旧資料備忘摘録 2020-4-13Up

 ※いつ病気にかかって死ぬかもわからん時世になってきましたから、中断していたこの作業も少しづつ進めて参りましょう。誰かの何かのお役に立ちましたなら、幸甚です。

▼(財)国民経済研究協会『基本国力動態総覧1954』S29 ※国会図書館にある。
 その14ページの表から抜粋。
 以下すべて、昭和6年から20年までの数値である。データの出所は、第一、第二復員局。※すなわち旧陸軍省と海軍省。

陸軍の小銃の生産数。S6に3613、S7に1060、S8に2262、S9に2808、S10に7069、S11に25498、S12に42754、S13に168269、S14に249619、S15に448940、S16に729391、S17に440000、S18に630000、S19に826749、S20に209337。

陸軍のMGの生産数。S6に541、S7に1103、S8に3103、S9に2455、S10に2969、S11に2384、S12に2295、S13に8371、S14に13790、S15に17033、S16に14500、S17に21906、S18に21746、S19に19344、S20に4751。

陸軍のAAの生産数。S6に32、S7に18、S8に170、S9に73、S10に72、S11に112、S12に105、S13に129、S14に147、S15に293、S16に500、S17に644、S18に1514、S19に1031、S20に218。
   ※高射砲は昭和18年がピークだったと分かる。

陸軍の歩兵火砲の生産数。S6に50、S7に241、S8に420、S9に12、S10にゼロ、S11に116、S12に171、S13に471、S14に613、S15に1448、S16に1200、S17に2623、S18に2240、S19に1150、S20に198。

戦車の生産数。S6に12、S7に21、S8に70、S9に112、S10に359、S11に328、S12に325、S13に287、S14に562、S15に1023、S16に1024、S17に1165、S18に776、S19に352、S20に94。

装甲車の生産数。S6データなし、S7データなし、S8に42、S9に49、S10に44、S11に32、S12はデータなし、S13はデータなし、S14はデータなし、S15データなし、S16データなし、S17に88、S18に505、S19に385、S20に126。

牽引トラクター生産数。S6データなし、S7に1、S8に20、S9に18、S10に76、S11に55、S12に97、S13に76、S14に116、S15に468、S16に919、S17に1481、S18に870、S19に789、S20に105。

海軍の艦砲の生産数。S6に108、S7に100、S8に99、S9に121、S10に108、S11に156、S12に136、S13に127、S14に159、S15に154、S16に178、S17に248、S18に685、S19に1153、S20に89。

海軍の高角砲の生産数。S6に130、S7に110、S8に115、S9に110、S10に90、S11に120、S12に130、S13に140、S14に140、S15に169、S16に159、S17に303、S18に934、S19に1004、S20に255。

海軍の機銃の生産数。S6データなし、S7に100、S8に260、S9に360、S10に600、S11に950、S12に1350、S13に1965、S14に2740、S15に3590、S16に10165、S17に15015、S18に34305、S19に86170、S20に20395。

艦艇から発射する魚雷の生産数。S6に260、S7に350、S8に300、S9に250、S10に220、S11に170、S12に250、S13に270、S14に350、S15に400、S16に900、S17に1100、S18に1400、S19に1700、S20に530。

航空機用の魚雷の生産数。S6に7、S7に53、S8に102、S9に150、S10に193、S11に237、S12に308、S13に379、S14に450、S15に471、S16に710、S17に1200、S18に2340、S19に8633、S20に1562。

陸軍の大発の生産数。S6~S11はデータなし。S12に50、S13に100、S14に180、S15に250、S16に300、S17に555、S18に1389、S19に2849、S20に603。

自動車の生産数。S6データなし、S7データなし、S8に20、S9に30、S10に21、S11に65、S12に57、S13に59、S14に125、S15に272、S16に503、S17に442、S18に615、S19に725、S20に105。

▼三島康雄『第二次大戦と三菱財閥』S62
 昭和初頭の造船大不況。このときディーゼル船ブームあり。

 三菱の長崎造船所は大正時代にズルツァーの舶用ディーゼルを導入し国産化した。

 第一次戦時標準船(型)……貨物、タンカー、バルク等、19種類。

 89式艦攻の基礎設計は英国人。
 S7に、13式艦攻と3式艦戦の変体が、敵の1機のボーイングP12複葉機に翻弄されてしまった。それで設計を国産化した。

 烈風は、試作担当の空技廠と、生産担当の軍需廠の間の喧嘩になり、紫電改の生産に変更された。

 94式軽装甲車は、歩兵に弾薬を届けるクルマ。
 ヴィッカース輸入戦車はしばしば火災。
 上海戦でもガソリン車は自燃事故を起こした。

 ドイツ製の水冷のディーゼル・トラックにも陸軍は刺激された(p.120)。
 S9に、空冷国産戦車用ディーゼルのA6120VDができ、終戦までに2100台、量産された。

▼『戦国策国字解』上・中・下巻(大6)
 曰 とあれば、オリジナルではなくて、古語を引くという意味。
 友崩れ ……パニック。
 四時=四季。
 予=与える。

 下卒には飛び道具を持たせ、上卒には短兵を持たせる。

 徂徠の註。倭国にしては、大抵、1日5里づつにて陣を取るを常法とすべし。※陣は夜営のことか。
 徂徠の註。乱妨は名将の好まぬことなり。

 塗 =道路。
 巻甲 ……具足を畳んで荷駄に載せる。

 経 とは、不動の骨幹のこと。
 民 とは、イコール 兵隊のこと。百姓を動員したので。古代シナにプロ士卒はないのである。

 権 とは、左右にずらして軽量する錘り。

 勢  徂徠によれば、臨機の措置のこと。

 孫子十家註は、宋の吉天保がエディットしたものを、清の孫星衍が更にエディットしたもの。諸説を網羅する。

 丘  ……大きい。

 戦と攻  ……野戦と攻城戦。

 黄石公三略は、本旨が老子から来ている。柔能制剛、弱能制強 などは典型。

 六韜は、漢書の芸文志の兵家に著録されていない。初めて載るのは隋書経籍志 である。本文中に「避正殿」とあるのは、戦国以後でなくてはならない。また「将軍」という字は、左伝より以前にはない。周の初めにその名詞はない。日本へは、宇多天皇より前には来ただろう。韜とは、弓や剣を収納する袋のことである。

 ※ネットで補う。銀雀山にて、1972年に六韜の竹簡が出土した。残片で、文韜、武韜、豹韜などだけ。しかしこの出土により、六韜は、早ければ周の顕王の時代、遅くとも漢初には書かれたと断言できるようになった。それまでは、六韜も尉繚子も唐宋以降の捏造じゃないかと思われていた。

 シナでは、始皇帝のときすでに、殿中では無刀。
 備えは杉なりになる、と教えているのは徂徠による孫子九変の註。
 先頭の横一線は接敵のとちゅうで勇怯が生じて鋸歯状になってしまう。

▼朴鐘鳴・訳注、姜沆[カンハン]『看羊録』、東洋文庫1984
 驢(ろば)、騾(らば)、【施の方を馬ヘンに】(らくだ)、象、孔雀、鸚鵡は、毎年絶えることなく運ばれて来ます。そして、家康らは、通例として、金銀や槍・剣で高価な支払いをします(p.228)。

  ※ロバはしっかりと日本に輸入されていた。

▼本阿弥光遜『近代戦と日本刀』S18-7
 軍刀を近代に使うなら2尺1寸から1尺9寸がよい。それ以上は行軍で甚だ疲労するし狭いところでは邪魔でしょうがない。元亀天正の備前長船も、ちゃんと2尺1寸がメインになっている。陸軍の新作刀も、2尺1寸である。

▼欧亜通信社『日露年鑑 昭和十九年度版』S18-12
 ボルガは水位差がないので発電できない。
 泥炭は、カロリーが低いので、蒸気機関車で輸送しようとすれば、機関車燃料で赤字になる。
 ウラルの工場を稼働させるためには、コーカサスの石油か、ドンバスの優良石炭が、どうしても必要なのである。※とすればスターリングラードを目標にするのは正しいことになる。

▼小宮山綏介『呉子講義』
 いわゆる「勝テ冑緒ヲ粛ス」というがごとし(p.407)。

  ※勝ってカブトの緒をしめる、には、何か漢文の典拠があるのか?

▼木村毅『旅順攻囲軍』1980
 木村は1979死、83歳。
 M39に13歳だった。旅順が落ちたとき、国民は嬉しさに泣いた。

 電気を利用した遅発地雷をロシアはしかけた。南山の鉄条網の一部にも、通電していた。

 ブーンと鳴るのは、速力が弱まった破片だ。
 ピューンと高い音は、高速の破片。ただし横向きだとヒューとなる。
 キュ、キュ、キュというのは、被套が飛んでいるのである。 ※榴霰弾のケースか?
 カッサ、カッサ……は、銅帯が、はげかかっている。

 8.22の盤竜山攻撃で、津田錠次郎軍装が、爆薬を2つ木綿で包んで縛って、敵に投げつけた。それが手投爆弾の使い始めだと、当時大尉の、林銑十郎が請け負っている。

 Nogi は露語で馬の脚の意味になるので、ロシア宛の文書ではNoghiにしていたという。

 マカーカ。露語で猿。日本兵のこと。

 坑道工兵は、3~5人づつ足を綱で結び、生き埋めに備えた。
 東鶏冠山北砲台まで1里トンネルを掘った。1日2尺しか進めぬときもあり、4ヵ月かかった。

 導火纜……発破の配線。
 白熱点火器で、綿火薬600貫目=2250kgを炸裂させた。 ※次の資料ではTNTとしてあるのだが、日露戦争中にTNTがあったらすべての榴弾にそれを使ったはずなので、こっちが正しいのだろう。

 神籌鬼謀の児玉将軍。

▼『火薬ハンドブック』共立出版 1987-5
 RDXなどの高性能炸薬は、溶填できない場合がある。特に5インチ以下の艦砲砲弾。プレスを用いて、粉状や粒状の爆薬を圧搾して充填する。

 ピクリン酸の爆速は7350m/秒である。

 チャネル効果。多数の孔をあけて発破をかけたとき、空気中を伝わる衝撃波が先に隣の未発爆薬に到達する結果、そっちの爆発が不完全になったり、爆轟が中断してしまう現象。

 明治37年12月18日午後2時15分。東鶏冠山北堡塁の下まで掘った坑道、敵陣の真下に装薬室を儲け、TNT2トンを爆発させた。この坑道の掘進のときに、英国ノーベル社のダイナマイトを用いた。
 ダイナマイトを輸入に頼っていてはいけないというので、1905-1に群馬県の岩鼻の陸軍火薬製造所内にそのラインを建設着工した。ライン完成は同年12月。すぐに民間用に売りさばかれた。

 1917年、浅野カーリット株式会社が、横浜の保土ヶ谷で製造開始。戦後の、日本カーリット保土ヶ谷 である。
 1933に、昭和火薬株式会社が、千葉県の興津で、カーリットの製造開始。

 黒色火薬は、石材採取用としてはいまだに必須の火薬である。

 導火線から電気発破への遷移は、敗戦後に始まる。導火線使用のピークはS30で、以後漸減。現在、発破にはまず使われることはない。

 発射薬には、明治末時点では、陸軍がフランス製シングルベース、海軍は英国製ダブルベースを用いた。貯蔵安定性が悪く、爆沈事故を起こした。
 大6からダブルベースを国産。
 硫酸カリウムを添加すると、砲口炎は抑制される。

 過塩素酸塩および塩素酸塩は、工業塩=食塩を電解酸化することで製造される。過塩素酸アンモニウム(過安)は、高純度だと、雷管のみでは起爆できない。有機物と混合することで、感度の高い爆発物となる。強酸との接触で発火もしくは爆発することもある。

 アルミニウム粉は、表面をステアリン酸などの撥水物質でコーティングすることで、水と反応しないようにしてある。

 黒色火薬は、何年でも安定的に貯蔵できる。硝安のように水をどんどん吸うことはない。

 カーリットは、1896にスウェーデン人カールソンが考えた 過塩素酸アンモニウムを基材とし、粉状。
 JISでは、過塩素酸アンモニウムを10%以上含むものが、カーリットである。
 坑内用のカーリットと、坑外用のカーリットが市販されている。後者は露天採掘用。一酸化炭素が出る。

 工業塩を電気分解し、過塩素酸ナトリウムとし、それに硫酸アンモニウムを加え、複分解する。真空中で加熱すると、150℃で分解を始める。あまり高温にすると燃焼し、さらには、爆発する。乾燥して1粒を15ミクロン以下に砕かないと、製品にはならない。つまり粉末である。
 カーリットには、硝安、木粉、澱粉、重油、珪素鉄、敏感剤が混和される。

▼東大地震研究所(那須信治教授)『大型爆弾試験報告 第8号~第11号 合冊』S18-11 マル秘 ガリ版

 第8号。
 掩壕内の飛行機(98軽爆)は、500kg爆弾の爆風で中破~大破する。
 家作は、1階と2階の継ぎ目が最も変形しやすいので、そこを強化するべきだ。

 日本製250kg爆弾は、2m内での衝撃破壊力は米製250kg爆弾に劣る。しかしそれ以遠の爆風は、米製に勝る。

 爆弾孔には有害量の一酸化炭素が残るのではないか、調べたが、その疑いは除かれた。

 第10号。
 最近、敵は「瞬発弾」を使うようになった。電気通信施設の防護のためにどうすればいいか、データを得たい。特に、無線用の大型真空管を爆弾の衝撃で割られると、供給が困難なので……。

 架空の線条に対しては、1000kg爆弾は、距離100m以内で被害距離となる。
 〔地下〕ケーブルに対しては、1000kg爆弾は、距離50m以内で、被害距離となる。

 架空線に対する威力は、薄肉爆弾の方が、制式爆弾〔GP爆弾〕より、低い。8割くらいとなる。※おそらく破片が少ないため。
 地下線は、直撃されない限り、事実上、無被害だと判った。

 第11号。
 爆風による送電線の混触は、少ない。※サージ短絡被害。
 100m以内の爆発だと、弾片による被害が大きくなる。

 日本製250kg爆弾片と500kg爆弾片の水平方向の死角は、地面から6度である。※伏せていれば安全。
 米製250kg爆弾片と500kg爆弾片のは、6度弱である。1000kg爆弾の死角は3度しかない。
  ※アフガニスタンで1トン爆弾=2000ポンド爆弾がゲリラに対して威力があった理由か。

▼源了圓『近世初期実学思想の研究』S55
 羅山は、秀忠に命によって、漢書、六韜、三略を講義した。慶長12年。
 寛永3年には、やはり秀忠の命令で『三略諺解』をつくった。
 武士たちにとっては、四書五経より頭に入った。羅山は四書五経を講義したかっただろうが。

 羅山は、三略の解説を通じて、朱子学的な心による支配を、説こうとした。

 羅山は、秀忠に六韜を進講したとき、利と義について解いた。
 羅山の慶安元年の見解。易にいう如く、利とは義の和なり。 ※逆なり。義とは利の和なり。

 孔子。国を為[おさ]むる者は、食を足し、兵を足す(論語顔淵篇)。教へざる民を以て戦ふ、是を之を棄つと謂ふ(論語子略篇)。

▼溝口雄三『公私』1996-12
 忠、孝に訓音がない。この語が日本にはいってきたとき、それに該当する観念が存在しなかった。
 かたや、公にはオホヤケという訓読がついた。その観念があったのだ。

 物部連 など「連」系の豪族は、天皇家直属の豪族で、半島からの渡来人が多い。
 蘇我臣 など「臣」系の豪族は、古来、各地に蟠踞していた土着の豪族。天皇権力の前からいた。

 日本語の「わたくし」が一人称として普通にもちいられるようになったのは室町時代から。

 シナ文革中の「大公無私」というスローガンは、反社会的な利己心を捨てろという意味で、個人が命や財産をさしだすことを要求していない。これに対して日本の「滅私」は、まさに基本的人権の私権や自由の放棄を迫るものである。

 天皇は最高位の「おほやけ人」なので、昔も今も、姓がない。民に姓を与える立場で、みずからは姓というわたくしを超えた存在。
 シナでは逆に、公は天下万民の側にあり、皇帝は百姓のなかの一姓でしかない。天下万民の総意を体現しているので、君臨がゆるされる。

 呂氏春秋いわく。天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり。

 シナでは、私人の共同出資による会社を公司というのである。

 シナでは職場は神聖ではない。ゆえに、子連れ出勤もOK。

 日本では、兄弟は他人の始まり。将来は競争相手になる。
 シナでは、兄弟間の競争はゆるされない。それは徹底的に抑制されねばならない。その目的のために危険視されたのが、各人の嫁。だから、嫁の自家族愛は「私」であるとして抑圧された。

 機械でマスプロするより、むしろ数千人に単純作業の職を与える方が仁政であると支那官僚は考える。だから資本主義にはもともと向いていなかった。

▼中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』イワブン1984-3
 ※プレミア100円増しの古書を1998-12に購入した。

 延享年間の脚本。「手附倍損」のルールがすでにあった。手附受領者が解約する場合には、手付金の2倍額を返して謝る。

 「敷金付の女房」。日本永代蔵に出る。醜女をかたつける方法。離縁する場合、返金しなければならない。

 婚姻の媒人は、敷金の十分の一を、その報酬として受けた。
 元禄時代にはもう、大阪に、結婚媒介所の機能を果たす「仲人屋」があった。

 中田の見解(穂積の認識に逆らった)。日本では「祖名」を相続するのである。支那では「祭祀」を相続するのである。
 祖名とは、「家名」のこと。これが続けばよいのだとするのが日本。だから富豪も名優も○代目××、と名乗る。
 支那では「廃家再興」なんてありえない。

 日本の古代の天皇に、もし御嗣がなければ、諸国に部民を置いて、その御名を負わしめ、それが万代伝わることを期待した。

 封建法は、部下領主の相続に介入する。ぜったいに部下領主の勝手にはさせない。
 武士は、遺言によって俸禄を複数の子に分割相続させることは許されなかった。すなわち法定相続のみを強いられた。
 町民は逆で、遺言で何でもできた。

 徳川時代の庶民の相続は、分割相続。けっして、単独相続ではない。ところが今日の民法は、まるで封建制時代の俸禄の相続法そのものである。不思議でならない(p.223)。

 ゲラーデ。ドイツの妻の個人所属財産は、夫の干渉をうけることなし。女性から女性へ相続可。

 巻末解説。中田は、モンテスキューの『法の精神』に刺激されて、こういう研究を深めた。律令法のあとがまの日本の固有の法制は、欧州フランク時代の法制に酷似する。現代民法がローマ法準拠であることと大きなへだたりがある。

▼『鴎外全集 33』S49 岩波書店
 M27頃の半島の道路は、車が行けるところはほとんどなかった(pp.4-7)。

 白兵[ブランケ・ワッフェン]の元祖はザクセンのSelminitz大尉である。プロシア銃剣術は1844に興った。フェンシングをやりすぎると背骨が曲がり、右半身の筋肉ばかり肥大する。

 「普通教育の軍人精神に及ぼす影響」の「智の作用」の段落に、クラウゼヴィッツの解釈と思われる部分が……(pp.701~)。

 当時の新聞が、外国軍のビスケットはよい、日本軍の米飯はだめだ、と言っているのに反論。コメの方が保存できるし、炊事道具も小さくて済み、堅パン常食の胃腸負担もないのだ(pp.725-6)。

▼『鴎外全集 34』
 「北清事変の一面の観察」……帰還者の報告に基づく感想。M34-12-23の講演。
 ドイツ兵は、裏面で、敗徳汚行が甚だしい。
 日本軍は、かつて模範としていた欧州兵を買い被っていた。尊重しすぎた。

▼久保田競ed.『脳の謎を解く 2』1995-3
 アメリカの優生運動はナチスより年季が入っている。20世紀初頭、精神薄弱と犯罪性格は遺伝すると信じた多くの州で、次々に「断種法」が制定された。性犯罪者など数百万人が強制的に断種させられている。

 スウェーデンでは1941から1-75まで、1万3000人が強制断種されている。これは1986にジャーナリストがあばいた。両親のどちらかが精神的に欠陥をもっていれば、それだけで断種は正当化された。

 カリフォルニア大学のA・R・ジェンセンは、1968の論文で、米黒人のIQが白人より平均15ほど低い。これは環境の差ではなく遺伝だから、補習授業よりも専門的職業訓練を用意した方が善いはずだと。

 性行動に関係する、内側視索前野(視床下部)の神経核は、男性の方が女性よりも大きく発達している。
 おそらくホルモンの差が引き金になる。
 母親が妊娠の初期に、血液のなかにふつう以上の男性ホルモンがあると、胎児(♀)の脳が男性の脳のように発達し、人形遊びに興味を示さない。
 反対に、母体がストレスにさらされると、血中の男性ホルモンは減り、胎児(♂)の脳は女性化し、人形遊びを好むようになる。長じては同性愛傾向も(pp.39-40)。

 パーキンソン病の治療法として、メキシコで、中絶した胎児のドーパミン細胞を患者の脳内に移植するという試み。全く運動できなかった人が、スポーツができるようになった。

 ストロボ刺激による癲癇性異常脳波の誘発には、10ヘルツから25ヘルツ(特に15~20ヘルツ)の点滅が最も有効。小さな光源よりも、全周からの光で網膜を広く刺激してやるとなお効果があるという。
 この現象は、欧州でモノクロテレビが普及するとすぐに報告されるようになった。日本で報告例が少ないのは、テレビジョンの画像構成の規格が異なるからだといわれた。そして、カラーテレビにきりかわると、欧州でも報告例は稀になった。

 分裂病は「脳の病」であって、決して「精神の病」ではない。
 欝病のとき、平均55分でレム睡眠が現れる。正常の人よりも、すぐに、睡眠がレム化する。

 全身の血圧が低下しても、脳には優先的に血液が送り込まれるようになっている。

 夜行動物は嗅覚が大事。夜行性動物に社会は必要ない。
 前頭連合野や、側頭連合野が障害されると、サルでもヒトでも社会関係をうまく営めない。
 霊長類でも、果実をよく食べる種類は、そうでないものよりも、より大きい脳をもつ(体重と比較して)。

 今はブローカ中枢といわず、ブローカ野という。

▼『講座・比較文化 第5巻 日本人の技術』吉田光邦「戦争の技術」
 日本書紀・天武天皇14年11月の詔。民間に、弩[おおゆみ]、抛[いしはじき]の類をおくことを禁ず。郡家に収めさせる。ただの弓はこのカテゴリー外。

 日本で弩が廃れたのは、青銅の引き金部がつくれなかったから。

 明は倭寇に渡る武器を減らすために、10万本の日本刀を輸入した。粗悪品であった。

 鉄砲伝来とともに、刀身はどんどん短くなっていった。戦国期には最短の1尺9寸になる。

 フランキとは、フランクス=独・仏・スイス のことで、当時、彼らがポルトガルに火砲を売っていた。青銅原料の銅と錫が、該三国に偏在していた。

 ペリーショックで「堅船利砲」が叫ばれたが、間に合わず、輸入品をあらそって求めた。

▼ジム・ヒックス著、屋形禎亮tr.『ヒッタイト帝国』1977
 旧約のなかに、エプロン、ウリアという2人のヘテイ人が登場する。

 セム系ではなかった。最古の、印欧語族。

 BC1650頃、バビロニアの楔文字と、オリジナルの象形文字を混合している。
 キツネ目のレリーフが残っている。並んでいるリビア人、シリア人も同様だが。

 ヒッタイト人は背が低く、ひたいは後傾し、カギ鼻で、先のとがってめくりあがったブーツ。

 3座戦車は、ヒッタイトの発明品だった。
 最古の立憲君主政体だったという学者も。

 BC1200、とつぜん、帝国は消滅した。生き残りのヒッタイト人は、BC709にアッシリアの支配下に。

 双頭の鷲は、ヒッタイトのオリジナルデザイン。

 文字は意味は解読されている。発音はまったくわからない。
 羊がヒッタイト経済の中心だった。

 ヒッタイトの弓矢は青銅鏃、木+角+腱をバインドした弓(p.75)。
 輜重は、ロバと牛車。何週間も攻囲することができた。

 カデシュの戦いでは、脱走兵を使い、町からはるかに離れたところにいると思い込ませて、エジプト軍団のひとつを罠にかけて包囲した。
 けっきょく、引き分け。

 エジプト本営は、楯を並べて防御したが、ヒッタイトはTKで突破した。

 ヒッタイト法は、ハムラビ法やイスラエルの律法よりも人道的である。
 占いは内臓卜占。

 ヒッタイトは急襲され、完全に焼かれて消えた。
 新ヒッタイト人は、娯楽好きの、のんきな民族だった。

▼『梅原猛著作集 9 塔』1982
 五十三という数字には、南インドの華厳思想のルーツがある。華厳経の「入法界品[にゅうほっかいぼん]」に、善財童子が53の浄土を巡ったとある。

 佐伯好郎博士(1871-1965)は、明治41年に『地理歴史』という雑誌で「太秦(禹豆麻佐)を論す」を発表。いわく。広隆寺内にあった「大酒神社」は、もとの名が「大辟の神」で、それは大闢だいびゃく=ダビデの支那字であって、要するに景教の神社である。そこには井佐良井[いさらい]という井戸があった(源氏物語にいさらゐと出るという)が、それはイスラエルだ。
 また、ウズマサ は太秦と書くが、この支那語はシリア地方を指す。唐の景教碑にそれは出ている。
 佐伯氏いわく、うずまさという姓を雄略天皇からさずかった秦氏はイスラエルの遺民ではないか。
 秦氏は百済→新羅を経由して日本に来たとされているが。

 万葉集には蝶の歌がない。

 『家伝』によれば、藤原鎌足は、『大公六韜』を暗誦するほどによく読んでいた。

 『古事記』の存在が一般の人に知られたのは、南北朝の頃であった(p.225)。

 敏達14年に蘇我馬子は、大野の丘の北に塔を建て、舎利を塔の柱頭[はしらかみ]に蔵めた、という。書記によれば、日本最初の塔建築。
 書記はこの塔を「刹の柱」といっている。それは古代日本人にとって、塔であるより、柱であった。

 「前方後円」という表現を最初につかったのは、蒲生君平(1768-1813)の『山稜志』。「その制たるや、かならず宮車をかたどり、前方後円ならしむ」「めぐらすに溝をもってす」。

 宮車の形を持つ古墳は、9代開化天皇~祟神天皇の頃から始まり、30代敏達までおよぶ。この時代がいわゆる古墳時代。

 梅原いわく、古墳が巨大になったのは、高く盛るためには土台を広くせねばならなかったから。とにかく高くしたかった。

▼今日の話題社『太平洋戦争ドキュメンタリー 第五巻 老潜水艦出撃す 他七篇』S43-3
 双発戦闘機(2式複戦・屠龍)は、単戦と違い、一度安定を失うと、回復が困難だった。夜間訓練中、光芒に幻惑されて、昼間のような錯覚に陥ると、海中に突っ込んでしまう。

 B-29は、普通は9~10人乗りだが、編隊長機には12名も搭乗していた。

 爆弾はMaxで4トン。その場合、行動半径は2200kmに減る。日本本土まで往復するなら2トンに減らす。それで片道2700kmになる。成都から、かろうじて往復可能だ。

 対B-29の双発戦闘機は、翼長の三分の一付近までタンク。そこに12.7ミリが命中すると確実に火災になった。ほとんどがこの火災のためにやられた。

 艦載機をともなう昼間の大空襲のときは、部隊は、朝鮮の大邱基地に退避し、夕刻に、小月に戻って夜間空襲に備えていた。

 海軍の大村飛行場は、一面が地質の固い草原。48機が一度に編隊離陸することも可能だった。

 投下器取替え作業。薄暗い格納庫。中腰。螺止を外したり、つけたり。螺止はほとんど甘くなっていて、一箇所とめれば、一箇所がズレて合わない。無理に回すとネジ山をこわす。同じネジのはずなのに、その機以外には合わない。規格が揃っていないのだ(p.193)。

 飛龍艦攻隊の証言。
 進撃序列は、発艦順とは逆で、先頭が艦攻。その後ろ上方1000mに艦爆隊。その上方に零戦が掩護の位置につく。
 これは空母に戻るときに、艦攻が嚮導する力が優れているから。戦闘機は、母艦直属の駆逐艦に電波を輻射してもらって、機の無線方向探知機を使って帰投するしかなくなる。これは近くに陸地がない場合の最後の手段だが。

 着艦順は、零戦、艦爆、艦攻。
 艦攻でも6時間飛ぶともう尻が痛くて堪えられない。

 鹿屋で陸軍重爆が海軍に所属した頃の話。通信員は、電信員と海軍風に名を変えた。基地からの外出・外泊は海軍の方が簡単にできたので、海軍に志願すればよかったと悔やまれた。味方潜水艦は、識別として白線を描いていた。

▼『30年式歩兵銃効力論』M35 元真社pub.
 公算誤差学という、確率論的アプローチの数式、多数。
 距離2000mでは、平均して垂直に161.2cm、水平118.0cmの誤差があった。

 M32に下志津原で100発射ったら、25発が地面で跳弾となった。

 仏は動物実験でライフルの対人貫徹力を求めた。
 それを30年式にあてはめると、400m内なら4人を貫通できる。1200m内でも2人貫通できる。相互の間隔を50センチとして。

▼東京軍需商会『歩兵機関銃問答』M41
 薬莢ちぎれ対処法や、抜弾法を指南している。
 エキストラクタースプリングには強、中、弱(甲乙丙)あり、初めは丙を使う。薬室が変化して抜きにくくなったら、乙、甲と替えていく。

 弾薬箱は、均等に軽くなるように消費しろ。

 保弾板の曲がりを直す「保弾鈑修正器」があった。
 寒いときにはいきなり連射してはならない。
 保弾鈑をたてつづけに挿入すると、接合部でジャムるので、間隔をあけろ。

▼防研史料(中央/典範/迫等/41)「各種迫撃砲関係資料綴」 S18頃?
 94式榴弾は、茶褐直接熔融 1072グラム。
 全5.260kg、6包+で全5.410kg、6包での標準腔圧は470kg、6包での装薬量は99グラム。
  ※96式中迫の詳しい開発導入経緯も記載されている。

 150ミリ迫撃砲。
 重迫としてS7-4に造ることに。
 S12-7でもまだペーパー段階。

 97式曲射歩兵砲は、S12-7-21に「ストークブラン」をコピーして、今より軽い大隊砲にしようと開発開始。
 放列全備重量 65kg。
 S12-5、設計着手。6月、大阪工廠へ試製発注。
 S12-11、試製完了。

 歩兵学校は12月に二度テストし、13年5月に結論。
 大隊砲の代わりにはできぬ。
 しかし駄馬編制師団の大隊砲 または 一般歩兵聯隊の増加装備歩兵砲としてならいいだろう、と。
 12年度北満冬季試験の成績は良好。
 径81.3ミリ。バレル長1.229m。

 弾薬。榴弾は3.285kg、重榴弾は6.240kg。
 レンジ。榴弾は2800m、重榴弾は1100m。
 高低 45~85度。
 放列砲車重量 67kg。

 撃針は固定だが、不発のときは、後退させられる。そののち、取り出す。
 滑腔である。
 脚に連結架あり。反動ショックを緩衝するジョイントになっている。
 床板に駐鋤があるのは、凍結地を考えてのこと。

 「試製中迫撃砲用十五年式駄馬具」。
 一馬は、134.710kg~157.410kgを負担す。
 輓索は、奇数馬(五頭分)に附随するものとす。

 97迫(81.3ミリ)
 撃針は、0.0025ミリ突出している。
 床板は15.1kg。
 放列砲車重量 43.4kg。

 ※81.4ミリとする資料もある。

 120ミリ迫の駄載では、砲身馬、脚馬、床板馬、属品馬、弾薬馬に分担。
 いずれも、むきだしではなく、第一~第三「積載箱」に収容する。

 2式重榴弾(12迫)。弾量19.640 (TNT不明)
 2式榴弾。弾量12.760 (TNT2.720kg)

 「十一年式曲射歩兵砲取扱法」S7-5-26
 砲身、砲架、床板、属品、弾薬箱。

 高低照準機、方向照準機を備え、運搬は、駄載および臂力による。
 単肉鋼製。
 上面には、標線が刻されている。

 拉縄を引くと、撃鉄が撃茎を打撃する。
 提棍は、前後に分かれているものを一桿として、床板の提棍托す板に挿入して……。
 これは射撃時には標桿になり、砲腔手入用の洗桿にもなる。

 「属品箱」の装填品は、射向盤から、メリヤス手套まで、さまざま。

 撃茎は普段は後退しているが、汚れると後退しなくなるので、危険。
 三回拉縄を引いても不発なら、出す。

 撃茎托筒は、1号から4号まである。
 床板のみの重さは35kg。
 全備重量 63.000kg。但し、撃茎托筒のぞく。

▼防研史料  天津駐屯歩兵隊長『市街戦教育の参考』S7-6
 S4~7の経験を纏める。

 支那の路面は堅硬で、掘土不可能。だから、土嚢と拒馬が必要である。

 12センチ以上の曲射火器や、直援のできる野山砲(つまり75ミリ平射砲)×1~2門が必要である。

 平射歩兵砲(つまり37ミリ砲)は役に立たず、×。 

 HA〔不詳〕は、其の効力が絶大なので、其の数も比較的に多く配属するを可とす。

 HAとHSA〔不詳〕……よく分からない。迫や擲弾筒ではない。曲射歩兵砲らしいが、2種とは……? 十一年式曲射砲と92式曲射歩兵砲なのか?

 擲弾筒は、その爆音の効果が、素質不良な支那軍に対して有効。しかし、レンジが200mまでであるのが残念。なんとか400mまで制圧できるものが欲しい。 ※と言っているところをみると、十年式擲弾筒はあったが、89式重擲はまだないらしい。そして、重擲は、このような戦地の要望に応じて開発されたのかとも察せられる。

 拳銃は、小銃を持たぬ者は必ず持て。衛生、補給、運転手、通訳も持て。それも、モーゼル一号、または南部式等、重量が大で、射程が大なるものが可。

 攻撃時には、1人で5発以上の手榴弾を持つ必要がある。車両で追送せよ。

 ゴム底靴が必要である。シナ人は好んで電流を用いるから。

 鉄甲(鉄帽)は、裏革内に藁を詰めよ。夏・冬ともに。

 鼬、鼠が道を横切る姿、あれを見習え。あの機敏さで、前進すれば、狙撃されない。

 反対射撃(左肩射撃)を訓練しておけ。 ※これはビル陰から射撃するときに、なるだけ身体を物陰に隠すのが有利なので。

 手榴弾は、全身をバネにして投擲すれば、40mまで届く。

 中国人暴動の鎮圧には、初めから実弾射撃をすること。威嚇は逆効果。

 屋内では、小銃は腰だめ射撃とする。

 装甲車に備え付けられている英国製ヴヰカース機関銃の用法を覚えておけ。装甲自動車隊の者たちは。