何か仕事ないですかね

 Lisa Hix 記者による2017-7-3記事「Kaboom! 10 Facts About Firecrackers That Will Blow You Away」。
        七月四日の米独立記念日には、打ち上げ花火ばかりではなく、地上で爆竹も鳴らされる。この爆竹が輸入される前は、銃器の発砲や、鉄床発射(アンヴィルを2個上下に重ね、その隙間に黒色火薬を装填して導火線によって爆燃させると上側のかなとこが宙に舞う)などで景気付けをしており、とても危なかった。

 米国が独立してから最初の11年は、記念日に花火は使われていない。窓辺の蝋燭、大篝火、鐘、マスケット銃の空砲、パレードはあった。

 ついで、鉄床飛ばしが登場した。これはもともと英本国でやってた。
 飛ばされる方のアンヴィルは、天地をさかさまにして載せる。炸裂音は隣村にまで轟いた。群集は、落下してくるかなとこを避けなければならない。それが馬鹿騒ぎ向けで、面白かったようだ。

 1787年に、清国から戻った貿易船が、爆竹を積んでいた。初めて、ファイアークラッカーが米国に輸入されたのである。

 南部諸州では、7-4イベントは1930年代より前には盛大に祝われることはなかった。というのは、彼らはアンチ連邦主義者だからだ。

 南部ではそのかわりに、1830年代以降、クリスマスシーズンに爆竹が鳴らされた。

 クリスマス期間には、奴隷の黒人たちが、爆竹を買って鳴らした。
 そのカネが無い場合には、豚の膀胱に空気を入れて火にくべ、破裂させた。

 南部のプランテーションのオーナー達にとって、奴隷労働者が集まって独立記念の気勢を上げるのは怖ろしい。そこで、やるならクリスマスにやれ、ということにしたのである。キリスト教の神は、人々を平等にしてくれるが、それは死んだ後である。だから荘園領主たちには都合が好かった。ゆえに、当時の爆竹の商品ラベルにも、よくサンタクロースが描かれている。

 爆竹は北米で製造してもまったく商売にならなかった。というのは19世紀のシナの家内工業は、1人1日17時間、7セントという工賃だった。それが週に7日なのだから、まるで競争になるわけがない。

 爆竹は誰が作っても似たようなものなので、差異化のために、木箱の表紙絵に工夫が凝らされた。1910年代にシナに持ち込まれたリトグラフ印刷機が、その競争に拍車をかけた。今日、コレクターの手に、さまざまなボックスアートが蒐集されている。

 シナでは紙の入手は一苦労だった。常に不足していた。それで1920年代に、古新聞で爆竹の筒を巻けばいいというリサイクルを誰かが思いついた。

 米国では当時、古紙回収はボーイスカウトや教会の仕事であった。
 米国で回収された古新聞が、爆竹を積んできた商船の空いた船倉に積み込まれて、またシナまで運ばれた。このパターンは1970年代まで続いた。

 爆竹の黒色火薬にアルミ粉を混ぜると、強烈な閃光を放つ。これは1916年以降の製品で、シアトルの企業が考えて、シナで量産させた。

 1912年の辛亥革命は、白人の工場オーナーをシナ領内に居づらくした。そこで欧米資本の爆竹工場の、あるものは香港に、またあるものはマカオに移転した。1925年までに。

 1972年にニクソンが、シナ本土の工場からの対米輸出を解禁(朝鮮戦争いらい経済制裁をかけていた)するまでは、マカオ製の花火が米国市場を席捲していた。

 1974年までに、米国で売られる爆竹はすべて中共本土製となった。価格競争力が段違いだからである。

 爆竹で子供が大怪我したり家が焼けるという報道は米国では1875年からある。
 1950代に再びそれが大問題になり、1発の薬量が50ミリグラム以下に規制された。

 「セフティ・ヒューズ」も工夫された。これは導火線の中央部や根元からいきなり点火することがむずかしくしてある。端からしか点火できない。
 成分として、塩化カリウムや硫黄の追加もできないようにされた。爆発力を抑制するため。

 1967年には、大型爆竹である「M-80」や「チェリーボム」の売買は「重罪」とされた。
 今日、18の州では爆竹そのものが所持禁止品である。

 その他の州で売られている爆竹は、長さ1.5インチか、「八分の七」インチかのどちらかに収斂している。