▼廣瀬豊『山鹿素行全集思想篇 第十三巻』S15-11 岩波書店
以下「中朝事實」。
巻頭解題。
赤穂謫居中、素行48歳のときに書かれた。日本を「中華」と呼び、世界最高の君子国なのだとして気焔を吐いた。この書の前年にできた「謫居童問」にもその思想が表明されている。思想的萌芽はもっと若いときからだった。
自筆年譜では、寛文9年12月27日に「中朝實録」のタイトルで完成。
いま、流布しているのは、延宝6年に校訂し、延宝9年、素行が60歳のときに津軽藩で印刷出版されたテキスト。
乃木将軍が自費で版刻させ、皇太子(後の昭和天皇)に渡したのも、これが底本。
ところが、のちに発見された自筆本(寛文9年の草稿)と比べると、内容は自筆本の方が豊富で、素行の考えがよくわかる。そこで、このたびの岩波書店版では、自筆本を底本に、廣瀬みずから、漢文を和文に書き流した(巻末に原文の漢文も併載)。
以下本文。
愚[われ]、「中華文明」の土[くに]〔=日本〕に生まれて、いまだその美なるを知らず、もっぱら外朝[シナ]の経典をたしなみ、得意顔でその人物を慕ってきた。なんと正気をうしなっていたことだろう。
中國〔=日本〕の水土は万邦に卓爾としている。聖治は綿々と続いている。武徳は赫乎としている。
天瓊戈 を、素行は「あめのとほこ」と読ませる。
わ国とは、「我がくに」の意味。「わぬ国」も同じ。
あしはらのなかつくに となしたので、「本朝を以て中国と為[す]るの謂ひなり」。
「しからば乃ち中國の称はいにしへより既にこれあるなり」。
耶蘇教の耶蘇[ゼス]も、また、天の中を得たという。
神代にすでに「あめのみなかぬしのみこと」があった。すなわち「本朝の中國たるや、天地自然の勢なり」。
二神(いざなぎ・いざなみ)が國の中の柱としたのが、おほやまとの中州である。二神はすでに萬世をかんがみて、この洲をもって中国と為し、天孫をもってこの洲に主たらしめた。
外国船がなかなか襲来することもない。だから「浦安の国」「玉墻内国[たまがきのうちつくに]」と称する。
シナは四方で夷に接壌するので、藩屏の屯戍がはなはだ多くて、その約を守ることを得ない。長城や要塞を造らねばならず、人民が疲労する。守戍の将兵がともすれば狄に内通したり、狄に奔敵してしまう。
※素行ら儒者は、地理や地勢のことを「水土」と表現する。
猿女の君のとほつおやである、あめのうずめのみことは、手に「茅まきの【矛梢】[ほこ]」を持っていた。
人の生まるるや、幼孩[ようがい]より壮老にいたるまで、いまだかつて教学に由らずんばあらず。けだし人の万物に長たるは知あればなり」。「故にその小人たり、その君子たるは、皆、學の習ふところに因る」(pp.65-66)。
封建は天下を公にするが如くにして天下をわたくしす。
ひとたび封ずるときは天子もすみやかにこれを変ずることを得ず。
郡県のごときはこれに異なり、任限あり、交替あり、黜陟あり、輔佐あり、観察あり、その任を移し易く、その過を規[ただ]し易し。これ、天下を公にするなり。
およそ封建ひとたび行はるるときは、郡県とすること難し。
附録・或疑。
あるひとうたがう。儒教と仏教は、どちらも異国の教えで、中国〔=日本〕の道に異なるのでしょうか?
素行の答え。そうした教えのもとが異なるのは、みな、「水土の差」と風俗がことなるからなのである。
中華〔=日本〕が始まって千年くらいしたところで、三韓を従えたときに、はじめて外国〔シナ〕の儒教典籍が参照されるようになり、だいたいそれは日本の神聖の大道と同じだなと分かったのである。仏教のごときは、徹頭徹尾、異教である。
▼安倍豊治ed.『碧眼の観たる太平洋問題』大7
太平洋航路用の最初の汽船は米国東海岸で建造され、ボストンと広東の間を行き来した。
1860にハワイを出入りした米国船は100隻。しかしいまや同地点を訪ふ米国船舶は稀。米国国旗を見ること、甚だすくない。
1860頃、900隻の遠洋船が太平洋に在り。うち800は米国船。
一時、米国が、支那貿易の輸出入ともに9割を支配した。すべて東海岸着発。
1860に米はボルネオと条約を締結している。台湾では海賊取締りまでやった。
南北戦争をさかいに、米国の発展中心が、ニューイングランドからシカゴへ移った。海の時代は終わって、鉄道と内陸の時代に。シカゴが、中西部発展の起点だった。
ぺリーから米西戦争まで、アメリカにとって太平洋の空白の時代だった。以上、米人カール・クローの論文。
姉崎博士は、親独主義を警告す(pp.293-4)。
▼中村弼『太平洋大観』大9
帆船の時代、那覇から福州の五虎門まで、5日から8日、かかった。
在グァムの米海軍関係者は、この時点で約600人。アプラは屈指の良港。
桟橋に横付けして石炭を積み込める港は、ヤップ島のトミール港のみ。
トラックは、環礁によって大艦隊が守られるのである。
米は1878にサモア王と修好通商条約を結び、パゴパゴ港を海軍根拠地とし、石炭貯蔵所を設けた。ただしドイツ勢力下にある。
クリミア戦争の極東戦線始末について、詳しい(pp.392-5)。
小笠原への初期の欧米人の渡来、なかなか細密(pp.406-7)。
小笠原の白人の子弟、明治2年から30年にかけて日本の兵役に服した者あり(p.408)。
▼東方通信社『太平洋諸島歴史地図』大11
1785に「エンプレス・オブ・チャイナ」号が初めて広東へ航海した。
1788にボストンの貿易船が初めてハワイに寄港した。
1830、宣教師が事実上、ハワイを占領し、米国属領の観あり。
1850、支那とサンフランシスコ間に汽船が営業開始。
1884、米布条約を改締し、真珠湾を米国海軍根拠地となす。
1903、パナマ運河沿岸10哩の永久的租借権を米国が獲得。
1906、海底電線、成る。
▼帝国軍備研究会ed.『太平洋軍備大写真帖』S9
陸軍の築城部は、支部が対馬と壱岐にしかない。出張所は、横須賀、函館、釜山、舞鶴にあった。本部は東京麹町。
要塞司令部は、台湾の基隆市、澎湖島、対馬、父島、奄美大島、壱岐などにあり。
軍港とは、帝国海軍の作戦根拠地である。
要港とは、前進根拠地で、五つある。大湊、舞鶴、鎮海(慶尚南道)、馬公(澎湖島)、旅順。
陸軍は、台湾の屏東に飛行場を持っていたかが、海軍は外地には皆無。
米大巡は、速力よりも航続力を重視していて、通商保護用というより、戦闘を主眼にしている。
▼秦郁彦『太平洋国際関係史』1972
日清戦争前夜から、ドイツ皇帝らは黄禍説を流布していた。
1911、川島清治郎『国防海軍論』は、仮想敵をドイツとしていた。
1910前後、ハワイ、グアムなどの前進基地(アウトポスト)は要塞化されていなかった。
欧州諸国で蔓延したウォー・スケアの背後には、多かれ少なかれドイツの策謀が働いていた。
1914のパナマ開通後も艦隊主力は大西洋に常駐していたが、それは後方支援能力等の制約による。
1930にクンツ作戦部長は、上院海軍委員会で、防備制限の協定にあたり、事前に専門家へ何の協議もなかったと、政府への不満を述べた。
1914時点では、ハワイ、マニラ湾、グアムに、大艦用の修理ドックなし。
WWIIまで在フィリピンの守備兵力は増えず、グアムでは却って減らされた(p.185)。
1926、オレンジプランでは、マーシャル→カロリン→マリアナという、スピーディな対日進攻作戦が確立。
進攻部隊の中核は、海兵隊であった。
▼清水秀夫『船舶修理』S12
乾船渠には木製のものもある。ドライドックは、また、Graving dock ともいう。
浮き船渠は、鉄製のみである。
本邦には、浮船渠は、三菱重工業株式会社神戸造船所に3個(浮揚力16000トン級、12000トン級、7000トン級)、函館船渠株式会社に1個(2500トン級)、神戸の荒田造船所ならびに造船鉄工所に小型のものがひとつづつある。
※三菱の大型2個はドイツからの賠償品であった。
ドライドックと違い、フローティング式は、潮の干満に関係がない。漲排水がより短時間。泥も溜まらない。通風もよいから塗料も早く乾く。そのかわり、船渠の修繕費は、かさむ。
ドライドックの注排水隔室を、pontoon という。
職工慣用語一覧表(pp.64-7)。
潜水夫は、keelがkeel blockに載るようにするのが仕事。
▼植山幸雄『ポンプ船土木工事』S43
はじめはバケット式浚渫。やがて欧州にポンプ船が登場。
1705にフランスで渦巻ポンプが発明される。1795に英Wattの浚渫用蒸気機関。1885独でそれらが組み合わされた船ができた。
米の港は河口にあり、浚渫は必須である。東海岸では Corps of Engneers (陸軍工兵隊)が百数十年来、それを担当している。すでに400の港、48000kmの内陸水路を彼らが啓いた。
米は土地がありあまっている。埋め立ての要なし。オランダは逆で、1850年から浚渫船を干拓に用いた。
明治はじめの築港は、すべてバケット式。
M19にオランダからポンプ船『木曽丸』を輸入。河川改修に投入した。
明治末、管送式ポンプ船を英から輸入。これを模倣し国産。管送式でないのは泥艙式という。どちらにも自航型と非航型あり。
大2に、英国から、カッター兼ポンプ船を初輸入した。
大正年間、米国製の大型モーター&ポンプを使って、ポンプ船の国産建造が本格化。
15万トンの船が登場した。それで、潮位変化を考えると、20mは掘る必要が出てきた。
▼日本生産性本部ed.『アメリカの浚渫・埋立』S36
米陸軍工兵隊の所有する浚渫船は、Drag Suction Type で、遠くの土捨て場まで持っていく。
工事計画も工兵隊が考える。
アメリカが独立したとき、大学の工学部などなかった。技術者を養成できる機関がなかった。
米陸軍はフランスの指導を受けていた。米陸軍はフランスの技術者について土木技術を習得した。
そこから、米陸軍が、河川や港湾の仕事を担任するようになり、その伝統が今も続いているわけである。
パナマ運河も、今次大戦の上陸作戦も、彼らの実力を証明した。
初期の港湾改良は、エリー湖中心に1824から。
ただし連邦は航路のみ。防波堤から内側は、市と民間が。
これ以来、水路は連邦政府、Pier Head Line 内の建設工事は、港湾管理者と業者の分野となったらしい。
1899の The Rivers and Harbors Act で、工兵隊承認要項として、ダム、橋、ドック、防波堤、港内開鑿、護岸、etc……。
1830頃、ミシシッピ浚渫用にバケット型を使ったのが、最初で最後。
Hopper Dredge (ドラグ・サクション)は、1890に1隻完成。
▼島袋全発『那覇変遷記』1978、原S5
1451に、長虹堤が築造された。そして首里西岸の泊港が、先に発展した。
長虹堤は、当時のうきしまと、安里村とのあいだの海中に通ずる七つの水門を設けた一條の長い水路。
那覇港浚渫は、1717年にまず現地王朝の手によってスタート。再び1754にも。その後は、〔島津がこっそりやっていたようだが、〕公けにはM40~大5の日本政府が。
その次は大10~現在の工事である。
▼田岡良一『国際連合憲章の研究』S24-3
UNはFDRがUSから思いついた。
アクィナス~ヴィトリヤ~シュアレスの君主正戦論(16世紀)では、ある君主が他の君主に向かって戦争を開くことは、後者が前者の権利を侵害したときのみ可。
さらに条件あり。中止/賠償をまず口頭要求し、容れられなかったこと。武力が最後の唯一の解決手段であること。加えられた侵害の程度(被害)が戦争とつりあうくらい重大であること。
▼ウィルコックス&マーシイ著、杉山・関野tr.『国際連合改変への諸提案 上』S34-6 原1955
1945サンフランシスコ会議の数週間後に原爆完成。
11名の米飛行士を釈放させるため国連事務総長が北京を訪れた。
▼シドニー・Dベーリー著、井上勇tr.『国際連合読本』S41-2、原1963
法律破りは、個人の良心、世論、警察によってのみ抑制される。
ウィリアム・ペンいわく。りっぱな法律も役に立つが、りっぱな人間はもっと役に立つ。
クウェートの国連加入申請を1961、ソ連は拒否権で葬った。
スイスは、加盟が侵略に対する集団的兵力使用を義務づけることから、それは中立と両立しないと信じて、加入を申請しなかった。
▼アアネスト・A・グロス著、鹿島守之助tr.『国際連合・平和への機構』S38-3、原1962
マハンいわく。道義的思想に対し、根をおろす時間を与えるのは、力の義務である。
▼コーデル・ハル著、朝日新聞社tr.『ハル回想録』S24-4、原1948
UNの名にソ連は文句をつけ、ワールド・ユニオンではどうかと言ってきた。
英もUNの名は好いていなかった。むしろソ連に同意であった。
1903条約に対する「プラット修正」……もしキューバにおいて生命、財産、個人の自由を保護するのに適した政府を維持するためなら、キューバに干渉してもよい。
FDRはコマンダーインチーフと呼ばれることを、プレジデントよりも好んだ。そして軍事の会議にはハルを呼ばなかった。
ラ米の統轄実績が、1941の初期UN構想の念頭にあった。FDRはハルを国連の父だと。
▼ロジェ・セレ著、木下半治tr.『戦争か平和か』1952、原1949
ドイツにはレジスタンスがなかってので、米英蘇は、白紙から「民主化」を策定した。
スペインはWWIIで中立だったので、サンフランシスコに招待されず。
ポツダム会議でスペインは3大国から大いに非難された。
ソ連政府はギリシャ正教を復活させた。これでFDRはソ連をゆるしてもよくなった。
1890に汎米会議。21共和国の汎米同盟。
1940 ハヴァナ会議。
1945-3 メキシコ会議で、「ある一国から米州のある一国の領土・主権・独立に向けられたいかなる攻撃も、これを、この〔チャプルテペック〕協約の他の調印国に向けられた侵略とみなす」。
1947-7 リオ会議。西半球の北極から南極まで、自領土でなくとも、防衛エリアだと決めた。
トルーマンは民主党だが、マーシャルプランは超党派。
国連総会と安保理の二重キー、安保理の全会一致、どれも機能しないことは、3年たらずで分かった。
国際連盟の不機能に気づくのに何十年もかかったのと、大きな違い。