敵はヤケクソになっている。

 Gidget Fuentes 記者による2020-5-25記事「Beyond Mercy: Navy’s COVID-19 Hospital Ship Missions and the Future of Medicine at Sea」。
      病院船『USNS Mercy (T-AH-19) 』は、新コロではない患者77人を看たあと、2020-5-15にロサンゼルスを発航し、即日に、母港のサンディエゴに入港した。

 病院船『USNS Comfort (T-AH-20)』は、その2週間前に前にヴァジニア州のノーフォーク軍港へ戻っている。こちらはNYCにて1ヶ月、182人の患者(新コロを含む)の面倒を看た。

 登場したときはファンファーレ付きだったが、帰りは静かであった。
 どちらの病院船も艦齢30年を越えている。2035年と2036年には退役させねばと海軍は考えている。その更新をどうするか?

 1隻が12の手術室を擁するこの2隻の病院船、平生は70人の民間船員が運用し、いざというときには1隻が250床から500床のベッドを据えられる。真の非常事態ではその倍の負傷兵を収容できる。つまり最大で1000床だ。

 病院船の派遣を要請したクオモNY州知事は、172人は少なすぎるという批判に反論。《あなたがその172人のうちの1人だったら、それは役立たずだったと言うのか?》と。(正確には182人なのだが。)

 2005-8のハリケーン・カトリナの被災地救援にミシシッピ州ペンサコラにかけつけたときは、『コンフォート』は500人の医療スタッフを乗せて、船内に250床を用意し、1258人の患者を船内で治療し、またそれとは別にペンサコラの病院にて11日間、7000人の患者治療に協力した。

 2隻の病院船は、30日間、無補給で活動を続けられる。
 しかし病院船は消防署の救急車とは違い、呼ばれてもすぐに出て行くことができない。出航準備に5日間は最低でもかかるのである。

 医療スタッフも、陸上の病院から引き抜いて充当しなければならない。ハリケーン・カトリナのときは、ヴァジニア州ポーツマスの海軍病院や、メリーランド州ベセスダの海軍メディカルセンター(イラクとアフガニスタンで負傷した兵隊をケアしている)から、船に来てもらった。

 もともと陸戦で負傷した兵士の外科治療しか考えてなかった船なので、感染症対策をシステマチックに設計に盛り込んでない。空調システムは1系統しかない。伝染病が他の患者やスタッフに移らぬようにする船内レイアウトにはなっていないのである。

 吃水が33フィートもあるのも大問題。岸に寄せることができないので、沖で待ち、患者の方から小舟かヘリコプターで来てもらわなくてはならない。
 そのヘリ・デッキがまた窮屈である。

 小舟を沖合いで病院船に横付けしてもらうやりかたは、天候・海象に制限される。海が荒れているときは、ヘリコプターでしか患者が受け入れられないのだ。

 風浪のある状態でも小舟を受け入れやすくするには、艦尾に「ウェル・デッキ」を備えるしかない。つまりこれからの病院船は、強襲揚陸艦に似せる必要があるのだ。米海軍は、今の2隻を新造船で更新する場合の案として、そういう形も検討している。

 小型のLPDなら吃水も浅いので、理想に近いかもしれない。

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 Abby Ohlheiser 記者による2020-5-26記事。
    オンライン上の偽情報をすぐに信じてしまう年齢は、年寄りグループである。若年者よりも7倍も、嘘のニュースにひっかかってしまうのだ。ハーバード大学の心理学部のポスドクいわく。

 従来もこの傾向は知られていた。その理由としては、トシとともに判断力が衰えるからである、とか、孤独だからだ、と言われてきた。つまり、他者とつながりたいから、嘘情報でも共有しようとするのだと。
 しかしこの2つの仮説ともに、学問的には、否定されている。

 新説。ウェブサイトではしばしば、偽情報に関する注意書き(ファクト・チェック)が対向的に呈示される。これが却って、老人の信念を強化してしまうのだという。

 老人は、よく知っている人の言う事を信じようとする傾向がある。その傾向は、若い人より強い。

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 CAITLIN DOORNBOS 記者による2020-5-25記事「USS Blue Ridge makes port call on Okinawa after breaking days-at-sea record」。
    新コロを避けるため70日間も洋上に出ていた第七艦隊旗艦『ブルーリッヂ』が久々に寄港し、水兵を沖縄に上陸させる。ただし埠頭近くの結界されたエリアの中しか、歩き回れないのだが。

 ちなみに『ブルーリッヂ』は、今も動かせる米海軍の艦艇の中では、最も艦齢が古い。50年である。

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 Michael Rubin 記者による2020-5-26記事「Coronavirus Will Undercut Navy Recruitment」。
      1976年当時から、米海軍が水兵を募集できる最大の強みは、一度の航海で複数の外国に上陸できる機会の強調にあった。しかし今や海軍は、米四軍のうちで、最も募集上の魅力がなくなってしまった。

 2001-9-11より前だと、海外での艦隊勤務者は、平均して2週間から3週間に一回、現地で上陸ができたものだった。場所は、地中海だったり、南太平洋だったり、南米であったり……。

 ところが9-11以後の海軍の将兵たちは、一度の洋上派遣が7~9ヶ月にも及ぶのに、ジブチ、ジェベルアリ、バーレーンなどの中東の特定港に3回くらいしか上陸ができない。
 とうてい、魅力的な仕事とは、見えなくなってしまっていた。

 そこに今回の新コロだ。
 ふつうに艦に乗ったり降りたりする都度、14日とか21日の隔離を強いられるのでは……。

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 Sarah LeFanu 記者による2020-2-12記事「Arthur Conan Doyle and the Adventure of the Boer War」。
     1899年5月、英国がボーア共和国に宣戦布告する5ヶ月前、アーサー・コナン・ドイルは40歳だった。

 彼は身長6フィートの美丈夫であった。
 スポーツ愛好家で、夏にはクリケット、秋にはサッカー、春にはスイスに行ってノルウェー式のスキーをしていた。

 彼はそもそも開業医だったが、「シャーロック・ホームズ」シリーズが大当たりすると、その医業を辞めた。すでに8年間も、作家に専念していた。

 ドイルは、サー・ウォルター・スコットをじぶんの理想像と見ていた。それに近づくためには、歴史小説を書かねばならない。彼は取材のために、ボーア戦争に飛び入り志願する。

 現地での軍事衝突は1899-10-13に起きた。
 英国はトランスヴァールの金山が欲しかったし、アフリカ全部を支配する気満々だった。

 文学者としては、ドイルの他に、R・キプリングも志願している。
 英帝国は、この南ア戦争に、豪州兵、カナダ兵、NZ兵を送り込んでいた。

 ドイルはライフル乗馬兵として戦闘することを望んでいたが、ドイルの年齢と身長が、それには不向きだったので、けっきょく、後方での軍医待遇とされてしまった。

 輸送船が洋上に出ると、その頃、開発されたばかりの、チフス(腸熱と呼ばれていた)の予防接種を、ドイルは率先して受けた。適宜の投与量も、まだ把握されていない時期であった。
 一時、それで体調がひどく悪化したが、汽船『オリエンタル』がヴェルデ岬諸島に達した頃には、船中でクリケットができるまでに復調していた。

 大方の英国人同様、彼はこの戦争は数ヶ月で終わると見通し、終わらないうちに戦地に行かねばと焦った。
 3月28日、南アに上陸。

 単線鉄道で北上。ボーアの「コマンドー」部隊がサナ哨所を襲撃した後であった。ボーアは浄水施設を占領したので、英系住民たちは川の水を直接、飲むしかなくなっていた。

 クリケット場に急設された野戦病院のテントは、チフス患者でいっぱいになった。
 「アウトブレイクはおそろしいものだった」とドイルは『大ボーア戦争記』に書いている。

 ボーア戦争は1902-5に「ヴェレーニギング」条約を以て終結した。2万2000人の英軍および殖民地軍将兵が南アで陣没した。半数は病死であり、その主因がチフスだった。

 ドイルはその前の1900-7に南アを去っていた。最前線がヨハネスブルクへ移行するタイミングであった。

 ボーア共和国首都のプレトリアが陥落すると、ボーア人の「コマンドー」部隊は、ゲリラ戦を展開した。
 英軍は、「焦土戦術」で応じた。ボーア人の農場を焼き払い、家畜を殺し、畑を破壊し、女子供は強制収容キャンプに閉じ込めた。

 収容所内で2万2000人のボーア人の子供が死んだ。半ば餓死であり、半ば病死である。
 現地の黒人たちが集められた収容所については統計がないが、そこでも1万4000人が同様にして死んだ。

 ドイルは帰国後、すべての英国軍将兵には予防接種を義務付けるべきだというキャンペーンを張った。飲用水は必ず煮沸しろ、とも。また、当時の英海軍水兵のほとんどが泳げなかったので、それらの水兵の命を救うために、ゴム製の「ライフ・ベルト」を備えよ、とも、ドイルは主張した。救命用のゴム・ボートを兵員輸送船に搭載する必要についても論じた。

 ボーア戦争は野蛮人戦争だという英国内の批判者に対しては、ドイルはあくまで英国の政策を支持して反駁した。

 1914年にWWIが始まるとまたしてもドイルは英本土の連隊に二等兵志願し、これは受け入れられた。
 農場にドイツ兵捕虜収容所が作られており、その監督が仕事だった。
 すぐにしかしドイルは外務省に雇われて、欧州大陸へ出張する。

 彼はその見聞をもとに、フランス戦線とフランダース戦線について、6分冊の戦記をまとめている。
 しかし、ドイルは戦史作家として後世から認められることはなかった。
 彼じしんは低く評価していた「シャーロック・ホームズ」の創造者としての名声だけが、死後の彼には与えられているのだ。