目に入るので。

 政宗は、天正19年に米沢から宮城県の岩出山に移り、最後は仙台。

 海国兵談いわく。籠城の第一は、人の和。次が後詰めの援軍。次が兵糧。水は四番目。最後が地形。
 ※水を軽視しているのは日本本土防衛だから。

 諸軍書いわく。馬は城中には入れるな。大量に糧秣を消費するので。
 周辺の稲田には季節にかんけいなく水を張れ。ところどころには穴を掘っておけ。
 作物はすべて刈り取って城中に収める。
 鍋釜食器はいくらでも必要になるので、城中に多く準備せよ。
 門、櫓、役所、米蔵の脇に防火用水を常設せよ。
 竿+藁の火消し道具を準備せよ。

 松永弾正の籠城心得。薪は土居に築く。炭は地中に埋める。掻盾、「輪木車」「菱車」も準備する。

 林子平は、安永年間(1772~80)に、万治年間(1658~60)製造の干飯を試食してみたが、汚損は無く、異味もしなかった。百年ももつことは確実だと。

 甲州流では、本城の備蓄米は、籾で三年分。国境の出城には、1年分。
 それらの城中倉庫は、救荒備倉を兼ねている。
 たいがい、二の丸にあった。火事のおそれがすくなく、かつ、搬出・搬入に不自由がない。本丸にはそれより小規模の倉庫を設けておく。こちらは正真正銘の籠城要。干飯を収める。
 蔵の前は広々とさせておかないと、出し入れ作業が早く行かない。

 籾も、精米も、城中に貯蔵するときは俵に入れてはならない。容積が損だから。蔵の四方を板張りにして、バラ積みに詰める。

 倉に湿気があり、屋敷の床下に湿気がなければ、むしろ屋敷の床下に穴倉を設けた方がよい。

 海国兵談いわく。もし1000人が1年籠城したいなら、玄米で5000俵、粟にて1万俵が必要である。
 日本の籠城レコードは尼子の6年だったというのが子平の把握。

 池田家では、籠城中の1日の糧米は、1人1升を基準とした。すなわち、2合5勺×4回食である。

 塩は吸湿するので、かならず、横木を渡した上に積み、できれば漏斗状の笊に入れて吊るす。水気は下に滴り落ちる。

 乾燥剤として、塩の中に干した海藻類をまぜておく方法もある。

 玄米は、炊くのも消化するのも時間がかかるので、前線では歓迎されない。
 柳田国男は白米城伝説を全国に取材した。

 金澤柵は、根雪になると、今でも頂上に登りにくいくらいの険しい山の上にある。籠城が不可能な地形であった。

 ビタミンCが不足すると血管の壁がもろくなり、歯茎から出血する。骨も折れやすくなる。

 バスコダガマは壊血病で部下の三分の二を殺した。
 日本人はいくら貧しい家でも味噌だけは各戸に常備されている。これは飢饉・飢餓の経験から。

 シナ人の珍重した「丹」は硫化水銀のこと。丹砂とも。焼くと水銀になるが、また変化して丹砂になる。だから不老不死だと思われた。
 神丹というものを調合して服用すれば、武器に対しても不死身になると信ずる者もいた。

 江戸時代、武家は歳の暮に、屋敷奉公人たちが大釜で大豆を煮て臼で搗き、味噌を仕込んだ。
 野山の草木は、味噌が添加されれば、多食可能だった。

 凶作で不稔におわった青立ち稲。根元近くの茎に栄養があるから、捨てるべからず。

 藤の若葉も食える。灰汁水で煮て、水をかえて3晩ひたしておくと喰える。ただし、味噌か塩は必ず添えること。産婦は食べるな。

 たんぽぽは、根も葉も、煮て食べられる。

 河骨(かわほね・かわと・こうほね)も、灰汁で煮るか、生で塩漬けにすれば、喰える。

 カボチャは天文年間にポルトガル船がもたらした。1720時点では諸国に流布している。

 スイカは九州に伝わり、寛永年間には京都までひろまった。

 甘蔗はリチャード・コックスが平戸の英国商館の近くに1615に植えた。

 じゃがたら芋は、阿蘭陀商船が慶長年間にもたらした。しかし暖地向きでないので普及が遅く、東北諸藩も消極的だった。けっきょく明治に北海道で産品化した。

 蒸留酒はシナの元代からあり、慶長年間に日本に紹介された。

 キセルはカンボジア語のクセル(管)。ラウは竹管の現地語らしい。

 伊達政宗いわく。朝夕のくいものがうまくなくとも、ほめて喰うべし。

 50万年前の北京原人は、火を使っていた。
 1万2000年前、マンモスやナウマン象が死滅。

 829年、諸国に水車の製造をすすめた。
 854年、陸奥が凶作で兵士多数が逃亡。

 1020、南方からやってきた海賊が薩摩の村民を拉致し去る。

 1398、1月の京都で積雪三尺。民家多数が圧壊す。

 天文9年、春より天下、大飢饉。
 天文10、甲斐で人馬の餓死おびただし。

 信長の時代にはじめて「兵糧奉行」が登場する。

 天平時代、大陸風の油料理がもてはやされる。

 戦前、コメ1石は150kgだった。日割りにしたら410グラム。1400カロリーではかなりのすきっ腹だ。そこを副食でおぎなえば、2000カロリーになり、満腹こそしないが健康的に生きられる。

 江戸時代、水田1反=10アールの収穫量が1石だった。

 本書は、S52の『たべもの戦国史』を加筆して文庫化したもの。

▼小川智惠子ed.『ガン・ハンドブック』S37-4 狩猟界社pub.
 『狩猟界』は日本て市販されている唯一の専門雑誌。S36の4年前に創刊した。

 以下、有馬成甫の寄稿。
 文永年間の「砒霜」は硝石ではないかと。
 1259の宋の突火槍のころには、火薬は粉状だった。

 1355にシナで焦玉という人が銅銃をつくった。火竜鎗と名づけた。朱元璋はこの火器のおかげで天下を統一して明を建てた。

 火縄を発条なしに動かす装置はサーペンタイン(蛇がしら)という。
 発条で動く鶏頭はハーンという。
 フス戦争が、火器を手にした農民・市民は騎士軍に勝てると立証した。そこから急速に小火器が洗練された。
 手銃に木台をつけたのもその頃。文書初出は1423。

 燧石利用は1585に文書初出。スペイン。
 1648のフランスで軍用に採用されるくらいに洗練された。
 1670にフランス軍が採用した燧石式小銃は、以後150年も使われ続けた。ナポレオン戦争の主役。

 転輪式は硫化鉄鉱と鋼輪の摩擦を使う。日本では燧石と鋼輪で試製したが、火花が少なくダメだった。

 HOWAは戦時中の「昭和重工業」。岩下賢蔵陸軍大佐は、防衛庁武器課顧問から豊和に就職。

 川口屋銃砲火薬店は、M27創業。初期は、村田銃をあつかっていた。S13-9-15の猟銃製造禁止令から、S23秋まで商売できず。この年から銃器製作は再開された。そのご、高知の海軍系工場だった弥勒工作所を買収した。

 以下、岩堂憲人の寄稿。
 猪は30m未満で射つ。もし拳銃がゆるされるなら、最適の口径は.357マグナムだ。

 キツネの皮は欧州では高級だが日本のは下級。
 狸は野鼠を主に食っている。果物も食べる。

 以下、白井邦彦の寄稿。
 散弾は、1号大きくなれば1割射程が増す。
 雉は、日本海側のキジが大きく、内陸寒冷地の雉ほど小型。

 日本の釣針猟〔きつね釣り〕やモチ縄猟を、非人道的だとしてやめさせたのは、オースチン氏(p.228)。

 雉は半矢になりやすい。それだけタフなのだ。
 コウライキジは北海道と対馬にしかいない。

 ウズラは常に2羽。だから英国で二連銃ができた。セッター犬はそれ専用に改造された。

 コジュケイは50年前に持ち込まれ、今では宮城県まで北上した。
 散弾銃を俯角で射つと事故になりやすい。仰角をかけて射つことが基本でなくてはならない。

 コッカ・スパニアルのコカとはヤマシギの英名。
 キジバトは同じ鳩でもピジョンではなくドーヴ。

 ガチョウもアヒルも人が改造した種。同様に、ハトから食用鳩をつくった。
 シマアジ は魚ではなく、雁鴨科の鳥。

 ビロウドカンクロとクロガモは、肉がまずいのでしばしば捨てられる。
 じゃっかん滑走しないと離陸できないのは海ガモ。海ガモは不味い。魚や貝を餌にしているので。陸鴨は穀類食なので美味。

 雁とマガモは最も警戒心が強い。だからその啼き声を地表から出せば、他の鳥は安心して降りてくる。

 水面撃ちは跳弾に注意。
 カモは射程ギリギリの遠射になる。

 新潟はシベリア鴨が渡ってくるメッカ。本州から海と大河できりはなされている千葉もハンター多し。

 鳥猟はシューティングといい、獣猟はハンティングという。
 ハンティングに鳥猟を含ませるのは米語。
 小型犬でも鹿を殺せる。だから鹿の大敵は犬。※オオカミを放す必要はないわけか。

 猪は東北にもいない。福島県にだけいるが、あとは関東以西。
 ※つまり秋田マタギとイノシシは無関係。
 イノシシ猟は猟犬なくしてなりたたない。

 一猟期に犬10頭のうち3頭は殺され、3頭は重傷。そんな世界。
 もし散弾しかないならかならず1粒弾〔スラグ〕にすること。

 監視人=タツマは、木のうしろではなく前に座っていろ。うしろだと気がゆるんで動くので却ってゲームから発見されやすくなるのだ。

 クマ猟師は、熊が襲いかかれない位置に立って、20番もしくは24番の銃から1粒弾を発射する。※まさに村田銃のこと。
 舌をだらりと出し、手のひらをかえすまで、連撃してトドメを刺す。そして、構え筒のまま近寄る。

 長距離追跡猟では銃の重さがプロ猟師にも負担になる。だからクマには威力不足であるのを忍んでも24番、28番を選び、しかも銃床をきりつめたものを北海道北部のプロたちは好む。
 ※これで英軍の.303の理由も納得する。世界中で狩猟した知恵か。

 ウサギは乱婚なのでやたら増える。
 ハンターが急に立ち止まると、ウサギは気づかれたと錯覚して走り出すことがある。この手を使わぬ限り、彼らは決して動かない。

 ウサギ猟で犬を使うものを「ビーグリング」という。転じて様子を見ながら獲物を待っていること。
 ビーグルはウサギに追いつけないときはキャンキャン啼く。猟犬として最も小型である。

 英人は一部の猟犬を断尾してきた。

▼ホーマー・リー将軍著、断水楼主人=池享吉tr.『日米戦争』初版M44-10-8
 “The Valor of Ignorance”
 1909-3の自序。脱稿はポーツマス条約締結直後だった。が、それから時を待って推敲を重ねていた。

 池享吉は1911-8-25にリーから手紙を貰っている。
 訳者のM44-7の緒言。本書は米政府がたくさん買って軍人に配り、またドイツ皇帝も十数万部を買って配ったという。

 世間をさわがせた軍事書籍の著者としては、テディ、マハン、ステンゲル男爵、モルトケ元帥に次ぐものだろう。

 原文はおそろしく晦渋。難解の極み。
 晦渋文学としてカーライルがあり、その亜流だと向こうでも評された。
 訳者はまず意訳しようとして失敗。そこで、放胆なる「精神訳」をしようときめた。

 米陸軍派が米海軍派への不平をあらわしたものだという評もあり。

 当時のインテリ・ブラスたちは信じていた。シビライゼーションはヒューマンネイチャーを変更しない。ヒューマンネイチャーが変わらない限り戦争は起こり続ける、と。

 原書はM42-10に初版。
 訳者は伊藤博文にたのまれて外交的秘密書類を翻訳していた。
 孫文とも会った。英語によどみがない男だった。

 英人リンドレーは『太平天国革命史』を書いてゴルドンと英国を非難し洪秀全を褒め称えた。孫文は感泣した。

 M43に孫文が欧米の土産話としてリー将軍の書籍がバカ売れしていると教えてくれた。
 そして、版権交渉を孫文がやってくれた。孫文は和訳の権利を訳者にタダで譲ってくれた。
 訳者は病気だったので山陰で静養しながらこれを訳した。

 以下、本文。
 「諸列強」と訳しているところあり。

 古語にいわゆる「奸物の最後の隠れ場所は愛国心なり」(p.4)。

 政客の詭論を避け、
 軍隊の腐敗と士気の萎靡。これが国の衰退をあらわす。
 実業主義と商業主義は違う。

 今日、欧州から米東海岸へ派兵するのには7日航海でよい。
 米墨戦争で合衆国軍は、輜重供給地を離れて数ヶ月、機動した。
 南北戦争では、ニューオリンズの米軍はNYCから糧肉を補給された。3600マイル離れている。
 だから日本軍は今日では満洲に兵隊を送ったような調子で西海岸に派兵できるのだ。

 1865年、北軍の第四聯隊をカーター駅からナッシュヴィルまで373マイル輸送するのに、車両が1498両使われた。

 今日、大西洋航路の汽船会社の汽船を25隻雇えば、7万5000人と軍需品を渡海させられる。

 ドイツ参謀本部は、2週間あれば25万の兵を北米まで輸送できると明言している(p.34)。

 1864年のヴァジニア戦線。グラント将軍の12万5000人に対する輜重は、馬匹2万5000頭で曳かれた荷車4800両。その輸送物資は2万トン(p.35)。
 今日の大型汽船は2万トンの需品を1隻で運んでしまう。

 米艦隊を大西洋から太平洋に移すのには4ヶ月以上かかる。
 太平洋に出払ったところで、東海岸まで6日航程に基地のある欧州有力海軍は、ガラ空きの東海岸根拠地を占領してしまえる。

 『モーリタニア』や『ドイッチュラント』級の汽船は、1個旅団と付属の輜重を満載して、6日で大西洋を横断できる。この兵力は、1812年時点に英海軍が輸送できた全兵力より大きい。

 国の武力の減ずれば減ずるほど、国民の過てる自負心は強くなる(p.41)。

 1861から65まで、つまり南北戦争当時、無能や不名誉のためクビにされた将校の数が、戦死将校の数よりも多かった。
 ここから推して、24日程度の訓練で新兵を仕立てる方法ではダメだと知れ。

 北軍の脱走兵は20万人近かった。12人に1人。総軍の五分の一だ(p.50)。

 普仏戦争でプロイセンは、5日のうちに、兵員50万、馬匹15万、砲1200門を戦場に推進した。これが合衆国であれば3年は要しただろう(p.52)。

 新兵訓練は、36ヶ月=3年は必要だ。
 米国は南北戦争のような有事には将校を31日の教育だけで戦場へ送り出す。

 南北戦争において合衆国は、恩賜金を4億円ほど支出した。今の物価にすると3倍くらい、すなわち日露戦争の日本の戦費に匹敵する。
 当時は異国籍人の率はすくなかったが、いまは移民が総人口の半分以上だから、愛国心が昔よりもないはずだ。

 石工の賃金比較。日本は1日90銭。欧州は1円80銭。米国は8~10円である。
 よって、外国の方が安く大軍を整備し得る。

 国の腐敗は、過去における富の最高程度に比例し、それは長く残る(p.59)。

 軍備が財源と生産力を保護してくれる。よって軍備が国を貧乏にするというのは間違いだ(p.77)。

 兵営国家といわれるドイツも、兵員の総数は人口の11.7%に過ぎない。
 ドイツと日本は世界を2分割するであろう。このままでは(p.80)。

 数年前までNYCから加州まで6ヶ月の旅程であった。いまは4日だ。

 「策源地」(p.87)。
 パナマ運河は逆に米国にとっての危険を呼ぶ。もし陸海軍を充実しないまま、それを完成させるならば(p.89)。

 南北戦争のころまでは、アングロサクソンが米人口の12分の11以上を占めていた。だが今は非アングロサクソンが7/12に達している。そして増え続けている。

 NYCの人口の半分は外国人。ドイツ人が75万、ロシア人が26万、イタリア人が50万、ポーランド・オーストリー・ハンガリー人が50万、他の諸国人が25万(pp.100-101)。。

 過去20年間、全米の殺人事件の犠牲者は、米西戦争の戦死者の20倍。
 いま、全米で年々犯罪で殺されている人の数は、南北戦争中の1年の戦死者と大差がない。

 外国人を父母に有する者は外国生まれの者よりも犯罪が多い。
 囚人の24%が純粋白系米人。76%は外国人+移民2世+黒人。

 将来の戦争の種を蒔く者は、純粋白系米人ではない移民たちだ(p.105)。

 みだりに僥倖をたのんで国家の前途をおもんぱからざるの徒

 日本からウェストコーストまでは17日間かかる。
 1907-3に帝國枢密院の金子男爵が『北米評論』に寄稿。日本は、小麦粉、綿、石油を米国から輸入しており、これがなければ生存できないので、日米戦争はあり得ないと。

 しかしリーは駁する。戦争がはじまると逆に諸国は貿易を熱心に維持する。太平洋が通れなくなれば、局外中立国とスエズ航路によって日本は物資を得る。それに米国の方は日本産の物資にちっとも依存していない。

 この頃、コロンビアは英領だった? (p.130)。

 20年前から支那人が差別されている。放逐が叫ばれ、参政権は与えられず、財産生命の保護すらなし。支那人なればこそこの屈辱に甘んじて、戦争になっていないのである。

 1906時点の排日流行州は、加州、オレゴン、ワシントン、ネウァダ、アリゾナ、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ハワイ。
 日本の抗議は条約を楯にとっており、第三国もその言い分に首肯している(p.136)。

 比島のツツィラ島にあるパンゴパンゴ港は最良無比の碇泊所。
 太平洋域では、日本、北清、アラスカにしか、良質の石炭が出ない(p.143)。※なんと豪州炭は未発見であった。

 黄禍論は支那から来ると人々は考えるが、違う。
 現時点で米海軍は世界第三位。日本海軍は第五位。

 英海軍では、艦長には35歳からなれる。日本は38歳から。米海軍は55歳からと決められていた。
 艦隊司令官には、日本海軍は44歳からなれるが、米海軍は59歳からである。

 日本は2万トンの戦艦を2年で建造する。合衆国は1万6000トンの戦艦を5年がかりで建造している(p.159)。

 南北戦争では、脱走の罪により実際に死刑に処せられたのは7人だけ。戦時脱走は全員死刑のはずだが、さすがに20万人を銃殺はできなかった。

 南北戦争では戦死1に対して病死4。米西戦争戦争では戦死1に対して病死14人。

 日本軍は日露戦争中、戦死4に対して病死1であった。

 日本の汽船『天洋丸』『地洋丸』は1万4000トンあり、兵員4600人を載せられる。
 こうした汽船を徴用して、5日あれば20万人をフィリピンに上陸させられる。

 日露戦争のとき、ハワイにいた日本人も召集され、4万2313人がハワイを去った。
 ハワイの日本人は日露戦争の勇士であるから、日米戦争になったら、300人くらいの米陸軍守備隊では鎮圧できないだろう。

 比島には1万4000の米兵がいるが、これを包囲するのに日本は計2万人を2箇所に上陸させるだけでいい。

 国際公法によれば、交戦国はその軍艦を一時に3隻以上、中立港に送るを得ず。
 且つ、次の港に達するに必要な石炭しか積み込めない。人員や武器を積み込むことはゆるされない。
 また一回立ち寄った港には3ヵ月後でないとまた立ち寄ることはできない(p.177)。

 ホワイトフリートの巡遊のときは、29隻の外国運送船を雇い入れて洋上補給させた。

 国際公法によれば、交戦国は、戦時において、中立国の船舶を雇い入るるを得ず(p.178)。

 米西戦争のとき、宣戦してから120日してやっと21万6000人の志願兵を集めることができた。こんなことをやっていたらダメだ。

 米西海岸を縦貫する鉄道がないのも弱点。加州、ワシントン州、オレゴン州の間で軍隊輸送ができない。

 日露戦争中のシベリア鉄道には、ユニークな利点があった。それを軍隊輸送専用としても、沿線に大都市がないから、誰もあまり迷惑しなかったのだ。
 米国西部の事情はこれと逆である。生活路線なのだ。

 サンフランシスコ港は要害地。7~9万人の兵力があれば、日本軍がどのくらいで攻めてきても防御できるだろう。

 オレゴン州は、コロンビア河口の3要塞が焦点になる。
 ワシントン州は、ピューゲットサウンドの上部にある3要塞が焦点。

 南カリフォルニアとは、イコール、LAのこと也。すべてがそこに集中しているから。日本軍はLAだけ占領すればよい。サンディエゴすら、ロサンゼルスから保護されている立場。

 ロッキー山地は、東方に向かっては絶壁。西方に向かっては緩斜。
 したがって、太平洋岸を占領し得た敵軍は、それを防壁にしやすい。

 米軍は、モハベ砂漠を横断しないと南加州に進軍できない。

 サンフランシスコの貯水池は、南方のサンマテオ山脈中に3箇所ある。これを占領されると、サンフランシスコは防衛できない。

 以下、巻末の版元宣伝。
 来原慶助『黒木軍百話』。倭寇撃退の碑についての話ありと。
 堀内長雄『英和 海軍術語辞彙』。

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(管理人U より)

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