Frank Smitha 記者による2014記事「Hysteria, More Purges, and German Tricks」。
イェゾフ長官の時代、1937年だけでも、NKVDの職員3000人が銃殺されたと見積もられる。
罪状は反ソビエト・トロツキスト、あるいはドイツ・日本のスパイ。彼らによると、トロツキーはルドルフ・ヘスと面談してソ連産業のサボタージュを企てたという。
トロツキーは、政治的発言はしないという約束を破ったのでノルウェーから追い出され、1937-1にメキシコに移住していた。
ソ連軍参謀総長のトゥハチェフスキーは有能な人物だった。であるがゆえにスターリンとしては恐れる理由があった。赤軍を動員されたら、スターリン独裁などかんたんに覆ってしまう。
そこでこの機乗ずべしとドイツは偽文書を用意してやった。1937年の前半、トゥハチェフスキーがドイツ国内の知人に宛てて、じぶんがスターリン体制を変革するつもりだと語っている内容の。それがソ連のスパイの手に落ちるように工作してやると、まんまとその手紙がスターリンの手元へ届けられた。
6月、トゥハチェフスキーと他の陸軍高級将官多数が裁判にかけられ、即決処刑された。
さらに血の粛清の波は中堅将校や海軍にまで及んだ。
陸軍の元帥3人、ソ連に16個あった軍の司令官のうち14人、ソ連に199個あった師団の師団長136人、ソ連に397個あった旅団の旅団長221人、ソ連に8人いた海軍大将が殺された。
スターリン粛清は、最終的に3万5000人のソ連軍将校を銃殺または投獄させた。
米国大衆はWWI中に、反独ヒステリーを体験している。
ソ連の粛清はそんな生易しいものじゃなかった。大衆が粛清に加担しなければならなかった。それと比肩できるのは1960年代の毛沢東の「文化大革命」ぐらいである。
理想主義を掲げて社会を変えようとする運動の渦中では、「不寛容」が正当化され賞揚される。
トロツキーやトゥハチェフスキーのようなソ連の最高幹部でさえ資本主義の走狗であると分かったならば、そこらの工場の管理職は皆、資本家の味方であり得る。各工場で労働者集会が開かれ、サボタージュが相互監視された。
ささいな仕事上の失敗が、意図的破壊工作と糾弾される可能性があった。
密告が賞揚された。気に入らない同僚、上司、親戚、あるいはライバルを告発すれば、そいつは、秘密警察に連行されて、いなくなるのだ。誰もが濫用した。
無実の犠牲者は、次のような表現で正当化された。「木を切り倒す作業中は、少しは木片が飛び散って当たる」。レーニンにいわせると、すべての犯罪者が逮捕されるためにならば、少数の無実の犠牲者は忍容されねばならぬ。
イェゾフは密告と連動する摘発にもノルマを定めた。NKVDは囚人労働ビジネスを持続させねばならず、そのための受刑者確保が1938まで必要だった。最初の裁判で投獄された強制労働キャンプで刑期を満了したはずの囚人たちも、ただ一方的に、第二の刑期があると申し渡された。
最後のみせしめ裁判は、1938-3-2に開かれた。ブハーリン、リュコフ、2人のウズベク人共産党員、そして前のNKVD長官のヤゴダも21人の被告の列の中にあった。罪状は、1936に病死しているゴリキーの暗殺、1918のレーニン暗殺未遂、ウクライナとベロルシアと極東と中央アジアとトルキスタンをソ連から切り離そうとしたこと、だという。
ブハーリンは当時として珍しくも罪状を否認したが死刑になった。ジェルジンスキーの下でチェーカ(NKVDの前身)はすばらしい仕事をしたのに、その組織が堕落したのだと信じつつ、彼は処刑された。
イェゾフもその後、逮捕された。
晩年にモロトフが語ったところによると、地方署ごとに反革命分子検挙数のノルマを割り振ったのがイェゾフの大罪である。そしてイェゾフは銃殺されるときにじぶんで目隠しを外したという。
イェゾフは1938-11に、ベリアに交代させられた。ベリアはスターリンと同郷の旧友である。
イェゾフはじぶんの運命を察していて、最後は身なりだらしなく、酒浸りで執務していたという。
ベリアは、NKVD幹部のほとんど全員を銃殺もしくは収獄した。イェゾフが処刑されたのは1940年である。
モロトフはスターリンは正しかったと最後まで庇っている。しかし当時、モロトフが見ている前で、スターリンは、1日に最大1000人におよぶ処刑命令に、連日、サインしていたのである。
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Rachel Semigran 記者による2015-8-10記事「The True Story Behind Ben Franklin’s Lightning Experiment」。
フィラデルフィアの人、ベンジャミン・フランクリンは、友人の科学者ピーター・コリンソンから電球を貰った。
フランクリンは電気でスパークを起こす実験をいろいろしているうちに、雷とは巨大なスパークそのものだろうと思うようになった。
当初、フランクリンは、電気は流体だと考えた。
1750年、フランクリンはコリンソンに手紙を書いて、30フィートの金属棒で雷を引き込めるのではないかと提案している。彼は、早くもその時点で、そうした金属棒が建物にとっての避雷針になる可能性に気づいた。
だが、雷雲のある高度まで導電体を伸ばす手段がないと思い、実験には踏み切らなかった。
1752年、彼は、ならば凧を使えばどうかと思いついた。
その頃、フランクリンがコリンソンに宛てた1950の手紙が仏訳されていて、それがパリの科学者たちに刺激を与えていた。そのことをフランクリン自身は知らなかった。
そしてトマス・フランソワ・ダリバーという仏人科学者が大きな金属棒を使い、1752-5-10に、フランクリンの仮説をほぼ実証したのである。
フランクリンが凧で被雷実験をしたとされる日付は1752-6-10である。
フランクリンは、戸外のシェルターの下に立ち、雷雲の下で絹製の凧を上げた。その凧には金属の鍵がむすびつけられていた。雷撃があり、電気がライデン瓶の中に蓄えられた――とされる。
この話には、うたがわしいところが多々ある。
1752-10に、フランクリンは『ペンシルヴェニア・ガゼット』紙に寄稿し、鉄棒を使った実験がフィラデルフィアにおいてなされた、と短く報告している。それは凧を使うといった複雑なものではなくて、もっとずっと簡易なものだったと。
フランクリンは、その実験をしたのが自分であるとも語っていない。
雷の正体を確かめる実験について、フランクリンは、詳しく記述したことが一度もない。つまり本人は、その分野には、ごく小さな関心しかなかった。
だが全米の人々が勝手に、フランクリンの実験をでっちあげた。
フランクリンの凧実験なるものをドラマチックに物語化したのは、ジョセフ・プリーストリーで、1767年のことであった。
もし、プリーストリーが詳細に描写したような方法で、誰かが雷雲からほんとうに雷撃を導いたとしたら、その実験者は、その場で即死するであろう。
じっさいには、フランクリンは1752年に、こう言っているのみである。凧から吊るした鍵に触れることができたとしたなら、あなたは、小さなスパークを感じることができるはずである。そのとき、もっと電圧が高ければ、あなたの体内が焦げてしまうだろう、と。
フランクリンは、雷は電気ではないかと肯定的に仮定した。しかし、それを証明する最初の実験をしたのは彼ではない。また、彼自身は凧では実験していないと考えるのが妥当である。
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Joshua Berlinger 記者による2020-6-10記事「North Korea might be making millions — and breaking sanctions — selling sand. Yes, sand.」。
黄海に面した北鮮の港、海州。2019-5に、ここに100隻以上の砂運搬船が集まっているのが衛星から撮影された。浚渫作業に使われる船である。
つまり北鮮は砂を輸出しているのだ。砂ぐらいいいじゃないかと思うかもしれないが、国連が2017-12に決議した制裁条項にはちゃんと、地面から掘った物を輸出することは禁じられると規定してある。だから、レッキとした国連決議違反だ。
2019年5月から12月まで、北鮮は100万トンのサンドを輸出し、2200万ドル稼いだと見積もられる。
これら砂運搬船は、中共の船名で、中共の旗を掲げ、中共領海から蝟集している。
便宜船籍ですらない。堂々とやっているのだ。
砂は山砂ではなく、海砂である。
じつは人類は毎年500億トンの砂を消費している。水に次いで多く利用されている資源なのだ。
陸上の砂漠にある砂、あれは、建設用としてはまったく向かない。粒子が細かすぎて、うまく結合してくれないのである。
セメント用に最善の砂は、川砂だ。
川砂が足りないときは、海砂を使う。ただしコンクリートに使う前には塩分をすべて抜かなくてはならない。長期間、雨ざらしにする工程が必要なのだ。
中共では昨年、揚子江での砂掘りが禁止されている。
おそらく北鮮は、海砂を掘る権利を中共企業に売ったのだろう。