東京圏内でこの5月中に閉店する飲食店に、原状回復工事費の足しとなる100万円ぐらいをくれてやる。そういう支援政策にとっとと切り替えるべきだ。

 小さな虫でも、土の中で冬眠すれば、厳しく長い冬を越せる。飲食店にとってはこれから間違いなく長い冬が続く。冬は来年まで続くかもしれないし、短い春が来たと思ったら、すぐまた別な寒波に襲われるのかもしれない。というか、むしろその公算が高いであろう。
 だから、このさい、半永久冬眠をしてもらうのがいい。

 「店仕舞い支援金」なら、出す側も「一時金」で済む。
 オーナー経営者は、転業のための元手と体力を温存できる。
 ビジネスそのものから引退してしまうかどうかも、ゆっくり考える時間を得られるだろう。

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 ストラテジーペイジの2020-5-5記事「。
   イラン政府は公式には、住民100万人あたり、1174人の新コロ陽性、75人の死者、だと言っている。
 嘘である。
 その5倍は死んでいる。
 すなわち住民100万人あたり400人。そしてこの比率は、上昇中である。

 ちなみにスペインの比率は、住民100万人あたり544人の死者。こういう欧州から親戚がどんどんイランに帰国しているのだから、イラン内で蔓延していないはずがない。

 イラク政府の公式発表は、100万人あたり58人の死者。これももちろん嘘である。そもそも政府に報告されない新コロ死者数があり、政府が公表しない死者数もあるのだ。

 イランが新コロ対策をとらないものだから、隣国のトルコ、イラク、アフガニスタンは、えらい迷惑をしている。
 イラン国内での新コロ流行が隠せなくなったのは、2月中旬だった。
 イラン政府はこの病気の対策のため、イスラエルの助けすら、水面下で、借りている。

 クッズが密輸出用に原油タンカーを1200万ドルで買ったことを米国はつきとめた。4月30日。このタンカーは15万トンで、船齢は22年。いまはオマーンに係留されている。イランは国連の経済制裁のため原油を輸出できないのだが、中共、インド、シリアは、こっそりと買ってくれる。

 ベネズエラから9トンもの純金が、IRGC(イラン革命防衛隊)の所有する「マハン・エアー」社の輸送機によって、イランに運ばれたことを米国が4-29に確認した。この純金は、イランがベネズエラに輸出するケミカル薬品の代金である。この薬品で処理しないと、ベネズエラ原油はタール分が多くて売り物にならないのだ。

 イランが4-24に高度450kmの軌道投入した写真衛星「ヌール」は、タンブリングしている状態であり、制御できなくなっている。この衛星にはスラスターも搭載されていないので。
 重量は4kg、大きさは、電子レンジの半分くらいだ。

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 David Kravets 記者による2010-5-5記事「May 5, 1945: Japanese Balloon Bomb Kills 6 in Oregon」。
    1945年の5月5日、オレゴン州東部の農村で、6人の米国人が、日本の風船爆弾のために死亡した。
 この6名は、プロテスタント教会の日曜学校の女教師、および、その学校生徒たち5人で、生徒はいずれも13歳か14歳であった。夫人は懐妊していた。
 6名は土曜日の午後、自動車で山に出かけて、ピクニックをしていた。車は、女教師の旦那が運転していた。

 この旦那が、道路工事の作業員たちの近くで車を停めて、釣りの情報を得るために話し込んだ。その間に、夫人が、遠くに落ちている風船を発見し、生徒5人を連れて、それを確かめに歩いて行った。

 6人がどのようにして、地面に落ちていた風船爆弾を炸裂させてしまったのかは、誰も知らない。
 爆発は大きかった。
 現場は松林であったので、松の枝などが降り注いだという。

 旦那と道路工事作業員たちがかけつけると、地面には1フィートの穴があき、6人全員が死亡していた。
 夫人の衣服は燃えていた。

 日本が9000個も放流した風船爆弾は、すくなくも342個が米本土に到達した。最も遠くまで達したのは、ネブラスカ州であった。
 しかし、人を死傷させたのは、この5月5日の1件だけである。

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 Nina Martyris 記者による2015-6-18記事「Appetite For War: What Napoleon And His Men Ate On The March」。
    ポーランド語で、「パンはないか」は「クレバ?」という。「ないよ」は「ニエマ」。このやりとりを、フランス兵たちとナポレオンが冗談で交わした、というエピソードが、ロシア遠征に従軍したフランス人によって、記録されている。
 軍隊は、食糧徴発のために、こうした現地語を、どこでも、すぐに覚える必要があったのだ。

 ナポレオンは、決心のスピードを重視し、補給を軽視した。1798にエジプトに攻め入ったときは、水缶の準備がされていなかった。熱砂の中、徴発できる村がないルートを、3日間、彼らは、イタリアの気候に合わせた軍服のまま、重い装備を持って、ナイル河まで行軍した。携行口糧であるハードビスケットは、すぐに捨てられた。水なしでは、とても口にできたものではないのだ。

 多数の死者が途中で出た。自分の頭を射ち抜いた兵隊もいた。

 翌年、またしてもナポレオンは、カイロからシリアまで、10日行程の強行軍を開始させた。またしても、水の準備は不充分であった。当時は、水はヤギ皮の袋に入れ、ラクダの背に載せて運んだ。

 またしても、兵隊たち多数が途中で自決する惨状になった。
 けっきょく、この遠征でナポレオンは、英軍とトルコ軍のために撃退されてしまう。

 1812のロシア遠征でも、同じだった。兵隊たちは、馬の肉に火薬を塗って味付けをして、生でほおばった。

 ナポレオンが兵隊の糧食を心配したことはなかった。彼の侍従が擁護的な証言を残しているが、他の多数の証言で、実相がはっきりする。

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 Martin Kettle 記者による2011-5-24記事「Why Beethoven’s ninth always comes first」。
    ブラームスが最初の交響曲をなんとか書き上げたとき、それはベートーベンの「第十」だと称された。 ブルックナーは遂に自分の第九を、死ぬ前に完成できなかった。

 第九といったらベートーベンになってしまっている。それはマイナーからメジャーへの転調があり、カオスから秩序に変化する。暗闇から光へ!
 コーラスは、全人類が兄弟になる、と歌う。

 だから、1951に西ドイツがバイロイト音楽祭を復活させたとき、第九が選ばれた。ほんらいワグナーのための音楽祭なのに。

 そして今、EUの「団体歌」は、「第九」なのである。
 EUが永続するか、誰も知らない。しかし「第九」の生命は、確実に、EUより長いだろう。

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 Peter Layton 記者による2020-5-3記事「Cold War Nuclear-Powered Hypersonic Missiles: A Successful Failed Innovation」。
     2018-3にプーチンは露軍の5種類の新型核弾頭運搬武器について公開した。そのひとつが「ブレヴェストニク」核動力亜音速巡航ミサイル(NATOコード「SSC-X-9 スカイフォール)である。

 1950年代、米空軍は、核動力の有人爆撃機がつくれないかと考えた。
 だが乗員を被曝から守るためのシールドの重量負担に、航空機としての無理があるとわかり、設計面で断念。 万一墜落したら、その場所にもう人は住めなくなるという、政治の面でも、ダメ出しされた。

 有人機はダメでも、ミサイルならいいのではないかと、米空軍は次に考えた。
 1957年、核動力でラムジェットを作動させれば、3トン強のペイロードを積んで、5500km以上のレンジを、マッハ3で巡航できるだろうと概算された。もちろん大気圏内飛行である。

 この構想、《超音速、低空のミサイル》……略して《SLAM》と名付けられた。
 全長は27mになるはずだった。
 全重は27.5トン。
 発射は、地上機動式の車両から行ない、それによって核戦争時のサバイバビリティを高める。

 庶民は核エンジンと聞けば、航続距離が無制限であるように想像をしたが、じっさいはラムジェットを飛行させる以上、構造の頑丈さに妥協があるので、寿命は現実的には数時間から数日しかもたせられない。ウラン燃料もギリギリ最少の量しか載せないのがあたりまえだ。

 見積もりでは、SLAMの最大射程は3万7000kmにできると算定された。

 発射するときは、束状の通常のブースターロケットを燃やして、加速させる。
 そして、ミサイルが高度3万5000フィートに達し、下に人の住んでいる陸地がなくなったところで、初めて核動力エンジンを始動させる。

 開発チームは、このエンジン起動空域を、海洋上、もしくは敵国領土上空とするのが理想的であると思っていた。

 核ラムジェットミサイルは、敵地に直航しない。いったん、目標の手前の海上で、環を描きながら待機する。
 続いて無線による指令が届くと、ミサイルは高度を1000フィートという低空まで下げる。そしてマッハ2.8から3.0のスピードで、目標に向かうのだ。

 低空を超音速で航過する巡航ミサイルに対して、1960年代のソ連の防空システムでは、なすすべがないはずであった。SLAMは、16発の水爆弾頭を、ソ連領内の東西南北あちこちの重要標的に、点々と投下する計画であった。レンジが3万7000kmもあるから、余裕なのだ。

 こうしてみると、SLAMのキャラクターは、ミサイルというよりむしろ「無人爆撃機」であったのだと理解ができるだろう。

 ラムジェットは、吸い込んだ空気を超加熱することで膨脹させる。その熱源にウランの核分裂を使うのが、核ラムジェットである。装置される予定だったのは、600メガワットの空冷原子炉で、径1.5m×長さ1.5mというずんくりした外観だった。

 当初、このミサイルは10時間だけ巡航すればよいことになっていた。炉心部分には、酸化ベリリウムと高濃縮二酸化ウランを均一に混和したセラミック燃料の粒、数万個が装荷されていた。

 このセラミックスは摂氏1400度に耐える。そして無人機であるので、炉心から放射される中性子やガンマ線の遮蔽は、いっさい考えてなかった。

 エンジン設計を受注したのは、ローレンスリヴァモア国立研究所。コードネームは「プロジェクト・プルート」。それがこのSLAMの綽名にもなった。

 エンジンは2基、試作された。「トーリーIIA」と「トーリーIIC」で、どちらもネヴァダ砂漠で快調に回ってくれた。

 「トーリーIIA」エンジンは、1961-5中旬に、45秒、動かされた。マックス出力の25%ほどである40メガワットを発熱させ、2000ポンドのスラストを得た。成功である。

 フルパワーテストのための施設の整備に時間がかかったが、9月から10月にかけて、「トーリーIIA」は150メガワットを出すことに3回続けて成功した。しかし寸法と重量が、まだ過大だった。

 3年後、ミサイルに搭載できる寸法と重量にした「トーリーIIC」がテストされた。1964-5月後半、513メガワットの熱で35000ポンドのスラストを発生。同年には、5分間連続の運転もクリア。

 機体の設計はまた別な難問だった。低空でマッハ3を出すということは、表面温度は摂氏500度になるし、音圧は162デシベルである。
 風洞実験が1600時間行なわれ、先尾翼外形が適当であると認められた。
 機体の前方セクションに、ゴールドの板を使うことで、熱を放散させてやろうかと考えられもしたという。

 難関はまだ残っていた。じっさいにSLAMの飛翔テストをするとして、それはどこでできるのだ?
 放射能を撒き散らしながら、低空を飛ぶ機体なのである。

 超高速で飛びぬけるとすれば、地表の1点に居る人体への放射線の影響はほとんどない――とは計算できたものの……。

 エンジン排気の中に含まれるはずの、核分裂生成物質も問題だった。米本土上空を飛ばす以上、これはいくら少量でも無視できない。

 また、ショックウェイヴによる下界の建物被害が生ずることも、確実だった。
 のみならず、150デシベルの音圧が、地表の住民の聴覚にダメージを与えるおそれもあった。

 そこで、それならば、太平洋のウェーク島(米領)から発射して、洋上を8の字飛翔させるのではどうか、とも考えられた。テスト飛行の最後には海に突っ込ませ、深さ2万フィートの海溝に捨ててしまおうというのだ。
 1964年7月1日、米国の原子力委員会と空軍は、「プロジェクト・プルート」の計画キャンセルを決定した。

 ほぼ同じ頃、ICBMの「ミニットマンI」の北米基地での運用体制が、整っていた。
 限られている国防予算を、ミニットマンとプルートのどちらへ集中配分すべきか。答えは自明だと思われた。プルートは、技術的には成功しかかっていたが、予算獲得競争で、敗北したのだ。