旧資料備忘摘録 2020-8-14 Up

▼奥田貞吉『帝國國旗及軍艦旗』M35-7 春陽堂
 著者は海軍少佐。

 明治22年10月までは、日章旗を以って、国旗ならびに軍艦旗の双方に用いていた。
 日本の軍艦旗に類似するデザインとしては次のものがある。
 海軍大将旗。放射光が8条。
 海軍中将旗。大将旗の上辺に赤い横筋が加わる。
 海軍少将旗。中将旗の下辺にも赤の横筋が加わる。
 代将旗。横筋はなく、右側が燕尾に切り欠かれている。
 先任旗。代将旗の赤白が反転し、赤字に白の日章+放射光となる。

 陸軍旗。海軍旗と同様、放射光が16条の旭日デザインだが、赤丸の位置がセンターにあるのが海軍旗と違う。 歩兵聯隊旗。陸軍旗の上辺、右辺、下辺が紫縁となる。
 騎兵聯隊旗。陸軍聯隊旗を、長方形ではなく正方形におさめる。

 ※今の陸自の連隊旗は放射光の条数を減らしてあって、且つ、縁ナシ。

 他国の旗。
 米海軍の軍艦が、水先を招く要のあるときに艦首に出す旗は、青地に46個の星を白抜きしたもの。

 ロシアの商船旗は、水平三帯の三色旗で、上から、白・青・赤。これを国旗に用いることもあり。
 ロシアの海軍旗は、白地に、青のX。

 山田長政が暹羅国より駿府浅間神社に献じた扁額の中に、当時の海戦中の軍艦が旭日旗を掲げている図あり。
 ※その図は本書には添えられていないので確かめられない。

 幕府は安政元年7月11日をもって、大船にはかならず白地に日の丸の幟を掲用すべきことを布令。

 明治3年正月27日、布告第57号。西洋形商船に、御国旗(日章旗)を掲ぐべきこと。その帝国国旗の寸法等についても規定された。それがそのまま軍艦旗ともなった。

 明治3年5月15日、布告第355号。陸軍御國旗の名を以って、旭日旗を制定。

 明治3年10月3日、布告第651号。海軍の皇族旗、大将旗、中将旗、少将旗、代将旗、護送船旗、水路嚮導旗、ならびに旒を制定。御國旗(日章旗)を軍艦旗ならびに艦首旗として用いることは従前の慣例の如し。ただし旒はこのとき初めて制定された。

 明治4年11月29日、布告第626号。従来の海軍諸旗章を廃し、新たに制定しなおす。御旗は従前の通り。御旗を軍艦旗ならびに船首旗として用いることも従前の通り。

 途中略。

 明治22年10月7日、はじめて専用の軍艦旗(旭日章)が制定された。勅令第111号。海軍旗章条例発布。天皇旗、皇后旗、皇太子旗、親王旗、海軍大臣旗、など。そして、軍艦旗が、旭日章として新設された。その他、海軍病院旗なども。いご、御國旗は、艦首旗と改称される。

 旭日章の御光16条は、菊花御紋章の形から導かれているのだろう(p.12)。

 1606年にジェームス1世が英蘭とスコットランドの王位を兼ねた。それで両国の旗章を抱き合わせてセントアンドリュー徽章とした。ジェームスのことを仏語でジャックという。1801にジョージ3世がアイルランドも合併し、その旗章も抱き合わせた。これが、ユニオンジャック。

▼玉井茂『西洋思想史の人びと』1967-3
 協力執筆者が4人いる。
 知識を所有するソフォスではなく、それを愛求するフィロソフォスだと自己定義したのがソクラテス。自然のhowではなくwhyを気にした。そして外自然中心ではなく、人間中心の哲学を創始した。
 「なんじ自身を知れ」はもともと、デルフィの神殿にかかげられてあった。

 プラトンの『メノン』によれば、ソクラテスは「風貌もその他の点でも、海にいるあのひらたいシビレエイ(近づいて触れるものをしびれさせる魚)そっくりです」。

 ※原文未確認だが、もし英語で ray と呼ばれた魚であるとすれば、それは19世紀に「機雷」を意味することになる「トーピドー・フィッシュ」とイコールである。待ち伏せ兵器にこそ、トーピドーの名はふさわしいのだ。

 仏語の lycee は アリストテレスが開設した学校 リュケィオン が語源。
 プラトンが『国家』で理想視した共産主義より、『法律』で妥協した国家がむしろ理想的だと弟子のアリストテレスは考えた。富者と貧者との中間が「法」によって統治する。

 アリストテレスは、ペルシャ人などアジア民族が奴隷的で自由を知らぬのは「ノモス=法習」ではなく「自然」なのだとした。※20世紀地政学の萌芽がここにある。ノモスの基礎に地理があると見抜いていたわけ。

 エピクロスは、人間はじぶんでじぶんを支えねばならず、他人にも神々にも期待せずに、みずから足りる(アウタルケイア)でなくてはならないとした。

 アウグスティヌスはマニ教の有名な学者ファウストゥスと会ってひどく失望した。
 ギリシャ人と違って、アウグスティヌスは、歴史は反覆せず不可逆的な直線コースを進むと考えた。なぜならキリストは一回しか存在していない。

 ルター「われわれは、善をなすときですら、つねに悪を犯すものである」。
 カルヴァン本人には人民主権の思想などなかったが、国家のことを国王にまかせないカルヴィニズムの姿勢は、農村的なルター主義よりも市民経済にマッチした。だからそこからユグノーとピューリタンが派生して、市民革命をなしとげる。

 わたしは何を知っているか=ク・セ・ジュ? と言ったのはモンテーニュ。
 自我を客体化し客観的に分析できるようにしたのはデカルト。

 デカルトやホッブズ、ロックの時代、西欧でいちばん自由だったのがオランダ。人体解剖もオランダがさきがけた。
 金を儲けた市民が、商工業に投資するのではなく、官職を買って地代収入で楽に暮らそうとしたのがフランス。法服貴族という。それで、商品経済では英国に遅れをとった。デカルト、モンテーニュ、パスカル、ヴォルテール、モンテスキューはすべて法服貴族。

 カントの部屋を飾った唯一の肖像はルソー。トルストイはその肖像のはまったメダルを首にかけていたという。
 カントは一日一食主義。昼食だけであった。※そして晩年はボケてしまった。

 ミルいわく、幸福を人生の目的にすると、幸福になれない。幸福以外の目的をもって生きることで、人の幸福は達成される。

 普仏戦争に志願したニーチェは悪性のジフテリアに罹り、その治療薬の副作用によって神経の衰弱と障害を起こした。激しい頭痛、不眠に苦しみ、麻酔薬の常用者となった。

 じぶんでじぶんを意識しないと誰もあんたを意識しないというのがサルトル。
 疎外は「稀少性」を原因として起こる、ともいった。物質が稀少な世界では、他者の存在は私自身の欲望の充足をおびやかす。他者は「死の脅迫の保持者」であると。1960年の『弁証法的理性批判』の中で。

▼唐木順三ed.『禅家語録集』(日本の思想・10) 1969
 道元。仏道をならうというは、自己をならうなり。
 一休。我はこれなにものぞと、頭頂より尻までさぐるべし。さぐるとも、さぐられぬところは我なり。

 後宇田上皇は、南浦紹明に国師の号を与えた。このあたりから、禅僧が天皇や将軍の万歳を唱える。
 元に圧迫され江南に移った南宋朝が、宗教界を再編。その制度ごと、日本に輸出された。

 天竜寺、相国寺は、元、明との貿易を独占する船問屋だった。
 一休は、ひとりの法嗣もつくらず、また、師よりの印可状を焼きすてた。

 言葉で答え得ない難問を、鎖口の訣という。
 宋以降、禅宗独自の仏伝すら確立していた。

 室町までの貴顕の宗派はやはり密教。
 仏が口にしなかったことが密教。仏の精神が教外別伝。禅の立場。
 六朝時代にシナに来たインド禅宗が、ダルマ。

 最初、漢文の筆談問答をしたが、ほとんど通じず、それが日本語問答をつくるきっかけに。
 座禅病として、耳なりがある。
 世界の中心山、須弥の原音はsumeruである。

▼K・フォルレンダー著、宮田光雄tr.『マキャヴェリからレーニンまで』S53、原1925
 マキャベリはラテン語は使えたが、ギリシャ語を識らなかった。
 フィヒテがナポレオン支配下でマキャベリを再評価した。
 ナポレオン1世はマキャベリ註書を著している(p.23)。

 貴族の下僕は大量失業時代には野盗化した。
 モンテスキューの司法と行政の分離案はボダンに負う。

 ベルンハルディはトライチュケの丸うつし。

▼国民精神文化研究所ed.『山鹿素行集 第五巻 武経七書諺義 下』S18
 尉繚は立国時代の人。
 六韜の説が多くとりいれられている。

 天官とは天文のこと。
 人事の二字こそ、尉繚子の大旨である。オカルティズムを排している。

 各所で「直解」を批判している。
 什は10人組。伍は5人組。偏は、戦車15台。

 戦車1000乗を動員するには、その国には57万6000人の男子が必要。
 「則天下為一家」。

 古来、齊、晋、呉などの大国は、三軍に分けることを好んだ。冑の飾りの色分けで、三分する。
 ふつうの金鼓の意味と異なる行動をさせるのも「奇兵」である。

 「専命而行」……凡将は、君命をほしいままにして、権威を勝手に装って、進軍させる。必ず敗ける。

 垣車とは、車を円形の垣にして営すること。
 「兵」が「兵器」の意味でも使われるのが、尉繚子。

 三略と六韜は、漢代(張良のころ)から併せ読まれていたようだ。どちらも儒道を説く。

 軍讖の讖は、「讖緯説」からわかるように、予言のこと。反対語は「常経」。
 柔能制剛~は、老子36章の影響。

 敵に応じて、柔剛強弱いずれもとれるように備えておくこと。
 同じ名詞を二回並べると「下を下とする」のように読む。ヒッタイト文字も共通だ。

 個人は「無」と表現すべきところを「鮮」にしておいた。
 兵家は「老」という字を忌む。

 孫子の行軍を、三略は行師という。
 会盟に集った人のことを同盟といった。

 嫌 とは、真贋判定に迷うこと。

 六韜は、漢の芸文誌に載っておらず、隋の書に初出する。
 騎戦に減給しているので、そんなに古くないと思われる。

 山は南を陽といい、水は北を陽という。

 死を悪み生を楽しむは、天下の通情也。
 災害なく豊穣なことを盈という。その逆を、虚という。
 「富国強兵」。

 敵を破除することを「去」と書く。
 「賛謀[ママ]」は主のはかりごとをたすくる也。
 ロジスティクス参謀を、「通粮」という。

 水涸……土地がじめじめしているか、乾いているか。

 素行いわく。殺人ができないというのは、姑息の仁だ(p.372)。

 野戦ではさきがけを「先赴」、攻城戦では「先登」という。

 ※素行は、『六韜』が『孫子』よりも古いのだと信じた。なぜなら『六韜』は周の時代に仮託されていた。それが仮託だとは見抜けなかった(p.394)。

 鹿車輪というのは、一輪車のことである。
 マキビシについて(p.426)。
 扶胥 とは車を以ってかこうこと。

 衛軍は敵の強兵なり。
 微号は、かくせる合い印なり。
 所樓……とりかこまれること。

 分進合撃、外線侵攻のしめしあわせ方について(pp.478-9)。
 馳陣……軽車・軽騎のこと。

 車と騎兵は併用しないと、歩兵一名にも防がれてしまう。
 車士の選び方。40歳以下で、今の6尺以上。
 黒土の泥道を人の足が踏むと、ねばりまとわるようになり、車は労する。

 属 は、連続である。
 猟 は、馳駆して驚かすことである。

 兵法では左を表とし、右を裏とすることがある(p.502)。