▼『太陽』大正7年6月1日号(第24巻 第7号)
pp.141~144。
退役陸軍砲兵少佐・桃澤捨二「政府保護下の私立兵器製造會社の設立を希望す」。
※著者は砲兵工廠にいたと思しい。砲弾ラインか。
現在〔WWI の3年目〕の砲兵工廠の製造力は、日露戦争前の2倍以上である。
WWIのようなことに日本がなったら現状ではどうにもならない。
日露戦争中、民間総動員で造った砲弾。「然れども其完成したるものは遺憾ながら甚だ不完全で欠点が多かった。戦後整理の際 多数 廃品として処分せられ、若くは修正されたものも多かつたと聞いて居る」(p.142)。
「屡々新聞紙上にて報道せらるゝ陸軍に於ける射撃演習 若くは海軍の艦砲射撃に偶発する人命の損傷は、其原因 弾薬に起因すること多く、貴重なる火砲を全く廃棄するの止を得ざるに至らしめた実例も亦尠くない。故に吾人は弾丸を一の消耗品として取扱ふのは非常なる誤であると信ずる。」(p.142)。 ※市井の素人職工には任せられないということ。
吾人の希望する私立兵器製造会社の営業目的は次の如くである。
一、帝国陸海軍兵器の製作。
二、外国注文兵器の製作。
三、民間一般工業の請負作業。
政府はその利益を保証する代りに、特別機械の常置、製造能力の維持 を命ず。
「……恰も独国『クルップ』会社の営業方針と同一にしたいのである。」
※この記事を読めばピンと来ること。南部は日本のクルップになりたかった。その夢は実現しなかった。
「然も吾人の希望する私立会社は日本製鋼所の如き組織のものでないことを希望する。其の理由に関しては他日 論究して見たいと考へて居る。」
▼『改造』大正11年(1922年)11月号(4巻 11号)
pp.257~ 「武器問題批判」
青野秀吉「武器問題と大衆」。
一少佐の「男らしい」陳述通り、22輛の武器がその少佐の一個の意志で、(伏字)られたものとでも……。
※シベリアで某少佐が「二重外交」まがいの何かをしたらしい。
22輛の貨車に満載された武器が、日本軍憲の管理をはなれて、白軍――張作霖の手に渡った。
pp.258~ 稲垣守克「武器問題側面観=旧国家観念の破産」
※自虐評論は何も戦後の現象ではなく、大正時代の左派雑誌から始まっていることが端的に分かる。尤も寺内内閣もどうしようもない政権だったが……。
pp.259~ 新居 格「武器問題寸評」
政府が10月16日に発表した弁明によると、ウラジオに保管中の押収武器の件と、チェック軍の武器紛失の件との二つがあるのである。
※それを張作霖か白露に渡したらしい。
8月上旬になって、チェック領事や、チェコに債権を有するフランス領事が「日軍」に頼んであった保管武器の引渡しを要求し、立会いの上で点検したところ、武器が紛失していた。
このストックについてウラジオ政府も〔赤色?〕チタ政府も声高に引渡しを要求した。白軍のヂトリックスからも。
pp.260~261。 赤松克麿「軍閥攻撃と無産階級」
ウラジオの武器紛失の責任者は「原少佐」。
※シベリア出兵中にリベラル・メディアは「参本の廃止」まで主張していた。
2000の生命と三億の国帑とを浪費したシベリア出兵。
※記事は10月17丹治に書かれている。
▼町田市博物館ed.『のらくろ 田河水泡生誕百年記念』1999-2-9~3-14
S44以来、市内の玉川学園に水泡は住んでいた。1999で死去十年となる。
田河はM32(1899)-2-10に東京市 本所区 林町(今の墨田区)に生まれ、若き日の抽象美術運動マヴォへの参加や落語の台本執筆を経て S6、32歳のときに『少年倶楽部』新年号に「のらくろ二等卒」を発表。
当初2年間の連載予定がファンレターの多さのための3年にのび、さらに延々と。WWII直前まで続き、その間、10冊の単行本にまとめられた。
シリーズ漫画としては、S55末まで『丸』に連載した「のらくろ喫茶店」で一応完了(本人の弁)。
戦後のものは『続のらくろ漫画全集』5巻としてS56に完結した。
弟子に、長谷川町子、滝田ゆう。
夫人の高見澤潤子は教会信徒。潤子はペンネーム。
江戸~大正の戯画資料は町田市立博物館に寄贈された。
1989-12-12没。
水泡は生後1年で母と死別。伯母の家で育ったが、伯母の夫が南画を描く趣味人だった。
20歳で絵の勉強を始めようとしていたときに召集。2年間軍隊に。いやな体験だったが、これがのらくろの役に立った。
除隊後、数年間、前衛芸術運動に加わり、熱心に抽象画を描く。全くカネにならなかったが、のちにマンガの役には立った。
人気が出始めたとき、教育者は田河に集中砲火を浴びせた。(以上、日経の1988-10-1~10-31 連載より)。
本名は高見澤仲太郎(学生時代に路直と号す)。
本所区 林町のメリヤス家内工業の家に生まる。
生母が死に父が再婚したため、水泡は父の姉の家に預けられた。
義理の伯父は大家で隠居で絵が好き。
M44、小学校を卒業し、伯父の弟の薬屋で御用聞きや仕入れ配送。使いの途中、歩きながら立川文庫を読む。
大3に、油絵の道具一式を買って貰う。
大6、実父が死ぬ。18歳。
大8(20歳)、予想に反して甲種合格。体格はよくなり、北鮮の羅南で歩73に入る。
大10、Dが動員令で吉林へ出動。
しかしこの時代は、最も軍隊がのんびりしていた。
一等兵だったが、上等兵昇任を農村出の兵に譲り、みずからは軍用鳩通信班に配属される。
大10、除隊。日本美術学校圖案科に入る。
油絵科の教授、黒田清輝がパリから帰朝の際、アール・ヌーヴォー系統の資料を持ち帰り、杉浦非水という男がそれに没入する。水泡は図案で身を立てようとして、非水に指導を受く。
このころ三越宣伝部などに欧米グラフ雑誌が流れ込んできていて、水泡はそれを見る機会があった。日本図案の西欧化運動の故。
そこに「クレージー・キャッツ」などあり、山口昌男のにらむところでは、これがのらくろのヒントではないかと。
1923、MAVO に参加。神保町の文房堂あたりで個展。
下落合は、当時の芸術家・文化人村。
大14、毎月注文のある職業を思い、落語に。
レンブラントのエッチングに惹かれ、筆ではなくペン画によるマンガになった。
高見澤路亭のペンネームで『キング』や『講談倶楽部』にも落語が連載されるようになり、売れっ子に。
「猫と金魚」は古典になった。
中島民千 編集長が「あなたは絵描きなら落語のような滑稽なストーリーを漫画に描いてみないか」と云った。
初めて描いたのは「目玉のチビちゃん」で『漫画の缶詰』に載せられた。
羅望董子という人がビブリオグラフィック研究していて、大14~S8の田河の落語、漫画の全リストが判明している。「窓野雪夫さん」というのもあった。
のらくろ単行本は全10巻で、S7-12~S14-12。
『のらくろ上等兵』S7-12-5。2年分をまとめ、しかもカラー印刷。布張り表紙で箱入り。定価1円は子供には相当高額だが、飛ぶように売れた。
『のらくろ伍長』S8-12-5。
『のらくろ軍曹』S9-12-9。
『のらくろ曹長』S10-12-14。
『のらくろ小隊長』S11-12-11。
『のらくろ少尉』S12-5-14。
『のらくろ総攻撃』S12-12-15。
『のらくろ決死隊長』S13-8-2。
『のらくろ武勇談』S13-12-12。
『のらくろ探検隊』S14-12-15。
ペンネームは、タカミズ・アワのつもりだったが、人々はタガワスイホウと読んだ。
S8新年号が「のらくろ伍長」となり、爆発的人気で長期連載が決定した。
附録のためにも描いた。たとえば「のらくろ大事件」S8-5-1。「のらくろ仔犬時代」S10-7-1。
S8以降、アニメも何本か作られている(65頁~ の年譜参照)。
『婦人子供報知』には「蛸の八ちゃん」を連載。
『婦人倶楽部別冊』には「凸凹黒兵衛」。
アリストテレスを田河流に言いなおせば「滑稽とは害にならない醜である。」。
漫画を描き始めた翌年のS3初め。東中野の借家の向かいに、当時無名の小林秀雄が引っ越してきた。
妹の小林富士子(=潤子)と田河は結婚。夫人は1904生。
S13に夫人はキリスト教徒になる。そのとき水泡38歳。 ※これは家庭の危機だったね。
連載第一回、S6-1-1の号。
S5の単行本は『漫画の缶詰』。子供漫画初の快挙で、オフセット印刷。十万部売れ、1万円の大金を貰ったと。
53歳で水泡も洗礼を受く。
『滑稽の構造』S56-8
『滑稽の研究』S62-9
S14-6月号から、「のらくろ大陸行」の連載。
取材も兼ねて、満蒙開拓青少年義勇隊の生徒指導員(画家)として渡満。その後も、四度ほど。
S16-10に、内閣情報局から、執筆禁止令を受ける。理由は、印刷用紙節約のため。
敗戦まで耐乏生活。
終戦直後、雑なのらくろ企画が多数存在する。
潮書房・光人社の社長で作家の高城肇が、田河の消息を尋ねたところから『丸』連載の話に。S32、田河57歳。
S37以降、弱小社から、リメイク(描き直し)を多数出している。
作者が戦後作品を抜粋した『続全集』の5冊が、「正統の続編」に決まる。すなわち『召集令』から『喫茶店』。
『のらくろ召集令』S54-5-9 光人社ed. 刊行は講談社。以下同じ。
※予備役になったあとだから召集。てことは戦後の話?
『のらくろ中隊長』S54-12-9
『のらくろ放浪記』S55-6-19
『のらくろ捕物帖』S56-5-17
『のらくろ喫茶店』S56-10-31
▼『田河水泡 新作落語集』S51-12 講談社
※15作を収める。
あとがきによると、当時、娯楽雑誌に新作落語がまるでなく、古典ばかり。
それで、じぶんが やってみた。
生家の近くには、職人、親方、鳶頭など、いっぱいいたので、下町言葉は地で書けた。
いやに まっち角にものをいいやがる。
雀やバッタじゃあるめえし すぐにとんで来いったって……。
……ではすぐ飛んで伺いますから。
雀の方かい、バッタの方かい?
漫画を描かされるようになってから、落語新作のヒマはなくなってしまった。
※カネにまつわる駄作多く、苦心の跡 歴々たり。漫画家になって新作をやめたのは納得。
本所七不思議の狸囃子についての田河の推理。葛西の囃子の夜の稽古で、太鼓の音だけが、風向きによって遠くまで聴こえるのだろう。
殺されたって旗本の幽霊はいない。はしたないから(p.181)。
▼『東京歩兵第一聯隊写真集』S56 国書刊行会pub.
M7に軍旗を拝受した頭号連隊。
乃木は第二代の連隊長。5年間。
乃木はしかも、日清戦争では旅団長として、日露戦争では軍司令官として、1Rnを指揮下に置いているのだ。
S11から1Dが渡満。
S12-7、長城を超えて北支転戦。
S12-10、北満・北安嶺に戻る。ついで、孫呉に。一部は、カンチャーズとノモンハンに参加。
S19-春、一部がロタ島に。
S19-8、全力南進 下命。
S19-11-1、レイテ上陸。3ヵ月でほとんど壊滅(山下ライン)。
爾後、セブ島で終戦を迎えるが、そのとき、聯隊長以下39名だった(定数2500名)。
「歩一」を母体とする部隊に「第一次・歩第百一連隊」「第二次・歩第百一連隊」「独立歩兵百九大隊」あり。
M6-5-14、東京鎮台歩兵第一聯隊として赤坂檜町で発足。今の防衛庁と都立檜町公園である。
S2において、「機関銃隊兵舎」が独立。
22頁に、薩軍斬込み隊士の服装 写真。
日清役では金州城を攻撃。旅順も2日で落とす。戦死126名。
M37-5-26、南山攻撃。戦死67名。
M37-7-30~M38-1-1、旅順で戦死608名。
乃木勝典中尉は、第1聯隊・第9中隊の小隊長。
保典中尉は、後備歩兵第一旅団の副官。
日本初の軽気球使用の写真。
M37-8-22、電信教導大隊 臨時気球隊による。
※冬用の防寒帽、外套、靴は、昭和になって制定された。その以前には無し。
奉天にも出たが、戦死者数はわからない。
M38から大正11年の渡満まで、まったく平和時代。
S13観兵式に、94式LTKが行進している写真。
日本陸軍初の師団対抗演習は、M13-7 伊勢四日市地方での大鎮vs.名鎮だった。
M24に、特別大演習の施行が定められ、その第一回が、M25-10-23~25、於・宇都宮。歩1と1Dは南軍となった。
戸山ヶ原射撃場は、昭和初期にカマボコRCの屋内射場となる。東洋一の規模。
1Coは、S7-7から、7Coは、S8-7から、2Coは、S10-7から、各々1年間、北支の天津駐屯軍として派遣されたが、交戦は無い。
歩一の徴兵は、第1師団管下の「麻布聯隊区」で壮丁の検査をされる。
S11-5-8、屯営を出発。12日、大連に上陸。ハルビン北方の泰安鎮に駐屯。
第二大隊は、金日成のゲリラと小戦闘し、戦死者を出す。(安奉線の東側山地。)
S12-7、黒龍江岸にカンチャーズ事件が起こる。泰安の速射砲小隊(高野中尉)は、竹内部隊に配属され、7月6日、敵砲艦撃沈の功を樹てた(p.94)。
鉄道の装甲列車の円天蓋から92HMGを構える写真。珍(p.117)。
東辺通からS12-7-30出発し、8-20に初めて長城線で会敵。11月5日、北安鎮に戻る。
敵装甲車の写真(p.126)。
大相撲が慰問したのはS13の夏。
S15-7に歩一留守隊は廃止となり、初年兵は直接入営に変更された。
北満ではスキーあり、目出し帽もあり。
ノモンハンでは、1Dの速射砲×4個中隊〔全力か〕が支援を命ぜられ、7月17日に23Dの隷下に入る。
ノロ高地で戦い、24名の戦死者を出した。
聯隊も8-28に応急派兵となり、9-4にハロンアルシャン付近に進出。
停戦までに、砲撃または空襲で数名が戦死した。
S19-3、第二大隊はグァム島上陸。3-23より、ロタ島に移駐。終戦までに、空襲と栄養失調で84名戦没。
S19-11-1、1Dはレイテ島オルモックに上陸した。
11月21日、第一聯隊は、リモン付近の戦闘に加入。12月21日には350名に激減。
S20-1、1Dはセブ島へ脱出したが、1Rnは連隊長以下72名が脱出できただけで、他は舟艇がなく、レイテに取り残された。そして消息なし。
セブでは、8-25の降服式で、歩一は39名が数えられた。
歩一、歩百一で、昭和以降の戦死、病死、公務死は 4000柱と、S32時点で、見積もっている。
レイテの1Dは「玉兵団」と称した。※兵団とは師団から歩兵ユニットだけ抽出したもの。
昭和46年に、東京12ch に、「ああ戦友、ああ軍歌」という番組があった。
巻末年表によると、歩兵第一聯隊は、M18-10-29に、スナイドル銃を十三年式村田銃に交換した。
▼桃川若燕『和魂宣伝 講談乃木傅 上』大9
若燕は日露戦争で乃木部隊に従軍している。その証言に信憑性がある。
国づめ→荷物は船廻しに頼んだ。
47士を義士扱いしたのは8代吉宗よりという(p.19)。
三十石船=くらはんか舟。
この船頭ほど無礼なものはなかったと乃木は若燕に話した。
80石の扶持の中から「軍用金積立」「御城普請積立」などといって天引きされてしまう。
十郎は江戸弁で言葉がはつきりしていた。
「仏式練習」とあって、伏見親兵兵営に入営。
M3-2、京都河東御親兵練兵係。
9月、上京を命ぜられ、長府藩からは、希典以下30人ほどが東京に召される。
そして11月23日に最後の方になって少佐拝命。
他にもうふたり、ぶっつけ少佐がいた。
信州上田へ、佐賀藩の2個中隊を率いて、城を受け取る。
名古屋城の天守の窓を独断でガラス張りにして、始末書1通を書く。
前原は買い被られている。参議として生活が豪に過ぎた小者である。
パークスは副島に、ロシアは朝鮮人を兵隊に仕立てて日本と清国を討つつもりである、と。
空き家に火をつけられては両隣が迷惑する。
真人=玉木正諠[まさよし]。
スナイドル銃の勝手が違ったのが、植木苦戦の一因。
取り戻した軍旗は、二重になるので、焼き捨てた。
西南戦争当時、父十郎は、京橋区 鎗屋町に住んでいた。
乃木が久留米病院に入院していたときに、父はコレラで卒す。
寿子はちょっと飲んでも一升くらいはやったさうです。まず大酒家の方。
聯隊旗を置いた連隊長宅には、伍長×1、兵卒×4が詰めた。
旗の横には、河原林少尉の写真を飾った(p.84)。
中佐当時、習志野で3週間の野営演習などがあった。今はそんなキツイ演習は考えられない、と。
目黒の火薬庫(弾薬工場で、女工が1日12銭~13銭で働いていた)で、岡崎一等卒を正直実直者と認め、当番兵に抜擢した。
越中島は、どの聯隊からも遠すぎたので、乃木第一連隊長は、しばらく青山墓地で射的させることにした。ところが、流れ弾の苦情が出て、けっきょく越中島に戻された。
だが、バックストップを工事すればよいのだと乃木は思い、意見具申して、蛇ヵ池を埋め、墓地と聯隊の間の谷を、射撃場に仕上げた。
この本の時点でも、射撃場として使っている。
日露戦争当時の著者の実感。兵が苦しいのは承知で兵をひっぱたいて歩かすのが将校。その下級将校が枯渇し、兵をひっぱたくどころか自分から休みたがるようになったので、日本は奉天までが限界だった(p.97)。
昔の下総街道は、見るものもなく、風砂がひどかった。
乃木の遺書中に出てくるカネ女(兼)は、静子別居のときに、保典と勝典(2歳)を育てたのである。
欧行で乗った汽船はステッチン号。
玉乃市熊という医学生も同行。
シンガポールでは飯も食わずに市中見物したので、暑気もあって、二條公はユーロピアンホテルの食堂で卒倒した。
旅順は正攻法で行けと手紙で助言した独将エンミッヒは、のち、WWIでリエージ要塞(ベルギー)を攻めて落とせず、自刃したという。
本は反り身になって読め、と両典を教育した(p.119)。
乃木将軍、秋葉の木賃泊まり……例の20円事件。
若燕の師は、放牛舎桃林。痔疾で苦しんでいたので、やわらかな紙を折って当てる術を心得ており、戦役前に、乃木に教えてやったという。
歯を全部抜いても痛みが時折起こって、苦しめられるものとみえ、戦役中も、歯茎が痛い、それがためにコメカミが痛む、と言はれた(p.127)。
二龍山を攻めた歩24聯隊第1大隊第1小隊長、可児市太 大尉は、赤痢で占領に参加できなかったことを憤り、11月28日、二龍山上で小銃自殺。
シナ兵の証言。日本の小銃の命中率は高かった。日本の砲兵の曳火弾には為すことを知らなかった(p.148)。
※いつのまにか日清戦争の話になっている。
12月5日、三宮廟で、大徴発を行はしむ。
1月に入ると、馬には氷用の蹄鉄。兵隊は弁当の代わりにビスケットなど。装具一新。
分捕小銃のうちに、ドイツ新式の「ルベール」あり。無烟火薬で音が小さい(p.174)。※ルベルなら仏式である。
営口を占領したとき、土民が清国の文武官の邸宅やその手先の家を襲い、家人を苦しめた。
シナ軍は常に、山地の陣地を捨てて、村落に拠るのである。
恰も、晩鴉の散る如く、八方に逃避す。
またシナ軍は、上級者から退却し、兵卒は常に取り残される。
軍服は捨てるが、銃は持っていく。
銃を天秤棒式に担ぐので、遠目に住民と区別できない。
近寄ると、銃も捨てる。
静の生母の天伊子はM29-1没。
壽子は城外 大竹園 三板橋の内地人共同墓地に葬られた。台湾。
▼『少年少女 教育講談全集 第七巻』S6-5
大日本雄弁会講談社、全12冊。
所収の、本間雄三「乃木大将」。
母は寿子[としこ]、弟は真人[まひと]、妹はおとめ。
毛利家の江戸屋敷には、元禄期に赤穂浪士の10人が50日間起き伏しして切腹した区画が残されていた。
希次一家は帰国を命ぜられ、父と希典のみ、徒歩にした。
京都には24日目に着いている。江戸からは120里と計算されていた。
とすると1日5里。10歳の少年にはえらい旅だ。
4月12日に長府についたが、大坂からは船に乗ったのである。
M3に、兵部省が、熾仁[たるひと]親王の名で、陸軍将校の志望者を各藩に募った。長州からは、46名が上京。麹町に下宿をとり、願書と藩の証明書のある履歴書を差し出して、待った。
5、6日で採用通知と任官辞令が届き始めた。15~16日ですっかり決まる。
ほとんどが少尉にされた。藩が特別に推薦した者は中尉。ごく稀に大尉。
最後に乃木の辞令が来て、いきなり初任で少佐であった。
上田の城受取りでは、引き移る時間を与えねばならず、2個中隊が、井筒屋という旅館に泊まった。士官19名が乃木とともに雑魚寝。
大豆は馬が食う。小豆は馬も食わん。
西南戦争で、乃木の後詰にかけつけた三将軍は、野津、三好、三浦。
洋行の船の中では、朝の食堂はフロックコート、夜はモーニングと決まっていた。
▼Lewis Mumford 著、生田勉tr.『歴史の都市,明日の都市』1969、原1961
エジプトに城壁は無かった(p.30)。
中世マインツの住民たちは、侵入者におそれをなして、壊れたローマ城壁を修復した(p.240)。
885年、ロチェスターは壁で囲まれ、市民の手でうまく防禦しおおせた。1年後、アルフレッドがロンドンを城塞化した。市民の資格を保とうとする者は兵役に服することが必須となり、さらには常備軍設置と城壁修理の能力が、フレデリック・メイトランドが示唆しているように、自治特権を与えられるべき都市の資格のひとつとなった(p.240)。
イタリア。教皇と皇帝の争いに都市が加担した。王の特権であった城壁建設の権利は、自由都市に移譲された。1184のコンスタンツの和訳。
※自由市場も城壁のそばにしか発達はし得なかった。
18世紀に、中世都市の政治的基盤を空想した産物が「社会契約」。ルソーはジュネーヴの空気――独立・自尊――を知っていた。それは中世都市の名残だった。じっさいに自治都市では、土地所有者と居住者のあいだに、社会契約があったと思われる。
互いに価値を交換する売買契約が、自治都市を形成した。軍事的な征服の結果としてではなく。
「都市特許状」も、ひとつの社会契約だ(p.247)。
都市の中においてのみ、地縁・血縁をこえた、おおやけの縁が、鍛え上げられる。
農奴はいちおう権利を持っていた。自分が縛り付けられている土地の権利を。
この農奴を、安上がりな代用常備軍として辺境の新開都市民として移すためには、見返りが必要だった。それは、自由であった。
市民の軍備の権利は、火薬の発明以上に、封建貴族の力を抑制した。フランドルの市民は、火薬の助けがなくても、フランス騎士の精鋭集団を野戦で撃砕できた。スイスでは今でも、兵役をすませた兵卒が帰郷するときには、銃と装備がそのまま手渡される。アメリカ合衆国憲法が市民の武装権を高調しているのも、西欧の自由都市思想の余韻である(p.248)。
城壁都市はいっぱんに、地方色が濃く、嫉妬深く、好戦的である(p.248)。
ハンブルク、ブレーメン、リューベックは、ビスマルク時代の前まで自由都市だった。
イタリア貴族が都市に住んだのは、自治市民の監視の目が届くところに居ろ、という強制の結果なのであった(p.249)。
「ルネサンスの都市」だけは存在しない。中世の都市の次に、バロックの都市がある(p.304)。
ピサはフィレンツェとの抗争のために職業兵士を初めて雇った。これがうまくいったために市民は自負心を喪失し、1322にナポリ王に自由を引き渡す契約をするまでにおちぶれる(p.307)。
軍事的な悪条件の下で、イタリアの自治都市は、自由達成の過程を逆戻りさせた。
それを象徴するのが、僭主の馬上像が市場に立っていること。
マンフォードは指摘す。市民の自由がうしなわれずに統一された国家は、欧州では、ただ、スイスとオランダあるのみ。
統一国家では、首都のみ、ずばぬけて大きくなる。これが遅れたのがドイツ地方。
14世紀初めに大砲が普及し、それまでの弩弓に替わっていく過程で、それまでの城壁が無効になる。とはいえ15世紀なかばまでは、まだ大砲は微力だった。
シャルル8世のフランス軍がイタリアに侵入したとき、諸都市の防戦者は、大砲を有する6万人の正規軍に、完敗した。
当時の砲弾は実体弾である。散開機動できる野戦軍側の損害よりも、密集して暮らしている都市住民たちの方が、撃ち合いになったときには、不利だった。
15世紀後半、攻め手の大砲に対抗するには、傭兵を使って野戦に撃って出るしかないと考えられた。
1520年代には、ミラノ式の新縄張りも工夫された。
しかし、星陵都市は狭く、そのくせ土木工事の負担は尋常でなく重い。おかげで、それは却って都市の自滅を早めた。
都市は密集問題を解消するために、2階建て建築を、5階建て~12階建てに高層化させた。
17世紀からは、スラムが生まれた。
1633~1707のセバスチャン・ヴォーバンが、敵の大砲の破壊力に最もよく抵抗できる、ひらべったい城砦都市をデザインした。
小銃の威力を、大砲の威力が圧倒していた時代だった。
練兵場が、都市のひとつの劇場になった。
首都には兵器廠が聳えるようになった。
▼林毅『西洋中世都市の自由と自活』1986
自活団体としての都市をドイツの学会では「都市ゲマインデ」という。共同体・自治体。
M・ウェーバーは、東洋において自活都市が成立しなかった理由として、武装自弁の西洋都市民がない代わりに、治水のための官僚制度が発達し、軍隊も国王の官僚軍としてのみ発達したからだとする。
フェーデは、自力救済、私刑罰の意味でも用いられる。
ゲルマン社会では、公益に対する罪を犯すと「平和喪失」=追放に処せられたが、例外を除き、フェーデが許されていた。
中世ケルンでは、18歳以上の市民(男子)はすべて軍役義務を負担していた。有事のさいに軍役を逃れるためにケルン市を去った者は、財産を没収された永久追放された。
武装は自弁であり、怠った者は罰金刑に処せられた。
市壁を壊した者も罰せられた(pp.161-2)。
斬首刑は、名誉のある方法だった。市門の前の墓地で執行された。政治犯の斬首は、市場で(p.180)。
▼森谷剋久『町衆から町人へ』S53
戦後に、林屋辰三郎が、中世都市民を「町衆」と呼ぶ。村落自治とは違う、市民的自治があったとする。
堺は牢人を雇い、みずからも武装。
博多にも堺のような住民自治があったという。
中世の日本の町人は皆、刀を差している。
16世紀の京都民は鉄砲隊を持っていた。15世紀でも自力で一揆と戦闘した。
1573に信長が、義昭を攻めに来たとき、上京の住民が抵抗し、「悉く武器をとって市の入口に立った」が、6~7千戸を焼かれて、2~3万人が殺され、銀700枚をとられた。
1587に秀吉が、洛中と洛外を分ける「お土居」をめぐらせた。
秀吉と家康は、「京中地子銭」という土地税を免ずるかわりに、自治をとりあげた(pp.118-9)。
欧州ではイングランドを除き、城壁に囲まれていない都市はあまりない。
10世紀のイタリアでは司祭が都市を支配していた。
中世イタリアの都市とは、近世日本の藩である。
日本には、職能共同社会=ゲゼルシャフト(テンニエスの造語)がない。
年2回の節季払いは、日本だけである。
※人工の濠が市壁代わりだったところもあるのでは……。
▼田中喜一『各国陸上交通統制策』S18-3
日本の自動車は、大3に1000台。大10に1万台。
大震災ではレールがだめになり、自動車が役立った。今はその逆。
日本の車道の整備は、大正8年の「道路法」から始まる。
このとき、国道、府県道、市道、町村道、「公道でない私道」に分けられた。
国道はあくまで東京を起点に、府県庁、師団司令部、鎮守府、要港 を結んだ。ミリタリー目的。主管は内務大臣。
鉄道がトラックに対抗するため「軽単位貨物列車」「小荷物専用列車」を頻繁に運転するようになった。
S4から、「特別小口扱列車」ができ、のちに「宅扱列車」となって居宅集配も。
米では250~500マイルまで自動車運送が優勢。
米国鉄道は、大部分が、単線。
1934末に、エアコン付客車が登場。
英は1920に、四大鉄道を合同し、統制化し、その後の自動車化によって窮迫することがないように手を打った。
1930以降、Ro-railerという、路上でも鉄道上でも走れる車両がLMS鉄道で使用されていた。
イタリアの自動車専用道路は、ミラノ中心に発達。ローマには1本しかない。
▼オットオ・アルミン著、河合哲男tr.『第一次大戦に於ける猶太式独逸統制経済』S15
※ユダヤ糾弾の書で、極力文書を証拠に挙げようとしているのが特徴である。それが344頁も続くのだから、気分の悪くなるような情熱。珍本としてタイトルだけ記しておく。
▼伊藤仁太郎『伊藤痴遊全集 続 第七巻』S6
所収「江藤新平」(pp.393~)。
文久のとき、寺田屋から田中河内介父子を薩摩へ送る途中、大久保が命じて、手足を縛ったまま斬り殺し、播磨灘へ投げ込んだという。
江藤は常に板垣に、人間はみだりに死んではならず、大志ある者は力を尽くして生き延びることを考えるべきだと言った。もし失敗したらさらに計画を変えて、成功に努力すべしと。
藩主が借金を払わないので国入り行列が品川で商人に阻止された話(p.453)。
山城屋事件では桐野が近衛兵を率いて山城屋の本店・支点を差し押さえんとした。
そこで江藤が、西郷に頼んで桐野を制止させた。
上野の戦争を促進せしめたのも江藤。というのも西郷は勝安房に迫られ、彰義隊の殲滅ができない。このままでは無為屯集の官兵と江戸市民の関係は悪化するしかない。そこで江藤が太政官の三条に説いて、大村を東下させた。
M3に、今の虎ノ門公園で、駕籠の中に刀を突き込まれて負傷。
日刊新聞に絵入りの連載小説を始めたのは、仮名書魯文。
三略に曰く兵は神速を尊ぶと(p.507)。
佐賀の乱の時、長崎の外人が「カードリッチ」(早合わせの弾薬)を賊軍に販売した。政府はそのいくばくかを没収した。
▼ベニト・ムッソリーニ著、里見岬一郎tr.『我が統制策』S13
ベニトはナチズム式統制は官吏を10倍に増やすだけだとして生理的に之を嫌い、組合的統制を模索した。
つまり生産者同志による統制である。
以下、訳者による解説。
防共協定後、伊は支那駐在の飛行家や軍人に引揚げを命じた。
ファシズムの背景にはマキャベリとサンジカリズムがある。
▼農林省農務局『諸外国に於ける土地政策』S12-3
英国では工業化にともなって自作農ヨーマンが落ちぶれ、関税撤廃によって、小分割の農地は大きな牧草地になってしまった。
そのためWWIでひどい目にあった。
米国の独立が、1798のアイルランド叛乱の始まりであった。
執政官ボリス・ゴドノフが1597に農民の移住を禁じたのが、農奴の始まり。
それに反乱したのがステンカラージン、ブカチョフたち。
▼高須芳次郎『乃木将軍詩歌物語』S13
乃木=詩人と呼んだのは週刊『コリヤ』の記者リチャード・バリイ氏。
勝典は、バックルに敵弾が命中した。その【金交】具(ビジョオ)が腹膜から腸に入り、致命となった。
前線では、ビスケットの空罐が火鉢代わり。
▼「乃木少年と井戸水」草稿4枚 年不明
※国立演芸場資料室の蔵資料。
希次の妻は、土浦藩 長谷川金左衛門の娘。
江戸 雑司ヶ谷 の百姓の娘で壽子。長谷川の養女として、希次の二度目の妻となる。5人の子供。
希典は父42歳、厄年の子であるため、一度捨て、改めて拾って育てる。
▼東家[あずまや]楽燕『楽燕講演集』大3-5
いまより20年前は、浪花節をきくものは 印半纏 股引者流のみにして、中流以上の社会にはほとんど顰斥せられたりき。
▼和田政雄ed.『乃木将軍詩歌集』S18 5000部
日清役の兵士の凍傷、足指が軍靴にはりついて脱ぎ得ないほど。
M44、ボニファチオ海峡上、外国婦人をしこ草にたとえる。
▼長谷川秀記ed.『日本海軍の本』1985-12 自由国民社
海軍の敗戦原因論の嚆矢は、髙木惣吉『太平洋海戦史』。
いらい数十冊あるが、中村義彦が推奨できるのは、千早正隆の『日本海軍の戦略発想』だけ。
空母関係の、目撃者が書いた良著は、福地周夫(元大佐)の『空母翔鶴海戦記』。
水本正夫(元少尉で水測マン)の『武運の空母瑞鶴の最期』
正田[しょうだ]真五(特務士官)の『空母信濃の悲劇』
山川新作(飛行兵曹長で加賀→隼鷹)『空母艦爆隊』
小瀬本国雄(飛行兵曹長で蒼龍→隼鷹)『艦爆一代』
金沢秀利(元少尉、飛龍→隼鷹)『空母雷撃隊』 ※じっさいに雷撃してサバイブした男による唯一の戦記。
坂井の出身は、丙種飛行予科練習生(丙飛)。いわゆる「予科練」(甲飛、乙飛)にくらべて、昇進の面でいちばん不利であった。
むろん、海兵や予備学生出身の士官とは、待遇に雲泥の相違があった。
淵田&奥宮の『機動部隊』は、ミッドウェーからあ号まで。
同じコンビの『神風特別攻撃隊』とともに戦後長い間、定本的存在。
淵田は、ミッドウェー海戦後、海大教官として本海戦の研究を命ぜられ、公私の資料を使った。
奥宮は、本海戦の戦闘詳報ほ配布された唯一の航空戦隊の主務参謀として、本海戦を熱心に研究した。
▼『戦史叢書 ミッドウェー海戦』S46-3
利根4号機は、0555、敵攻撃機10機が味方方向に向かったと報じた。
これは0700過ぎに来襲すると判断された。
第一機動部隊は、MI攻撃隊と上空警戒機の半数の収容を急ぎ、0618頃その作業を概成した。
そのとき『筑摩』は右前方遠距離に敵機十数機が来襲するのを認めて報告。
『加賀』は上空警戒機×6を発進させた。
※上空警戒機(CAP)は、基本、飛行甲板上で常に待機。
0722、南雲は上空警戒機を増強するため、艦戦は準備でき次第発艦するよう命じた。
しかしこの命により発進できたのは『赤城』の1機だけだった。その直後に被弾したので。
このとき俗説では攻撃隊が発艦を開始しようとしていたというのはあやまりで、上空警戒機の出発を勘違いした回想である(pp.329-330)。
雷撃と爆撃は同時だった。
魚雷の回避中、上空に不注意だった。
それで、ダイブを発見したときは、回避運動の時機を失していたので、施す術なく、被弾した(p.328)。
同叢書の結論。『加賀』は0723、『赤城』は0724に被弾した。『蒼龍』の被弾時刻は分からない。
※これに関する戦闘詳報をどこまで信ずるかという難問。
0445に発令している。雷装へ。
しかし0723の被弾時、一航艦の兵装復旧は、完成していなかった。
0700、上空警戒機は敵艦爆十数機を発見攻撃し、敵機が爆弾を捨てるのが、艦上から望見された。
0750に山口は、阿部司令官に対し「全機今より発進 敵空母ヲ撃滅セントス」と報告。
しかし艦攻はまだ魚雷を整備中であった。
0820、山口は、士気高揚のため、全部隊に信号す。
「第一次発進機 艦爆18 艦戦5、一時間後 艦攻(雷装)9 艦戦3 を攻撃に向はしむ……」
※空母甲板には横に3機並べられたので、基本的に3の倍数となる。
『赤城』の艦攻も対空母の索敵をやっていた(p.337)。
『飛龍』は、予定より遅れて1031、使用可能の全力、雷装艦攻×10、艦戦×10 を発進させた。
艦攻が少ないのは、MI爆撃のさいの損傷機があったため。ただし『飛龍』に収容した『赤城』所属の艦攻も加わっている。
『赤城』が被弾したとき、艦攻と艦爆の全機は、格納庫内にあった。飛行甲板には、戦闘機の一部のみがあった(p.372)。
戦闘機の一部は、艦橋近くに置いてあった。
『加賀』は、やはり艦攻と艦爆はすべて格納庫内にあり、飛行甲板には、一部の戦闘機のみがあった(p.376)。
『蒼龍』もだいたい同じで、飛行甲板上には、艦攻、艦爆は無かった(p.378)。
時間をもっと前まで遡ると……
南雲は5日黎明の0130頃、空母の上空警戒機、MI攻撃隊、索敵機を発進させた(p.287)。
MI島から飛来する少数機づつの長時間攻撃は、日本海軍には未経験。昔から一度も、そのような訓練も研究も、したことはなかった(p.289)。
攻撃機などの兵装が完備していても、これを格納庫から飛行甲板に揚げ、攻撃隊の発艦準備を完成するのには、まず40分は必要であろう(p.289)。
MI攻撃隊と上空警戒機の半数の収容は、0618までに概成(p.291)。
0630頃、南雲は各空母に、攻撃準備の完成予定時刻を照会させた結果、一航戦の艦攻(雷装)は0730、二航戦の艦攻(雷装)は0730~0800 発進可能 との報告を受けた。
二航戦の艦攻(『飛龍』の9機と『蒼龍』の10機。他はMI上空で被弾したりして傷物)は、MI攻撃から帰ったばかりである。
0700でも、まだMI攻撃隊は全機収容できていなかった。
ふたたび、遡って、タイムライン。
5日の0030=黎明の1時間前。警戒航行序列。※かなりの高速。
0054、20ノットに落とす。発艦のため。
0130、上空警戒機とMI攻撃隊と索敵機(『赤城』『加賀』の艦攻を充てた)を発艦させた。
0145、攻撃隊、空中集合をおわり、MIへ向かう。
この攻撃隊は、飛龍の艦攻×18、蒼龍の艦攻×18、赤城の艦爆×18、加賀の艦爆×18、赤城の艦戦×9、加賀の艦戦×9、蒼龍の艦戦×9、飛龍の艦戦×9。これが15分で集合した。
※20ノットで走り初めてから空中集合まで51分かかるのか。
▼加藤辰雄ed.『日本海軍艦艇図面全集 第3巻』1978 潮書房
『赤城』は、「下部飛行機格納庫」の床面は、W.L.よりやや高い。
その下、「予備発動機格納庫」の床が、W.L.と一致。
「発着艦指揮室」は艦橋の「2階」部分の後方にある。前方は、海図室兼作戦室。
その下の「1階」は「搭乗員待機室」になっている。壁の扉を開ければそこはフライトデッキ。
艦首の艦底に軽質油タンクがあり、そのタンクの前端は、格納庫の前端と揃っている。
爆弾が横積みされている「弾庫」は、まさしく前部エレベータの直下にあった。
もうひとつの「後部爆弾庫」は、中部エレベーターより、やや後ろである。
エレベーターは、新造時には2基だった。改装後、3基に。
改装時でも、50口径長の3年式20糎単装砲×6を持っていた。
12cmAAは6基(×II)だった。
25ミリ(II)は14基だった。
乗員は1340人だった。
巡戦時代の装甲は、舷側中央部 245ミリ。
中甲板の中央部 95ミリ。
前部エレベーターは、大型機用で、中段の格納庫と飛行甲板の間を上下する。
下部格納庫は、補用機用だった。
後部エレベーターは、下部格納庫まで降りるが、小型機しか載せられない。
後部エレベーターは天蓋付きの2階建てで、上部格納庫に降りている状態なのに、飛行甲板はフラット。
12cmAAは据付け位置が低く、反対舷を射撃できなかった。人力装填。俯仰はマイナス5度からプラス75度。初速850m/秒。サイクルレートは10発/分。
下甲板の中央部と、最下甲板の前後部に、水平防禦がある。下甲板は55ミリ厚のNVNC鋼と、22mm厚のHT鋼の重ね張り。巡戦時の計102mmより薄くされた。
改装時に、軽質油庫のまわりを空所とし、定期換気をする装置を設け、艦内随所へ圧送できるように。
改装時、荒天時における風雨や飛沫の侵入を防ぐため、開放式上部格納庫に側壁を設けて、密閉式に変えた。
『飛龍』と『赤城』のみ、艦橋は左舷中央にある。
エレベーターが3基になったので、飛行甲板の「三分運用」を開始。
前部エレベーターを境に、その前を収容区域とし、発艦時は前部エレベーターから後ろを発艦整列区域とした。
着艦は30~40秒間隔が限度。
滑走区域は100mが確保された。
25ミリは4群に分けて統制。前部両舷に3基づつ。後部両舷に4基づつ。
各MG群は95式機銃射撃装置で統制。
照準データを電気で伝えるものだが、モーターサーボかは不明。(たぶん人力?)
爆弾や魚雷は、搭載全機が3回の攻撃を実施してもなお、偵察と煙幕展張が可能となるように揃えられていた。艦隊決戦思想。
『赤城』の軽質油庫は艦の前部のみ。
飛行甲板および格納庫の各所で給油できるが、特に飛行甲板前半部に手厚かった。
揚爆弾筒は2基で、前部は飛行甲板まで。後部は上部格納庫まで。
これは魚雷も揚げられた。
改装前は、防禦甲板上で横送りが必要だったが、改装後はストレートに。
S16-10において、零戦×18(+補3)、97艦攻×27(+補3)、99艦爆×18(+補3)だったが、ハワイ攻撃のときには、零×21機、艦攻×27機、艦爆×18機を常用とした。
S17-4以後は、97艦攻×18(+3)、99艦爆×18(+3)となり、セイロン作戦とミッドウェー作戦は、これで臨んだ。
▼福井静夫『海軍艦艇史 3』1982
日本で優れていたのは下士官――と言ったのはMorison。
『加賀』は『赤城』より全長が短い。『大和』以前は、『赤城』の全長が最大であった。
25mm(II)には転把が写っている。とすれば手動か。
燃える『飛龍』の写真は、『鳳翔』機が撮った――と奥宮が請合っている。
投下器は、爆弾の種類だけあった。
500、250、30kgの3タイプ。
しかも艦攻用と戦闘機用とでは違う。
急降下爆撃機が未だ無い頃。
大爆弾車は、常用艦攻2機につき1台あり。
中爆弾車は、常用艦攻の数だけあり。
▼草鹿龍之介『連合艦隊の栄光と終焉』S47-4
草鹿は1971-11-23没。
※この本は『聯合艦隊』と内容が同じである。
敵に与えた損害が違っていたことが分かったが、直さなかった。
「味方に関する記事、特に私を中心とする記事は、後日出た如何なる出版物よりも、本書が正しいと思っている。」
▼草鹿龍之介『一海軍士官の半世紀』1973-11
従兄が任一。実子は履一郎。
M25、根岸(東京下谷)生まれ。
○○したちゃ――は、富山弁。
父はカール・マルクスを日本に始めて紹介した。
兵学校では 使用人、散発屋等、下々の者に親しい口をきいたり笑いかけてはいけない。雇使[ようし]、小僧、賄[まかない]、剃夫[ていふ] とよびすてる。
兵学校教官は教室ではモーニング。
洗濯や便所掃除はしない。
自分は神経過敏と自認す。
大4-2にシンガポールで、インド・バンガリ族 1個聯隊800名が叛乱し、英の要請で、『音羽』から2ヶ小隊50名弱を揚陸させた。麻式機銃×1。
草鹿少尉はモーゼル拳銃で参戦。
ペトロでも「弾十二発を装填した拳銃」を隠し持っていた(p.134)。
海大は一回落ちている。
山口三郎という航空士官、神兵隊事件で議会爆撃の役を引き受け、獄中死。
ロンドン会議からクレマンソーが脱け、帰ったとき、パリ市民は歓迎した。それにひきかえ日本国民の反応は逆なので、草刈は自刃した。
マハンは Concentration fo Will とも言った(p.234)。
大阪の住友では陸海二重規格に合わせ、プロペラの造り方を変えていた(p.255)。
S11-1、『鳳翔』艦長。
霧中では止めてから艦位確認。錨の使用を億劫がるな。入港を手際よくやろうと思うな。
S14-11-15、『赤城』艦長。
▼井上泰男『都市の語る世界の歴史』1978
囲郭村落が、高城に発達。ギリシャのアクロポリス、ローマのオッピドゥム。
しかし山城は不便なので、やがてそこには聖殿のみが残り、逃げ込み砦の機能を担う。
グレコローマンは石の文化。ゲルマンは木の文化。
定住ゲルマンの課題は、家畜の世話。柵や冬季の保護など、共同でなくばできぬ。そこから欧州流の共同体が芽生えた。
地中海は11世紀初めまで「イスラムの海」。
ボーリン説。西欧は単にノルマンとイスラムの仲介貿易の役柄だった。
ミュッセ説。欧州を商業化したのはヴァイキングであると。
▼アンリ・ピレンヌ著、佐々木克巳tr.『中世都市』S45、原1927
ローマ起源都市には、「都市記録簿」に市史を書き込む慣行が、ゲルマン南下後も残された。
都市は周辺農村の市場であり、また、大地主たちの冬の住所だった。
ゲルマンの南下は地中海文化の単一性をすこしも損ねなかった。
しかしイスラムが拡大したことで地中海は単一文化ではなくなった。ここから、中世の個性的な地方文化が生ずる。
ビザンツとゲルマンの異化も始まる。当方から何も流入しなくなる。東西遮断は9世紀に起こった。
コルシカやシチリアも9世紀にはイスラムの領域であった。
ノルマンにもサラセンにも、海岸をやられ放題だったことは、フランク帝国の内陸指向を証明している。
キエフがロシア中心の座をモスコーに譲ったのも、イスラム侵入のため。
ブルジョワの語源は、ブール=市壁、およびその内部に群居する商人である。都市は、周辺田舎人に、都市的な生活様式を景仰せしめた。
欧州北部では、騎士は都市を捨てて農村へ移った。
イタリアと南仏では、昔からその逆の伝統。これが12世紀のこと。
10世紀までは、市民は「自由」など求めておらず、安全であれば、何でもよかった(p.146)。
イタリアでは、商人と貴族の区別が弱い。
自由は、かつては貴族身分の独占物であった。
最初は商人だけが事実として享受していた自由が、やがて、あらゆる市民の権利になる。
12世紀の都市の刑法は、Pax ville =都市の平和 と呼ばれたが、厳重な反坐法(目には目を)であり、農村より冷酷であった(p.170)。
都市のおいてナショナリズムが生じた。
他の都市はすべて敵。
都市利己主義が公民精神を喚起し、各都市を活気づけた。
農村に対しては支配者であろうとし、決して友達ではなかった。
英では都市民と貴族が結託して、王からマグナカルタを取り付けた。
仏では王と都市民が結託して、土豪貴族の力を弱めた。
▼堀川豊弘『歴史の教え 復讐の倫理』S49
江戸期には全国管轄の警察がない。だからその不備を、庶民の公許仇討で埋めさせるしかなかった。
家康以前は、そのような行為は禁止だった。
足利230年間は、固く禁。戦国大名も、法度としていた。
▼ハワード・サールマン著、福川裕一tr.『中世都市』1983
壁の主たる用は、平和時に人や物の出入りをコントロールするにある。
厚さは1~2m、高さは20m。100mおきに、塔。
▼瀬原義生『ヨーロッパ中世都市の起源』1993
帝政ローマは、都市のなかったガリアを都市化した。
アルルは、BC46年、ローマ第6軍団の除隊兵の殖民都市としてできた。
▼魚住昌良・他『比較都市史の旅』1993
356年にゲルマン人はローマ人のつくった都市を占領しながら、その町を墓場のように忌避した。
12世紀末、国王フィリップ・オーギュストが初めてパリの市壁を築かせた。工事はセーヌの水運業者が負担。ただし狭かったので、その後、壁を越えて大拡張した。
街区=カルティエが4つ、定められ、各々、長が任命された。住民は市民兵として彼に従わなければならなかった。平時は市壁を見張る。有事には防御戦闘。
夜警も、国王のものと市民のものと2系列あった。
フィレンツェにおいては、非封建的な商工業者層ポポラーニが、軍事組織ポポロを結成した。
▼『戦記名著集 (5)』S4-7
海軍少佐・川田功「砲弾を潜りて」、津野田是重「斜陽と鉄血」、「軍服の聖者」(S2)
「軍服の聖者」は、「斜陽と~」の続篇。「奉天に於ける乃木将軍」がサブタイトル。
2月上旬、総司令部は、もともと非武装だった補助輸卒のために分捕銃(モシンナガン)×7000を第三軍に分与した。
ロイター電が日露媾和について2-23に初報道。皆、驚く。
第三軍の部署の計画を乃木へ内閲を乞い、ついで輜重運用を報告すると「待て……おまへは何を基礎として、この距離を計算したか」。地図とコンパスだと応えると、糧食弾薬の補給は毎日の行程を1時間づつ短縮して更に計画を立て直せと。それで奉天では給養と弾薬補充で故障がなかった(p.408-9)。
9Dの師団砲兵は山砲兵聯隊。敵から4000mの第一陣地から、1600mの第二陣地まで、敵弾雨中を前進。連隊長の大佐は戦死。
3月7日頃。大石橋近くに「柳条口」あり(p.423)。
特務曹長は「幹部」である。
MG隊を指揮したのを、11日に軍参謀長・松永少将に呼ばれ、「おまへは一昨日は自ら軍刀を抜いて、隊を指揮したとのことであるが、参謀官に指揮権のないことは勿論承知して居らうなア……」。
※勝手に暴走する若い幕僚のタイプは、もう既に日露戦争中に生じていたことが「軍服の聖者」からビン\/伝わってくる。
4月19日頃。「この頃、わが軍中に機関銃隊の編成が始めて決定せられ、総司令官は六銃を以て一隊となすことを訓令せられた」(p.467)。
将軍いわく、酒はまず少量飲んで8分の食事をとり、少し運動してから席に列すれば、盃を重ねて失策はない(p.480)。
22日、大房身において、将卒200余、俘虜となる。
敵が縦長配備だと、中央突破の企図なし。
5月の奉天会議ののち、軍司令官は、「砲兵旅団の発射速度を増加して最大限に達せしめられた。その結果同旅団はつひに一分間二十発を射撃し得るに至った」(p.505)。
ドイツがモロッコに干渉を始めたのも、ノルウェーがスウェーデンから分離して英王族を帝位につかせたのも、日露戦争の余波である(p.505)。
5-22時点で第三軍は、大行李、輜重、補助輸卒の3人につき2梃の分捕銃を与えていた(p.511)。
幕僚が将軍に劇場の仮設を乞ふと「苟も軍人たる者が白粉をつけて舞踊するが如きは精神上面白くない」と、なかなか許されなかった。しかし平和確実となって、ようやく黙認された。
講談には、若燕と黒猿[こくえん]がいて、将軍は好んで水戸黄門の諸国巡遊のことを聞かれた。
琵琶好きの大迫中将(7D長)のため、津野田は旅順攻略の曲を書き、将軍が加筆して送った。
山縣らとの集合写真は、7月25日、奉天における撮影。
8月10日頃、乃木は、償金は取れまい、と。
乃木は、神官や僧侶は、至誠に於て欠くる所ありと、招魂際の仕切りを自分でやった。
即ち、齋主と祭主を兼ねた。
伊知地少将は、毎年冬は喘息に悩む。それで乃木から要塞司令官を任されていたが、津野田に運動してもらって、内地へ帰った。
▼大佛次郎『氷の花』S17-3
新京は、何もないところにつくった計画都市。
ハルビンは、ロシア人街だったのを、徐々に和風に変えていった。
ヴァレリ いわく。政治とは我々に一番直接の問題を、最も廻りくどく間接な方法で処理すること。
満州事変を某外人評していわく。日本は正当なことを実に下手な方法でやった。
偉大なる王[ワン]のモデル虎。頭部の剥製だけでも、四斗樽ほどの大きさ。
冬こそ満州歩哨は警戒する。河川障害がなくなるので。
ソ連は満人に芥子を作らせ、ウラジオから輸出して儲けたという。事変以前のこと。
抗日スローガンは重慶でインテリが考える(p.205)。
「寝台虫にやられた」
▼『色川武大 阿佐田哲也全集3』1991 所収「奴隷小説」
ドイツ人は力の強い大きな馬を好んで生産し、そのかわり馬銜[はみ]をきつくして、馬の口もとを固くし、大きな馬を力づくで御すことを楽しむ。英国人は柔らかい馬銜を使い、敏感な馬に仕立て、騎り手のかすかな指令を馬の方に積極的に嗅ぎとらせるという。
▼今川勲『現代結婚考』
大正5年以前において、神葬はあったが、神前結婚は無かった。
「自宅式」が主流だった。
神前のブームはM33の皇太子(のちの大正天皇)の賢所婚。
農家は戦前から嫁募集難だった。都市近郊では、農村から。農村は、山村から。関東は、東北からと、ルートが確立している。
西日本では土地を商品として手放してしまって離農する。すなわち離村離農。
東日本では、在村離農。
▼日本外事協会ed.『ゲ・ペ・ウ秘史』S12-7
Essad Bay という謎の人物の文書を訳出したもの。
レーニンの所謂、革命の前衛である国家保安部。
チェカは「非常局」。
レーニン自身、自動車強盗に遭ったことがあり、以来、チェカの権能が拡大した(p.65)。
ゲペウの外国セクションを「イノ」といい、密偵局である。
ゲペウの上にさらに「統制委員会」があり、これはスターリンにのみ直結。
ときどき査閲に乗り込んできて「掃除」をして行く。
特別任務部隊「チオン」。
ロシア国内で雇われている外国技師の多数がアメリカ人である。
▼多田督知『日本戦争学』S14-6
××××……の伏字がすごい。
万物は流転する。戦争は万物を生む。故に戦争は万物の父、と言ったのはヘラクレイトス(B.C.535-475)。
人を殺せば殺人犯だが戦争に勝てば名誉だと皮肉った最初の人はセネカ。戦争こそ罪悪だと考えた。
スピノザ。実力に応じてのみ、実権あり。
世にもし正義の支配あらば則ち可。苟も之なくんば、家を建つるものはまた必ずみずから之を防護せざるべからず。ショーペンハウエル。
正義は双方にあり、裁判は戦争である。戦争なくば、詩もまた無し。平和は国民を弛ませる。プルードン。