旧資料備忘摘録 2020-8-11 Up

▼廣瀬豊『山鹿素行全集思想篇 第八巻』S16-9
 以下、「山鹿語類」巻第27~巻第32。

 手首の下の動脈の搏動するところを「寸口」という。
 備えの先端、のぎの先のようなところにいるので、のぎの次左衛門と名乗った武士。
 同様、杉先と名乗った武士も武田家にはいた。

 もし主君に不満があるのなら、さっさと辞職して去ること。恨みを抱きながら部下として勤め続けることぐらい悪いことはない。必ずよくないことが起きる。

 「このこと京都にきこえければ」(p.123)。
 江戸時代に参内する大名は、小者に「小便筒」を携帯させて従えた。

 前田利家の経験。いざというとき逃げないで従ってくれるのはやはり譜代。新参の部下は、去ってしまう。

 わが言の「だみ」たる=訛っている。

 愚将は小敵を大にしてしまう。敵が弱いうちにとりひしいでしまえばよいのに、大事のつもりをいたして期をのばし、むざむざ彼の謀が調おるように待ってやって、後になって大敵となり、あしらいがむずかしくなってしまうのだ。

 城の鉄砲狭間は、敵兵の腰の高さに位置させるとよい。

 稲富一夢が、射手を近寄せない烏を仕留めたテクニック。飛脚が往来しているように装い、鉄炮の先に文箱をゆいつけてまず通りすぎ、背後から射殺した。

 大軍と対峙することになった小軍は、まず、退き口が確保できる陣地を選べ。

 人指=人々から指弾されること。
 夜襲では鉄砲は使わない。同士討ちになるので。
 白衣=着流しのような格好。

 浪波[らっぱ]者。筒の中に火付竹を封じたものを、50人から100人に持たせて、敵陣営に潜入させて焼き討ち工作させる。

 橋を焼いて落とそうと思ったら、まず近所の小屋を破壊してその材木を橋の上に積み上げ、そこに火を着ける。

 8人のプロ武士がいれば、あたかも決死の籠城部隊が180人いるように見せかけることができる。そうしておいて、開城交渉に持ち込む。

 かぶとの前立てが長いと、うつむいたときに、遠くからそれがよくわかる。敵の城内から鉄砲を打ちかけられたとき、それが届かなかったと敵の射手に思わせるよう、攻め手の武将は、いちいちうつむいてやれ。さすれば敵射手は照準点を上げるからで、玉がみな飛び越すようになって、1発も当たらなくなる。

 兵卒が敵の鉄砲玉の落下点を指差すことは厳禁せよ。敵(守城兵)に正確な照準のヒントを与えてしまうから。

 大坂の陣の七日目、家康軍の先手が勝利して一段落したので、小銃にこめてある弾薬を空に向けて打ち抜かせたら、それが敵襲だと錯覚され、旗本まで崩れかかった。友くずれ、という。

 「どん八」という武士がいた。
 城の中から外を偵察するときは、前立てのあるカブトは脱いでおけ。その前立てが見えたところに敵の射手は照準をつけ、顔が見えたところで発射するからである。

 当時の爪切りは、小刀を使った。
 刀を抜こうとしている者を後方から妨害するには、相手のこじりをそっと持ち上げてやる。するとその者は前に倒れてしまう。

 秀吉は信長を面とむかって褒める機会があったら必ず褒めるようにした。このようにおべんちゃらを言われて機嫌の悪くなる殿様はいないのである。

 「九州の大名小倉にあつまり備中守が演説する處を承知す」(p.418)。

 関西には犬神あり、関東にはかまいたちあり。

 「多聞」と「博文」は大事である。歴史を学ぶことである。じぶんの見聞ばかりをどれほど積んだとして、その積累いくばくぞ。歴史の書物には上古から今日までの事蹟が書かれている。これから1000年先といえども、上代より今日に至るそれらのできごとと、教訓は、異ならないであろう。

 和人=わどの=you。

 大友の皇子。みる目、きく耳、かぐ鼻という3者のスパイを駆使していたことが、旧記に書いてある。

 女房の容色が衰えたり、亡くなったときに、決してその女について悪口のようなことを言ってはならない。それこそ「かたはら痛い」=傍らの人が聞いて聞き苦しい からである。

 人の一生は、十年ごとに大変化すると思っておけ。

 書状は草書体にするな。特に目上に差し上げる書状は。
 江戸から会津まで、6日がかりだった。

 大坂のとき、越前軍の小屋で、胴乱(弾薬盒)に火がついて火事になった。使いが諸手にそのいいわけをした。井伊直孝の評。このようなときは、敵が火箭を射掛けてきた、と入っておけば、格好能くおさまるのだ、と。

 じんどう という鏃があった。神頭。
 中間・小者は、ふだん「あしなか」を履くこと。

 那須与一が人前で扇を射たときは、カブトは童に持たせていた。カブトの下には「揉烏帽子」というものがあり、それを引っ張れば烏帽子になったのである。

 今日では屋敷の床下には「しきり」がところどころにあり、潜入者への対策となっている。

 菊池武光はある戦場で馬を17頭、乗り換えた。
 馬上で使う弓が大きいと、わが馬首の左から右へ敵が運動したときに、照準が追随できなくなる。

 つけずまい。馬が鞍をつけられることを嫌って暴れる。
 木の皮も、馬のエサになる。大豆しかないときは、水でふやかして与えること。

 以下、士談6
 飽間 あくま という姓があった。

 延元元年の東寺の合戦。太平記によれば、攻め手である宮方は、「持楯」「ひしき楯」をかついで攻めた。
 ※ひしき は引敷き か?
 ※寺は要塞なので、上から射られないように楯を担いだのであろう。

 楠木正行が住吉で山名と合戦のとき。三尺余の長刀の若武者が騎馬で進む。
 その次に法師武者。柄の長さ1丈余の「槍」を馬の平頸にひきそえて、続く。
 この話は太平記の25巻に出る。

 以下、士談7。
 新田義貞の馬は矢2本で小膝を折って倒れた。太平記16巻に出る。湊川から敗走の途中。

 松永久秀は、天守に上がり、秘蔵の釜「平蜘蛛」を打ち砕いて、火をかけて焼死した(p.157)。※爆破などしてない。

 以下、士談8。
 源平盛衰記21巻のエピソード。和田義盛が小坪の戦の前に藤平実光にたずねた。楯突きの軍は度々してきたが、馬上の戦いはしたことがない。どうすればよいのかと。
 答え。敵を左に据える。矢はぜったいにいいかげんに射ない。敵の隙間ができる瞬間までためらえ。敵が一の矢を放つのを待て。二の矢をつがえようとするときに内冑が見えるからそこで隙間を射るのだ。
 射たらすぐこっちも二の矢をつがえる。それもすぐに射ないで、敵の隙間を見守る。
 敵も同じことを考えているから、常に鎧づきせよ。《昔は馬を射ることなし。近年は敵のすきま無きときは、先づ馬の太腹を射て、主を跳ね落とさせ、立ち上がらんとするところを》、射ようとする。
 敵が一人なのに大勢で矢を射るな。矢がもったいないから。
 遠距離から矢ばかり射て引き分けになるのは下策。
 ※要するに矢がものすごく貴重品だった。原文に「守る」とあるのは「みまもる、みつめる」の意味だ。

 源三位頼政は、弓をつよく引かんためにわざと冑を着なかった。
  ※部下に任せられないほど手兵は少人数だった。

 わが朝は、辺鄙粟散の境とは申し乍ら

 天文16年、原美濃守は50歳だったが、馬で足軽を護衛して行ったところ、敵騎兵がつけてくるので、敵の近づいたところで下馬して、鎗をとって敵を4騎ついて落とした。

 永禄いらい、つまり信長いらい、一番鎗に対して、1000、2000、3000、8000石の賞が発生するようになった。保元・平治から、鎗の功名などというものはなかったのだが、信長の時分から、鎗を以て天下に誇るようになった。鎗でなければ功名ではないほどになった(p.302)。

 以下、士談9。
 「相証拠」。2人武士が互いに手柄を証言し合う。

 源平盛衰記30に、斎藤実盛が討ち死にしたとき、手塚太郎らは弓手の方へ回って仕留めた。弓を持っておらず、打ち物だったので、左に回りこむのが有利だった。
 ※実盛はそのとき老人であり、戦って勝つ気はなかった。

 一撃離脱=「打ち抜け夜討ち」。 翌日に第二次の夜討ち隊を出すこと=返り討ち。これは不利であるぞ(p.384)。

 以下、士談10。
 花山院を射たのは蟇目である。
 驚かすのが目的だった。流罪。

 馬には1日4升の大豆をくわせなければ、1日に20里を歩かせることはできない(pp.526-7)。

 以下、士談11。
 宋の大将は銅鉄の面をはめて矢を防いでいた。顔もわからなくなるので戦場では都合がよかった。
 日本には頬当はあるが、鉄面は竹刀稽古のときにしか使ってない?

 信州の上田で天文16年に村上と武田信玄が合戦したとき、村上義清は、矢を5回射たら鉄砲を射てと命じた。※玉と薬が稀少だったのだ。

 昔は、箙、やなぐい。これは背負うもの。ところが、旗指し物を背負うようになり、これらを着ける場所が腰に変わった。それが うつぼ。

 鎗の柄は、軽くて堅いのがよい。

 杉柄を好んだ武者もあった。上田宗古は、杉柄のやりをつねに所持した。
 志賀與右衛門は、杉柄のやりを一生、投げ突きにしていたという。

 阿波の三好軍。皆、竹柄の鎗であった。それは京都人から見るとめずらしかったのだという。

 近頃、「鎗鐵炮」というのがある。鎗に、小筒を持ち添える。鎗を突き出すと、同時に発射される仕掛。

 浅野家の亀田高緒は、1尺余の鉄炮(ピストル)にうでぬき(ストラップ)を付けて、常に馬の際に持たせていた。〔従者に?〕
 慶長5年に新加納川を押し渡るときに、これを川の半ばで発射して、向こう岸の敵を驚かせたと。これも「小筒」である。

 母衣について。これは、箙[えびら]の矢数をあらはすまじきために、箙の母盧衣と云ったのがオリジナルである。
 母衣の大きなものをなびかせれば、遠くでこちらを狙う矢は当たらないともいわれた。
 ※矢を禦ぐとは一言も語っていない(p.589)。

 馬は大きければよいというのが応仁の乱の頃までの風潮だった。信長以降は、大きい馬は避ける。というのは、武具を着装した姿で、口取りなしに乗り降りするのがたいへんだから。
 元暦(げんりゃく・1184~1185)の頃は、「八き」すなわち馬のたけ4尺8寸などというのをよろこんでいた。大河を越すにはそれもいいかもしれないが。

 大きい馬は駆け引きが自由ではない。日々、弓矢が盛んになる趨勢なので、乗ったり降りたりを頻繁にくりかえさないとサバイバルできない。
 賤ヶ岳で秀吉が乗っていたのか4尺2寸だった。
  ※馬じたいが矢玉のマトになってしまう。また、強い馬が興奮すると乗り手をなかなか乗せてくれなかったり、勝手に敵中に単騎で飛び込んでしまい制御できない。

 たとえば、腹帯が延びていると、鎧武者・敵馘・鎗・抜いた刀をもって、口取りなしには、馬に再び乗れなくなる。そこに敵がおいついてきて、討ち取られてしまう。天正9年に織田信澄(信長の弟・信行の子)は、4尺3寸強の馬だったため、取り残されて討たれた。

▼廣瀬豊『山鹿素行全集思想篇 第七巻』S16-8
 以下、「山鹿語類」第21~第26。

 無差別=わきまえなし。
 一動一静一語一黙おのおの礼節あり。

 朝起きて、辰の刻=午前8時に一食。それから3時=6時間後、すなわち未の刻=午後1~2時に一食。
 この二回では不足ある場合は、 日が長い季節だったら、昼食する。夜が長い季節だったら、夜食する。

 老年の後は、魚肉をもって老衰の気血をたすけしむ。

 仕官の者は、四十歳が絶頂期である。はかりごとが、適切にかなう。

 大坂夏の陣のとき伊達政宗が、奈良においてすべての足軽大将をあつめて鉄砲をつるべ射ちさせた。ところが加藤太という足軽大将は、火薬と火縄を無駄使いさせないようにと別に梱包して小荷駄にして後から追装させていたので、部下300人の足軽は鉄砲だけを持っていて、発砲することができなかった。正宗は怒って加藤をみずから斬って捨てた。また、足軽たちに刀を抜かせて木を切らせ、人足を代役に立てていた者を見つけ出して成敗した。

 関ヶ原のとき、日下部右衛門は、伏見城に在番のとき、常に下々に三度の食をくわせて、臨戦態勢を維持した。

 楠木正成いわく、戦士が17歳から戦場に出ていても、図に当たる戦闘ができるようになるのは30歳ぐらいである。そして、それが戦士のピークである。28歳より若い武者が、かけひきを知らなくても、それは仕方がない。元気がないよりもマシである。

 ちかごろ俗のもてはやす たばこ というなる物(p.201)。

 加賀の二曲[ふとうげ]という城。今は別宮[べっく]と号する土地だが、そこを一揆が取り囲んだ。足軽大将は、腕に火縄をかけて鉄炮を打っていたが、その火が火薬箱に移って大爆発し、やぐらが倒壊した。

 三川黄門・秀康は、悪瘡をわずらって、鼻がなくなってしまった。そこで細工師に人工の鼻をこしらえさせて、その鼻をつけて出仕していた。※家康の第二子の結城秀康は、34歳で没。

 手枷のことを「ほだし」という。

 道潅の居宅を静勝軒といったのは、尉繚子の言葉から。兵は静かなるをもって勝つ。国は、専ら(一体団結)なるによって勝つ。

 なにごとも時ぞと思へ夏来ては錦にまさる麻の狭衣。

 簡単にすばやく拷問するときは、脛を閂の木でひしぐ。

以下、山鹿語類 巻第22  士談1

 吾妻鏡によると、頼朝が入洛したとき、随兵は、冑と腹巻であった。
 素行はみずから火薬の調合までやった。(p.204)。

 徳川家康の子の結城秀康に仕えていた下級武士。60間先に的を立てて、矢を射て必中であった。
 ※60間=1町=109mである。
 ※那須与一は七段=70mだった。

 吾妻鏡によると、石橋山合戦のとき山内滝口三郎経俊が頼朝の鎧に命中させた矢の「口巻」に名字が記されてあった。

 太田道潅は湯殿において長刀で殺害された(p.336)。

 以下、士談4。
 松平左近忠次と武田勝頼の合戦のとき、矢種が尽きたので同僚の矢を貰って射たらそれが敵の騎馬武者を松木にとじつけて倒した。矢には「矢印」として元の持主の記名があり、誰の手柄かの確定が遅れた。
 このとき弓は、居り敷いて射た。ということは巨大な弓ではない。

 源平盛衰記によると、木曽義仲の鎧は「薄金」といった。それが今日は重く覚えるといって討ち死に。

 以下、士談5。
 関ヶ原の前段として、伏見城が攻囲された。このとき先手を命じられた松野主馬。仕寄の竹把[たけたば]を、城内から火矢で焼きたてるので防ぎかねた。
 そこで対抗策を考え、竹束の上に壁土を塗った。

▼広瀬豊『山鹿素行兵學全集第四巻 武経全書講義 上』S19-8 日本出版配給株式会社

 広瀬はM36海兵卒、退役海軍大佐。軍縮期に東大文学部に3年送られ、教育学を専攻した。吉田松陰についての著作が多い。
 武経全書は、素行が35歳のとき。明暦2年に書いた。入門書であり、晩年まで教科書として用いたそうだ。

 その十数年前に「兵法神武雄備集」を書いている。その要点を抜き、敷衍している。
 門人が編纂したのは「武教小学」。

 この底本は、素行の孫の津軽耕道が編纂した。自筆本。
 耕道は素行が没したときは4歳。父の津軽政廣は素行の女婿でありまた高弟。津軽藩の家老であるが25歳で若死にした。死んだ年に耕道が誕生。

 耕道、30歳から32歳にかけて、武教全書の諸説詳論家伝秘鈔を書いた。それを今回、改題した。

 素行の兵学の師は、小幡景憲(元亀3年=1572~1663=寛文3年)。関ヶ原と大坂陣に参加。御使番。甲陽軍鑑の共著者の一人。
 景憲は、武田の猛将の昌盛の3男。素行は15歳から景憲に師事した。

 北條氏長は、素行といっしょに小幡の弟子であった。素行から見て、兄弟子。寛文10年に62歳で没した。
 武は勇の因る所(p.17)。

 足軽のことを昔は「弓鉄炮の者」と言った(p.171)。
  ※素行軍学では、長柄隊は足軽でも武者でもないらしい。

 肩などに怪我をすると、摺れて痛いので具足が着られなくなる。頭奉行にことわって、素肌で出陣することあり。

 大坂陣では、徒歩の衆には具足を着せずに羽織を着せたという。
 軽卒の冑は、銅で作る。そのまま水を汲んで鍋にできる。革を用いる家もある(p.209)。

 かまり(伏兵)、夜込み、夜働きのときは、長道具、大指し物は用いず、特別な印をつける。

 団扇は将の楯という説がある。近代、それは重いので采配になった。
 ※軍配のこと。

 敵味方が距離が2町ばかりに近づくと、両陣、互いに鉄炮が始まる。1町の内外になると、鉄炮競り合いがしげくなる。備合が30間になると、弓、鉄炮、長柄がいりまじる。剛者は進み、怯者は退く。

 敵兵の顔は1町から面の色が見える。そこが、足軽隊を投入する距離だ。

 屏ごし、垣ごし、築地ごしに鎗で突くことは自慢にはならない。それを高言するものを「犬やり」と貶める。
 ※「投げ突き」といわれるものがこれ。鎗を投げるのではなく、歩兵が自分の頭より上に両手で持ち上げて突くので、投げ突きという。「払いの鎗」ともいうそうだ。

 馬上の槍を犬鎗とみなす向きもある。理由は、馬上から鎗を使うような局面は両陣営の激突ではありえない。敵が崩れたのを追いかけるときか、こっちがたじたじとなって崩れかけているところに敵が迫った場合しかない。だからこちらの指揮官としては、それを特に褒めたりしない。

 送り足軽、迎え備え。
 弓・鉄炮の足軽を、1組か2組、ひきつれて馬で物見に出る。足軽組を危うそうな場所に待たせて、備えとする。そして物見武者が騎乗で先行する。

 迎え備えは、その送り足軽も潰乱した場合に、一段後方でそれを収容する備え。

 もし伏兵が出たら、物見は早々、引き取る。同時に足軽も軽く後退する。
 ※騎兵が精兵で、縦横無尽に活躍できるなら、こんな足軽の護衛など必要ないはず。日本の地形では、騎兵が歩兵を頼りにし、そのスピードにあわせるしかないのだ。

 「四寸の身」。人間の胸板は厚さが4寸だと考えられている。馬を千鳥掛けに乗り回せば、敵の鉄炮に対して4寸幅の的しか呈示しないことになる。

 馬上にて、徒歩立ちの敵と仕合うときは、まず乗り回して歩兵を疲れさせる。※直撃する騎兵は居なかった。そんなことをすればやられるからだ。

 歩兵の側は、まず馬を鎗で突いて騎兵を落馬させよ。

 叢林中を騎乗で進むときは、鎗がひっかかるので、鎗の塩首(=けらくび)を掴んで、柄をひきずるようにする。

 逃げていく敵歩兵の真後ろから馬で追ってはならない。敵が急に振り返って居り敷いたら、その鎗が突き刺さっててしまう。

 鎗歩兵同士の戦い。敵の体や顔面に鎗が刺さったら、それを抜くな。敵が倒れるまで、そのまま押しまくる。こちらの鎗の石突を取って、前に鎗を投げるようにして敵を押し倒す。敵兵が倒れるまで、刺さった鎗先を抜こうとしてはならない。敵が倒れたなら、そこで鎗を抜き、再三また刺してもよい。一回刺しただけですぐに首を取りに行くのは危ない。何度も刺したあとで、首を取りたいときは、最後に刺した槍を抜かずに、その柄を踏みながら近づけ。

 武者が戦場を走り回って大活躍(強働き)しようと思ったら、頬当ては外して行け。特に夏は。猿頬でない限り、息が詰まってしまうので。

 長距離行軍するときは、脛当てを外す。戦場を走り回りたいときにも、外す。
 隊を組んで行軍する「武者押し」「備え押し」のときは、脛当てをする。

 鎗の長さは、9尺から2間まで。刀は2尺5寸または3寸。脇差は1尺5寸。純金や純銀で拵えを飾ると雑人に目をつけられて盗まれるので、用いない。

 重代の刀脇差は戦場へは持っていかない。それを子孫に残し伝えねばという心が生じて、決心が不自由になるので。

 武者は、5歳以下の若馬に乗ってはならない。家康は、大切の場では、小荷駄の馬に騎乗するようにしていた。
 ※勝手に敵中に飛び入ってしまうことがない。とつぜん暴れて振り落とすこともない。

 6歳から8歳がよい。
 馬が興奮して敵に向かおうとしているのに、乗り手がそれを必死で制している姿を味方に目撃されるのはみっともないし、全軍の士気にもかかわる。

 馬の標準は4尺とされていた。素行は、大きい馬はよくないといい、上限は四尺3寸5分だとする。

 馬面は、矢玉を禦ぐための装甲だったか?
 違う。敵の馬を恐れ戦かせ、騒がせるための、脅かし用の小道具だった。だから金銀で彩色するべきである。
 北條氏康などがかつてこれを使って、戦場で効果があった。

 50騎の一備は、横が70~80間、縦が2町ほどになる。

 義経や楠木の軍勢は騎兵主体だった。
 信玄の部下の山本が、《馬を退かしめ、馬を遠ざける》ことを信玄に説き、これを採用した信玄軍は有利に戦った(p.539)。
 敵軍とぶつかる前に、乗馬武者は下馬し、馬を後方へ退げさせてしまうのである。

 馬の口に付いている中間、夫嵐子のたぐいは、敵軍を目にしたらすっかり怯えてしまう。
 足軽の組とは、30人くらいである(p.544)。

 弓・鉄炮は、敵味方の距離が50間~30間になると、足軽を出してせりあわせる。
 距離が15間くらいまで狭まったところで、次に「長柄」が出る。鎗は3間柄。人数は50人~30人。
 この鎗で敵の備えを叩き立てる。

 長柄(鎗)は、敵を攻めるためにあるのではなく、武者の「垣」なのだという説もあり(p.547)。

 長柄部隊を集団で用いたことが記録されているのは、楠木正儀。太平記。京都で細川頼春軍と合戦したとき、鎗30本を集中させて優勢。
 正儀は正行の弟。正成の子。

 長柄は武者の垣であり、「馬を入れられざる」ためにするのだともいう(p.547)。
 こっちに鎗兵が2人居れば、敵の1騎を止められる。

 小連[こづらなり]とは。5人の弓と5人の鉄炮を横に並べて交互に発射させる。

 長柄は、出し惜しんでよい。当代は、たいていは、鉄炮と弓の足軽のかけひきだけで形勢が決まる。敵が逃げ始めれば、ただちに武者が前に出るので、長柄の出番はない。それでよい。

 「折立」おりたち。馬から離れ、馬は後を引き下げさせ、みずからは徒歩立ちで勝負を致すこと。

 行列の表。足軽大将1人の下に、鉄炮5+弓5+鉄炮5+弓5+鉄炮5の足軽組が付く。これに数騎の与力(大将の助手)が付く。与力は鎗。
 つまり鉄炮15梃+弓10張という配分で、35人。

 侍大将には、「楯持」が1名付く。

 陣地前の柵は、連続不断に構築はできないので、「切れ切れ」に結べばよい。敵の1備え(30人以上の集団)がそのままでは通過できなければよい。

▼廣瀬豊『山鹿素行全集思想篇 第十一巻』S15-8
 月報より。「武経餘談」は素行が53歳のとき、武器研究をまとめたもの。三重県の伊賀上野図書館に明治時代に寄贈された。
 素行の嫡子、山鹿藤介(高基)は、カネに困り、父の自筆本を売っている。それほど素行は年収があった。
 三代目の山鹿高道が平戸に移住したのは、やはり経済的な理由だろう。

 油の灯はどうやったって蝋燭よりは暗い。
 義経の弓流しは、屋島。弱い弓なので敵に拾われては面目に関わると。
 素行は義経を高く評価せず。一つとして道にあたらず。また、その属せる者、皆、匹夫猪男である。

 鉞を研いで針にする者がいるか。
 岡目は八目(p.271)。
 素行の時代、牢人は武具を質屋に売りまくっていた。
 隋の煬帝、遼を伐って、国覆る。

 問い。天下が治まったときには大名に普請を命じて、あらぬ心を起こさぬようにする。秀吉の朝鮮出兵もこれだったでしょうか?

 わが正をもって人の不正を正すのが征なのに、秀吉は何の正しいことがあって高麗の不正を正したというのか。

 お手伝い普請が悪いことになっている。取り潰されたくないので大名が幕府におもねって請けている。そのツケは領民に対する苛斂誅求となる。それではいざというときの武役はできないではないか。

 屏風は曲がっているから立つ。
 愛・敬 を強調したのは陽明先生。

 天下の公理の彼我はない。門人たちは他の先生のところにも出入りしてくれ。われもまた未だ敢えてみずからもって是とはしない。

 柳生但馬守の門人にさほどの剣術の上手はいない。自分が上達していなかった頃のことを忘れてしまったので、弟子をうまく導けないのであろう。

 素行があるとき歩き疲れていたら、路傍の百姓が、足が軽く、よく歩く人だねと声をかけたので、疲れが吹っ飛んだ。将は卒に声をかけろと義経が言ったのは、これだ。

 ある人はシナを「中華」といい、本朝を中華とは呼ばなかった(p.374)。

 愚将は小敵を大敵にしてしまう。島原一揆の鎮定はその典型。原城をすぐに強襲すればよかったのに、ぐずぐずやっていたから一揆軍がどんどん籠城の準備を進めてしまった。

 山鹿随筆。「鉄炮の性」。
 浅野長治(赤穂城主の長直の親戚)が素行のところに来て語った。
 浅野長幸は稲富一夢の弟子であった。一夢が注文して鍛造させた筒が50梃あった。
 今の鉄炮は、銃身の曲がりや、筒の「巣の内」を直したり、目当と目割(照準部品)の位置を修正することができるが、稲富の注文鉄炮は、そうした銃身修正をしないで照準部品をつけてあり、1梃ごとに照準点と弾着の関係に癖があった。しかし銃身の金属は分厚く、何年放置しても、たくさん発射しても、その癖は変化しない。したがって個々の銃の癖を掴んでしまえば必ず中ったと。
 素行いわく、癖を無理に修正しようとしても、何年も放置したり、たくさん発射すれば、また元に戻ってしまうのだろう。稲富はそれを知っていたのだろう、と。(pp.405-406)。

 関ヶ原や大坂陣での大量殺人は咎ではないのか。答え。已むを得ず。人を殺すを嫌えば、人来たりて我を殺すなり。

 寛文5年。東海道の駄賃(駄馬の料金)が値上がりした。

 予が著すところの武経は、神武でも聖武でもない。唯これ人の武なり。延宝8年。
 淀川河口になぜ泥が堆積しないか。大和川と合流していて、洪水のたびに勢いよく押し流すから。

 山鹿随筆。
 寛文13年、奥平原八復讐事件。公儀の厳命。「群卒を以て攻撃するは仇を報ずるに非ず」と(p.615)。
 取手の者  ……柔術の先生。
 束帯で太刀は抜き難い。これは鞘尻を思い切り上げれば抜ける。
 御主たち おのしゅたち (p.626)。

▼『山鹿素行全集思想篇 第五巻』S16-5
 山鹿語類。
 周代の「兵民」。
 周礼によれば、1家から1人の兵を出す。
 5人を伍という。
 5伍を兩という。25人。
 4兩を卒という。100人。
 5卒を旅という。
 5旅を師という。2500人。
 5師を軍という。25000人。

▼延原謙tr.『ドイル傑作集 III ボクシング編』S35 新潮文庫
 試合にそなえたトレーニング。ハイランド地方の道路を一日に40マイル走る。1811年頃。
 1805年頃、ブロードウオータ・ルールあり。
 トレーニング中に煙草はいけないという通念あり。しかし、守られない。

 30マイル=48kmにわたるロードワーク、しかもそのうち最後の1マイルはサラブレッド馬をつけた郵便車のあとへついての駆け足。果てしない縄跳び。そうやって最後の一塊まで脂肪をとる。

 1810年の対ナポレオン戦争中のこと。マセーナ将軍は、不安と辛労のため、「体毛が一本として白くないのはなくなった」。

 夜間は、ほくちの光でポケットの磁石を見る。
 敵陣を単騎偵察中、馬が斃れてしまったら、まず鞍を外して隠す。そうすれば、どちらの軍の馬かは、誰にもわからなくなる。

 1878年頃、ふるくからあった素手の懸賞拳闘試合は、スキャンダルや不面目のうちに衰微していた。
 いまや伝統的スポーツは、一文なしの連中だけによって支えられているのだ。

 巻末訳者解説。アマ・ボクシング・クラブが創立された1866年以前の、ビュジリズム。勝者に多額の懸賞をかける、興行拳闘。ディケンズもこれを題材に長篇小説を書いたという。