旧資料備忘摘録 2020-4-21Up

▼陸軍省『91式車載軽機関銃取扱法』S10-9
 6.5ミリ。短銃床と長銃床あり。長い方がスタンダード。
 短銃床型は、用心鉄下端に球状の木製グリップを嵌める。

 弾倉45発。照尺は300~1500m。
 倍率1.2の眼鏡。
 アスベスト製握革。

 弾丸、白銅被甲硬鉛9グラム。
 装薬、無煙小銃薬2.15グラム。
 実包の重さ、21グラム。

 92式徹甲弾(6.5ミリ)もある。
 黄銅被甲で至硬銅、7グラム。

 手入れなしで1500射てる。
 油槽は2000発対応。
 50発で、バレルを手で握れなくなる。300発でバレルから白煙。

 ※図面付き。

 ホッパー=装填架。
 指サックのような鉄製のバレル覆いのことを「防弾具」と呼ぶ。

 やはりバレルに製造年月が“9.11”などと打刻されている。

▼『八九式旋回機関銃 同(特)仮取扱法』S9-2、陸軍省
 並と(特)の違いは、後者は挿弾子が飛散しないように大きな弾倉の中へ回収するようにしていること。

 十一年式LMGを、バレルを外に2つ併列、扇形弾倉を使用する。
 口径7.7ミリ。

 (特)保弾帯は、38式銃実包挿弾子に類似せる挿弾子18ヶを連板上に鋲著し、帯状にしたるものにして、弾丸は白銅被甲にして硬鉛を以て弾身[ママ]とし、重量105グラム。
 装薬は無煙小銃薬乙で8グラム。

 本銃は、放熱装置なきを以て、地上射撃の場合は銃身保存上、1弾倉撃ったら冷却を待つ。

 ※全体図付き。

 銃身には、製造年月が、“7.8”のように、2mmの深さで刻印されている。

▼『試製単銃身旋回機関銃(二型)取扱法』S17-7、陸軍航空本部
 89式旋回MGの左銃を改修し、単銃身、回転弾倉とした。
 670発/分。初速810m/秒。 タマは89旋と同じ。

 弾倉は円形回転式。68発入りが1銃につき10ヶ。
  ※ルイスが参考か?

 ※不鮮明な写真付き。

▼防研史料『機関砲射撃教育の参考』S16-9
 98式AAMGのマニュアル。
 横風データあり。

 500mまで0.5秒。
 2500mまで7.0秒かかる。

▼教育総監部『竹槍訓練ノ参考』S18-10 (株)尚兵館 ※斉藤七五郎の子孫のようだ。
 一般用の長さは1.7mから2m。少年用は1.5m。
 太さは、一般4センチ。少年3.5センチ。

 附刃角度は20度。
 弱火にて炙り、植物性油を塗るを可とす。
 竹は生のものに限る。

▼参謀次長『国内遊撃戦の参考』S20-1-15
 手書き、ガリ版刷り。
 遊撃戦は、大隊を以て戦術単位とす。

  ※ハウツーではなく、原則、指針が書かれている。

▼防研史料『前原謙治資料 横須賀工廠造兵部時代関係』S7-10
 ※前原中将の遺族から寄贈されている史料。

 ショップテストは当該工場で行なう。
 上海事変で急遽、航空爆弾が必要になった。冷延工法で、ひと月に1000発の250kg爆弾を造れるようになった。36kg、60kg、250kg、500kg、800kgのバリエーションがあった。

 「機銃製造作業促進の件」
 昨年〔S6か?〕9月、呉工廠より保転の製造用機械 到着し……最初の銃身工事に着手せるものにして、工具類等の如きはその1/3は本年に入ってから作っている。戦時自給自足は思いもよらない。上司は遂に本年1月中旬、当部 機銃工事の現勢を中央に〔説明?〕致され、以て、外国品購買の急務なる所以を力説せられたり。
 本年5月ようやく、すでに註文うけていた工事に対し、工事予定が立てられるようになり、遂に9月末、毘式7.7ミリ機銃最初の10丁完成し、10月上旬、之が領収試験 および 特別耐力[ママ]試験(3000発連続発射)を施行せり。予期以上の好成績。

 本年6月以来 「保式十三、二粍」二連装機銃の試製工事を開始し、明年1月末までに工事完成の予定なり。

 機銃製造用機械84台、同弾薬包製造用機械31台、同包装用機械7台、本年中に到着予定。
 これらの機械の上に、今の50人の現員を150人に増やし、昼夜兼行すれば、毘式「7、7粍」×700を作ることができる。保式13.2粍なら250を作れる。
 弾薬包は1昼夜で2万発作れる見込み。

 弾薬包関係の職工を陸軍に派遣し、技術修得のことに手順中。

 以下、S8の記述。
 機銃および弾薬包の(装填は別)工場略図ができあがった。鉄筋3階、2300坪。

 7.7ミリ弾は「彼の厖大なる陸軍施設の活用に関し 協定更改 緊切なりと認む」。
 毘式7.7ミリMG、昨年9月、試製品完成。爾来 約40梃製造。

 92式7.7ミリMG〔これは留式のこと〕、本年5月 試製品完成。多量生産準備中。
 「九三式十三粍」、本年3月試製品完成。多量生産準備中。

 弾薬包の装填作業。昨年11月、陸軍に就き技術習得。
 九三式十三粍用の「測範」「治具」「工具」約2100種。設計完了、一部は購買中。本年中に完備する。

 今日迄の経験を基礎とし調達したるところによれば、当部製MGの単価は、外国購買の1/2となる見込み。
 毘式7.7ミリ固定機銃。8年4月、外国購買単価3200円。当部で多量生産した場合、1700円。

 92式7粍7 旋回機銃。外国購買1800円。当部量産1000円。
 93式13粍機銃。外国購買6000円。当部量産2200円。

 機銃製造技術の与えたる一教訓。
 本技術の独立たちおくれのため、我が海軍の蒙りたる既往1ヶ年間の損失は優に数百万円の巨額に達し居るものと認む。

 S7-6-14に、機銃工事月頭報告開始?
 S7-6-27、毘式と留式の工事〔=製造〕用機械増加要求。
 S7-7-21、毘式7.7 銃架不良問題の件。

 「極秘・高等官手渡」S8-2-24調査報告。
 横式13粍MG 試製が来3月中旬完成見込み。マスプロ準備未了。
 92式7.7粍旋回MG 試製が来3月中旬完成見込み。マスプロ準備未了。
 毘式7.7粍 最初の注文10梃できただけ。

 MG用粗材は日本特殊鋼に供給させるつもりだったが、成績不良なので、呉工廠より受ける他ない。

 7.7ミリ弾の挿弾子は、昨年1月頃 初めて試製を開始。於・東京市鶴岡製作所。ここだけしかない。

 8-2報告。
 MGは戦時の1.5年に3500梃必要になる。その1/4にも達していない。
 当部のMAXは7.7ミリ×640梃だろう。
 そこで8年度、25万円の機械を増やして貰うが、まだ足りまい。

▼『武器輸出(対支)禁止申合セット 米国「ペスレヘム」社』S2-6-20
 対支海軍拡張援助禁止協定。
 NYのベツレヘムスチール社が、工場を支那に造るという契約が、1922頃以降にあった。

 過去約30年間に中米諸国に対する米軍の武力干渉は、30回。
 現在、ハイチ(1915~)とニカラガ(1926-12~)に出兵して交戦中である。

▼防研史料『第一技術研究所文書綴』/第一技術研究所 S16~17
 96式重砲運材車 説明書。S16-9 技本。
 ゴム輪帯(タイヤ)4個を有する被牽引車(トレーラー)。
 「チキ車」と言っていたらしい。
 全長4884ミリ。トレーリングアーム抜きで。

 同改修要領。S17-8、技本一研。

 S17-9-28 第一研 連絡。「日本製鋼所より受領したる二十一榴の砲身素材図は」OKだ。砲身長は6mでよく、肉ももっと薄くていいだろう。
 「第一号砲身素材図は計算の為 約一ヶ月を要す」。

 ナマ写真。一式重砲運搬車(四五式24榴用)。

 96式15榴の脚は、五種類ある。補強しているので。
 S17-12時点で、内地+北支+南方に273門、満州に131門あった。

 91式十榴も、脚は5種類である。
 満州以外には1052門、満州には257門ある。

▼防研史料『竣工試験射撃一般に就て(17)』S17-7-24/教官・山下中佐
 1式47ミリATGの腔圧は2500kg/平方cm と規定されている。
 88式七高は、2750kg/平方cm と規定されている。
 94式山砲は、1940km/平方cm と規定されている。 初速は370.7m/秒である。

▼防研史料『各種会議に関する綴』S17-1~S18-6/第一研第三科
 S18-1-30、参本第3科〔課?〕で 新中戦車諸元検討に関する件。

 S17-1-7の騎兵学校意見。97式車載HMGは、単発不能を減少する如くす。
 銃尾 尾筒上板を補強す(射撃中、薬莢破片が侵入して破損する)。

 97式自動砲は、引鉄 固きに過ぎ、精度と発射速度に影響す。

 S17-1-6、歩校意見。
 「装甲歩兵砲」をつくってくれ。全高1.5m以下。装甲50ミリ厚、3人乗り、無砲塔式に47ミリ砲載せて。
 「擲弾筒打上阻塞弾」をつくってくれ。

 研究発表(極秘)於 偕行社広間。「いす号」装置。水上有線操縦装置である。

 S17-4-2、技本研究会議で4-10に、「湿地車の研究」を発表することに。

 陸軍防空学校のS17-3意見。
 AA機関砲は「金質一般に脆弱」。尾筒底に亀裂、などなど。
 予備品の不適合のもの、比較的多し。
 試製98式曳光榴弾は、現制式弾倉に填実不能なり。
 発射煙のため、発射中に於ける追随照準困難。

 38式MGは、S15に10門を再調整交付したのがLAST。
 「高射機関銃」はやはりS15で再調整交付したのがLAST。※三年式をAA架台に載っけたもの。

 92式車載13ミリ機関銃[ママ]は、S14でLAST。

 「一〇〇式長柄鎌」はS16-8-6制定。
 「地下水探知機」はS16-2-10制定。
 「99式甲号除車」はS16-2-10制定。※化学除染剤を積んだ履帯式トレーラーで94軽装甲車が曳く。

 「伐開車」「伐掃車」はS16-2-10制定。
 「97式植柱作業車」はS16-10-10制定。

 新様式に改正の分。
 S15-9-6に、38式歩兵銃と同騎銃と44式騎銃。
 S15-11-18に、11年式LMG。
 S16-1-19に、92式HMG。
 S16-3-26に、三十年式銃剣と、十四年式拳銃。

 S17-5-7時点でまだ十一年式曲射歩兵砲を使っており、砲は単純だがタマが複雑で腔発を起こすので頭かかえていた。

 97TKは、S17-6以降のものは純電気式同期方式の始動に改める予定。※セルフスターター。

 最近製造のものは代用鋼材を使い、竣工試験は特別基準で合格させている。

 大あか筒(99式大あか筒を改良し、試製一式として整備中。水上でも使える)。※催涙性の煙幕ガス。

 S17に、鳥居松で、銃床用材を研究。
 銃床関係は、熱田、鳥居松(以上、名造=名古屋造兵廠に属す)、大造第一、仁造平壌 でやっていた。

 S17-9-11、陸軍省軍事課・陸軍軍需審議会で報告された、名称が書かれていない秘密兵器。「パナマ運河を航行する米国船の船底に密かに附着せしめ、パナマ運河航行中に爆破せしめんとするものなり」。浮遊させておいて、それを磁着させる。信管〔安全装置だな〕には、海水が淡水になったことを感ずるセンサーを用いる。※パナマは閘門式なので、内陸の湖の水を導入して水嵩を上げる。だから塩分が薄まる。浮遊リムペット機雷を陸軍が考えていたとは……。

 S17末の一研・四研 連絡会議。
 装甲兵車用(乗車歩兵用)MGの研究。

 TKに吊鐶をとりつけろ。ないので、廃車の積載が困難だ。

▼『自動火器に就て』陸軍兵器行政本部 S18-5
 1939、クルチー(Curti、スイス人?)著“Automatic Waffle”の全訳。
 ナポレオン時代、鉄砲は毎分2発だった。
 1866~1870当時、ドライゼ銃(1841発明)は、毎分5分を実現。
 1870シャスポー、毎分10発。
 1890以降の連発銃は、皆、1分間に25発、射てる。ただし、狙って射てば、毎分10発が限度。

 1869にイタリーのヴェッテルリーが連発銃を発明したが、軍は躊躇し、単発式として採用した。
  ※この「連発」とは、フルオートまたはセミオートのことか?

 1892、スイスで要塞機関銃が、サン・ゴダールの戦闘に使用された。

 ノイハウゼンはスイスのSMGで、ベルクマン社でも製造しているが、銃剣が装着可能。9ミリパラベラム弾40発。自重4.5kg、初速415m/秒。
 この弾薬は、距離800mで馬の頭蓋を貫通する。

 ドイツ人ベッカーがWWI末期に発明したのが、20ミリ・エリコン。

 仏語で La mitrailleuse automatique といえば「自動機関銃」のこと。

 ソロータン20ミリは、バレルが19ミリ後座する。全長2.24m。
 英のビッカースは、マキシムと、稍々相違してゐる。

 20ミリは、13ミリや7.5ミリより弾道学上、不利。信管をつけるため弾形を整形できぬため。射程も短い。
 ゾロターンの実包は、全長202.5ミリ、底部直径20.85ミリ。弾丸だけの全長は75ミリまたは78.5ミリ。

▼S12-10『1925年式ビッカース・ベルチェー軽機関銃 説明書』/技本
 ※支那事変で鹵獲されつつあった兵器の調査書。

 英領印度の制式になっている。ガス利用式。.303口径。全起縁で、バナナ弾倉30発。 ※ブレンそのものに見える。

▼S12-7『1896年式ルイス軽機関銃説明書』/技本
 英製と米製の両方がある。グリップなど、多少、バリエーションがある。航空用の、非常に軽量のものもある。

▼S14-9『チ式7.9mm軽機関銃説明書(改訂)』/技本
 ※チェコ軽機である。

 20発弾倉、全長1240ミリ、重さ8.9kg、サイクルレート600発/分、初速750m/秒。

 発射するタマには、軽弾Sと、重弾SS とがある。
 弾重10.57グラム。三番管状薬が3グラム。実包の全重は28.3グラム。

 300発以上の連射はいけない。
 500発までもつが、バレルの命数はなくなる。

▼萱場四郎『支那軍兵器一般 第2編』S13-1
 オランダのコールホーヘン単戦は、機首にエリコン20ミリ×を有す。

 地上用エリコンは水平レンジは5000m、最大射高は2000m。
 ゾロタンの砲口kgmは5400。ブレダやエリコンより強力。

 ビッカース12.7ミリ。弾丸45グラム。初速930。射高3500。水平レンジ6400。サイクルレート400発/分。

 ソ連機の20ミリは、マドセン式である。弾丸150グラム、初速890、サイクル300発/分。射高4200m、水平レンジ6000m。

▼資料名不明 靖国神社データ
 1853いらいの国事殉難者を祀る。ぜんぶで246万余柱。

 東京招魂社の1869設定の祭日は、1月3日(鳥羽伏見の戦の日)、5月15日(上野の戦いの日)、5月18日(函館降伏)、9月22日(会津降服)。

 1879-6-4に靖国神社になると、11月6日(陰暦9月22日)を正祭となし、勅使が派遣され、春の大祭を5月6日とした。
 現在は、4月22日と10月18日である。

 大村が現在地を選定した。
 今も例祭には勅使が参拝する。

 神事。
 新年祭 1-1。
 春季例大祭 4-21~23。
 みたま祭り 7-13~16。
 秋季例大祭 10-17~19。

 まず招魂社が全国につくられようとした。そのひとつとしての東京招魂社=3588柱/M2-6-29。

 1853以降に斃れた志士、陣没者、佐賀・神風連・秋月・萩・西南の各乱の犠牲者も。

 官幣とか国幣などの名称は、延喜式の社格である。
 靖国=安国で、平和な国をつくるという意味。

 S44-10に創立百年大祭があり、天皇・皇后両陛下の御親拝があった。
 現在は、単立神社。

 他の神社だと、例祭は年1回である。靖国だけ2回。
 戦中は、4月29日に例祭春祭(勅使発遣)、10月21日に旬祭、10月23日に例祭秋祭(勅使参向の儀)あり。

 明治天皇の行幸は、M7-1以降7回。行啓4回。
 大正天皇は、大13-5までに2回行幸。

 御代拝、東宮・皇族の参拝は数知れず。

 陸軍記念祭 3-10。
 海軍記念祭 5-27。
 報慰会祭 1月第三日曜、7月第一日曜、4月、9月。

 熊本籠城記念会祭 2-22。
 甲子殉難祭 6-19。
 朝鮮公使館事変殉難祭 7-23。

 合祀祭には、諸官に休日を賜うた。
 S30年代から、戦友慰霊祭が急増した。

 軍人恩給が復活し、遺族にも支給された。
 特別扶助料。非戦闘地域の非公務で死亡した者の遺族に対する恩給年金。
 旧軍人恩給は1946-1にGHQが廃止したが、1953-8に復活。

 S21-10-11。大正元年に改正せる、4-30(日露戦争陸軍凱旋観兵式の日)、10-23(同海軍凱旋観艦式の日)の例大祭日は、戦争抛棄を規定せる新憲法公布にさきだちて変更すべきとの議が起こる。
 祖霊祭祀の日として、一般化された春分の日(3-21)、秋分の日(9-24)を選定するのがふさわしく、これを新暦に換算し、4-22、10-18を、春秋2季の例大祭とすることに決定した。

 S23-7-1、宮城を皇居と改称。

 S27-5-2、新宿御苑で、初めて政府主催の全国戦没者追悼式。両陛下も。

 S27-5-5、臨時大祭第2日に、首相代理として、官房長官剣木享弘が特別参拝。
 S27-8-16、元陸軍大将・河辺正三ほか有志の主催により、終戦時自決者慰霊祭。

 S28-4-23、首相吉田茂、特別参拝。※これ以後、本人は参拝せず、代理のみ。
 S32-4-25、首相岸信介、特別参拝。
 S34-4-22、文部大臣 橋本龍伍 参拝。
 S35-10-18、首相、池田勇人。

 S36-11-15、池田、東南アジア歴訪にさきだち、特別参拝。
 S36-12-15、外国元首として初めて、アルゼンチン共和国フロンディシ大統領夫妻、参拝、奉奠。
 S28-8-14、国務大臣 佐藤栄作が特別参拝。

 S38-8-15、日比谷公会堂における政府主催の第一回全国戦没者追悼式。日本遺族会会長で法務大臣の賀屋興宣が参拝。小林武治・厚相も。

 S39-5-17。九段坂上の川上大将銅像は、S18-4に供出されていたが、上野東京美術館裏にころがっていた大山元帥像が、そこに戻された。

 常陸丸殉難者の中に3人の英人クルーもいる。

 S39-8-15、天皇皇后の御臨席を仰ぎ、大村銅像前で第二回全国戦没者追悼式がおこなわれる。

 S40-1-6、厚生大臣 神田博、新年の特別参拝を為す。
 S40-4-21、首相佐藤栄作。
 S44-1-1、厚生大臣 斉藤昇夫妻 特別参拝。外相 愛知揆一も。
 S47-7-8、首相田中角栄、特別参拝。
 S50-4-22、首相三木、特別参拝。

 S50-8、元戦9の生存者、下田四郎が、97TKを奉納。
 もうひとつは、富士吉田市の戦没少年戦車兵・若獅子の塔にあり。

 S51-4、東部ニューギニアにあった野14Rnの41山砲を奉納。これはクルップ型 後座式。

 S51-8-15、「英霊にこたえる会」主催 第一回戦没者慰霊大祭。以後、恒例となる。

 S53-4-21、首相福田赳夫、特別参拝。
 S54-4-21、首相大平正芳、特別参拝。
 S55-10-18、首相鈴木善幸、特別参拝。

 S58-4-21、首相中曽根康弘、特別参拝。
 S59-1-5、首相中曽根、社頭参拝。
 S59-4-21、S59-8-15、S59-10-18、中曽根 特別参拝。
 S60-1-21、中曽根、社頭参拝。
 S60-4-22、中曽根、特別参拝。
 S60-8-15、中曽根、公式参拝。

 明治2年7月17日、兵部省が招魂社例祭日を1-3、5-15、5-18、9-22と定める。
 M2-10-19、鳥羽伏見記念の正月3日は、明治の新時代の到来を象徴するので、この日を大祭日とする。
 M12に、1-27が例大祭となる。
 M12-6-14、大祭日を、5-6と11-6に改め、勅使は11-6参向と定める。

 M14-5-4に、遊就館ができる。『荀子』の勧学篇に「遊必就士」とある。イタリア人のカペレチー設計。

 M19-4、少将・元老院議官 原田一道ほか6名、大村銅像を神社馬場中央に建設することを願い出、東京砲兵工廠で鋳造に着手。→M26-2-5竣工。東京における最初の西洋式銅像。
  ※7年がかりというのが解せない気もするが……。

 M19-7-18、青銅鳥居の鋳造を大坂砲兵工廠で着手。大坂工廠にある反射炉以外では、不可能な規模だった。銅材として、旧諸藩の青銅砲の一部を使用した。→M20-7-20竣工。
 ※これはヴァンドーム広場のナポレオンの塔に影響されているのではないか? 戦利砲を鋳潰した塔なので。
 S16-8-30、金属類回収令。
 S18-6-2、大村銅像まわりの旧式砲8門のうち6門を、陸軍に献納。鋳潰された。川上操六大将銅像も。