まだこっちは夏ではない。

 Craig Singleton 記者による2020-6-4記事「Exposing China’s Malign Influence Activities in the United States」。
       以前の上院議員で、駐支大使でもあったマックス・ボーカスは、中共企業を顧客とするコンサルティンググループを保有している。また、ファーウェイ社は、以前のホワイトハウススタッフだったアンディ・パーディをセキュリティ責任者として雇い上げている。

 ホワイトハウスは「大統領令13770」を強化するべきだろう。連邦議会も「18 U.S.C. § 207」を再考したがっている。それにより、かつて米政府の高官だった者が、外国政府所有の企業や、米国の国家安全保障をおびやかす会社に雇われることは禁じられるであろう。

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 Bradley A. Thayer 記者による2020-6-4記事「The Chinese Regime Is Not Legitimate」。
      政治的な合法性は、明示的もしくは暗黙裡の人民からの同意を必要とする。ところが中共政体にはこれがまったくない。
 これまでは人民に富があたえられることが、非合法性の見返りだった。しかし新コロでそれが変わる。

 シナ人民は、じぶんたちの意思で合法的な政府を得ていない。だから世界は、中共を、合法政府として扱うべきではない。
 世界は、かつてのアパルトヘイト体制の南ア政府と同様に、今の中共に対するべきである。
 つまり、中共との商売をボイコットするべきである。

 中共を、世界経済から切り離さねばならない。
 西側諸国はけっして一帯一路に加担すべきではない。それは非合法政体との共謀行為である。
 日本主導のアジア開発銀行のようなあり方が正しい。

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 Captain Jamie McGrath 記者による2020-6-3記事「There Are No Strategic Chokepoints」。
   ※記者は退役海軍大佐。
     かつて英海軍のボス、ジョン・フィッシャーは言った。世界には五つの鎖鑰がある。すなわちドーバー海峡、ジブラルタル海峡、スエズ運河、マラッカ海峡、喜望峰であり、英国がその全部を握るのだと。

 今日、このような考え方はあてはめられない。
 焦点は、戦略的海面にある。それらをつなぐ部分(海峡部)にはない。

 1905年の日本海海戦で東郷平八郎は、バルチック艦隊は対馬海峡に必ず来ると予想して麾下艦隊を一点集中させることが可能だった。というのは当時の石炭エンジンの燃費の悪さから計算して、津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡を経由してバ艦隊がウラジオ入りする可能性など無いと判断できたからだ。

 ところが現代には、このような制約がない。誰も、ひとつの通路にこだわる必要がないのだ。
 もしひとつの海峡を「支配」したとしても、その両サイドの海域の支配は保証されない。

 WWI中、英国は、ドーバー海峡と、北海の出入りを、ドイツ艦船に対して機雷堰で閉ざした。これは確かにドイツの屈服に貢献した。
 しかしヒトラーはフランスの港を占領することによって、イギリスの北海封鎖を無効化した。

 今日、マラッカ海峡が閉塞されれば、シンガポールは収入が途絶えて困るだろうが、商船は必ず代替の迂回路路を見つける。輸送コストは上昇するけれども、世界の船会社はそれを市場合理的に調整してしまう。

 2000年代前半、アフリカの角沖の海賊脅威にも、世界の船会社は、市場合理的に対応した。代替ルートは常に見出されるのだ。

 スエズ運河は1869年の開通いらい、5回、閉鎖されている。長かったのは1967年から75年までの8年間だ。しかしそれでも世界貿易に深刻な影響はなかった。マラッカ海峡の影響は、それよりもずっと軽微だろう。

 冷戦時代には、グリーンランド~アイスランド~英国の線をソ連のSSBNに対して封鎖しておかないと、米本土がSLBMで脅威されてしまうと心配されていた。しかし今日、SLBMの射程が延びたため、ロシアは北極海に居ながらにして合衆国本土を核攻撃できる。

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 SARAH ROSE 記者による2020-6-4記事「Pan Am flight attendants conducted their own special missions during the Vietnam War」。
     ベトナム戦争中、パンナムは、休暇兵士や死体搬送のために国防総省と契約して、民航ジェット機を太平洋域でたくさん飛ばしていた。その機長たちの多くは朝鮮戦争のベテランだったが、スチュワーデスたちは特に選ばれた者たちではなかった。サイゴンのタンソニェット空港を離陸した直後にベトコンの対空火器に撃たれて4発エンジンのうちのひとつが火を吹き、しょうがないのでルートを変更して比島のクラーク基地に降りた、などという体験もめずらしくなかった。

 米空軍は、このフライトアテンダントたちに、臨時に「中尉」の階級を与えていた。というのは万一捕虜になったとき、将校の正規階級があると、扱いが良くなるからである。これはジュネーヴ条約で定まっている。

 機材は最初はレシプロのDC-6だったが、最後はボーイング707になった。これらは政府に1ドルでレンタルされた体裁をとっていた。

 1967年のピーク時点ではベトナムの戦地上空を800人の民間人スチュワーデスが飛んでいた。
 このスチュワーデスたちは当時は短大卒以上と定まっており、ひとつの外国語ができることになっていた。
 1968年時点ではスチュワーデスは35歳前に退職を強いられた。既婚者もダメだった。

 サイゴンにDC-6を着陸させるときは、敵火から撃たれないように、急降下する必要があった。
 南ベトナムの飛行場には2時間以上とどまっていてはならなかった。2時間で乗客の入れ替えと、機体点検を終わらせて、すぐに飛び立つのだ。