旧資料備忘摘録 2020-9-6 Up

▼山口信夫ed.『朝日講演集 第三輯』大6-11
 稲垣三郎(少将)による「英国の陸軍に就て」。
 国内用の地方軍30万人と、海外用の正規軍がある。後者は6個師団、16万人。7年現役の兵隊と、士官。

 WWIが始まったとき、キッチナーだけが「3年続く」と断言していた。他は6から8ヶ月と高をくくっていた。
 キッチナーは、海外に出さぬ約束の地方軍と、殖民地軍をかきあつめて、フランス戦線に投入した。
 ただし、開戦から1ヶ月で43万6000人もが志願してきたことも特筆されるべし。
 ケムブリッヂ、オクスフォードは、キャンパスから大学生がいなくなった。残ったのは、外国人留学生と女子学生たちのみであった。

 ところが下級国民は、国家のことなんか考えていなかった。そこで徴兵令を出すにさきだち、半年以上、新聞の評論などで、戦争とは、国防とは、国民の義務とは……を説いた。
 徴兵対象はまず、未婚の男子と、子なしの男やもめ。
 次に18~41歳の全員を対象にした。ただし、内地で1年訓練し、塹壕戦だけをさせた。

 英国下流民は必ずしも愛国ではなかった。工場ストライキは続発している。

 英国は世界の海を単独で支配していたので、1846に穀物条例を廃止して、食糧の五分の三を輸入にきりかえ、農地を荒地に戻してもよかった。農民は工員にならせた。

 以下、日高諱爾中佐による「独逸の潜水艇戦に就て」。
 WWI前は、潜水艦を1隻造るのに2年を要した。
 今日では、1年で竣工する。
 UB型で、港湾防御型なら、6ヶ月で仕上がる。

▼紫芝幸憲『通信兵器』S19-4
 無線は、敵に窃聴せられる。
 単線の有線も、敵前、近距離なら窃聴せられる。

 線種。
 92式裸線は、1巻が1000mである。
 大被覆線は、500mである。
 92式小被覆線は、500mである。
 93式軽被覆線は、250mである。
 97式単心水底線は、1500mである。
 97式2心水底線は、500mである。
 2心2対被覆線は、1000mである。
 2式1対大被覆線は、500mである。
 3式1対小被覆線は、500mである。
 4粍亜鉛メッキ鉄線は、1000mである。
 2.9粍、2.6粍、2.0粍、1.6粍亜鉛メッキ鉄線は、それぞれ1000mである。
 2.9粍軟銅線は、1000mである。
 0.9粍、0.32粍軟銅線は、それぞれ1000mである。
 水底線〔番無し、古式か〕 は1巻が300mである。

 十年式擲弾筒信号弾として昼間あげるのは龍で、黄・黒・赤あり。
 夜は吊星で、昼も使える。白、赤、緑あり。
 どれもH=130m。
 20秒みえる。
 距離は夜は25000m遠くから分る。
 昼は吊星は3000m遠くから見える。
 黄龍と黒龍は8000mから見える。
 赤龍のみ、なぜか4000m。

 昼夜の近距離用には「流星」。
 白、赤、緑で、各、一星、二星、三星がある。
 H=120m。
 約5秒光る。
 夜は8000m、昼なら2000m遠くから見える。

 回光通信機には、92式携帯囘光機、92式十糎囘光機、92式二十糎囘光機(日光も使える。三脚に載せる)あり。※遭難時の手鏡合図の原理で照準をつける。

▼『日本食肉文化史』H3 (財)伊藤記念財団pub.
 「聖徳太子絵伝」には、客人の前で直刀形の短刀でイノシシを切る図が。
 江戸時代の獣肉屋の看板は「山くじら」だった。

 猿が肉食するという報告は1963にケニアから発信され、世界を驚かせた。
 ゴリラもボイルドビーフを好む。

 日本の人口は、8000年前には2万人弱。これは今の砂漠や極北と等しい人口密度。
 5200年前は、10万人。
 4300年前は、26万人。

 縄文中期には、東京と長野に全国の人口の9割が集中。
 縄文人は「山の人」で、海の幸は知らない。
 ナウマン象が、内陸に移動した。原因は、温暖化による蚊か?
 縄文後期から弓矢が狩に使われ、鹿類の数が急減する。

 食肉は鹿と猪が断トツで、犬、タヌキ、鯨がそれに次いでいた。
 旧石器時代、犬は貝塚に捨てられている。しかし縄文前記には、甕葬されるまでになった。

 古代の牛はどこから来たか、はっきりしない。いたにはいた。
 イノシシは寒さが苦手で、ドングリが減ると生きられない。

 シナでは2000BCの黄河・仰韶文明で早くも犬と豚が家畜化されている。
 馬、牛肉は、ステイタスフーズ。牛を庶民が食べ始めたのは唐代=10世紀以降。

 『周礼』では、牛は天子、羊は諸侯、豚は太夫、犬は士が食べるものとする。
 また庖人が扱う六畜として、馬、牛、羊、豚、犬、鶏 を定めていたが、後秦・漢からは、軍馬の需給が逼迫し、馬は食用ではなくなった。
 南支の水牛も食用とはしなかった。

 日本では家畜を食べることは明治までなく、すべて獣肉である。
 弥生期の遺跡から、鉄・青銅製の鏃、70~80センチの弓、2mの弓が出るが数は少なく、狩猟の縮小を物語っている。

 古代「しし」は獣肉全般を指す。
 仏教の影響で天武4年に 牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁ずる、最初の殺生禁断令が出たが、鹿と猪がそこに含まれていないことに注目せよ。
 加茂儀一は、これは渡来人に対する抑圧だったと見る。

 死肉はストック財とにならぬ。コメはなる。よって下々にコメばかりをつくらせようとしたのが大和朝廷。
 鯖田豊之いわく、日本のモンスーンでは雑草が育ちすぎ、茎が堅すぎて家畜の飼料にならない。

 佐原真は、ブタ飼は平安期に消失したという。
 武家集団に食肉禁忌は皆無。貴族や僧にあてつけるような宴も都内で開いた。

 室町初期の『庭訓往来』には、中流武家の肉食として、シカ、イノシシ、クマ、タヌキ、ウサギ、カワウソを挙げている。
 この豕は、家畜化したブタの可能性もある。
 干江豚は、イルカの干し肉で、戦陣食という。

 『太平記』には、新田義貞が1336(延元2年3月)に越前金ヶ崎城に籠城したとき、城中の兵粮が尽き、軍馬を毎日二頭ずつ「斬殺」して朝夕の食事にあてたと。

 江戸初期に野良犬なし。ことごとく食べられていた。
 710(延暦10)、桓武天皇は諸国に令し、百姓が牛を殺して漢神を祭るに用いるを厳禁す。
 801年、桓武天皇勅して牛を屠って神を祭ることを禁ず。

▼山本惣治『自動車』S14、ダイヤモンド社pub.
 著者は、日産自動車の取締役から、S14-5に 満洲自動車製造(株)創立とともにその理事長。
 満洲重工業開発(株)理事兼任。

 S10-8、「自動車工業法要綱」を政府は定めた。
 S11-7、「自動車製造事業法」公布。中心人物は、S13-5時点で満洲国産業部次長、当時の商工省工務局長の岸信介。

 S11年度、米は445万4535台つくり、2808万6380台を保有。
 日本は9149台をつくり、14万9635台を保有。

 アメリカ最初の自動車会社は、オールズ自動車会社で、1897設立。いまはGMに吸収されている。
 S11年、ドイツは27万1000台つくり、S12-1-1時点で124万3084台を保有。
 同じ時期、ソ連は11万9500台つくり、35万2820台を保有。

 日本は大正12年まで生産数が年50台を越したことはないが大13にいきなり136台つくった。
 S6の全生産台数が434台。

 S11年度、イタリーすら日本の三倍の41万5000台を保有し、45000台製造しているのに……。

 クーペは、2人乗りの2ドア車でスチール屋根。
 フェートンは、4人乗りの2ドア車で屋根は幌/オープン。これを金属屋根にすれば、セダン。2人乗りなら、スポーツ・フェートン。
 ロードスターは、2人乗りの2ドア車で、幌屋根。後部車体ハッチが出っ張っている。

 オオタ=高速機関工業(株)は、トラックからフェートンまで国産して、健闘。

 ちよだ(JH型)は、6輪トラック・シャシー。後輪はシングル。S13における定価8800円。TGE製。陸軍保護6輪自動車。
 スミダ(UH型)は、6輪。後輪がダブル。9100円。陸軍保護6輪自動車。
 どちらもS14以降、値段が高騰している。
 この2車種に関しては、購買補助金として1000円、維持補助金として毎年陸軍省より500円を4ヵ年、つまり合計2000円が、下附される。

 戦前「普通自動車」には、360kg以上の車は大抵含まれた。トラックも。
 全長2.8m、巾1.2m、高さ1.8m以内、4サイクルで750cc、2サイクルで500cc以下なら「小型自動車」となる。

 M44のドイツの最高時速レコードは、228.1km/時だった。
 S10の米国の最高レコードは、ソルト・フラットにて、484.8km/時。

 軍トラックは、東京自動車工業(株)と極まっていた。
 大7創のTGE(東京瓦斯電)自動車部と、大9創の自動車工業(株)=石川島 が合併したもの。

 大7-8には、「ちよだ」「スミダ」の保護自動車、のち商工省標準形式自動車「いすず」を完成。
 一時やかましく喧伝せられたテーラー・システムより、フォード・システムに移転しなければならない時代がきている。
 ※戦前に「システム」といった場合、マスプロ方式を示したもののようだ。

 S9-11 トヨタがトラックを発表。
 高速機関工業(株)は、今は小型自動車 オオタ号 のみ造る。
 S10-4に太田自動車製作所(S6創業)を継承した。
 この時点で、ニッサンは横浜市、トヨタは愛知県、川崎車輛(株)は神戸市、他は東京市にあり。

 日本の自動車界の最大の特徴は、そのほとんどが「営業車」であること。自家用車はS10において7分6厘にすぎない。
 欧米――ソ連をのぞく――との大きな違い。

 日本人の個人収入は、年165円。英1429円。米1474円(日本人の9倍)では、しかたない。データは、日本が1930~34年。英1935年、米1933年。

 1924にドイツで自動車用のディーゼル機関が完成。
 しかしS13では米でディーゼルがいちばん多く普及している。
 ディーゼルは高速運転ができないので、同出力のガソリン機関に比べて大型で重くなる。
 また、小径の気筒にできない。
 ために小馬力の6気筒とか8気筒にはできず、小型自動車の動力にできない。
 日本の道には小型が適する。しかしディーゼルと小型車は相性が悪い。これは日本にとって不幸。
 寒冷地ではガソリン車より始動困難。

 軽油=「発動機油」?
 イタリアの1台あたり人口は105.0人。イギリス21.0人。ドイツ47.0人。米4.5人。日本654.0人。

 1平方kmあたりの自動車数。日本は0.2台、ソ連は0.01、カナダ0.12、イタリア1.26、ドイツ2.34、イギリス8.33台で世界断トツ。

 道路1哩あたりの自動車台数。米国306万5250台。仏40万6909台。ソ連168万2109台。伊10万5810台。独21万6674台。日本の内地は、60万1760台。

 北イタリア(ナポリなど)の道はS12には芸術的なまでに整備されていた。
 満洲重工業をつくろうとしたとき、内地の日産以外のメーカーにとって脅威になるからと反対論が沸き起こった。
 筆者いわく、満洲と北支では、「自動車飢饉」といえるぐらいに需給のバランスは悪い。

▼須山智『吾国魚雷ノ由来』S18-5
 日本の最初の魚雷は、M17の、ドイツ朱式84年式。径355.5ミリ、駛走600~400m。
 東京造兵廠でドイツ人技師を傭い試作したが、なかなかうまくゆかず。88式。

 M26に、英国保式を輸入。26式。
 M33に、保式36糎魚雷の模倣製造を開始。

 四三式53糎で、はじめて射程が8000mに達す。
 四四式53糎で、10000mに。
 八年式で 2万mに。
 93式で4万mに。

 炸薬量(概数)。
 88式は50kg強。
 30式は100kg弱。
 44式は100kg弱~150kg。
 8年式は350kg弱。
 89式は300kg。
 90式は460kg。
 91式は240kg。
 93式は500kg弱。
 95式は400kg弱。
 97式は350kg。

 雷速(概数)。
 44式までは27ノット。
 6年式は36ノット。
 8年式は38ノット。
 89式は45ノット。
 90式は46ノット。
 93式は49ノット。
 95式は47ノット。
 97式は41ノット。

 炸薬量。
 44式は110kg。
 6年式は203.0kg。
 8年式改2は346.0kg。
 89式2型は296.0kg。
 90式は378.9kg。
 91式改二は155.5kg。
 91式改三は235.0kg。
 93式改二は470.0kg。
 95式二型(尖)は400.0kg。
 97式は350.0kg。

 斉射のことを叢射といった?

 ガダルカナル島へ物資補給が出来ぬので木で発射器を作って砂浜に物資を積んだ魚雷を打上げた。之にヒントを得て水陸両用魚雷を考案したが、渡辺設計主任が握り潰した。

 装薬。
 88年式は56kg。
 26式は49.2kg。
 30式は99.5kg。
 保式36センチ(32式)は54kg。
 34式は88kg。
 37式は100kg。
 38式二号は95kg。
 41式36糎は49.2kg。
 42式は95kg。
 43式45糎は95kg。
 43式53糎は130kg。
 44式一号(45糎)は95kg。
 44式一号(53糎)は130kg。
 44式2号(45糎)は110kg。
 44式2号(53糎)は160kg。
 4年式は110kg。
 6年式は203kg。
 8年式一号は300kg。
 8年式2号改2は346kg。
 89式は300kg。
 90式は373kg。
 91式は155.5kg。
 91式改3は235kg。
 92式は318.5kg。
 93式(609mm)は492kg、49ノット、4万m。
 95式は397.4kg。
 96式は397.4kg。
 97式は350kg。
 98式は350kg。
 特44式は110kg。
 【十ム ※読めない】式45糎は、110kg。
 潜水艦用45糎は、180kg。
 保式30式36糎は50kg。
 保式32式45糎は90kg。
 38式一号は100kg。

▼塙保己一ed.『群書類従・第二十三輯 武家部』S35
 「射礼私記」
 雨雪の日などには うるしはぎの矢を用意つかまつるべきなり。されば古人は かならず此矢をつつに入れるなり。同じく雪雨には ゆがけ 濡るるによって おんじゃく を粉にして塗るなり(英享5年)。

 弓の用語として以下がある。
 千檀巻 定(サグリ)
 順弦(しなびつる)
 発矢(はや)=1射
 弟矢(おとや)=2射
 焦箆(こがしの)
 【土月】月(あづち)
 【流のさんずいが足】(さくり)
 臥【流のさんずいが足】(まろびさくり)
 【竹かんむりの さんぎ という字】塚(かずつか)
 弓弦葉(ゆづるは)
 【足へんに瓜】(さくり)

 「騎射秘抄」は説く。若い荒馬に乗ったのでは弓矢は使えぬ。
 初心の人は、「片入の馬」を好くことあるべからず。(応永23年)

 ああ と矢ごたへをすること、鹿に限りたること。
 大事の物をまことに射あてんと思ふときは 矢づかを少し引きのこして まむきに物を見るべきなり。にあひ もろめにて よく見んためにそうろう。

 ふせ鳥 かけ鳥を射るときは ふがら かりまたにて射べきなり。
 頭上の木鳥を射るには はだぬぎ でなければ射られるものではない。

 鶯、鴈、とび、ふくろふ、みみづく、いしくなき、庭鳥、木ねづみ、むささび、鷹は 射ない。
 木鼠は、聖武天皇が禁じた。

 ふろくふ の羽は、人を調伏するときの矢に使う。

 3尺刀はきりあいには向かず。一太刀でやられる。
 2尺5寸で防ぎに回られると、決着がつかない。(小幡山城守申分)

 初心者が真剣勝負にのぞむと目が見えなくなるから、ひた打ちに打て。それしかない。
 「勝負を盲打に仕候。」

 身細き刀は 生膚の者 切れそうらへども、鎧の上を打ちそうらへば 名作はしらず たいていの刀はゆがむものにてござそうろう。ゆがめば名誉の切れ物も、きれぬ物にてござそうろう。

 大勢とわたりあっていると、長い刀ではだんだん「切っ先下り」になって敵を切れなくなる。
 また、初心者は切先を土に切り籠んでしまう。プロはそれに乗じてくる。

 とはいえ広い場所で2、3人を相手にするには、長くなくては不利だ。
 卜伝は、臍の上に鍔の越す刀はダメだと。
 尺に足らぬ懐中わきざしを「さすが」という。

 刀と、突くのみの短刀では、絶対に勝負にはならない。そんな隙はありえない。

 北条早雲。いる道具いらぬ道具を思案して いれども用ゐ いらずとももて。
 山本勘助は、鍔は大きいのが良い、と。すかしをいれれば重くならない。
 槍は2間より短いと下から馬武者を突くことができぬ。
 4~5寸の槍穂では即死させることはできないが、穂を長くするとやたら槍が重くなってしまうので、そこに妥協が必要なのだ。

 9尺とか1丈の槍も、あるにはあった。

 卜伝、3尺の刀にてさえ思ふばかりに人は切られず。まして1尺4寸の小長刀では。
 卜伝も2尺5寸の長刀で仕合うことはあった。

 矢の根は細く長くないと、敵に深く刺さらない。
 以上、天正5年の高坂弾正の「武具要覧」。

▼小桜軍二『軍隊的工場管理』S19-7
 著者は大阪造兵廠の人。
 ※驚くほど紙が白い。戦中の出版物としては異常。

 労務者は三年いれば尻が落ち着く。
 工場で米軍の捕虜を働かせていたら、日本の本職工員がいつも油を売っているので、「あれは重慶の捕虜だろう」と思われたという話。

▼豊田堅三郎『実験航空読本』S19-12
 繋留気球は、最近はストリームライン形で、しかも、頭上げ姿勢。こうすると、綱が切れても安全なのだという。

▼小野武夫『日本農業起源論』S17-5
 アイヌは雑穀のことをピエイという。
 朝鮮では稗を「ピ」という。
 日本の稗も「ぴえ」と発音したのではないか――と藤原相之助は言っている。
 奥羽では「へ」という。これも「ぺ」ならん、と。 

 満洲、朝鮮を経て日本に来た。
 シナ人から見れば夷の食い物ゆえ、BADな字が当てられているのだ。

 東海道にソウリという言葉あり。焼畑のこと。これは古事記神代巻にもある。→「ソリマチ」。
 ※「ソリメ」という地名も関係があるのだろうか?
 火の男神と土地の女神が結んで五穀が出るのは焼畑のことだ。

 信州では切替畑という。
 十町を毎年交互に半分づつ焼いて蕎麦を蒔き、1回収穫した次の年は放置しておく。
 5~7年単位で切り替える地方もある。
 焼くのは春。
 秋に焼くときは、刈り干したあとに焼く。ソバはこのときに蒔く。
 秋に刈って、翌春に焼くパターンもあり。

 「サス」「さし」「さぶり」「ソレ」「ソウレ」はいずれも焼畑である。
 刈野は「カノ」になることあり。「なぎはた」も。
 半島では「火田」と称する。

▼髙木豊治『航空工業技術読本』S19-5
 ハツリは、タガネとハンマーで表面を削っていく。
 「トースカン」は、罫書きの道具。定規上を滑らす。
 キサゲ は 大ヤスリのような形をしている。その先端からウェーブして刃になっている。

▼田中阿歌麿『趣味の湖礁学』大11-7
 小川原湖は、1月中旬から下旬に全面結氷し、3月下旬に全面解氷する。

 浜名湖の今切は600m切れている。
 明応7年8月24日の地震で海とつながった。
 天正7年の大風雨で今切が崩れ、今のかたちになった。

▼小川菊松ed.『最新化学工業体系 第6巻』S12-10
 火薬工業 by 西松唯一。
 テルミットは、酸化鉄の酸素がアルミに移るだけ。少しのガスも出さずに3000℃となり、レールが切れる。

 同じ黒色火薬でも、軍用、猟用、爆破用では、3成分が変動する。
 硝石は78~62の範囲で変わる。国によってもまちまちだ。

 黒色火薬の比重は、粉状だと水よりわずかに軽く、粒状だとやや軽い。中の空気を除外すれば、水の1.5倍ある。
 黒色火薬を鉄と銅で挟撃しても発火しないが、鉄と鉄との間で挟撃すると発火する。摩擦発火という点では、ピクリン酸やトロチルよりも危ないのである。

 硫黄は帯電する。捏ねているときにスパークするので、機械はアースせよ。
 黒色火薬は英では銅容器中で作る。日本とドイツでは木椀を用いる。

 本書の表に載っている75ミリから40センチの大砲で、いちばん炸薬量が多いのては、21cm列車砲で、28kgだという。対して、40cm砲は、20kgである。

 ピクリン酸より敏感である黒色火薬を砲弾に仕込むためには、フランネルの小袋に粒状薬を入れてから装填する。
 1500kgの炸薬を地上で爆発させると、2.7mの深さに穴が掘れる。
 また、10kg炸薬だと、1.2mである。

 化学兵器について。仏では、幼児1人をそっくり収容してしまえる《防毒 手提げ鞄》が つくられた。空気ボンベも付属している。

▼及川源七(少佐)『趣味の日清日露戦史』S2-2
 ソースは参本の日清日露戦史。
 策源と戦地を連絡することを、兵站戦略という。
 設堡陣とは、臨時築城された大規模な陣地。

 清国兵は、レミントン銃、グラー銃、スナイドル銃、擡槍(2人でもたげる銃)も。
 M27の戦時編成では、野戦1個師団は、歩兵12個大隊、騎兵3個中隊、砲兵3個中隊、工兵2個中隊 からなる。
 総計1万8492人。野砲24門。山砲12門。馬5633頭。

 22年式村田銃は、近衛師団と第四師団のみ支給された。
 後備部隊はスナイドル銃であった。

 北清事変で、北京攻撃に参加した日本の歩兵は6600名、工兵450名、騎兵150名。他に、野砲18門、山砲36門。

 日露戦争では、歩兵と工兵は30年式歩兵銃、輜重兵は30年式騎銃、後備歩兵と後備工兵は村田連発銃。後備輜重兵は村田連発騎銃。
 各騎兵旅団はホ式MG。
 各師団機関砲隊は「三脚架式機関砲」。

▼田村榮太郎『戦争を覘く』1934-4
 ※戦前における左翼暗黒史観全開の本。農民一揆史。

 朝鮮役について記された『乱中雑録』には、明兵の配となる女数万……と書いてある。

 島原の乱。寛永14年12月10日、立花&鍋島の部隊が原城に迫ったが、佐賀の陣営で火を失し、銃手の腰につけた火薬が均しく併発し、火を負うてあらそって水田に飛び込むという醜態を演じた。
 農民は片刃の鎌を槍に仕立てていた。

 高杉の「兵法問答書」に、西洋の長技は鉄砲だが、本邦の長技は刀槍にある、と。
 長州下関の24ポンド砲。まず砲口から、火薬入りの薬袋、そのあとに弾丸を入れる。それから火門針をさし、雷管をさし、引綱をひっぱる。

 高杉の渡英決意は、馬関敗戦の翌年=慶応1年3月。しかし、行けなかった。

 薩摩との取引で長藩の伊藤と井上が、長崎のグラバーから、ミニエーとゲベール×4300梃を買い、馬関に8月16日に持ってきた。
 その単価。「けべる一張三両二分」と高杉日記にあり。

 スナイドルは沢山射つと遊底が開けられなくなってしまう。

 鳥羽伏見。5日、かくて幕軍はみな退却して枚方に防戦の準備をしてゐた処、永井尚志は慶喜の命を帯びて来て、深意あり諸軍皆大坂に退けと伝達。

 西軍の人肉食の記述?(p.328)。

▼帝国水難救済会『北米合衆国海岸護衛隊』大15
 1790からある Revenue Cutter Service (密商監視部)と、Life Saving Service を1915年に合同して、コーストガードはつくられた。

 コーストガードは米財務省の所管である。
 戦時、または大統領令あるときは、海軍の一部に編入する。その時は経費も海軍もちとなる。

 準士官は キーパーズ と呼ばれる。下士卒は サーフメン と呼ばれる。
 商船内で起きた反乱の鎮圧もやる。

 Line Projecting Gun を有する。ライフル砲という。さらに遠距離向けには、カニンガム火箭を用いる。
 ライフル砲というのは、青銅製で2.5インチの滑【月唐】。砲架ともで185ポンド、弾重は17ポンド。砲身は長さ14.5インチ。前装式臼砲のような外観。
 ここに、後ろ向きにした中実砲弾を、砲口から装填する。断尾にはリングあり、そこに索が結ばれる。発射されると砲弾は前後が顛倒して、ロープを引きながら飛んでいく。
 索は長さ700ヤード。太さは最大0.39インチ。射程は最大695ヤードという。

 カニンガム・ロケットは、長さ5.95フィート。筒中に800ヤードの索を収める。最大1000ヤード飛ぶ。

▼東京市役所tr.『支那防空知識』S14-3、原1938
 錦州爆撃は、飛行機が2機。爆弾二十余のみだったという。
 昂々溪では二十余機襲来。馬占山を黒垣に退却させた。

 上海事変は200機弱来襲。
 WWIにおける、1918-11までの英軍の砲弾消費量は、3億発/7000門。
 ドイツは6億発/17300門。

 過去の戦争における、重砲~山砲の数。
 普墺戦争のドイツ、770門。
 普仏戦争のドイツ、980門。 ※日本の明治3~4年。
 日露戦争の日本、990門。
 日露戦争のロシア、1200門。

 消費砲弾数は、普仏戦争のドイツが50万発。
 フランスはWWIで砲弾3億5000万発消費。

 AAは曳火ではダメ。気圧の影響まぬがれないから。
 スイス ゾロタン のAAMGは、径2センチ、初速830~850m/秒。
 俯仰はマイナス15度からプラス80度。

 英ヴィッカースの12.7ミリAAMGは、仰角90度まで可能。毎分450発。初速914m/秒。
 有効射程1200m以下。最大射高4550m。最大水平射距離5430m。

▼欧亜通信社ed.『日露年鑑 昭和十九年度版』S18-12
 ボルガは水位差が小さいので発電に向かない。
 泥炭もカロリーが低い。
 ウクライナ炭とコーカサス石油なくして、モスクワ~ウラルの工場も動かないのだ。

 スターリングラード戦は、モスクワ方面への動力源供給を阻止しようというドイツ側の狙いがある。
 南北縦通の鉄路は、ルフトヴァッフェが執拗に爆撃した。
 これはドンバス(ウクライナ)の石炭を運ばせまいとしたもの。ドンバス炭はkgあたり7000カロリーと上質なので、鉄道で長距離を運んでもペイするのだ。

 ソ連は、ヴォルガ舟運でこれを凌いだ。
 かくして、スターリングラード戦へ。

 コンビナートとは「綜合企業」である。
 S17に米潜水艦が西太平洋でソ連汽船を撃沈したことあり。161名を日本汽船が拾って、大連まで送った。そこから彼らは陸路で帰国した。

▼川久保かね代『大東亞戦に祈る』S18-10
 私は通身隊だがバタアンでは全然無線通信ができなかった。無電を使ふとすぐ敵は探知器で探りあてゝ砲弾の集中射撃をした。