▼大岡昇平『野火』新潮文庫 原S29-4
初版の単行本はS27-2である。
アメさん/アメちゃんではなくて、「べえさん」と呼んでいた。
1個の手榴弾は必ず携行し続けた。死もまた自由な選択の中に入るので。
放し飼いの鶏を小銃で狙撃。伏射だったが、外した。「膂力なく射撃をよくしない私」(p.51)は。
※塩分欠乏症ではないかと思われる。体力がないと錯覚するのだ。
私は食べ残しの芋を雑嚢に入れて出発した。鉄兜と被甲は小屋に残したが、銃はやはり棄てる気にならなかった(p.63)。 ※被甲はガスマスク。被甲嚢なら、防毒面を収納した肩掛けバッグである。その両方を被甲と呼ぶ場合もあるのだが、ここではどちらなのか?
屍体から滲み出た屍汁で、周囲の草は枯れる。
死体の手の爪が法外に長い。その理由が分からない。※指の方がしなびて縮むので爪が伸びたように見えるのである。
持っていた銃は、「軍事教練のために学校へ払い下げたのを回収した三八銃で、遊底蓋に菊花の紋が、バッテンで消してあった。私は嘔気を感じた」(p.85)。
さらに二、三本を倒して根芋を取り、僚友にならって、被甲の中味をすてて、そこにも収めると、我々は出発した。 ※ここでは被甲は嚢の方だと分かる。
伍長は、弾の尻から火薬を抽き出し、木の枝でこすって火を起した。この簡単な方法に気がつかず、原住民にマッチを求め、一週間も生芋を齧っていた迂闊に、我ながら驚いた。
※ニップル雷管の中味の雷汞だろう。しかし下手をすればその作業中に実包が破裂を起こすのではないか? まず弾頭を抜いて推進薬を板か木の葉の上に全部こぼすという一工程があったはずだが、大岡はそれは書いていない。
背負った鉄帽の細紐が痛いので、鉄帽を遺棄したくなる。
陸軍でもやはり「機銃」という。
班長=伍長など下士官 は、後方の兵舎でなら、兵卒を可愛がってくれるが、前線じゃ、なまじ戦争を知っているだけに、冷たく個人本位に行動する。
人間は何でも食べられるものである。あらゆる草を、どんなに渋く固かろうと、虫の食った跡によって毒草でないと知られる限り、採って食べた。
雨が降る中、木の下で寝ていると、皮膚の露出した部分は、複数の山蛭によって蔽われる。その、頭の平たい、黄色の可愛い奴を、私は食べてやった。
雨季。山鳩はいたが、犬、烏、蛇、蛙はいなかった。そして、道端の屍体には、臀肉が欠損しているという共通特徴が……。食人だ。
手榴弾は、九九式。伍長は、それがちゃんと緊填されているかどうか確かめる(p.153)。 ※この「緊填」の意味は分からない。
▼加藤健二郎『35ミリ最前線を行く――カメラマン戦場の旅』1997-9 光人社
※雑誌『丸』に1995-10月号から1997-2月号まで連載されたもの。
※わたしが加藤氏を初めて知ったのは1999-11月の「防衛庁オピニオンリーダー」の沖縄視察の時だったと思うが、すでにこんな経験をしている方だったとは、この本を読んで知った。本書には加藤氏の経験が濃縮されており、臨場感に満ち、ためになる。プロ軍人が読んでおいても損はない内容。
加藤氏は小金井市のうまれ。とうじ、市内に「関東村」という米軍人家族住宅区があった。横田基地にも立川基地にも調布飛行場にも近かった。
米軍用ゴルフ場に侵入して、パチンコで米兵を撃ったりした。今の、都立野川公園。
高校は、引っ越した先の神奈川県。山岳部に入り、12kgの砂袋を鞄に入れて6kmの道を徒歩通学。冬山シーズンには、自宅の屋根で合羽を被って寝た。
東京理科大の機械工学科に入ったが、向かないとわかり、早稲田の土木工学科に入りなおす。クラブ活動は航空部に入ってグライダーを操縦。しかし山登りと違い、適性はないようだった。
ちょうど、フォークランド紛争が起きた。※1982-1。
1985-4、海洋土木工事に強い、東亜建設工業に入社。
夏休みに出羽丘陵で連続8日間の自主サバイバル訓練。
12月上旬、明石から淡路島まで4kmを泳ごうとして泳ぎ切れず。
海外の仕事が減ったので1988-1に退職し、同月中にパリで外人部隊に志願したが、視力を理由に、入れてもらえず。
次いで渡米し、米陸軍に入ろうと試みたが、グリーンカードがないとだめだと言われた。
そこで、NYCからマイアミ経由でグァテマラ行きの飛行機に乗る。
1988-3、エルサルバドル入り。
1988-5、サンディニスタの新兵訓練を体験取材。
AKから曳光弾をフルオート射撃し、銃弾のおそろしさを思い知る。
82mmの迫撃砲チーム訓練。分解し、砲弾6発とともに、3人で手分けして担ぎ、小高い丘の上まで駆け上がる。AKMと30連マガジン×4も持ったまま。
RPG射手は、AKMは持たない。
エルサルバドルの反政府ゲリラは、太平洋から武器の供給を受けていた。船はニカラグアから来る。
1989-2、コントラの基地に入る。コントラの小銃はカラシニコフ。
ココ川沿いのミスキート地区は、蚊の襲撃がはなはだしい。
1989-4に帰国し、6月~7月には北朝鮮へ。日本青年団協議会という財団法人の推薦があれば、入国できるというので。9日間滞在。
9月から1990-2までは南アフリカとその周辺へ。
湾岸危機勃発。1991-12にイラン・イラク国境へ。従軍取材はできず。
1992-9、バルカン半島へ。
クロアチア軍陣地後方から、最前線を目指す。
セルビア軍の砲撃を避ける地下壕の中でクロアチア兵は「ラブ・ミー・テンダー」を聞いて神経を落ち着かせていた。
セルビア軍の照明弾が上がったら、それが上空でパッと輝かないうちに、隠れるか、動きを止めなくてはならない。発射から発光まで4~5秒かかるので、その間に遮蔽物に隠れるようにする。
※本書の、照明弾に照らされる側のリアルな描写から、照明弾は、発射1~2秒後から、すなわち上昇の途中から、早く発光を開始するようにするのがヨリ効果的と分かる。なぜならその光を見た敵兵は、未遮蔽であっても、動作を止めるしかなくなるからだ。抛物線頂点で傘体を開いたら、そこからさらに強力に発光するような、二段発光式とすればよい。さらにもっと効果的なのは、無人機から照明弾を連続的に投下してやることなのだとも見当がつく。
地雷が多い戦場へは行くべきではない(p.145)。
教会やモスクの中はいちばん危ない。敵砲兵が照準の目安に使うから。
1992年のボスニア・ヘルツェゴビナ。二、三発ずつの砲撃は迫撃砲。照準変更が早いので、こっちもすばやく移動する必要がある。
セルビア軍はクロアチア軍よりあきらかに戦争慣れしていた。
1994-3、セルビア軍最前線。
地雷原は、急斜面だろうと、一直線に啓開してある。変に通路を曲げたりすれば、目印をたくさん立てねばならず、しかも、急いでいるときは間違える。
ムスリム兵は朝はお祈りをしているから撃ってこない……率が高い。
行きと帰りは違うルートを使いたい。そして、帰りにはヨリ安全なルートを取りたい。
軽機の発射音で耳鳴りがしているときにダッシュすると、自分の足音も聞こえないので、非現実感がある。
狙撃兵×1、護衛の自動小銃兵×2の組が前進し、その斜め後方に軽機×1が控えている。これが、近接した前線では有効。敵は反撃が難しい。
1994-4にUN軍のデンマーク部隊の「レオパルト1A3DK」が3000mでセルビア兵を射撃して制圧。このときのデータをドイツが非常に欲しがった。
レオ1は、上り坂や不整地を走らせすぎるとエンジンがオーバーヒートしてしまう。水温計に注意。
1994-7、陸路サラエボへ。
コニッツ駐留の国連軍のマレーシア部隊は、SUSV軽装甲支援多用途車(前後重連の装軌車)を使っていた。やはり冬季に重宝だという。
小銃の銃口に装着して飛ばす、小銃擲弾。現地兵たちは「トロンボーン」と呼ぶ。
100m以内の塹壕戦では、これが塹壕内で爆発すると、致命的である。
1995-2、チェチェン。
ロシア軍のスホーイ25の空爆を受ける。機影がいちばん近づいたときにストップウォッチをスタートさせ、爆音が一番大きく聞こえたときまでのタイムを計ると3秒弱。これで、高度1000m弱まで降りてきたと知れる。
200m先の爆弾の炸裂でも、ビルの窓ガラスを振動で割る力がある。
チェチェン人の多くは、日本がロシアに四つの島を占領されたままだということを知っている。チェチェン独立のために日本が資金を出してくれたら、チェチェンはクリルを取り返すために兵隊を出すぜ、と言って来る者もいる(p.215)。
なぜ日本はチェチェンの千倍の力があるのにやらないんだ、とも。
グロズヌイ近郊には、油田の汲み上げポンプが乱立している。
ラマダン中に、飲まず食わずのチェチェン兵にやむなくつきあっていると、イスラム教徒のしきたりを尊重してくれたと早合点して、とても感激される。
本書時点で、戦場突入総計71回、戦場での滞在日数193日、戦闘に出会った回数23回。
1990年頃までは、戦争の話などしようとしても、なかなか聞く耳を持ってもらえなかった。しかし最近は、男女の隔てなくいろいろな立場の人が興味をもってくれている。
※加藤氏が海外の戦場から離れた後、SNSを発表の場とするビデオ・ジャーナリズムの時代が来るのかとも思われたけれども、遂に、そうはならなかった。ゲリラたちみずからが、動画を自陣営の宣伝のために活用するようになり、外部から訪れるジャーナリストにとっては、リスクばかりが極大化した。