▼半田虎雄、興津辰矩、原田亀彦『遊猟案内』M41-3、初版M34?
英国には、伐木に制限がある。これ、まったく猟用ゲームを増やさんが為。
毛の短いポインターは、日本の鬱蒼たる山野には向かない。皮がズタズタになる。セッターかレトリバーがよい。
大小の散弾を混用することには、何のプラスの効果もない。
ひきがねを「引鍵」と書いている。
ショットガンの飛鳥射ちは、よほど上を狙わないと、近射におわる。
鳥がバレルの上に見えていたら、もう当たらないと知れ(例外は、降下中の鳥)。
※欧州貴族は鳥撃ちの経験をそのまま、戦闘機の空中戦に適用できたわけか。
横行飛行する鳥に対しては、6フィート前を狙え。
兎は冬は北向き斜面にいることなし。
射手のひとりは必ず最初の場所にとどまれ。
ウサギは馬鹿だから3回、元の場所へ戻る。
足元を駆け抜けようとしたら、鋭いホイッスルを吹け。それで立ち止まるところを射て。
雁は必ず風上に飛び立つので、風上からアプローチせよ。
白服は、狐に警戒されるから、×。
「待屋」撃ちというのがあった。
千葉の印旛沼附近は、関東で最後まで鳥だらけな聖地だった。
▼城北獵人『鳥を獲るまで』大9-1
初めは、「杖[じやう]銃」や7mmくらいから、小鳥撃ちをする。※7ミリは空気銃か。
昂じてきて、16番や12番の散弾に移行。
英製(グリーナ社製、100円もする。その日本製コピーもある)でも単銃身のショットガンにはリアサイトがある。これは入門者用。
水平2連には、リアサイトはない。
有鶏式はなぜよくないか。矮樹のため、撃鉄がひきあげられて、勝手に暴発するのだ。
オートマチック散弾銃は、弾薬の自家再生が2回しかできない。すなわちケース購入の出費が大きい。
しかし5連発は鴨射ちには便利である。
無煙火薬を使うと、安物の銃身は破裂する。ダマスカス鋼なら大丈夫だが、もう作られていない。軽い銃身は、反動がキツくなって不快である。
ソードオフ銃身のショットガンは、もともと短い猟銃に比べて、パワーは半減。なぜならチョークが中途半端だから。
エジェクターのことを「からはき」と称する。弾薬再生する人にとっては、これは却って迷惑。
無煙火薬なら、必ず紙ケースにすること。国産の真鍮製だと、ケースが破裂して薬室にへばりつくことあり。紙なら、その問題はない。
コロスは「送り」。
雷管として、砲兵工廠でつくるエレー(英国製の模倣)と村田雷管あり。後者は、銅製と真鍮製と2タイプあるが、真鍮製のは発火せぬことあり、推奨できない。
もし短銃身なら、無煙火薬にしないと、燃え尽きてくれない。
十文字信介[しんすけ]は、すでに故人である(p.43)。
宮内省猟犬係 というのがあった。
去勢犬は肥満し、鼻も鈍くなる。
断尾は不具であり、英では品評会に出させない。
ドイツ種はよく断尾されている。
ドイツで穀物畑を通過するときに尾で作物を痛めぬように断尾したという。これは神戸の田丸帝之助の説(p.139)。
犬舎の周りの土は月に二度は客土しないと、寄生虫がわく。
犬舎床に、新しい藁は、必ず要る。
日本では、爆薬猟、毒、据銃はすでに禁止されているが、朝鮮では、M40-12の「朝鮮狩猟法」により、許可を得ればOK。
▼小原正忠『皮革の知識』S10-7 (財)軍人会館出版部
靱[ゆき]……革へんであることから、オールスキンだった。
鞘……も然りで、昔は皮でつくった。その名残りが、猪の毛皮。
弓で、左手につける鞆[とも]。
中華民国の兵隊は、すでに木綿布製の軍靴になっている。
帽子の内側の革は山羊。
弓術の的も、昔は皮。
馬術は最近、五輪種目になった。
小一のランドセル。男は黒、女は赤と、もう決まっていた。
貂[てん]の皮は、保温力が抜群なので、シナで珍重した。
牛や馬は、頚動脈を切る。
羊や豚は心臓を突く。
ウサギは、後頭部を強打。
銀狐は、特にキズつけぬよう、圧死させる。
M2-3に、はじめて伏見駐在の親兵に、帽・衣・袴と靴を使用させた。
S6年度の製革業者は、東京に104工場、大阪に43工場、兵庫に224工場で最多。和歌山は、大阪より盛んだが、これは紀州藩が技術導入をすすめたから。
とはいえ、なめした皮を原料として製品をつくっているのは、大阪一点集中。
満蒙では、屠夫は囘々教徒が多く、その技術は優秀で、皮に刀痕をほとんど付けない。
蒙古人は生きた家畜をめったに殺すことがないから、皮を剥ぐ段階でメチャメチャに傷つけてしまう(p.413)。
馬皮は、腰部のみが、靴甲のエナメルに使える。他は、牛より質が落ちる。
キツネのしっぽは、こどもを温かく包むためのもの。
狐は、魚と兎の内臓を最も好む。
寒いほど元気に動く。夜行性。
『保元物語』に、義家が革の鎧を重ね、木の枝に懸けて、六重[むかさね]を射徹した、とある。
寺の太鼓は、馬か犬。木魚の撥の先も、犬の革をつけたものが多い。
▼鈴木俊行『銃猟総要』大13-12
著者は農大の先生。
フリントロック猟銃は1630から普及。
複筒猟銃は1815年、ジョージ・マントンによる。
1820からロンドンがメーカーのメッカに。
1821、管打ち銃、完成。
1814、ポーリが元込銃をつくる。
1836、ルフォーショーが針打ち式を創る。
それが、縁打ち式から、中心打ちへ進化。
1861にドウによってセンターファイア式がイギリスに紹介された。
1874にグリーナーがチョークをつくる。
開閉部のガタを追放する工夫は、1863の人形頭止めにはじまり、1875の十字閂止めに至る。
1875にウェストリー・リチャーズが、今日と同様な アンソン=ディーレイ式無鎚銃を完成。バネ撃針で発火させる。
1884に自動脱包機。
ダマスカス巻き張り筒は、無煙火薬だと割れてしまうので、1890頃からは、鋼筒になった。
単引鉄も、ウェストリー・リチャーズが完成した。
上下二連銃は、さいきんできた。
すでにブラウニングの5連発自動銃あり。
舟銃として、ホーランドの径1.25インチ、筒長7フィートの複筒あり。鴨用。
兎は鴨よりも弾に弱い。
80ヤードで鴨を殺すには8番チョークが必要。これも舟銃。
山野猟では12番が適当。
12番のバレルは30インチがベスト。この長さがあれば、3グラムの黒色火薬は完全燃焼してくれる。
無煙火薬なら28インチより短くてもよい。
雷管は、村田管のような発火力の弱いものでは、火薬が遅燃となり、初速が800ft/sec.しか出ない。
エレイの中管を使えば、無煙火薬で1100ft/秒を出す。
無煙火薬は薬筒の中で燃え尽きる。
黒色火薬は筒全体の中で燃えるので、バレルも熱くなる。
大口径かつロングバレルで遠射するには、急燃でない方がよい。だから主力艦の主砲の装薬は、黒色火薬なのだ。
地が湿っていると、犬の足音が遠くへ響かない。
木に雉が上下に分かれて逃げたら、下の方から撃て。上の方は犬に気をとられて竦んでいるから。逆だと、下のは逃げ、二度と人間に隙を見せぬ。
狐は背後から射たれると、斃れないときは後ろをふりむく。そのときに撃ち倒す。
鹿は、突然音を出すと立ち止まる。そこを射つ。
イノシシは、通り道が決まっている。
死ぬと必ず、あおむけとなる。
▼人見絹江『戦ふまで』S4-11
ウォーミングアップのことを「ジョッキング」と書いている。また本文では「ジョッグ」とも。
大正11~12、テニス全盛の岡山でダブルスの選手だった。
それ以前の女学校のスポーツはテニスと決まっていたのだ。だがそれから2、3年のうちに、陸上が入り、テニスを駆逐した。
人見は走、走り巾、槍投げを選んだ。
勉強は、できない方ではなかった。短歌も人より多く作った。
通学は、1里余の歩きであった。
女学校→二階堂塾→京都の女学校→二階堂塾の助教授→大阪毎日。
大15にゴールデンブルクに行くまでは、長髪。向こうで、他の選手が断髪しているのを見て、切って帰国した。9月。
この本が出るまでの10年に、女学生の身長が1寸延びた。
走り幅跳びのシザーズを「シーサス」と言っていた。
世界記録級の選手となった後でも、試合前は「丁度子供の時代に遠足に行く前夜の様な気持になる」。
どんな試合でも予期しないことが起きるので、「咄嗟の工夫」できりぬけなければならない(p.32)。
スポーツ選手はminimum 9h寝る。
食事は、イワシ、メザシ、さくら干しを混ぜた普通の和食を八分目。
世界女子スポーツ連盟のミリョー夫人の主張。女子の250m走はスプリントとして苦しいので廃止。ただし、8000、10000mはある。槍、砲丸はオリンピックでは右手と左手の両方で試技すること(円満な体格をつくるため)。
この時点で、女子棒高跳びは米ソのみ。
日本では、走り幅跳びは女子に悪いと言いながら「三段跳」を平気でやらせている。
女子スポーツ連盟は、100、走高跳、槍という、女子のための三種競技も提案している。
人見は自分のスプリントのピークは20~22才(現時点)だと感じている。
▼人見絹江『ゴールに入る』S6-2
ああ南欧の空高く、やがて輝く日のみ旗……という小学生の歓送歌を受けて、プラハ大会へ。
人見が張学良と会ったときの身長は、1.660mであった。
「金の苦労を知らねば一人前にはなれん」
すでに「美津濃運道具店」は存在。
人見は父親似である。農業。
プラハ行き。五度目のシベリア鉄道沿線は様変わりしており、極貧状態だと見えた。
▼紀平信『電波探知機』S20-10印刷、S20-11pub.
戦時中、『図解科学』と『機械化』に掲載したものに加筆。
大戦中、大阪帝大の岡部金治郎は、マグネトロンをつくりあげた。
1943-7のハンブルグ5日間連続大空襲で、第一波は錫箔片、雲母片を撒き散らした。後者は探照灯の光を乱反射する。※というよりも、AAGの光学照準眼鏡中に小さな輝点として見える敵機が、雲母片の反射とそっくりなので、追随照準が不可能になるのである。
第二波はAAを潰し、第三波以降は無差別爆撃。
音速は、時速とすれば1200km。
雲はエンジン音を反射する。だから聴音機の角度が狂ってしまう。
むしろレーダーのバックアップとして死角をカバーさせる用法に利があり、米は依然としてスペリー式三喇叭管長音機を使用。
径150cm探照灯は、8000mが限度。
独は300cmを持っているが、1万m以上の白点は雲母片で容易に邪魔される。
コレヒドールに置いてあった米のSCR271型は、半径300kmを警戒できる。360度回転。ただし150km以遠は、距離誤差が10%出る。それ以内は4%だが。
イギリスがシンガポールのチャンギー監獄の給水塔に設置していたのは、CD/CHL で、塔頂はSL=120mだったから、飛行機を80km、大型艦なら32km、駆逐艦は18km先から探知できた。
また英軍は、マレーで車載レーダーGL II も持っていて、30km先までの探知能力があった。
比島には米軍のSCR268もあった。車載で、30km以内を測定できる。
ドゥーリトル隊は、日本に防空警戒レーダーがあるものと仮定して、超低空でやってきた。この用心。
高い土地や塔頂にレーダーを置いても、灯台の光と同じで、すぐに限界に達してしまう。
よって1941からは、ショートサンダーランド飛行艇にレーダーを搭載し、空中レーダー哨戒をさせている。
レーダー砲戦の初めは、英BBフッドが、独BBビスマルクにやられた。濃霧中で。
1945頃、艦対艦レーダーは10mから20mの誤差があった。十分にモノになる範囲だった。自弾着は、水柱からの反射で、わかるのである。
水平線上にBB檣が現れるのは30km先だ。
空中レーダーから、海面の潜望鏡露頂を見張る場合、ペリが1.5m出ていれば、捕捉できる。水平距離は20kmまで。
英米は錫箔には煤を塗って反射を抑え、夜間にバラ撒くという念の入れようだった。
▼三浦定之助『潜水の友』S10-8
著者は、静岡県水産試験場技師。水産界の潜水の権威。
わが国の兜式潜水の嚆矢は、安政4年に長崎港・飽の浦に、船渠を築造したとき。
ついで慶応2年、横浜に英軍が「弾薬庫船」を泊めていたが、その船底をきれいにするため、英の『バロシア』号の潜水器を使用。増田万吉という人夫世話方が、装着第一号。
この増田の経験に基づいて、赤羽の海軍工作局が潜水器をM5に創った。
スキンダイブから上船すると、水圧で皮膚に浸みた海水が、拭いても拭いても滲み出る。
真夏でも1h水中にいれば、悪寒を覚える。
ポンプ送気は8~9人でする。
20kgの錘りをつけていても、潮がちょっと速いと、流されてしまう。
流速1m/秒あると、もう20m以下の作業はできぬ。
木柄ハンマーは、海泥中に落としても、柄が上向きのため、見つけやすい。
各種潜水器は、1890年代に一斉にできた。
潜水病のおそれのない潜水器として西村という人が十数年来苦心して造りあげた。すでに三、四回改造。いま、ぜんぜん新しい改良型にも着手している。著者も改造意見を聞かれた。その旧型のスペックは、長さ10m、巾と高さは2m、重さ11トン、海中4哩、空気供給なしに4h~4.5h航続、乗込員5人。
「西村式低圧潜函」=豆潜航艇である。
堪圧600ポンド。
潜水可能海深250m。
胴の左右に0.5m×0.5mくらいの昇降翼があって、内部から動かせる。
キールは丈夫で、岩礁上を這いずっても問題ない。
舟首に作業室あり。出し入れ自由の作業手(アーム)が突き出ていて、その下に付き出た網袋に、採集物を入れる。
空気喞筒は1650に独人ゲーリクが考えた。
1905に英海軍が潜水病の研究を発表。
マスク式は1900頃から日本で発達し、最近では、ナイル河口に20年間沈んでいた八阪丸から金塊をサルベージしている。
潮が50cm/秒あると潜水器は流されるが、マスク式なら90cm/秒までOK。
明治以前の海人にはもちろんゴーグルなどない。
ムツ、キンメダイ、タラは深海から釣り上げれば即死するが、フグと小鮫は生きている。
鮫には浮き袋がないのだ。他の魚は一定まで引き上げられると浮き袋が破裂して無抵抗となる。
釣った鯛が苦しそうにしていたら、針で浮きブクロをつきやぶってやると、とたんに復活する。
ブリはもともと深海魚だったらしく、エアタンクを持たない。
アワビと真珠貝は、70mにあり。
40mは、テングサ(白浜特産)、ホタテ。
それより浅いのは、タイラギ、ワカメ。
よって潜水病で死ぬのは、まずアワビとり。
海の中の松茸。だから競争乱獲されて浅いところから資源枯渇し、ますます深く潜らねばならず。
深いところから上るあぶくは、細かい。
アワビのついていた跡は、翌年まで消えない。
ホタテは北の海。真珠は南海。
潜水夫のみは、米国でも豪州でも入国を阻止されることなし。
お守りは、水天宮。
深いほど、ポンプ押しも大回転せねばならず、1人が5分で交替し、10~20人がかりということも。
ヘルメット式は、兜をぬぐまで一瞬もポンプを停止できない。マスク式は、ミニタンクがあるから、はじめに圧を上げて、やすみやすみもOK。
機械コンプレッサーの油は、送気される臭いを考え、外国ではオリーブ油。日本だと白絞[しらしぼり]油。
船首を風上に向けておくためにトモに張る帆を「風帆[かぜほ]」という。
潜水者は、小便がめんどうなので、朝昼は水を抜く。
十数年も前から、電話付きの潜水器がある。
▼安藤玉治『海底に戦ふ』S19-9
※南部式の宣伝のような本。
下北半島にもフカは多い。
サルベージのことを「解撤潜水」と言っている。
上船後しばらく、かぶとは被ったままで、潜水病になっていないか、様子を見る。危なそうにときはすぐにまた飛び込めるから。
両目が完全に飛び出しても、もとの位置に戻せば、治る。
ナヒモフは、優秀艦だったのに、戦闘しないで逃げ、対馬沖に自沈したのが、怪しいとみられた。深さ57尋。
S12に「在支第三国」といえば、米英仏のこと。
S10に海深120尺に沈んだ『ちた丸』2276トンも引き揚げた。
S16-5、タイの砲艦『トニブリ』号2200トンをコーチャン沖で浮揚させた。
セレターの5万トン浮きドックは、1928建造、翌年回航、自重2万トン、排水12万トン。英国は自沈させたのだが、日本が引き上げた。
▼辻圭吉『米国鉄道歴史物語』S61
1812年の英国機関車をもとに、1825にジョン・スティヴンが米国初の機関車を自作してデモンストレーション。
同年、英国ではロコモーション号が運行開始。
米の第一号は、英製機関車を輸入して、石炭輸送用鉄道馬車を曳かせた。1829-8。
米1830の機関車技術ではまだボイラー爆発の危険があったので、圧縮綿花を防壁代わりに積み上げて客車を防護した。
1825にイリー運河開通。
五大湖とNYCが水路で直結された。
ただし年の三分の一は氷結のため使えない。
カウキャッチャーは1833からとりつけられた。
1830年代にレールがなかった州。アーカンソー、ミズリー、テネシー、ヴァーモント。
中西部では同時に運河開削がさかんに進められたが、延長距離ではレールがまさる。
ホテル、有料道路、渡橋、渡船、運河、運漕業者たちは、かならず新しい鉄道に反対した。
しかし1830年代は鉄道熱狂歓迎時代で、起債は飛ぶように売れた。
I型レールは米人ロバート・スティヴンが発明。そりかえり事故がなくなる。
ねぎぼうず形煙突(ダイヤモンドスタック)は、火の粉を抑制する。
途中駅がないので、米では機関車は大型化した。
1832、米でボギー台車が発明され、曲線の通過が高速で可能に。
1835、機関手室(キャブ)が冬期用につくられる。
1850前後の鉄道工夫たちはアイルランド人とドイツ人。
技師は工兵隊が出張することも。1855頃特に。
1843までレールは英から輸入。
1855には世界のレールの半分が米国にあった。
1850年代に鉄道が東部と内陸中西部を強くむすびつけ、南北戦争の形勢にも影響。北部23州は鉄道によって経済共同体になっていた。
1856鉄道vs.渡船諸団体の争訟で、鉄道側を勝たせた(=ミシシッピ初の鉄橋を実現)弁護士が、リンカンだった。
プルマン寝台車も米国の発明。1859。のち世界に普及。
南北戦争以前では、1853~56のクリミアと1853のサルジニア王イタリア統一戦争で、鉄道が使われた(物資と傷病兵)ことがあるのみ。
1862-1、リンカンは北部、南部の全鉄道の管理運行をダニエル・マッカランに一任。彼は戦争中、完全にその期待に応えた。
※臨時に一人に権限を集中することは、衆目が一身に集まることでもあるから、まずいことにはならない。
欧州からの介入を避けるため、北部は穀物を輸出したが、その輸送も鉄道あったればこそ。
1963、西部では楽に生きようとする者が多く、労務者のなり手がなかったので、NYのアイルランド人や兵隊くずれ、解放黒人に頼らず、シナ人を試用。極寒でも驚くほど能率がよいので、大量に導入。1866には6000人。シェラネバダ超えを完成。
ウェスティングハウスは、鉄道用空気ブレーキと信号機の発明で1886に会社を起こす。
1862に、薪→石炭に。これで火の粉も減る。
WWIでは、戦時鉄道評議会(理事5名)に管理させようとしたが、全く無能で、東部の港と駅は手に負えない滞貨の山となったので、政府が全鉄道を接収。平和条約批准後21ヶ月以内に返還し補償もするという条件で。
ウィルソンが任命した、財務の専門家ウィリアム・マクドゥー鉄道総司令が、すべてをやりとげた。
WWIIではゴムと石油不足で鉄道が陸海軍需品の90%を輸送。軍隊の97%を輸送。
特に西海岸~東海岸への石油輸送に大活躍。
1908、フォードT投入。
1916、連邦が高速道路助成法を通す。州を支援。
1920、バス登場。
1929、自動車が2300万台普及。ほぼ全家庭に1台。
1929、グレイハウンドというバス会社合同のシステムができる。
1930年代、不景気にもかかわらず、トラックだけは増え続け、全貨物の10%を1939に扱っていた。
1865、米で初の鋳鉄製のパイプライン。東西パイプラインは1947に貫通。
セントローレンスの掘深拡幅は1959で、それまでは、航洋船は入れなかった。