旧資料備忘摘録 2020-6-2 Up

▼古野直也『台湾軍司令部 1829~1945』H3
 台湾人が対日感謝に転じたのは支那事変中で、通訳が、大陸とのあまりの格差に気づいたことから。

 マラリア駆除に40年。
 阿片撲滅に50年。
 首狩根絶に35年。
 平野部鎮定に20年。
 高地蕃の制圧に30年かかった。

 日本は朝鮮には36年で200億ドルを投下した。
 台湾には当初の10年に3500万円。その後は自立している。

 総督 乃木希典。
 乃木の従兄に、御堀耕助という俊才あり。M2に山縣や従道と渡欧。M4に結核で死ぬときに、枕頭の木戸、山県、伊藤らに、死んで行くじぶんの代わりに乃木を出世させて欲しい、と頼み、一同、遺志を守ると誓約した。

 那須野は、主に夏の避暑用の別荘 兼 家庭菜園に過ぎなかった。

 陸軍予算の巨額さに比べれば台湾総督など屁のようなもの。それで桂は避けた。
 朝鮮総督は36年間に8人。
 台湾総督は、50年に19人。

 台湾の官吏は、初代の樺山が連れてきた薩摩人だった。

 乃木は部内通達で民間人接待の飲食を禁じ、違反者は馘にすると申し渡した。
 支那人と土民をカネでてなづける方策にも反対。

 曽根も拓務省の局長からのし上がった男で、只者ではない。
 M32に、マラリアは蚊が伝染すると分かり、M34から、陸軍軍医が防疫に来て、S14までに根絶した。
 その間、キニーネの発見もあった。

 乃木帰国から2ヶ月後、台湾は昔に戻り、高島鞆之助拓相は、汚職を追及した台湾高等法院長をクビにしてしまった。

 乃木が帰国し、京都御所に天皇を訪ねたところ、異例の対個人勅語を下し賜い、しかもその内容は乃木着任の訓示に似ていた。

 3962m峰をニイタカヤマと命名したのも、乃木時代。

 アーネスト・サトウの日記に、台湾の英国領事問題は一語も出てこない。これを理由とする史書は、官僚の作文に騙されているのだ。

 第三次伊藤内閣で桂が陸相になると、台湾→桂宛ての予算請求、伺書、報告書が多くなったので、乃木はそれが厭になったのである。

▼木俣慈郎『桜花特別攻撃隊』S45
 著者は1930静岡生まれ、一ツ橋経済卒。高校の先生。

 米空母のSK大型レーザーは150kmを見張る。
 高度6000mより高いところからだと、まったく海面上の敵艦を視認し得ない。

 高度6000mから桜花をリリースすると、届く距離は1万8000m。
 高度4000m、距離1万2000mで発進させたとすると、飛翔時間は約1分になる。

 S19-7に陸軍は、今後の航空作戦について会議し、そこで技術者がヘンシェル293型式の無線グライダー(戦艦『ローマ』を沈めたやつ)を提案したが、無線操舵が思わしからず。

 館山の341空(零戦主体)の岡村基春司令(大佐)が、S19-6に特攻を提案。

 大田光男特務少尉(水兵からの叩き上げ)は、762空の銀河偵察員。それがS19-7に有人親子爆弾を発案。
 渋谷の東大航空研究所に図面作成を依頼。
 それを8月に、横須賀の海軍航空技術廠へ送った。

 この4ヵ月前、嶋田繁太郎軍令部総長は、艦本と航本に9種の特攻兵器を提案させていた。4番目のが震洋になり、6番目のが回天になる。

 太田は日比谷の航本を尋ね、塚原二四三[ふしぞう]中将に面会。
 海軍では、黒板に人名を書くとき、頭文字をマル、三角で囲むか、アンダーラインを引く。各々、士官、下士官、水兵を表す。
 太田少尉は士官だから、「マル大」となったのである。

 中央がGoを出し、空技廠長・和田操中将→飛行機設計課主任・山名正夫技術中佐→主務設計者・三木忠直技術少佐。
 山名と三木のコンビは、銀河の生みの親である。

 S19-8-16、三木、設計開始。
 エンジンがないので9月中旬に1号機を完成できた。爆薬800kg。

 2枚ラダーになったのは、母機に吊下する関係から。
 エンジンを支えるために、胴だけはアルミにするしかない。その代わり、真円断面として、量産性を追求。

 V1と比べると寸法は小さいが、重さはほぼ同じ。

 練習機に見せかけるために、名称に「花」をつけた。
 初期生産数、50機。

 滑空の最大速度は460km/時だった。
 カタパルト用の火薬は緩燃。だからそのまま転用できた。

 天山を改装空母から発進させるための「4式1号ロケット」(19年秋完成)が使えずに余っていた。平塚の第三火薬廠で作った。
 このロケットを次々と点火すると、水平640km/h、急降下900km/hになる。
 後期にはさらに両翼下にも1基づつ付けたとか。

 追浜航空隊でS19-11-6、地上噴射テスト。
 太田は台湾沖航空戦で10-16に死亡。 ※ということになっていたのか……。

 桜花専用の721航空隊が10-1に開隊。
 721とは、横鎮所管の陸攻隊を意味する符号。
 司令は岡村。百里ヶ原基地。

 721航空隊の下に、711飛行隊あり。これは母機×36機からなる。

 S19-10-23、技術部が木更津から一式陸攻に吊るして飛ばし、無人の桜花を高度4000mから落下させ、相模灘に着水させた。

 10-31、有人実験。
 使ったのは、練習降下用の桜花で、これは8月下旬から「K-1型」として45機作られていた。
 高度3500mからリリース。
 速度220km/時で着陸した。戦闘機の着陸速度 120km/時とは大違いである。

 11-7、七二一空は茨城県の神ノ池に移動。

 弾頭は爆撃部の早川仁・技術少佐。
 炸薬はTNA(九一式爆薬)。

 桜花の最終降下角は20度。
 よって敵艦の上甲板を20度でかすめても起爆する必要がある。

 『磐手』(9180トン)は、至近弾の水圧だけで沈んでいる。
 11-20、実用頭部の投下実験が終わる。

 桜花の母機からの切り離しは、投下爆管による。
 4-12、哨戒艦『マナート・L・アベール』に対し、母機が1800m〔?〕まで近づいて、高度6000m〔?〕で投下した。命中し、轟沈。
 乗員350名中、104名が戦死または行方不明に。

 桜花の最期の模様が判明しているのは、4機のみである。
 『マナート・L・アベール』は、桜花が来る1分前に、別の特攻機が命中していて、航行不能状態であった。

 横須賀の第一技術廠(空技廠をS20-2に改名)は、終戦までに155機をつくり、練習用の「K-1」型も45機生産。
 霞ヶ浦の第一航空廠では、600機の桜花を作ったという。

 小田野正之『学徒特攻隊』によると、訓練は、一式陸攻によって、高度4000mからリリースする。

 「二二型」も、山名中佐主任、三木と、服部六郎・技術少佐が担当。
 図面はS20-2完成。1ヶ月で設計した。

 「二二型」は、「ツ-一一」型(初風ロケット)という一種のジェットエンジンをもつ。※パルスジェット。
 空気取り入れは両胴側から。
 290リッターの燃料で15分飛べる。
 よって「22型」は高度3500mから放すと70km~110km届く。

 「22型」の試作1号は、4月にできた。
 全長が80cm長くなり、主翼は90cm短い。銀河の狭い車輪間に制約されたため。
 エンジンの重さが2割重い。やむなく、弾頭重量を600kgに減らした。

 初風は、推力200kg。日立製作所製。
 22型実験機は、S20-5に、七二二空に届いた。

 空中始動ができないので、地上から暖機運転していく必要があった。
 S20-6-26に投下実験。失敗。パイロット死亡。
 増速用のロケット×1に、先に点火されてしまい、母機と衝突した。

 二二型を空技廠は、終戦までに約50機、製作した。実戦使用は無し。

 B-29が落とした時限爆弾には、最長で36時間後に爆発するタイマーがついていた。

 S20-3-26に、本土沿岸防衛型の桜花の設計がスタートした。
 4月末、図面完成。「四三型」とす。
 はやり三木少佐による。

 「噴進射出機一〇型」と称する、桜花専用のカタパルトを使う。
 全長97m。これを山の上に設置。
 桜花は本番まで、山の麓のトンネル内に格納しておく。トンネル内では翼は折りたたむ。
 ケーブルカーによって、山上へ引き上げる。

 「四三型」は自重2.3トン。

 射出機1基に対し、四三型桜花を5機から10機、配する計画。
 そのカタパルトを3基から5基まとめて、1基地とする。

 カタパルトには15度の俯角がついている。
 エンジンは「ネ-20」ターボジェット。ドイツからもらった設計図(Me-262用)をもとに国産した。

 四三型桜花は、翼スパンが二二型桜花の2倍。
 しかし、カタパルトで射出後、一挙に高度4000mまで上昇し、500km/hで滑空でき、レンジは280kmになる。

 弾頭重量は800kgとした。
 飛行中、消費した燃料分が軽くなる。そこで翼端を投棄して翼面積を小さくするのがよい。
 これをまず九九艦爆で実験した。

 「一一」「二二」型桜花は木製翼だったが、この方式のために「四三」型の主翼はジュラルミン製にした。

 「四三型甲」は、「イ-400」型潜水艦に搭載しようというもの。
 陸上基地用は、「四三型乙」。けっきょく、こっちのみ、量産することに決まった。

 S20-6末頃、11型用のK-1型機を二人乗りに改造した「四三型射出練習機」が完成。
 着陸用の橇と、8秒燃える小型ロケットがついている。
 終戦までに2機、つくられた。
 発射実験は成功した。 ※武山海兵団の平地から?

 四三型の実戦部隊は第725航空隊で、S20-7-1に発足した。これが、日本海軍が編成した最後の航空隊となった。場所は琵琶湖。

 比叡山のカタパルトから、四国沖~伊勢湾をカバーできた。
 8-3、「二二型」は見切りをつけられ、隊員の一部は725空へ転属するよう命令された。
 岡村はS21に千葉で鉄道自殺している。

▼内藤初穂『桜花 非情の特攻兵器』S57
 著者は大10生まれ。

 増速ロケットはパフォーマンスが均等でないため、左右の翼下にとりつけるのはよくないということが、10-31の有人テストで判明した。とっさに切り離せたので、テスパイは助かっている。

 11-3の実験では、水バラストを頭部から先に捨てたために、操舵不能となり、ハードランディング。テスパイは2時間後に死亡。

 『信濃』を廻漕に使わんとした。50機積み込んで、沈められた。

 比島のマルコット飛行場に、桜花秘匿トンネルを掘ったが、使われず。

 神雷部隊の岡村から、1技廠の山名に対する、「二二型」の要請は、2-28以前にあった。
 2-28時点で、山名には成案があった。
 したがって、「一一型」の全滅より、前である。

 「二二型」は3月下旬に機体関係の設計を了えた。秘密主義も止めにし、愛知航空機に量産させる方針へ。

 ターボジェットで母機投下式のを「三三型」と称す。
 「四三乙」のカタパルトは、火薬ロケット×2本使用する。

 米艦隊のピケットラインは、110~130kmの半径。そこに哨戒艦がいる。

 桜花の信管は、大型艦用に遅働となっている。だから駆逐艦の『スタンリー』に命中した機は、弾頭が爆発する前に艦首の反対舷まで突き抜けてしまって、駆逐艦は小破しただけだった。

 比叡山が選ばれたのは、全国のケーブルカーで金属供出されずに残っていたのが、そこと、生駒山(大阪府)のみだったから。

 このカタパルトは、火薬を節約するための、重錘式であった。

 初風は、高度4000m以上では動かない。10機だけ、うまく調整されていた。
 6-26に銀河から有人でリリースしてみた。
 高度1000mまで降りたところで、テスパイはパラシュートで脱出する予定であった。
 ところが火薬ロケットに先に火がついてしまった。
 テスパイはベイルアウトしたが、その落下傘が半開で、墜死した。
 この結果、増速ロケットは「二二」にはつけないことになった。

 初風は、7-20~8-1まで6回の空中テストを重ねたが、開けると振動、絞るとストールで、うまくなかった。

 「四三乙」型は、対馬と津軽海峡にまず配備される予定であった。
 8-12に、「二二型」の投下実験をしようとしたが、ボルトにヒビが入り、中止。

▼碇義朗『航空テクノロジーの戦い』1996 FN文庫
 空技廠はS7-4-1にできた。
 S16に、電気部と爆弾部が新設されて9部に。

 本廠では機体やエンジンを扱う。支廠では搭載兵器や爆弾、試作、実験を分担。
 爆弾部は、弾体生産を民間や光工廠にまかせ、製鋼だけをするようになった。だから製鋼部と改称した。

 スキップボミングは近づくまで爆音が届かないので、奇襲になる。
 田中重美は飛行機部第一工場に配置され、桜花の試作もてがけた(p.70)。

 アメリカの艦船に対する爆弾攻撃の研究は、兵器部2科(爆撃)の小島正巳少佐(のち大佐)らによってS10頃からなされていた。

 水平防御鋼鈑の厚さは重巡で70mm、正規空母は80ミリ、戦艦100~150ミリ。
 艦本では、それを航空爆弾で貫徹できると認めたがらない。

 S10に20cmの「爆弾砲」で実験するとき、爆弾の形状は逆テーパーにした(p.93)。

 燃料タンクは燃料が漏れるから火がつく。内部では火はつかない。
 末期の本土上空で、オレンジ色の煙を引いておちるのは日本機。黒煙や無煙で落ちるのは米機だった。

 ガラスの断面はふつう、青い。これを重ねると光線透過率が落ちる。鉄分の少ない硅砂でつくったガラスは青くない。白板ガラスと呼んだ。

 ボーキサイトは、マレー半島の先端、すぐ鼻先にあるビンターンという小島から主として積み出され、静岡県の清水港で陸揚げされていた(p.280)。

 著者は戦中、立川の陸軍航空技術研究所で、ソ連のラグ3の粗っぽい仕上げの木製飛行機体を見た。
 1科3班の専門は、熱処理および巻線(コイル)ばね。

 電気部には、開戦直後に米国から帰朝した電気部の有坂亮平という技術中佐がいた。
 筒内爆発は陸海軍のどちらにもよくあった。加藤建夫の部下もそれらしい事故で死んでいる(p.334)。※つまり13ミリの爆発弾頭。

 ばねメーカーの中央発条は、疲労試験の方法がわかっていなかった。固有振動数に合わせて伸縮させても無意味なのだ。

▼渡辺洋二『日本の軍用機/海軍編』1997-1
 彗星は小型空母では離着艦できないので、古い零戦二一型が、マリアナ沖海戦には、「爆戦」として数十機、積まれた。

 紫電と紫電改は、対重爆用の局戦ではない。対戦闘機用の「甲戦」。
 S18-4以降、局地戦闘機は「乙戦」と改称。

 レシプロ双発戦闘機で成功したのはP-38だけ。
 中島の単フロートは、米ヴォート社の血統。
 二式水戦はアリューシャンでは駐機中に強風と波浪で壊された。
 父島に配備された9機は、S19-7-4の早朝にF6F×2機を撃墜。こっちは5機やられた。

 日本海軍は「流星」を2座にして艦攻と艦爆の単一機種化をはかった。米海軍もXSB2Dで同様の模索。最後の雷撃攻撃機スカイレーダーは単座。

 日本の艦爆の歴史が浅いのは、何でも英国準拠だったから。英国に艦爆なかった。日本はS6から米海軍の艦爆に着目した。

 彗星は航本が身内の航空廠に作らせたために低性能機に仕上がった。もし民間メーカーがあれを作ったなら、門前払いされたレベルであった。おそらく愛知に九九の後継を空冷エンジンで作らせていたなら、堅実な機材が早くできていたろう(pp.108-9)。

 艦爆/急降下爆撃機は、WWIIでだけ活躍ができるような諸条件が、揃っていた。

 ハワイ作戦では、戦艦は静止していたのに、九九艦爆は6割の爆弾命中率だった。しかしS17-4-9の『ハーミス』に対しては82%を当てている。

 九九艦爆とドントレスを比べると、爆弾搭載能力、速度、航続力のすべてで劣っていた。

 彗星は油圧メカを減らして電気駆動にすることで、油もれを回避しようとした。しかし主車輪ブレーキとプロペラピッチ角度の変更だけは油圧に頼るしかなかった。

 彗星の二一型と二二型は、『伊勢』『日向』からのカタパルト射出に対応した型。

 泰山は双発の限界につきあたり、放棄された。まともに防御能力を付与するなら四発しかないと航本(本庄季郎技師)がようやく気づいて、連山。

 海軍では急降下爆撃が可能なものだけを「爆撃機」に区分する。銀河は唯一の陸上爆撃機となった。
 航空廠は、S14に航空技術廠に改編。

 インテグラルタンクでは本格的な防弾はできない。
 米国で実用されていた内袋に必要な耐ガソリン性の人造ゴムは、日本では作れなかった。

 WWII中に制式採用された対潜哨戒専用機は日本の「東海」しかない。資源小国の無駄行政だった。
 機首まわりはドルニエそっくり借用。

 まず電探機が潜水艦発見を基地に報告する。磁探機が3~6機で捜索し、各機が1発の25番を投下する。
 この流儀で、済州島の九五一空は、敵潜7隻を撃沈したという。

 日本は飛行機用の爆雷を造れなかった(p.151)。

 ターボジェット×2の橘花はトンネル内から発進させるために主翼は畳める。水際決戦用なので航続力は要求されなかった。

 彩雲は艦偵として完成したのに一度も空母から運用されなかった。速度で勝った相手はF4Fだけで、P-38には追いつかれた。助かる方法は、こっちから先に敵戦闘機を見つけること。その点、三座の見張り力が活きた。

 身内の空技廠だからこそ可能だった資源の大無駄使いが「景雲」の開発。
 九州飛行機はその前は渡辺鉄工所といった。

 零観が米戦闘機を落とせたはずがない。緒戦の報告は誇張誇大だ。
 航本は「瑞雲」が水上爆撃機なので「水爆」と呼んだ。

 晴嵐が液冷エンジンなのは、その方が狭い潜水艦に格納しやすかったから。

 九七式飛行艇がS17早々、爆装、雷装3機づつ、モルッカ海で敵水上機母艦単艦を攻撃して一弾もあたらず、逆に1機が落とされた。
 軍用機の真価はデータ表の数字にはなく、どれだけ戦闘に貢献できたかに尽きる。日本の「大艇」はこの点、落第だった。

 2式飛行艇の二三型は、低オクタン燃料も使える燃料噴射式の「火星」二五乙に換えてみた試作機。
 2式大艇は1式陸攻の5倍の単価。夜間の対潜哨戒か長距離人員輸送がせいぜい適任だった。そして、近代的四発実用機を作れなかった日本……と言われるのを打ち消したことが無形の功績。

 「晴空」はS19後半以降、孤島やラバウル、比島からの救出活動に用いられた。一〇二一空では隠蔽のため、北海道の洞爺湖に避退させたこともある。

 ※テキスト中心なのに旧軍機ラインナップをビビッドに説明し切っている快著。従来の解説書の、枝葉末節コンシャスなもどかしさがない。

▼横井勝彦『大英帝国の〈死の商人〉』1997-8
 イギリス軍需産業の資本家連合は、ヴィッカーズ、マキシム、アームストロング、ジョン・ブラウン。

 南北戦争期にアメリカは100万丁以上の銃をイギリスから輸入した。
 北軍だけでも400万丁を使い、うち100万丁は輸入であった。
 北部はすぐに自給するようになり、1863-9にイギリスとの銃取引を停止。

 幕末維新期の日本も中古品を中心に七十数万丁を輸入している。

 元込め、施条[しじょう]の大砲はニューカッスルの企業家ウイリアム・アームストロングが開発した。
 幕府は1862の使節団に、ウーリッジ王立造兵廠でのアームストロング砲の製造を視察させていた。
 佐賀藩は1861にロシアにアームストロング砲×2門を発注した。

 萩の反射炉は鉄製砲の製造に失敗した。そこから南に2kmの郡司銃砲鋳造所でひきつづき旧式の青銅砲を製造した。

 19世紀後半、オランダのリエージュの小銃生産はバーミンガムを凌駕。
 手工業的な熟練に頼っていたイギリスの銃産業は、1853のアメリカ視察の報告をうけ、陸軍省の主導でアメリカ式の標準化量産システムに再編。
 エンフィールド造兵廠が新設された。

 ブーア戦争はイギリス側が6週間で終わると踏んでいたのに2年7ヵ月に延びた。トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は各種最新銃器を輸入し、1899-10のタナラ丘陵では、ヴィッカーズ製の大型機関銃ポムポム銃がイギリス軍に向けられた。

 19世紀初頭に英国のH・モーズレーは、改良ネジ切り旋盤や、マイクロメーターを考案した。
 ホイットワースは、モーズレーに学び、自動平削り盤と、100万分の1インチの精密計測器を考案。ネジの溝を標準化した。

 1851-5のロンドン万博開催と同時に英陸軍は、円筒尖端型弾丸を用いる前装施条銃ミニエー銃を制式化した。

 米政府は民間兵器産業も応援した。マサチューセッツにスプリングフィールド、ヴァージニアにはハーパース・フェリーという造兵廠がありながら、コルトの模範的工場からも銃を調達した。

 戦艦『比叡』の蒸気タービンは、ヴィッカーズからの輸入。13万2000ポンドだった。
 1897にヴィッカーズはマキシム・ノルデンフェルド兵器会社を買収。

 1903、海軍工廠条令。横須賀、呉、佐世保、舞鶴。
 1904にアームストロング社の株主総会で会長アンドリュー・ノブルが報告。日露双方の艦が黄海海戦で3000ヤード以内に接近しなかったのは、互いに魚雷をおそれたからだ。そのため今日、艦砲の重要性が増している。

 イギリス産業革命は1840年にほぼ完了。軍事部門の変革とは終始無縁だった。ナポレオン戦争からクリミア戦争まで、英陸軍の野砲は進歩していない。先込めの滑腔砲のままだった。

 1858にまずイギリス陸軍が施条のアームストロング野砲を制式採用した。
 翌年、英海軍の艦砲にも。
 だからアロー戦争では、施条砲が火を吹いている。

 1889時点でアームストロング社は英国内の6番目の軍艦製造業者。それが10年後にはヴィッカーズ社と並ぶ最大手に。

 英政府は1931に武器輸出禁止令。ライセンス制の導入により。
 1932年に英国は日本に、大砲・曲射砲などを10門、輸出した(p.185)。
 機関銃は740丁、輸出した。

 満州事変をうけて英外相は1933-2-27に、日中両国への暫定的な武器禁輸を宣言。しかし3-13には、枢密院議長S・ボールドウィンがそれを正式に撤回。その2週間後に日本は連盟脱退。

 米国は1922の武器禁輸法によって、中国への軍需品の輸出はできなかった。
 しかし1929にこの規制が緩む。国務長官と中国公使館が承認すれば、蒋介石政府への武器輸出ができるようにされた。他の軍閥向けだと×。

 ロンドン南部ウーリッチに大砲博物館がある。