▼『公文類聚目録 第二』M23~M26
M23-2-15、不用城郭中、元藩主に於て払受を志願し、及び、散在地の内、官庁に於て払受を企望するときは、公売に付せず、払渡を黙許す。
※元藩主で、維新前に預かっていた城をあらためて私有したいと望む者が、いたのか?
M23-2-22、師団司令部 属部 衛生部および列外下士卒 の携帯兵器を仮定す。
M23-4-5、陸軍省火薬類払下、自今、東京砲兵工廠および大阪砲兵工廠に於て取扱はしむ。
M23-5-15、村田銃弾薬填替器械を属品の中に増加備附す。※リローダー。
M24-3-6、野戦電信隊演習用拳銃弾薬支給表を改正す。
M24-3-20、騎兵槍腕貫を改正す。
M24-8-4、村田騎銃 携帯予備品 制式を定む。
M24-11-11、七珊米 野山砲用 榴霰弾に、複働信管を採用す。 ※着発でも爆発する。
M24-1-12、要塞砲兵小銃射撃演習教令を定む。
M25-3-19、騎兵刀制式を改正す。
M25-5-19、村田騎銃の照星および照尺を改正す。
M25-6-10、村田歩兵銃の照尺に遊標発條を装置。
M25-7-26、村田銃実包および空砲材料中の紙塞の寸度を改正。
M25-11-30、28珊米 榴弾砲制式を定む。
M25-9-17、五十七密里米突 および 四十七密里米突 速射砲には自今、海軍大尉・山内萬壽治の考案に係る自働式閉鎖機 および 同心退却砲架を採用す。 ※実質、英国メーカーが設計してやり、手柄を山内に与えて、武器輸出のパイプ役に育てた。山内はジーメンス事件前に富豪となって引退できた果報者。
M25-11-30、報告。軍艦千島、愛媛県 堀江沖に於て、英国飛脚船ラベナ号と衝突、沈没す。
M25-12-7、海軍銃隊操式を改正す。
M26-4-6、憲兵下士卒に騎兵刀を佩用せしめ、憲兵刀を廃す。
M26-10-14、村田騎銃 弾薬盒 制式中、鈕扣[ボタン]革を除去。
M26-12-25、村田歩兵銃 負革を 制式中に増加。
▼『公文類聚目録 第一』M19~M22
M19-3-15、陸軍省、従来、村田銃ならびに属品、砲兵砲[ママ]面より払下の処、4月1日以後は、東京砲兵工廠に於て払下る旨を令す。
M19-3-20、同省、村田銃 薬莢 取扱方を定む。
M19-4-2、陸軍省、室内銃射的演習規則を廃止す。
M19-5-5、海軍舶刀操法ならびに舶鎗操法を定む。 ※片手カットラス刀の他に、槍まであったらしい。
M19-10-16、海軍小銃射法教範を定む。
M20-4-5、村田銃保存法 審査委員 を命ず(陸軍辞令)。
M20-9-24、海軍省、銃器弾薬買収順序中の兵器局を、艦船局と、心得しむ。
M20-2-4、陸軍歩兵隊中、鍬兵、廃さるるに付、その作業は歩兵一般に練習せしむ。
M20-6-17、射的教程 第一版、射的演習定則、村田銃取扱法および標的尺度方、射的掛士官試発用弾薬に関する達を廃止す。
M20-4-8、看守長および看守卒に憲兵刀を佩用せしむ。
M21-1-4、官報。陸軍辞令。小口径連発銃制式審査委員を命ず。
M21-2-3、村田式軍用銃保存法 審査委員を命ず。
M21-2-3、輜重輸卒刀 制式 審査委員を命ず。
M21-4-13、砲兵隊へ ゴウチエ式測量器、砲隊鏡、量速器を備付す。
M21-5-11、村田銃薬莖[ママ]取扱方 第二項を改む。
M21-9-29、村田銃保存法を定む。
M22-2-14、戦時野戦電信隊 工兵 下士卒の兵器を、拳銃に定む。
M22-11-29、野戦電信隊 演習用 拳銃弾薬 支給表を定む。
M22-12-17、銃剣術用小銃分配表を定む。 ※最新型を使うとガタが来るので旧式銃で訓練させた。
M22-11-26、軍隊剣術演習教令を廃止す。
M22-3-7、下士以下 寝具用 厚毛布を鼠色に改正し、保存期限を定む。※それまでは英式の赤ゲットだったか。
M22-1-24、陸軍省 鵜鴉猟規則を廃す。
▼『公文録 目録 第七』M17~M18
M17-1~3月、山野砲身 ならびに 鉄車台 製造機械 買上の件。 伊国製 鋼銅砲 器械 買収費額の件。
M17-4~5月、伊国砲兵士官および職工長 雇入の件。
M17-6~7月、新式大砲製造器械 費用の件。
M17-6~7、村田銃 ならびに 弾薬製造費 繰上の件。
M17-6~7、東京砲兵工廠銃包製造器械 買収費の内 銀貨交換の件。
M17-8~9月、鉄製海岸砲 製造用銑鉄 古砲主管の件。
M17-10、銃包製造器械据付費の件。
M17-1~2月、仏国造船会社へ軍艦注文の件。
M17-3~4月、按針長○○○○へ賜金の件。
M17-8~9月、英仏両国へ註文軍艦代 増加の件。
M18-1~2月、兵器弾薬費 ならびに 砲兵丙工廠 興業費 別途下付の件。
M18-3~4月、村田銃ならびに山野砲 製造費 繰上の件。
M18-3~4、制弾工場および器械増設費、興業費へ移算の件。
M18-5~6月、准陸軍大佐以下 官名 換称の件。
M18-5~6、東京砲兵工廠 営業費 年度遣ひ仕払据置の件。
M18-7~9月、東京砲兵工廠 十五年度営業費 欠額更正の件。
M18-1~3月(海軍省)、兵器工生 概則制定の件。
M18-1~3、機砲弾薬ならびにブロオン火薬購求代金 別途下附の件。 ※機砲については『たんたんたたた』を見るべし。ブロオンはブラウン(茶色)である。
M18-1~3、機砲弾薬製造所建設費 ならびに 機砲製造器械購入費の件。
M18-4~6月(海軍省)、不用兵器類 売却代金 別途下付の件。
M18-7~9月(海軍省)、17年度 機砲弾薬製造所建築 および 機械購入費 仕払残金、18年度へ繰越の件。
M18-10~12月(海軍省)、不用兵器売却代 別途下付の件。
▼『公文録 目録 第六』M15~M16
M15-1、勢州 亀山に於て 対抗運動の御審判官 等 諸費 年度決算方の件。※マヌーバーを運動と訳していた。
M15-1、西南征討中 福岡長崎両県より借上銃器、買上費 下付の件。
M15-1、伊国製 鋼銅野砲 買収の件。 ※7サンチ野砲。
M15-5、鋼銅野砲 等 買入費 年度係累の件。
M15-8、徴発令 制定の件。
M15-8、ピーポーシーマルチニー銃 買入の件。 ※ピーボディー。
M15-8、克虜伯[クルップ]海岸砲 著港に付、横須賀湾にて陸揚の件。
M15-8、兵器弾薬被服軍馬 等 有用品の内、改造 更換費 等 別途 下附の件。
M15-8、隣邦兵備略 第二版。
M15-10、金属薬筒製作器械師 ワイデンウェーペル氏へ手当金 贈与の件。
M15-5、兵器局 小銃修復代 雑収入へ編入方の件。 ※民間から受注する商売していた?
M15-5、鉄製旧砲売払の件。
M16-1、朝鮮人 士官学校一 入校の件。
M16-1、大坂[ママ]砲兵工廠反射炉 建築費の件。
M16-3〔4月?〕、村田銃製造器械 買上 ならびに 工場建足し 入費の件。
M16-5、清仏両国在留 寺内少佐・福島大尉へ 告諭の件。 ※福島安正。
M16-5、精製銅 東京砲兵工廠にて主管の件。
M16-6~7、小銃 ならびに 弾薬 製造費 繰上 下渡の件。
M16-10、朝鮮人 徐載弼 ほか十三名 戸山学校にて学術授業の件。
M16-10、朝鮮政府へ送付兵器代 払捨の件。
M16-12、小銃弾薬製造費 繰上の件。
M16-12、村田銃製造所 および 該 器械 買上費 残額、更に十六年度興業費として下附の件。
M16-5~8(海軍省)、不必要の兵器類 売却の全額 該年度経費中へ増額の件。
M16-9~10(海軍省)、旧砲払下げ取り消しの件。
▼『公文録 目録 第五』M12~M14
M12-3、仏国留学生 曽根荒助へ旅費。
M12-1、軍人の妻、本貫戸籍に登記ある上は、拾二歳未満といへども恩給を受くるの件。 ※11歳の妻があり得たということ。
M12-6、東京招魂社、靖国神社と改称。別格官幣社に被列 ならびに 内務省陸海軍省三省に於て管理の件。同社 恒例祭日 更正 ならびに 勅旨参向の件。
M12-7、名古屋、姫路、両城保存の件。
M12-7、陸軍卿 西郷従道、米国前大統領グランド[ママ]氏 接待手続書中 飾隊式 不都合の廉に付き、進退伺の件。
M12-4、鹿児島造舩所、廃止の件。
M12-4、相州 猿島にて大砲試験の件。
M12-5、軍人軍属死亡、其の原因 詳らかならざる時、死体の局部 剖観の件。
M13-3、陸軍武官所有の銃器 取締の件。
M13-7、卿 大山巌、大坂[ママ]砲兵工廠巡見の為め出張の件。
M13-12、中将・黒田清隆 結婚の儀。
M14-3、十一年度 残額 新銑 製造費の件。
M14-5、外国人へ銃砲払下の件。
M14-5(海軍省)、鉄製砲売却代金を以て兵器補欠費に充るを請ふ件。
M14-7、機関海校 設置の件。 ※それまでは兵学校「機開課」?
▼『公文録 目録 第三』M7、M8
M7-2、戸山出張所、戸山学校と改称 届。
M7-2、佐賀県 動揺に付き、銃炮弾薬 売買運漕 差し止め伺い。
M7-3、巡査 兵器携帯の儀に付き、伺い。
M7-4、仏国参謀中佐ミュニヱ 到著届。 ※某洋書の訳者はこの人物を別人と混同したかもしれない。
M7-7、三氏 温度比較表 上梓 届。 ※摂氏、華氏の他に、もうひとつ、あった?
M7-7、銃炮売買免許商人 取締の儀に付、伺。
M7-9、硝石 硫黄 輸出禁止ノ儀、上申。
M7-4(海軍省)、漁猟規則ノ儀に付、上陳。
佐賀征討始末 一。
・銃砲弾薬類売買差止ノ儀 陸軍省伺。
・軍事に渉る条件 新聞紙 掲載差し止めの儀、同上。
・雲揚艦 出【馬風】[しゅっぱん]届。
M8-1、巡査 携銃ノ節、敬礼ノ儀に付き伺い。
M8-3、巡査 手銃 携帯 行進中 礼式の儀に付き、再伺。
M8-4、銃砲弾薬取締 方の儀に付き、伺。
M8-8、兵事関係図書 出版の儀に付き、届。
M8-12、陸軍省伺。村田少佐 仏国に於て射的会の節、名誉の儀、届。※マイクロあり。
M8-12、村田少佐 兵器献納の儀に付き上申。※マイクロあり。
M8-6(海軍省)、銑板炮撃 天覧の為 越中島へ行幸 届。
M8-12、伊豆国 天城山より艦材 伐出……云々。
▼『公文録 目録 第四』M9~M11
M9-2、陸軍憲兵隊服制の儀 伺。
M9-2、大阪[ママ]丸沈没に付き、溺死人名届。 ※名古屋丸と衝突。
M9-2、大阪丸沈没の節、亡失の弾薬、補缺製造の儀……。
M9-4、府下、関口水道町 水車場 内務省へ返附届。
M9-5~6月、村田少佐、書籍献納に付、賞詞の儀、上申。
M9-4、金沢兵営 鵜鳥 攘除の儀 伺。 ※これが一番早い。
M9-4、浅間艦、愛知県下 農 栄川久蔵 持舩へ乗り懸かり、沈没に付、手当金 給与ノ儀、上申。
M9-5、水雷機械 大蔵省より受取届。
M9-5、写景法範 刻成、届。
M9-7、雇教師 仏国陸軍大尉ルボン へ 賞牌賜与 ならびに 謁見の儀、伺。
M9-7、緒方少佐 外二名、浅間艦 衝突に付 処分伺。
M9-9、西洋画式蹄鉄提要 刻成、届。
M9-9、砲兵本廠 物揚地所 受領伺い。
M9-10、竹橋内 近衛歩兵営 周囲樹木に群集の鵜鳥 撃除伺。
M9-11、雲揚艦、紀州 阿田和浦に於て破艦 ならびに 死亡人名等 届2条。
M10-10、皇城周囲の堤上樹木に群集の鵜鳥 掃除方 伺。
M10-11、陸軍大中小尉に限り、遊猟銃鑑札 無税 御渡し伺い。
M10-12、各鎮台 営処 兵営周囲の樹木に群集の鵜鳥 撃除 伺。
M11-4、鵜鴉猟 規則 上申。
M11-7、朝鮮国政府へ臼砲 払渡の儀、伺。
M11-10、雲揚艦難破の節、流失金の儀、届。
▼『公文録 目録 第二 自辛未 至 明治六年』
辛未11月、火薬運搬規則、布達伺。
壬申6月、銃砲取締の儀、布告の申立。
9月、兵書出版条例の儀、往復。銃砲弾薬取締の儀、公布伺。
10月、桐野少将外三人帰京等の届。桐野少将外三人出張等の届。
壬申3月、海軍省伺。川村少輔、東京丸沈没に付き、進退伺。
6月、東京丸船将、大尉・滝山正門、帰京、沈没始末届。
M6-4月、馬医生徒、入学の儀、布達。
M6-8、【口咼】蘭唖珍 戦争実地研究の為 軍医監 林紀、【口咼】蘭隊伍へ編入伺。
※オランダと「アチェ」の戦争?
▼『公文録 目録 第一 自戊辰 至庚午』
庚年11月、兵部省は、造兵司器械、ナニワより品海へ積廻しの儀、再伺。
▼『大政類典目録 下』明治11年~14年
M11-7-8、朝鮮国政府へ臼砲を売与す。
M14-12-10、軍馬局において軍馬に砲声を副習せしむ。
M14-11-15、軍用村田銃を海外各国へ送付す。
M14-3-24(?)、軍役に堪えざる軍馬を払下、あるいは撲殺す。
M14-5-23、銃砲のうち、不要に属する分、外国人に売却するを許す。
▼『大政類典目録 中』明治4~10年
M5-7-13、仏国水夫 ローランジ・フリー、佃島漁夫 細川由次郎、銃殺始末。
M7-2-4、戸山出張所を戸山学校と称す。
M8-5-9、兵学寮を廃し、幼年学校、士官学校、教導団、戸山学校に。
M5-3-8、鹿児島の集成館を「大砲製造所」、火薬製造所を「火工所」と改め、造兵司の管轄に。
M9-4-26、砲兵会議概則。
M6-6-14、造兵司、日曜日を以て休暇とす。
M7-9-14、市ヶ谷・旧名古屋藩邸へ士官学校建築。
M8-11-22、陸軍游泳概則。
M5-11-13、野戦屯陣演習の節、アンビランス ならびに 病兵輸送方。
M9-11-20、陸軍少佐・乃木希典、禁刑の日、杖刑を施行するに付、謹慎。
M8~M9頃、尉官は降官、軍吏は降官あるいは降等、兵の逃亡は准流。
M9-11-6、東京&大坂鎮台の歩・工兵へ、スナイドル銃交付。
M9-8-19、海兵を解隊して、水夫に採用し、改めて水兵と称す。
▼『大政類典目録 上』慶応3~明治4年 国立公文書館蔵
〔兵制目〕
明治元年には「作事方」と呼んでいたが、そのご「陣営方」に。
M3-3〔日付不明〕。関口製造所ならびに滝ノ川反射炉を、造兵司の管轄とす。
M1-3-8、浮浪勤王ノ士を挙げて軍曹となし、俸禄を給す。
M1-7-2、兵学校を京都に設く。
M2-1、兵学校を兵学所と改称。
M2-9-4、京都兵学校を大坂兵学寮に移す。
M3-4-18、横浜語学所を、大坂兵学寮に移す。
M2-1-10、「竹橋門内大砲屯所」あり。
M3-7-24、「元火工所」もあった。
M4-6、小石川 水戸藩邸を兵部省に交付す。
M4-2-22、市ヶ谷 元名古屋藩邸を兵部省に交付す。
M3-2、佐賀藩に精良の士を撰ばせて、輦下を警衛せしむ。
M1-11、神衛隊を解き、旧籍に復せしむ。
M1-4-3、薩摩藩、英商に託して軍艦春日号を清国上海に修繕せんとす。
M4-6、石川島において大砲試験の為、実弾打発。
M4-5、浦賀辺において軍艦操練ならびに実弾打放。
M2-8、銃手 竹松 外六名 脱隊に付、死刑に処す。
M2-12-10、兵隊 安蔵 外一人 無銭酒食するを以て死刑に処す。
M3-10-2、常備兵員、海軍は英式、陸軍は仏式を斟酌し、之を編制す。
▼今日の話題社pub.『陸軍急降下爆撃隊 他七篇』S44-12
第三飛行集団は、仏印南部地区に集中する段階で、悪天候のために、22機と、77名の人員を、失った。対米英蘭開戦の前だというのに。
最初、陸軍機は、昼間に爆撃をしていたが、英空軍が、ハリケーンとスピットファイアをマレーに送り込んできたら、損害が多くなった。そこで、爆撃機は、夜間攻撃するか、戦闘機に掩護してもらうしかなくなった。
パレンバンには、油田だけでなくて、スマトラ島における最大の飛行場があった。
陸軍による降下作戦は油井を無傷で手に入れるために策定された。その前に海軍がメナドに降下して成功しているが、それを宣伝すると敵が用心してしまうので、海軍の手柄は報道されなかった。
パレンバンでオランダの設備によって精製された100オクタンのガソリンは、内地ではとても手に入るものではなかった。
S19-4-2時点でニューギニアの中央部以東を制圧していた敵機は、B-24と、P-38である。
※ともに航続距離が優れる。
ホーランジア飛行場を襲撃してきたのは、グラマンとシコルスキー。おそらく沖から敵の機動部隊が放った。
所持した軍刀。中支いらい持ちなれたもので、新刀ながら、藤原兼明在銘の2尺2寸5分。手ごろの重さだった。※のわけはない。長すぎ、重すぎる。
拳銃は、押収品のコルト六連発の型。携行弾はわづか20発しかない。
このコルトの実包は、いざというとき、すべて不発になった。多湿なのに、手入れできなかったから。
4月〔21日?〕、第6飛行師団長が、ニューギニア所在の全航空戦力をホーランジア基地に集めた。3つある飛行場が大型機と小型機300機でいっぱいになった。ところが、おそらく陸上のスパイがこれを通報し、1機の敵の偵察機もあらわれないうちに、いきなりB-24とP-38の大編隊が襲いかかり、一挙に200機が地上でやられてしまった。師団長の板鼻義一中将は、即日大本営に召還され、軍法会議に付せられたという現地のうわさであった。※板鼻という中将は軍人名簿に載っていないから、名前を変えているのだろう。
パプア人は海岸部族は漁撈で食えるので穏やかだが、山中の部族は剽悍である。
ニューギニアの退却経路には動物の影はなく、インコのような鳥ばかり。しかしいずれも拳銃や三八歩兵銃の目標になるほど愚鈍ではない。
ココ椰子には枝はないが、「椰子きのこ」がとれる。日本刀を使い、三人で2時間がかりで1本を切り倒せば、それが手にはいり、3人の1日分の携行食糧になる。ただしココ椰子は原住民が植樹した財産だから、とうぜんに、彼らの恨みを買う。
西部の方では日本兵が少なからず毒矢などでやられたらしい。
体内の塩が抜けてしまったあとの汗は、ぜんぜん汗臭くない。口から入れた水がそのまま毛穴から出る感じ。
南方の野生の豆。前に通過した部隊が手をつけていなかったら、それは毒豆である。内地の御多福豆に似ていて、海岸線にいくらでもある。しかし、塩煮してもその毒は抜けず、口にいれてから10分以内に、胃の中のぜんぶのものを吐き戻すことになる。
復員後に聞いた話では、硫黄島にも同じような野生の豆があり、喰った者は激しい下痢、頭痛、高熱に冒されて戦力にならなくなる。「硫黄島ではこの豆を気狂豆と呼んでいたそうである」(p.333)。
トル河の河岸を目指して、海岸近くを、西へ徒歩退却中、日本軍の機関銃の槓桿を引いて装填する音が、密林にこだまする。
36師団の一部隊に追いついた。その斥候だった。5月27日。
トル河には「ときどき、上流から鰐が下ってくるよし」(p.341)。
したがって泳いで渡るのは危険で、筏でなくてはならない。
昼は、敵機の爆音に追われる。夜は、敵魚雷艇が闇を支配する。
トル河河口の沖合いにワクデという小島があり、そこに滑走路一本の不時着用の飛行場があるる
ホーランジアから40日でとうとうサルミへ来たが、無人であった。
▼吉田満『戦艦大和』角川文庫 S43-7
※ズーラシアに行かずして野毛山の古書店で購入。1999-5-2、即日読了。
※本文部分が「戦艦大和の最後」。巻末に、これについてのいろいろな説明がついている。
『大和』は、内燃機関が冷えてしまっている状態から、スクリューを動かせるようになるまでに、24時間必要だった(p.9)。
無礼講を始めるときには「酒保開け」という号令がある。
出動前に候補生が退艦させられる。その候補生から酒を注がれた、航海士の学徒出身の少尉が、盃を手から滑らせてしまい、床で微塵に砕けた不吉。
食事終了、解散は、先任大尉(士官室長)が席を立つのが合図。
大和の原速は12ノット。艦橋では動揺をまったく感じない。大地に立っている錯覚を起こす。
砲弾満載量は二千数百発である。徹甲弾の水柱は、250mに達する。
上部電探室は、電源の熱気でむせ返っている。
逆探が、2方向に、米潜らしきものを探知。そこに電探を向けたら微弱な反射があった。
通信科の敵信班によると、平文で、大和以下9隻の基準針路、速力を打電していた。
大和の零式水偵は、呉で5機を卸し、残った1機も、大隈海峡を出たところで、鹿児島へ避退させた。カタパルト射出。
鹿屋から前路哨戒に離陸した偵察機20機は、日の出後まもなく、連絡を絶ち、1機も帰還しなかった。その中に、伊藤司令長官の一人息子の搭乗機があったという。
日の出とともに、潜水艦は電探に反応しなくなり、かわって、マーチン偵察機が触接を始めた。教科書通りだ。
全艦、20ノット、5分間隔で之字運動。
日本の水上電探は、潜望鏡を捕捉するには、露出長1m、時間3分間を要した。とても実戦用にならない。
駆逐艦では、副艦長というものはなく、先任将校がその役を果たす。後檣頂に位置して、後方を担当する。
大和の最大戦速は27ノット。
米機はすべて緩降下だった。
25ミリ機銃は、5発に1発、赤茶色の曳光弾。それを見て軸線を修正するのだが、すべて後落していて、おいつかない。
世界の三馬鹿、無用の長物は、万里の長城、ピラミッド、大和だと若い士官たちが(p.63)。
連続被雷で応急科員の死傷が多く、防水遮防作業ができなくなる。
浸水したら、ラッタルを上った最初の兵がハッチを閉めねばならないのだが、人情として、それができない。だから浸水は止まらず、傾斜の進行が意想外に速い。
機械室や罐室では、会話連絡はすべて手先信号。
主砲の発砲振動や、爆弾類の命中で、兵器類の固定が外れて、使用に堪えない。装備定着方法は、不備であった。
敵の爆弾が次々に命中するような激戦中に、じぶんの役目を与えられなくて、艦内でじっとしているしかなかった者たちは、脱出のときとなっても、もう動くことができない。「まず舌端しびれ次いで手足しびれ、自由を失い、ついには瞳孔開き切る」。体温はあっても、もう死人も同然だった(p.78)。
送受信室は、防水は完璧のはずだったが、魚雷が集中し、ついに水浸しで通信長以下、全滅。あとは発光と旗旒のみ。
敵信傍受の「特暗科員」の少尉は、二世であった。
水雷戦隊の司令官が座乗する『矢矧』が大和前方3000mで停止。そこに『磯風』が横付けしようとしていた。すなわち司令官が移乗するつもりなのだ。それは大和の伊藤司令長官の許可を得ていない、独断行動に違いない。これを見て、少壮士官たちは憤った。
だが『磯風』もたちまちに爆弾を数発あてられて、炎上・停止してしまった。
大和の右には『冬月』、左には『雪風』、この2艦だけが、すさまじい水柱を突破疾走しつつ、大和に「ワレ異常ナシ」を発信してくる。この両艦は、兵一員にいたるまで、練度高く、闘魂の塊りなのだと想像できた。
護衛9隻のうち、健全なのはこの2隻のみであった。
大和内では、電話も伝声管も破壊され、伝令だけに頼ることができた。しかし「ラッタル」移動中を敵機から銃撃されて、次々に死んでしまう。
出撃時には蜘蛛の巣のように見えた空中線は、片鱗すらない。
傾斜がきつく、もはや、運搬車を必要とする中型以上の砲弾は、砲まで届けられなくなった。人力運搬も危険であるため。これにより、高角砲・副砲は沈黙。機銃のみが、発射を続ける(p.77)。
落ちてくる爆弾は、黒一点だったのが、最後は紡錘型に見える。
敵の第6波以降は、すべて後方から艦尾を狙ってきた。舵を壊すつもりだ。
魚雷が集中。艦尾はしばし宙に浮いて、それから火柱と水柱に包まれた。
敵機はロケット弾も放つ。
「われ舵故障」の旗旒を掲げている『霞』が、大和に衝突しそうになる。かろうじて操艦でかわしたら、艦橋に、開戦いらいの笑い声が上がった(p.80)。
主舵操舵長(中尉)からの電話の声。隣室まで浸水。やがて一瞬の破壊音とともに、まったく消息を絶つ。
ここにおいて、大和の前檣に「ワレ舵故障」の旗旒が上げられた。この旗が本艦にはためくのは、最初にして最後だろう。
伊藤はこの特攻作戦にはじめから大反対だったので、航海中のいっさいを、艦長の有賀に任せて、無言で通していた。
伊藤長官は長身だった。艦橋直下の長官私室へ、ラッタルを歩み去った。沈没まで、自決の銃声は聞こえなかった。これが、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将の、御最期なり。
伊藤のあとを、副官の石田少佐が追おうとしたが、参謀長がはがいじめにして止めた。
中佐の航海長と、その補佐の掌航海長は、向かい合ってロープで互いの足腰を羅針儀に縛り付けていた。
吉田もロープを用意していたのだが、参謀長が「若い者は泳げ」と片端から鉄拳。
伊藤が私室に消える直前、幕僚がいざり寄っての最後の協議に、「作戦中止、人員救出の上帰投」を、長官は独断で命じていたのだった。
そこで大和の旗甲板に、その旨の旗旒がはためき、大和の前檣頂の応急燈は、2隻の駆逐艦に「チカヨレ、チカヨレ」の発光を連発したが、大和の自爆や過流にまきこまれることを恐れ、あえて近接してこない。
特に『冬月』の艦長はこの発光を見て怒り、先任将校の「横付け救出用意よろしい」の報告には面も向けず、大和の反対方向へ突っ走らせたという。
暗号士は、暗号書の処置終了を伝声管で届けてきた。艦橋暗号室に入って内側からロック。
鉛板が表紙だし、塩水で溶けるインクだし、活字跡を判読されないように、文字と異なる紙型を二重に強く刻印してあるのだが。それだけ責任が重いのだった。
艦長は、有賀幸作大佐。最後の兵が、喰い残しのビスケットを4枚、艦長の掌に押し込んだら、艦長はニヤリとして受け、その2枚目を口にしたときに、渦に呑まれたという。場所は、艦橋最上部の防空指揮所。
大和の爆発閃光は、鹿児島からも望見できたという。
吉田は、水面の死体の層にはばまれて、浮上が遅れた。これがよかった。弾火薬庫の爆発でふりそそいだスプリンターに当たらずに済んだのだ。
渦で水に引き込まれたとき、後部弾庫も爆発したが、この2度の水中爆傷を、吉田は蒙らなかった。というのも、さいごまで艦橋にふみとどまっていたおかげで、上部構造が爆圧の防壁になってくれたのだ。早く甲板まで降りていた者は、助からなかった。
煙突周囲で泳いだ者も、不運だった。皆、煙突に吸い込まれてしまった。吉田も、5歩右にいたら、危なかっただろう。
重油がしみると、まぶたが開かない。
この重油の空気を吸い込んで精神異常をきたした者もいた。
訓練では、脚絆で材木を筏に組む。しかし長い材木がない。しょうがないので各人で、脇と股に挟んだ。指で持つのは、たちまちしびれて不可能。
敵機は落水者を機銃で掃射する。その弾あしが縦横に交叉するのが、むしろ美観であった。
冬月が全速力でかけつけてきた。
士官として、兵をまとめ、200mを、消耗しないように集団でゆっくり泳がせた。
爆沈後、3時間も浮いていたのだが、意識の上では、20~30分のように思えた。不思議。
縄梯子は油でヌルヌル。それを上からひきあげてくれる駆逐艦の乗員たちの手際は真のプロだった。
駆逐艦の甲板の上で、頭部に指2本入る裂傷を負っていると知った。痛み、まったくなし。
佐世保に戻るまでも、対潜戦闘の連続だった。至近の敵潜に探照灯を当てて威嚇すると、敵潜は潜航するので、その隙に逃れることができた。
『雪風』はそのとき、米潜から雷撃され、2本命中したが、不発だった。
『涼月』は沈んでいなかった。上等兵曹が指揮をとり、後進により、鹿児島に戻った。艦の後部が炎上したまま、たどりついた。
『初霜』も生還した。『霞』『磯風』は味方の魚雷で沈めた。そのさいの横付け移乗時間は5分。5分で横木を叩き落した。
大和の副長の大佐(名を挙げず)は、戦闘経過報告の責任があるため、雪風の短艇に救助された。ほとんど失神状態。大和の水線下の応急指揮所からたったひとり生還した。頭部に銃創。
吉田は、漂流者慰労の休暇を賜り、故郷へ。途次、電報を打った。父は、淡々として「まあ一杯やれ」。状差しを見たら、自分が打った電報の、文字が、形にならぬまでに涙でほとびていた。
以下、吉田の初版本のあとがき。
初稿は、ほとんど1日をもって書かれた。第一行から、おのずからすでにそれは文語体であった。
以下、吉田による、「占領下の『大和』」。
疎開先の近所の吉川英治に勧められて書く気になった。
記憶は強烈で、戦後、数年のあいだ、いくつもの戦闘場面が夢の中に蘇ったほど。
『創元』や小林秀夫、英文学者の吉田健一らが、GHQとの出版交渉の骨を折ってくれた。
外国人も味方になってくれた。プレスコードはポツダム勅令の第何条にもとづくものか、と。
この文語体は、サイデンステッカーも英訳の匙を投げた。 ※民間人には意味不明の海軍専門用語が頻出するので、諦めたか。小林秀雄も、だから内容には深入りはできなかった。
この著作が、「戦記もの」ブームのきっかけをつくった。
吉田が渡米したときニューヨークでひきあわされた男、空母から16回も往復して大和を攻撃した学生パイロットだった。
以下、誰かの評論。
『きけわだつみのこえ』は、手記の中から戦争否定の箇所だけ抜いた、改変出版物だった。
『戦艦大和の最後』以降、海軍ブームがあるが、「戦後二十年を経て到来した海軍ブームの背景には、したがって過去の複写があるだけで、未来図がない」。何が失われたかを意識していない、ただ失われ方を甘く詠嘆するだけの戦記ではしょうがない。
以下、解説。
吉田は、戦闘記録係として艦橋に配置されたので、大学出の予備士官にすぎなかった身で、世にも珍しいことを見た。
著者の初稿は『創元』の校正刷りまで行ったが、創刊号に載らなかった。けっきょく、S27の講和条約成立まで、待たねばならなかった。
以下、初版本にも収載された、吉川英治による跋文。
吉田の父と私とは、同じ吉野村の疎開者仲間だった。その父君が連れてきた。
数ヵ月後に、吉田満は、草稿をもってきた。
吉川は、それよりやや以前に、米海兵隊大尉J・G・ルーカスの『戦争へのノスタルジア』を読んで、感銘を受けていた。
小林秀雄による跋文。これも初版に載ったのだろう。
小林は、草稿をS21夏に読んだ。正直な戦争経験談だと思った。これがそのまま推薦の言葉になる。それほど正直な戦争経験談は、稀なのだ。
跋文には林房雄と三島由紀夫も一文を寄せている。ともにこれは「テルモピレー」だと書いている。

たんたんたたた―機関銃と近代日本 (光人社NF文庫)