旧資料備忘摘録 2020-5-26 UP

▼読売新聞ed.『真珠湾潜航』S18-5
 ※機関科の○○大尉の筆ということになっている。きわめて面白い。

 潜水艦内には、冷房や艦内通風装置もあるのだが、水中で聴音のため機械を止めるたびに、急に暑くなる。基本的にバッテリーで動かしているので。

 防潜網に突っ込み、行き脚がなくなってしまうと、艦尾が下がる。
 トリムがかかると、ビルジがザーッと音を立てる。

 傾斜するとバッテリー液も漏れる。
 それが艦底のビルジと反応して、塩素ガスになる。

 メインタンクをブローすると、ブルブルッ……という振動が生ずる。
 この危機は、ブローと同時に両舷前進一杯にして逃れた。

 少しづつの浸水でも、気圧が増し、耳が痛くなってくる。
 便所排除ポンプも効かないので、ある区画では膝まで汚物まみれである。
 空気ポンプは、バタ、バタ、バタと発動する。

 潜水艦内には、発動機と魚雷用の圧搾空気タンクがあるので、ポンプを回してブローしながら、これを艦内に出していく。

 ネズミはクロルピクリン・ガスで全滅させる。油虫も。
 ときどき「鼠鳴き」がすると思ったら、蛇の抜け殻を発見。ベッド裏にいるらしい。

▼禾[のぎ]晴道『海軍特別警察隊』1975
 捕虜収容所のあるインドネシアのセレベスのアンボン島では、1944-3までは慰安所があったが、44-8の大空襲で解散。
 海軍は、盗み、強姦はただちに殺してよいという命令を出し、陸軍の憲兵から海軍司令部に抗議があったほど。

 これは地元の反日感情を抑えんがため。
 オランダ人と現地人の混血は「ハーフカス」と呼ばれていた。

 ※著者は学徒で召集され、経理科、ついで海軍警察。BC級有罪になり、戦後は左傾。

▼『別冊 知性1 太平洋戦争の全貌』S31-7-25 河出書房pub.
 編集後記「……ようやく日本人が“狂った季節”を脱した今日、……」「それぞれの作戦に参加した司令官、参謀を煩して、……」

 (pp.110~) 草鹿「われミッドウェーに敗れたり! ――日本海軍の運命を決した五分間――」。

 「赤城艦内の通信伝達の遅延」も原因の一つだと。
 「米軍に於いてはエンタープライズの航空隊が最も熟練していたという話である。」

 最初の微勢力無電は「……米側の記録によれば、傍受されていない。」

 飛行艇による被発見は……「わが片袖をつかまれた」こと。
 この時に輸送船を返し、機動部隊は敵空母を捕捉撃滅しろ、とGF司令部が命じなかったのがいけないのだ。

 『赤城』に向かって、魚雷をぶらさげたままの敵機×1が艦橋に驀進してきたが、わずかの差で左舷側すれすれに後方に飛び去り、撃ち落とされた。

 最初に第2次攻撃隊の魚雷を陸用爆弾に変更したこと。「わが機動部隊司令部の錯誤の窮極はこの一点に帰するといつても差支えない。この事こそ精鋭なる飛行機隊、勇敢なる艦船乗員の敢斗を、一朝にして無にしたと称しても過言でない。この時の判断にして、誤がなかつたなら、聯合艦隊司令部の錯誤も、機密保持の巧く行かなかつただらしなさも、補つて余りあつたと信ずる。」

 利根機の十隻発見電は、発進時刻0428、それを草鹿らが艦橋で読んだのが5時。
 草鹿はこれを、暗号電報が何百も引っ切りなしに来たからだ、と解している。

 「航空母艦同士の洋上対戦ともなれば、……先ず敵空母の飛行甲板に一撃を加えて、発着機能を破壊することが極め手である。……米軍は、この点に着眼して、空母よりの索敵機は、爆弾を携行し、敵発見と同時に先ず空母に一撃を加えることを常套としていた。」

 これに反して日本側は、爆弾の代りにそれだけ余分の燃料を搭載し、索敵機の足を伸ばし、それによって先制しようとした。※艦攻と艦爆の違いには無言及。

 利根報告の前の米雷撃機は全部、MI島から来た。利根の続報のあとで、敵空母からの第一次攻撃の雷撃隊がやってきた。

 これを防いでいるうちに……「この間に整備員は全力を尽して、次ぎ次ぎにと飛行機整備と雷装爆弾搭載を完成し、発進準備の為め飛行機を飛行甲板上に並べる。《改行》先ず戦斗機を前方に、爆撃機、攻撃機の順にその後方に。いろいろ手違いもあり不手際の点はあつたが、遂にこれを切り抜けて『出発準備宜しい』の報告を俟つて『攻撃隊発進』の号令が下され、艦は既に風向に立ち、速力も増速され、先頭の戦斗機一機が、離艦を始めた。《改行》ああ、その一瞬であつた。」

 第2弾命中。
 第3弾は「出撃準備完成の飛行機群の真中に命中し震動と同時に、紅蓮の焔は、忽ち飛行甲板に燃え広がり、黒煙は天に沖し、やがては搭載爆弾魚雷が諸所に自爆し、その度に艦内は大震動を起し、所在の兵器人員を吹き飛ばし、阿鼻叫喚の巷となつた。」 ※『加賀』の先行被弾について一言もないのはなぜか? 防空指揮所には居なかったからだ。

 ここまで、「……戦場は、ミッドウェー上空の第一回戦斗を除いて、全部わが空母群の上空であつた。」
 「敵機動部隊発見時、多少の犠牲と苦戦を覚悟しても、速やかに戦場を敵上空に押し進める」べきだった。

 P.116 に 小見出し「運命の五分間」と。但し本文中にその表現なし。
 「昔から『戦争は最後の五分間によつて決する』といわれている。」(p.119)。

 「『戦争は最後の五分間』ということも、大切なことである。米海軍の始祖とも言われるジョンポールジョンが、自分の艦は焼かれ、将に沈没せんとしているその時なお『戦斗はこれからだ』と叫んで、敵艦に乗り移り、遂に最後の勝利を獲得したことは、余りにも有名であり『戦争は最後の五分間』という言葉を如何にも如実に示し米海軍の伝統を作り今日迄その士気をどれだけ鼓舞したことか。」(p.120)。
 ※なぜおめおめ生きて帰ってきたかという世間の批判に応えるコンテクストで「五分間」が主張されたのであったことが察せられる。

 「然し現代戦の激しさは、兵器の進歩と共に『戦争は最初の一撃』という格言をこれにも増して重要とする。」(p.120)。

 「聯合艦隊命令に依つて、北西方に避退した機動部隊は、執拗なる敵飛行機の追撃を受けた。然し大した損害は受けなかつたが、心の傷みは言語に絶した。司令部の幕僚が自決して、その責任を明かにしようと言つたことも単なる責任観からだけではない。幾多の飛行機搭乗員を始め、艦船乗員の敢闘に対し、更には至尊に対し、国家国民に対して、いても立ってもいられないものがあつた。《改行》然しここが大切な処である。山口多聞が死んだことは、かえすがえすも残念であつた。」(p.120)。

 内地帰投後、『霧島』が機動部隊旗艦となり、南雲とともに着任した草鹿は「参謀長室に閉じ籠」って考えた(pp.120-1)。

 福留いわく。サイパンのアスリート飛行場は昭和10年に造った。

 淵田いわく。真珠湾の『赤城』はまず戦闘機と攻撃機を並べて第一撃。
 「整備員達はそれぞれ受持ちの飛行機にすがりつくようにして、艦の動揺から飛行機の安定をはかるのに懸命であつた。」

 『赤城』の搭乗員待機室はせまく、全パイロットが入りきれず、外の通路にあふれる。
 発着艦指揮所はその上。
 また、作戦室には長官がいる。
 作戦室をおりると、やはり搭乗員待機室。

 「だが私は答えた。《改行》『ローリングよりピッチングがひどいですね。しかし、なあに大丈夫ですよ。ピッチングの周期を見はからいながら一機一機とチョークを外して出してください。では――』」

 「ウォーミングアップの終った飛行機は次々と航空灯を点出する。」
 指揮官機のオルジス灯をたよりに、集合。

 以下、前田孝成[たかしげ](マレー沖海戦の航空司令で大佐)。
 17機の中攻は「九一式魚雷改一」。
 まず味方を見誤り夜中に飛び出したが900kg近い魚雷はそのまま捨てず、飛行場上空で夜明けを待たせて、着陸させた。

 「搭乗員が……魚雷員と一緒になって魚雷の空気が漏れるのを直していた」(p.68)。

 索敵用中攻は、60kg爆弾を抱いて行った。
 ※この文中、「中攻」とあれば96式のことで、「一式陸攻」を中攻とは呼ばなかったらしい。

 中攻×8機と、1式×25機が雷装で出た。

 「当時中攻は爆弾や魚雷を搭載せずに燃料を満載した所謂偵察状態の場合は、その進出距離は八五〇浬とされていたが、魚雷積んだ場合には、燃料を減らさなければならない関係上其の最大進出距離は六〇〇浬とされて居た。」(p.71)。

 500kg爆弾を抱えた中攻隊が最後に『プリンスオヴウェルズ』に編隊公算爆撃。8機のうち1機は投下器が故障で、落ちず。

 以下、長井純隆[すみたか]・大佐。南太平洋海戦。
 やはり発見は敵のカタリナが先であった。
 レカタ基地のこっちの飛行艇は、敵を見つけられなかった。
 カタリナは触接をやめて帰るときに、置き土産に2発の爆弾を落として去る。

 24日の第二次ソロモン海戦では、発見された敵が遠距離すぎて雷撃機を出せず、戦闘機と爆撃機のみを送り出した(p.157)。

▼丸別冊『太平洋戦争証言シリーズ 7』S62-11-15
 「運命の海戦(ミッドウェー敗残記)」つゞき。

 以下、秋本勝太郎(『赤城』兵器員、整備兵長)。
 もとは『翔鶴』乗り組みだったが、珊瑚海海戦後にドック入りしているとき、『赤城』の雷爆兵器補充要員として、同僚3名とともに転属した。
 直属上司は、掌水雷長が海軍特務少尉の高橋留吉。班長は上等整備兵曹の星川次郎。
 艦内は、『翔鶴』と違い、広く雑然とした区域が多かった。

 糧食は主計科が後甲板で荷揚げする。
 雷爆兵器員と、射爆兵器員と、飛行機整備員がいるのである。
 魚雷は「改三」で、炸薬245kg。
 深度調整は、あらかじめ しておく。

 九七艦攻は「投下把柄」を引く。
 「電動操作」と「主導操作把柄」がある?

 航空兵器員には、雷爆、射爆、光学、写真の4専科がある。しかし後の2者は少数。
 爆弾は、雷爆と射爆のどちらもが面倒をみる。

 母艦内の魚雷調整場は、魚雷格納庫と併設になっている。被爆、誘爆などの安全を考慮して、下段甲板にある。
 格納架台は4~5段積み。
 ここに調整済みの実用魚雷が。
 一本ずつ重心部に吊りバンドを巻きつけ、チェーン・ギヤ・テークルを人力で操作して移動させる。
 これは5人がかり。
 そして魚雷運搬車の架台に安置させる。次に架台の皮バンドで締める。
 それから 深度5mとか6mとかに調整する。

 各部のナットの締め付け。
 グリースの塗りつけ。
 安定舵の装着。
 筐板の装着。
 清水、白絞油、圧搾空気 等の補充補給。
 爆発尖の装置。
  ……これを各人分担でサッとやる。

 それから最低5人がかりで九七艦攻が待機している格納庫か、飛行甲板まで搬送する。
 『赤城』には魚雷や爆弾用の専用リフトがなかった。飛行機用リフトを利用する。
 搬送したところで、魚雷用ではない投下器が機体についていたら、それを魚雷用に変えなければならない。
 魚雷運搬車は、機首の方から、魚雷尾部をさしこむように押し込む。

 投下器への装着は、投下器中央部の魚雷導子の嵌合部分の凹に、魚雷導子の凸をあわせる。※プロペラ回転中は絶対不可能だ。

 経験が要るので、雷爆員以外は、手伝いようがなかった。
 『翔鶴』で戦友の死体処理をして、死ぬときの肌着はオール新品でなければいけないと分かる。

 夜中に最初にこっちを発見したのは、コンソリだった。

 第2魚雷調整場は、右舷、後部下甲板にあった。
 第1は、左舷側にあった。

 MI攻撃直前の雷装は、格納庫内でやった。※一次は艦爆だけなので当然。

 そこには、弾薬運搬車、ガソリン運搬車が、いたるところに。※弾薬運搬車は通常爆弾用か。

 パイロットが各機に向かい走るとき、一斉に「おう」と答えて分かれる。
 すでにエンジン試動監視をしている整備員と、固い握手を交わして乗り込む。

 八十番陸用爆弾は、ふつうの爆弾運搬車では運べない。やはり、魚雷運搬車を使用するより方法はない。飛行甲板上の九七艦攻を、上段、中段の格納庫へリフトで降ろし、逐次、搭載の魚雷をおろす。

 艦攻1機の魚雷を80番陸用爆弾に付け替える作業は、急いで5、6分。それが18機分だった。
 これが完了しないうちに、『利根』機の「敵の巡洋艦らしきもの十」の0428電が入った。

 魚雷調整場の外側の舷梯で、敵の雷撃機が撃ち落されるのを、みんなで見た。
 空母発見電は、兵器員にも知らされていた。誰もが一刻も早く雷装を終えようとした。

 「あせればあせるほど、魚雷の導子が投下器凹所に嵌合しない。横振れがはげしく、装着には全く悪い環境であった。」

 ブリッヂからは立て続けに「発艦準備急げ、発艦急げ」と怒鳴り立てる。※このとき格納庫なのか飛行甲板なのかが不明。

 「ようやく雷装が終了して」、先頭の零戦×1が発艦した直後……。※この人はやはり飛行甲板は見ていなかったと思われる。

 第3弾が後部左舷格納庫内で爆発し、兵員を海中に四散させた。
 艦内照明が消えて、通路は真っ暗。動けない。
 防毒マスクをつけると言葉が交わせない。

 注水弁を開いて弾火薬庫に水を入れたので、長く浮いていられた。生存者も他艦より多かった。

 防毒面は機密保持のた、海に捨ててはならなかった。厠に捨てた。
 下弦の月が利鎌[とがま]のような冴えていた。

 以下、土井美二。『利根』に乗っていた。
 『利根』4番機のコンパス異常は、海戦後に原忠一が、根掘り葉掘り調査して、結論した。

 『利根』水偵からの報告を知ったとき、現地の太陽は「午前10時」くらい。
 海上は無風だったので、空母は高速を出す必要があった。

 『最上』は後進20ノットで内地に帰った。さかさ走りなので敵機も爆撃照準をミスったという。

 以下、若林利七。『加賀』艦爆の3飛曹。
 『加賀』の被弾時、飛行甲板には、艦攻や艦爆の姿は無く、CAPの零戦×数機が、あわただしく発進したのみである。

 以下、島川正明。『加賀』に便乗していた。
 B-17へのAAは、全部、敵機の後方で爆発していた。
 魚雷をかわすときは、よく横転しないと思うくらいに空母は傾斜した。

 『加賀』の艦橋直下にも狭いポケットがあり、搭乗員待機所になっている。人が増えると海に落ちる。下まで20mある。

 以下、『蒼龍』の飛行長。
 被弾したとき、目を皿にして空を見回していた。※ゆえに飛行甲板上のことは印象に無い。
 火災の炎は、艦が高速なので長刀の切先のよう。

 以下、阿部平次郎。『蒼龍』艦攻分隊長、大尉。
 「飛行甲板」に、MI占領後に進駐させる予定の六空の戦闘機が、繋止されていた。

 『蒼龍』の艦攻×1は、MI上空で800kg爆弾が落ちなかった。危険なので着艦せず、随伴駆逐艦の横に不時着水したが、重みですぐ沈んでしまったのではないか。

 以下、研究家の佐藤和正。
 インド洋でコロンボを空襲したとき、1323に換装中だった第2次攻撃隊に、「兵装元へ」を命じ、艦爆は1500までに間に合った(2重巡を沈めた)が、艦攻は1630まで元に戻せなかった(発艦できず)。

▼松永壽雄[とくお]『雷撃機』S19-1、五千部。
 著者は海軍少将でS11に予備だが、『龍驤』と『赤城』の艦長を歴任した。
 少年兵募集用の企画で、難字にルビ付き。

 いまから20年前に霞ヶ浦航空隊で中少尉相手に戦術を教えていた少佐が、質問にあって。
 「……奇想天外式戦法によって敵の急所を衝く、例へば爆弾を抱えて舞下がり、敵艦へ逆落しに突入するとか、諸君が一列となつて、一番機の後方へ二番機、そのまた次へ三番機といふ風に、魚雷を抱えて敵艦橋に体当りを喰はすかといふ位の意気込みでやれば、如何なる堅艦艨艟と雖もこれを撃沈し得るのである。」

 このときの生徒中尉のひとりは、その後、暴風中の空母の訓練で、済州島沖で事故死した。

 S18-1-29にレンネル島沖で、戦艦×3、巡洋艦×4のうち5隻を航空雷撃で沈めたと信じている。そのときH少佐は艦橋に突込んだと。

 雷撃機が注目をひいた始めはS16-5、アイスランド沖の独英海戦。※ビスマルク撃沈。

 実戦の最初は英二等海軍大佐 エドモンドが、1915-8-12に「ショート184型」水上機で、14インチ魚雷をトルコの5000トンの汽船に。ダーダネルス海峡シンジエ・ブルスの西方。まず機は1500フィートに昇り、太陽を背に、エンジンを止めて滑空して 高度15フィートで投下。
 急上昇して降り返ると、右舷メインマストに水煙があがった。海岸に近接していたために沈まなかったが、航行不能に。

 これでビーティは、独港襲撃を思いつき、イスパノ260馬力の「ソッピース・クックー」を200台つくらせんとせしが、西部戦線に余裕なく、立ち消え。

 1916-11-9には独雷撃機がベルギーから出撃してテムス河口の英国汽船を沈めた。3本命中。
 以後、10ヵ月間に37機の雷撃機+護衛戦闘機×21機により、低速の商船3隻を沈めた。

 ロシアも1917に大規模に実験したものの、不採用。
 この当時の雷撃機が軍艦を沈められなかった理由は、魚雷の性能ではなく、機体が鈍重すぎたから。独英ともに水上機を使ったので。

 1932-7-20、演習で英軍雷撃機がウェイマス軍港を襲撃し、主力艦×2に命中魚雷あり。探照灯は点けられ、灯火は消されていた。AAあり。

 1937-9-7、スペイン政府軍は、フランコ側の巡洋艦に対し、爆撃機×3、雷撃機×1の編隊で攻撃。「He123」が、巡洋艦に魚雷2本を放ったが、失中。高度30~40m、距離1000mだった。

 WWII初の航空雷撃は、1940-2-9、独が北海で英哨戒艇×2隻(290トンと、351トン)を沈めたケース。

 空母から雷撃機を反覆して送り出した先例は、1940-9の地中海の英軍で、イタリアは沿岸基地のため一度しか出撃できなかった。

 1940-11-11~12日、タラント襲撃。
 このときは陸上から発進した爆撃機が高空にAAをひきつけ、そこを空母2隻からの雷撃機が異方向から襲って成功。
 敵艦隊が集まる夜を狙った。

 1941-5-24~27日、『ビスマルク』を発見したのもカタリナ。
 航空魚雷×7本、水雷艦からの魚雷×20本以上。トドメは重巡『ドーゼットシャー』が大型魚雷で刺した。

 M45-6に追浜に海軍航空術委員会が設けられたときの長は、山路一善大佐。部下に、帰朝組の中島知久平大尉。

 10年あまり前、著者が訪米したとき、米海軍には熱心な雷撃機論者がいたが、その直後、ヘルダイバー一点張りになり、日本が航空雷撃をやめないから少しは研究しておかねばという空気になったりして、その熱意に消長があった(p.40)。

 補助艦さえ、ダイブ・ボミングで減らしてやれば、主力艦は5:3だから勝てるという考えだった。

 シシリー沖で、空母『イラストリアス』を「ユンカース87」が40機で爆撃し、火災を起こさせたが、マルタ島へ逃げ込まれた。

 雷撃機は、帰投のためには、微積、立体幾何、球面三角法も駆使する。

 航本の大西瀧治郎少将いわく。「この猛訓練に没頭している少中尉の飛行学生は、……一刻でも早く戦場に出たいと思つてゐる、強敵を撃砕して体当りで自ら速かに死して、国を救はねばならぬ――という事に専念して、将来や前途を思ふ者が無い。つまり こんな本を読んで置いたら将来のためになるとか、大尉になりたいとか、佐官になりたいとか、出世栄達など考へる者はなく、当分の問題は 自分が早く戦場に出て、君国の為に死なねばならぬという考へになりきつて居る点には実に頭が下る」(pp.44-5)。

 4斗俵の16俵が1トン。

 真珠湾のときは 風速17m、ローリングがひどく、普通の演習だったら絶対に飛び出し得ぬ「コンディション」であったといはれている(pp.47-8)。

 急降下爆撃機がそのまま墜落するとエンジンが地面に3mめりこむ(p.51)。
 美保関で駆逐艦を二つに割ってしまった巡洋艦の艦長は自決した(p.52)。

 満州事変のときにスチムソンは日本討つべしと言ったが、プラット海軍大将には自信がなかった(p.53)。

 霞ヶ浦神社にすでに1500柱が……。28年の訓練でこれだけ死んでいる。

 一度後落した駆逐艦が、敵戦艦に対して昼間、ふたたび雷撃の好位置を占めることは不可能。そもそも昼間に近寄れるもんじゃない。しかし飛行機ならばそれができるのだ。

 暗がりで対艦攻撃ができるのは雷撃機のみである。急降下爆撃や水平爆撃は、夜は実行できない。

 航空魚雷の圧搾空気は、1平方糎あたり250瓩(p.62)。
 重心点は気室にある。だから空気が減っても重心は一定。

 英国は最近、航空機用に18インチ魚雷を搭載するようになった。炸薬180kg、速力42ノット、駛走距離2000m、全重725kg。

 爆弾は多種である。投下器の調整が面倒だ。だが魚雷は一種類だけだ。

 英機が魚雷をリリースする高度は30m(WWI中は7mだった)。イタリア機は100m。
 WWI中、雷撃機が距離4000mから1000mまで間合いを詰めるのに90秒を擁した。

 空母から雷撃機を発進させるときは、魚雷の重さだけ燃料を減らさなければならない。しかし十分に滑走路が長い陸上基地からなら、もっと多量の燃料を搭載して発進させられる。

 英軍の艦攻は、同じ機体でも、雷撃するときは2人を乗せ、偵察任務のときだけ3人乗せる。

 15年前、米海軍は、『レキシントン』のグレン・マーチン雷撃機を、「スリーパーパスプレーン」、つまり爆撃機や偵察機にも使えるようにしようとしたことあり。

 122ページ。出版時点で海底にある『龍驤』『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』の名を列記しているのが哀しい。

 飛行甲板で飛行機を前に寄せるときは、遮風柵を立てる。
 ガソリン庫の周囲は空室にして、時々、通風機でガスをとばす。どの国の空母も、ガソリン庫は、艦の前後端である。

 ハワイ&マレー沖のあと、NYタイムズでセバスキーは「それみたことか」という論陣を張った。

 淵田中佐(下の名前を伏字にしてある)が、ハワイ攻撃から帰ったあと記者たちに語っている。12月8日の朝4時半は、「天候は相当悪い、北東十七米の強風が吹きすさび……」という状況だったと(p.180)。

 同じく、淵田いわく。重油タンクは真白に塗られていたと。※『航空朝日』の記事?

 MIで敵空母を攻撃した「勇士の話」では、(敵防禦弾幕は)「スコールを逆さにしたやうであつた」。
 『エンタープライズ』は沈めた、としている。

 一等海軍少尉、ジョージ・ゲイ(25歳)の手記。デバステータの魚雷は頭部が白い。キウリと呼んでいた。
 偵察→戦闘機→ダイブ→雷 の順で飛び出した。

 昔、モーターボートから蜜柑の皮を投げたときのように味方機の落とされるのが見えた。
 TBDでは、パイロットがボタンで魚雷をリリースする。まず電気式、だめなら非常槓桿を引く。
 日本の戦闘機に喰われて落とされたが、あとから味方飛行艇により、救われた。

 レンネル島では重巡『シカゴ』が雷撃で沈んだとアメリカ軍が2-16に発表している。
 米海軍航空隊の搭乗員の80%は、一般学生出身だ(p.278)。

▼文藝春秋社『完本・太平洋戦争(一)』1991-12
 小瀬本国雄(蒼龍の艦爆兵)「ハーミスを撃沈せり」。
 アンボンでは、(18機の?)艦爆は250kg爆弾を抱いて飛行甲板に即時待機していた。

 九九艦爆ではパイロットが投下索を引く。

 セイロン空襲では攻撃隊総指揮官の淵田中佐が「第二次攻撃の要あり」と打電してきて、今度は艦爆が出て行った。
 そのとき索敵機から、敵巡×2の報告が来て、江草隊が出て行った。

 『ハーミス』をやったときも例によって、九九艦爆は甲板上に即時待機していた。「ハーミス発見」で飛び出したとき、今回は『翔鶴』の高橋赫一少佐が総指揮をとり、『飛龍』は小林大尉、『蒼龍』は江草が率いた。『赤城』は誰か分らぬ。
 ※この記事、『艦爆一代』の転載であった。

 以下、丸山泰輔(艦攻の兵隊の偵察員)「友永雷撃隊突撃す」
 ガ島のAAはすごかったがMIのAAは大したことなし。けれどもかなりの命中弾を出していた。

 『飛龍』から雷装艦攻が出るとき既に上空には小林艦爆隊がヨークタウン攻撃から戻って旋回しながら待っていた。

 海面の弾着をみて次の弾幕を判断し、右、左と横滑りを命じ続けた。おかげで撃墜されなかった。
 高度20mで距離1500mまで近づくと、AAの12サンチはぜんぶ頭上を越して行く。

 『飛龍』の搭乗員待機室は、上部格納庫と同じレベルにあり、天井が飛行甲板である。

▼島尾敏雄『魚雷艇学生』S60
 第一期魚雷艇学生(S19-4頃)だった。

 木造、全長20m。軽快ではなかった。
 水冷航空エンジン搭載。音は大きいが、速くない。故障も多かった。

 まず敵の艦種をみきわめる。
 艦尾波から、敵速を読む。
 ヨーイ、「テッ」が発射号令。
 オモカジイッパイ でUターンして離脱。