サミット自体がもう時代遅れ。リモート・セレモニーでじゅうぶんだ。

 ストラテジーペイジの2020-5-31記事。
    この4月、ロシア軍ハッカーがポーランドの陸軍大学校のウェブサイトに侵入し、学校長の名を騙って投稿し、NATOおよびポーランド政府を批判した。

 ポーランド国内のネットに侵入してフェイク・レターを投稿することは、露軍のハッカー要員たちにとって、初歩段階の訓練になっているらしい。

 2015前半にウクライナに大停電を引き起こしたロシア製のコンピュータ・ウィルス「ブラックエナジー」。
 NATOが手口を解析したところ、まずウクライナの小さいエネルギー企業3社がスピアフィッシングにやられていた。それらを踏み台にして、ウクライナの全電力ネットワークをMap化する作業が入念に進められたのちに、大々的なマルウェア攻撃が仕掛けられた。

 ロシアのハッカーに全力で対処できているのはエストニアである。2007年からサイバー防備体制を整えた。
 ウクライナはエストニアより大きいのに、対処が遅れていたのである。

 次。
 Jennifer Leman 記者による2020-5-31記事「Watch This Protester Instantly Neutralize Tear Gas」。
    香港市民による抗議デモ隊が、催涙弾への対処法を編み出した。その動画は、昨年秋に、動画配信サイトで世界に流されている。
 地面に転がって白煙を出している催涙弾を、泥を入れた魔法瓶の中に入れて蓋を閉じ、シェイクしてから、中味を全部捨てる。それだけ。

 これについて、催涙ガスに詳しいデューク大学のスウェン・エリック・ジョルト先生に尋ねた。

 催涙弾は、発火すると、木炭が燃える。
 そのさいに、硝酸カリウムや塩素酸カリウムのような化合物が、酸素供給源となっている。
 硝酸カリウムはもっぱら助燃剤として働く。
 塩素酸カリウムは、燃焼反応により分解して、塩化カリウムの煙を立ちのぼらせる。

 催涙弾にはシリコン成分も混ぜられている。これはガスを液滴状にする。
 炭酸マグネシウムも混ぜられている。これは催涙弾内部を過度に酸性にするので、塩素酸カリウムが不安定化するのである。

 もうひとつの秘密成分が、甘味糖のスクローゼ。
 スクローゼは比較的に低温で燃える。そして、有毒・不快な煙が生成されるのを助ける。

 すなわち「2-クロロベンジリデンマロノニトリル(またはクロロベンザルマロノニトリル)」で、通称は「CS」だ。刺激臭がある。

 こうした諸成分が、可燃性のニトロセルロースによって混和されて成形されたものが催涙弾の正体である。

 燃えている催涙弾を泥の入った魔法瓶の中でシェイクすると、酸化反応は阻害され、且つ、気体が出てくるのを泥が封じてしまうのだろう。

 配信されている動画を見る限り、魔法瓶の中に大量の水(もしくは液体窒素)があるようには見えない。
 もし液体窒素が入っているなら、蓋を開けたときに「霧」が出てくるはずだ。

 というわけで、専門家にも、動画の魔法瓶の真の中身については、確信は持てないのであった。

 次。
 Paul French 記者による2020-5-31記事「Stanley Ho’s escape to Macao in World War II laid the foundation for his fortune. But it wasn’t without controversy」。
     マカオを世界のギャンブルのメッカにした男、Stanley Ho Hung-sun が98歳で死去。遺産総額は149億ドルだという。
 マカオを創る前に、彼は自分じしんを創らねばならなかった。
 うまれたのは1921年。

 彼が若いとき、父はサイゴンへ逃げてしまった。1920年代後半の不況で商売がダメになったので。
 じきにWWIIが勃発。香港はクリスマスに陥落した。
 ホーは対空監視哨で配置についていたが、制服を捨てた。そのままでは日本軍に処刑されると考えたので。

 ホーの大叔父は Sir Robert Hotung といい、買弁で巨富を築いていた。西洋人しか住めなかった香港の「ピーク」に邸宅を構えることを許された最初のシナ人である。

 この大叔父が1940年代にマカオに移住し、20歳のホーを呼び寄せた。
 マカオはポルトガル植民地だったので、日本軍から攻撃されなかった。ポルトガルは1944まで中立国だったからである。

 日本軍はマカオの周囲の港湾と海面を支配していたので、マカオのポルトガル総督府は日本軍と協力しなければ食糧も搬入できなかった。

 そこでポルトガル人は、対日協力会社CCMを創った。ホーは大叔父の推挙により、その運営の手伝いをすることになった。
 このCCMの資本の三分の一は、日本陸軍が出していた。

 ホーは日本とのバーター取引を開始する。コメ、砂糖、豆の代価として、機械や工業製品を日本軍に渡したのである。
 ホーはこの商用のため汽船でマカオ島の外部に幾度も往復した。一面、ポルトガル政庁の代理人であり、一面、日本軍の手先であり、一面、自衛海賊であった。

 ホーは必死でポルトガル語と日本語を自習した。
 穀物や野菜の購入先は仏印であった。海南島にも立ち寄った。
 国民党軍にとらわれれば、対日協力者として命の保障は無かった。

 戦争の前半、日本海軍の艦艇は、沿岸を航行する民間貨物船を敵性のものと見てしばしば攻撃した。戦争の後半になると、こんどは米英海軍の潜水艦が、沿岸航行船舶を、日本の輸送船と見て攻撃し始める。

 ホーはこの戦争中に、石油(ケロシン)工場も開設した。

 米軍は1945年になると、マカオのガソリン・ターミナルを空爆した。マカオは事実上、日本の占領下にあるものと看做したのだ。そこから石油が、日本の海軍や、航空部隊に売られていた。

 この結果、ホーの私有精油所が、マカオにおける石油の独占供給者になってしまった。ホーはたちまち富豪になった。

 日本政府は1943年にマカオを事実上の保護国としていた。
 ホーは、マカオにやってきた憲兵隊長の「澤大佐」に英語を教えてやったという。

 終戦直後、国民党軍はホーの身柄を引き渡せとポルトガルに要求したが、ポルトガル政庁はホーを庇った。
 1942年にホーは、マカオの富裕なポルトガル人の娘と婚姻するなどの手を打っていた。

 1945-8のうちにホーは香港に戻り、汽船を買い上げて、マカオ~香港のフェリー航路を経営した。
 彼は回顧している。「戦争中のマカオは、パラダイスだったよ」。