▼『経済倶楽部講演』S18-1-31
「独・米・ソ連 最新の鉄道状態」by立花次郎(鉄道技師)
米の貨物列車は1編成が5000トンくらい運ぶ。前に機関車を三重連して。
そこに、60トン積みの4軸ボギー車を100両くらいつける。更に必要があれば「後押し機関車」も連結。
ソ連では、貨物列車×1で、3トン乗せる。やはり四軸ボギーはある。
ところがドイツには4軸ボギーの貨車がほとんどない。つまり貨車サイズが小さい。1編成は1200トンから1500トン。
米と日本には自動連結機があるのに、独(他の欧州諸国も)にはない。
ソ連も自動になりつつある。※あたりまえだ米国から貰ってるんだから。
旧シレジアには、石炭の未開発な炭田があった。他方、ライン炭田は開発が相当に進んでいた。
ベルサイユ条約で、シレジアは三分され、ひとつはポーランド、ひとつはチェコに行ってしまった。
全欧の面積が合衆国と同じである。貨車規格を統一しなければ効率で負ける。しかし20ヶ国もあるから、できない。
この出版時点でドイツ領は人口1億を超えている。
元のドイツは7000万くらいだった。とても狭いところに。
せっかくの俘虜を農業に使えない。看視の男が足りないのだ。そこで、女子と少年を畑仕事に投入している。
ソ連では、戦時には鉄道もトラックも一斉に、民需輸送を止める。このため野菜の流通は止まる。
ドイツは真冬にはマイナス20度になることも。しかしソ連はマイナス47度になる。
マイナス30度で、凍水破壊が起き、機関車が壊れる。給水塔も凍ってしまう。
独の患者後送列車は、3段の蚕棚式で、それが十何両連結されているまんなかに、医師を置く「手術車」が。 パナマ運河ができたことにより、北米のいくつかの線路は経営が立ち行かなくなった。
もし運河が閉塞されたならば、7ルートある大陸横断鉄道が昔のように繁盛するだけで、物資面では特に困らないだろう。※これは日本海軍が戦前からパナマ運河閉塞作戦をあまりに唱えていたので、それに対する意見か。
米国内では、石油は鉄道では運べない。パイプラインもしくは、10トン以上の容量がある牽引式のタンク車を使う。
▼小島精一『欧州大戦と日本産業の将来』S14-10
S12の米国からの屑鉄輸入は、8100万円。
鉱石と銑鉄(インド産も多い)の総輸入額も、同じくらい。
ところが石油は、S11年度、1億7000万円。S12年度は推定で2億円。
炭業経営権の戦時収容を著者は提言する。
この時点で銑鉄から鋼まで一貫製鉄している大メーカーは4社のみ。
日鉄。日本鋼管。鶴見製鉄。昭和製鋼(満州。ただし石炭は北支に頼るためフル操業ができず)。
これが4強だが、中小としては近年、中山製鋼と、小倉製鋼が参入した。
こんなことになっているのは、日鉄の成立後、商工省が、アウトサイダーの参入を抑圧する政策をとったせい(p.163)。
「準戦時体制」に入ってから、溶鉱炉建設が奨励されたが、もう遅し。
S11で、産生スチールのうち6割が、クズ銑原料だのみ。つまりは米国に依存。
米国からの屑鉄の供給が止まれば、代替供給国は、事実上、存在しない。2位はベルギーだが、その量はアメリカの十分の一だ。
WWI中のアメリカで、ライフル銃を作るために必要なリミット・ゲージは812種類でよかったが、マキシムMGの量産のためには、ゲージは1400種類が必要だった。
それは1工場1セットで済むものではない。だから、ゲージ供給のネックが、精密兵器量産のネックになってしまうのだ。
▼石塚清秀『劣等児の科学的指導』S18-3
IQ90以下を精神薄弱児とす。
うち2%はIQ70以下で、特に低劣である。
S12調べで、学齢児童は1143万人。
この時点では、学校令で「瘋癲・白痴」とされぬ低能児もぜんぶ普通学級に収容している。
独では1859に特別学級ができている。
英は今、150の special school に数万の劣等児を収容。米はそれを凌ぐ。
低能>薄弱>劣等
白痴>癡愚>魯鈍
ヒステリー>神経質>癲癇
米ではIQ141以上を天才、51~70をモロンという。
ダーウィンはギリシャ語・ラテン語の記憶中心学科が大嫌いで、幾何学に熱中していた。校長からはあざけられた。
著者いわく。毛筆を教えるのは高学年になってからでいい。それまでは硬筆(エンピツ)でいい。
脳膜炎後の児童は、智能・気質がひとしなみでない。必ずなにかとりえがある。
これら後天性精薄は、いわゆる「馬鹿面」もしていない。
教室で、こうした児童を、優秀生徒の前とか横に座らせることや、あるいは最前列に座らせることは、よくない。
劣等児童だけ、いちばん明るい一角(しばしばそれは窓側)に配置せよ。絶対に、暗いところに座らせるな。
そして、明るい列の前から、悪い順に、座らせるとよい。
チンドン屋のことは東西屋といっていた。
▼旺文社ed.『昭和十八年度 全国上級学校年鑑』S18-6
軍部委託生制度(pp.249~)。
大学生は「委託学生」である。専門学校生徒は「委託生徒」である。
学費を出してもらえる。その代わり、軍に10年つとめるのが義務。
▼時事通信社外信部ed.『人工衛星読本』S33-1
スプートニクは1時間半で地球を1周し続けた。重さ83.6kg?
ピーピー信号を人々は簡単に受信できた。
そのうち、1日に3秒ていどの減速があることが分ってきた。その高度では衛星の寿命は数ヶ月だ。
大気圏外は均一に大気が薄いのではなく、空気塊が存在することも分ってきた。
10月下旬、ジューコフ国防相、解任。
11-3、第二号衛星。スラスター付き。高度508km。重さは6倍になり、しかも、犬を乗せた。
二号衛星の打ち上げ日は、ジューコフ問題ゆえに繰り上げられた。ほんとうは11-7の革命40周年を狙っていた。
このエスキモー犬には世界中の同情が集まった。
11-11、犬が死んだと発表された。
フルシチョフの鼻息は、かつてのゲーリングの豪語を思い起こさせた。
1700年代末、インド人は支那渡りのロケットを大改良し、全長8インチ×径2インチの鉄筒ロケットにし、ハイダール・アリの軍勢が、それを使ってマイソール地方で英軍を迎撃した。
これに学んだウィリアム・コングリーヴ陸軍大佐。3フィート×4インチ径で射程1.5マイルのロケット弾を完成。ナポレオン戦争でブローニュ港を攻撃したのが、実戦初使用。
コングリーヴロケットには空力安定フィンがなかった。※安定用の尾棒が伸びていた?
それを考えたのが米人のウィリアム・へール。独立戦争で英軍が発射したものを拾って、改良した。
V2号は頭部に1トン強の炸薬。耐熱性火薬でなくてはいけなかった。
エンジン燃焼のカットは、初期には、テレメトリーを聞きながら地上から電波指令を出した。しかしすぐに、自律サーボ方式に改良された。
燃料はエーテルと液酸。発射の直前に注入した。
別に、燃料ポンプを駆動させる蒸気を得るための過マンガン酸カルシウムも搭載。
V2の空力フィンは、地上から60マイルくらいで、その用をなさなくなる。
米人ゴダードは、1940に液体燃料ロケットを作っていたが、海軍に召集されて中絶した。
アトラスのおおもとは、1946から米空軍で始めた計画だが、1947に予算を切られてしまい、中断。それが1951に復活したものの、ソ連に遅れた時間を取り戻すのはたいへんだった。
1956-2、ソ共20回大会でミコヤン副首相、爆撃機およびロケットで地球上のいかなる地点にも核兵器を投下できると述べる。
流星は200~150km上空から発光しはじめる。
オーロラは空気があるから光る。したがって高度500kmほどが上限である。そこにも空気がわずかに存在する。
1年以上、衛星を回したければ、高度は500km以上とせねばならぬわけ。
もし最小高度が160kmであったら、その衛星は1時間後には墜落する。
高度350kmならば、15日は周回できる。
宇宙空間での空気摩擦は現段階では読みきれないので、正確な寿命も予測不能。
毎日3秒の減速は、毎日2650m×2の高度低下を意味する。つまり5km。
ただし高度の低下は長円軌道の遠地点でのみ起き、近地点では起きない。
アポジ=ペリジとなったときに、余命はあと数日となるのだ。
ICBMも衛星も、スラスト終了点は地上400~500km。その時点でICBMの仰角は20度から30度。人工衛星は、水平。
最高弾道点は、ICBMは、高度1300km。
『長門』は40センチ砲を射つ前に、ラジオ・ゾンデを飛ばし、3000m上空の風向と風力を測っていたという。
極付近に衛星を飛ばさないと、空気抵抗などを調査・把握できない。
対地レーダー衛星は、地面に対して電波が斜めに当たるほどS/N比はよくなる〔=クラッター反射を拾わないで済む〕ので、できるだけ低い軌道で回したい。
1メガトンの水爆にビルディングを耐えさせたければ、爆心から2マイルは離れている必要がある。
▼菊地勇夫『飢饉の社会史』1994
天明飢饉で強殺盗が増えた。弘前藩は「見当り次第 断りに及ばず打殺し候様」と命じた。村方申合の「自分成敗」。
村の富農に火を付けて回る地元民あり。東北では意趣返しは火付けであった。※倍返しは倍放火か。
馬を盗んで食べたら打首。
原則として馬喰いは「家内不残打首」。
20人ばかりの村の若者が、鑓で7人の無頼漢を突き殺した(p.123)。
簀巻きのことは、叺[カマス]かぶりとも言った。川に突き落とすほか、石を投げたり、マサカリや棒で打ったり。
▼菊地勇夫『近世の飢饉』H9
西日本の飢饉は、旱害、ウンカ、風水害。
大豆は馬糧になるので、本年貢の現納物として、コメ以外に唯一、ゆるされた。
赤穂はアカゴメである。冷害にとても強い。とうぜん、早稲。モチにして食べる。
田稗といって、水田にわざと植えるヒエもあった。
領主から大豆モノカルチャーを強制された畑作地でも、飢饉は起きた。
鯨油を撒き、ウンカをタタキ落として窒息死させる駆除法は、大蔵永常「除蝗録」で広く知られた。
1690(元禄時代)に猪、鹿、狼の「三獣」が、人馬犬、作毛を食い荒らすというので、八戸藩は城内の鉄砲を貸与したり、目付をして射殺せしめた。
馬産地帯なので、主敵はオオカミだった。
1746になると敵はイノシシになる。オオカミがいなくなったのでイノシシが増えた。
1749と1755には「イノシシけかち」が起きた。
貸下げ鉄砲は、4匁筒であった。
脅し鉄砲と称しても、じつは射殺していた。
大豆をつくるために、焼畑すると、ワラビが大量に生じ、それをイノシシがほじくって殖えるという。
信州でも17世紀末~18世紀にかけ「シシガキ・シシドテ」を築造している。
狂犬のことは「風犬」(ふうけん)と称した。
▼藤原仁『まぼろしのニホンオオカミ――福島県の棲息記録』1994
エゾオオカミはM22頃、絶滅。
硝酸ストリキニーネ入りの毒エサが有効だった。
これは大陸でも同様。
青森~九州のニホンオオカミは孤立種で、M38-1-23に米人研究者が入手した死骸が最後。ロンドン博物館にあり。
国内には、東大、和歌山大、東京国立科学博物館に3体、剥製あるのみ。
犬との最大の差は、わんわんと鳴かぬこと。犬は、家畜となってから、鳴き声が発達した。
ニホンオオカミはインドオオカミに次いで小さい。シェパードの牝くらい。灰白色。
チョウセンオオカミは中形。
狼の良い面が知られた地域では神社に祀られた。
悪い面が知られた地域では、地名となった。
焼畑地には小動物が多い。そこに狼も集まる。
なぜケモノヘンに「良」なのか。牧畜文化地域だったなら、そんな発想にはならない。
コメつくり文化地域だったから、テリヤ代わりになったのだ。ありがたいので、神社に。
※イノシシに田畑を荒らされると壊滅的な損害が出る。そのイノシシの個体数を狼が抑制してくれる。対猪用に「しし垣」を構築しても、こんどは鹿が躍り超えてやってくる。その鹿も狼が追い払ってくれる。
秩父の大滝村の三峯神社は、関東のオオカミ信仰の総本山。
牧とは むまき=馬飼 からの転。
相馬藩では、元禄10年に、狼や鹿は鉄砲で射殺自由との掟。
馬産地では狼は害獣だった。明治までも。
しかし地元民は狼の射殺には消極的だったという。
狼は夜しか活動しない。
親馬は仔馬を中にして、交替で見張っている。
狼は一つがいで現れ、まず1匹が周回。親馬が追い回す。
その隙に、隠れていた別の1匹が仔馬を取る。すると2匹で加えて逃げてしまう。
狼の弱点。口に手を突っ込まれると、前足のパワーが弱いので、反撃できない。カナダではその手で生け捕るという。
塩を好むことはない。鹿とは違い、肉食なので。
M22年、馬小屋まで馬を追いかけてきた狼のつがいのうち1匹を鎌と棒で殺した事例。
狼は、飼い犬も襲う。
九州には、シシ1000匹を獲ったという塚がある。紀伊半島から関東中部まで、それがなくなる。そして宮城県になると、またそのような塚がある。
猟師が仮設やぐらにて待ち伏せする場合、2人組だったら、2人ともにその中に入っていないと、狼は来ない。
▼『食の文化フォーラム17 飢餓』1999
東北の飢饉は近世以前にはなかった。そこに水田をつくったことが、大悲劇を呼んだのである。
近畿の価値観やシステムが東北に移植されたのが災厄だった。
天明飢饉では、都市部は全く飢えず。
藩は借金があるので、唯一の商品たるコメを飢餓輸出し続ける他に策がなかった。そのため冷害年が数年続けば、藩内のコメのストック量が、人口を下回った。
旱魃は水利で救う法もあるが、冷害は、どうしようもない。
明治になり、藩境での「穀留」の必要はなくなり、飢饉はなくなった。その代わりに、コメ騒動が起きるようになった。
大7の事例は、シベリア出兵の需要を見込んで、買い集めがあったため。
アイルランドでは1840年代を、The Humgry Forties と呼ぶ。ジャガイモ病飢饉が発生してえらいことに。
1846に英国が穀物条例を廃止したきっかけ。
英国の1770~1870は、「小麦パンの時代」と呼ばれる。
小麦パンに劣るものとして、オート麦、大麦、ジャガイモを食べている地域があった。
19世紀になると、蒸気船でアメリカから冷凍肉を輸入することができるようになった。
1877には、英国の3300万人のうち1500万人は外国産の食糧で養われている状況。
じゃがいもは長期保存できない。麦なら3年置いておくことが可能だが。
したがって馬鈴薯は、作ったらすぐに売らねばならない。農家にリスクが大。
しかも、芋はけっこう不作もある。1816や1822も不作年だった。
価格対重量比でも、ジャガイモは不利だった。遠くへ輸送すると輸送コストがたいへんだから、地元で買い叩かれてしまう。
▼中央公論社『続日本の絵巻1』1990
「法然上人絵伝 1」 解説/小松茂美
1307から十年がかりで完成したと伝えられている。
今、国宝として知恩院に正本[しょうほん]あり。
吹きぬき屋台 の描法。
屋根を消し、クォータービュー俯瞰。
頬髯を生やしているのは、検非違使のみだ。
生年中に、木曽義仲の乱入のことがあった。
建永2年、法然の弟子の安楽らが、後鳥羽上皇の女房の一人を出家させてしまったのを咎められ、翌年2月9日に、加茂川の六条川原で斬られることに。執行は武者所の藤原秀能。
川原まで、検非違使の髯もじゃの放免が、縄の端を持って安楽を護送してくるシーン。
甲冑の随兵には髯の無い者も。武器は弓か長刀。
太刀は、貴人や役付だけが帯びている。
検非違使の上官の貴族も弓が主道具らしい。
死刑の描写はなし。
▼永井壮吉(荷風散人)『【さんずいに墨】東綺譚』S12-8 初版
脱稿は昭和丙子11月と。
現代人が深夜飲食のたのしみをおぼえたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長し、市内一円の札を掲げた辻自動車が50銭から30銭まで値下げしたことに基づく。
わたくしは 党を結び群れをなし、其の威を借りてことをなすことが大嫌い。
社をむすび党を立てて、おのれにくみするを揚げ、くみせざるを抑えようとするふるまいをさげすむ。
世の中の精力が発展してきた。だから暗殺も姦淫も起こる。スポーツ、ダンス、登山、競馬、博奕……。欲望を追求する熱情がそうさせている。
現代固有の現象。それは、個人めいめいが、他人よりもじぶんの方が優れてゐるといふことを、人に思わせたい、そして、じぶんでもそう信じたいと思っていること。
優越を感じたいと思つてゐる欲望です。
明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あつたところで非常にすくないのです。
これが 大正時代に成長した現代人と、われ\/との違ふところですよ。
※「作後贅言」の中の記述だが、一冊の一体とよむべきだろう。
喫茶店を「きっちゃてん」と読ませている。
▼沢田進之亟[しんのじょう]『姿なき戦ひ』S19-6
著者は国民新聞からNHKへ。国際放送の監督。
S18夏、南鳥島に対する大編隊の空襲は、電波探知機で警報された。
短波は わずか20ワットで遠距離へ信号を飛ばせることがわかり、一躍 対外放送の主役に。
上海のXMHAは、米国放送局だった。
1939いらい、アメリカでは、アメフトと野球のラジオ放送の聴取率は60~70%を維持していたが、1941時点で2~4%まで超激減。
反比例して、FDR演説がよく聞かれている。
北米には独系人が多いので、ナチスの対外放送は1933-4-1にまず北米向けをスタートさせた。
ただしベルリン時間で未明1時から3時のあいだのみ。
ついで、対アフリカ、対東南アジア、対南米が開局している。
英国は、ダヴェントリーから短波で全世界の支局に放送し、支局でそれを中波に変調して中継放送することにより、たいていの住民が持っている中波ラジオで、24時間聞ける体制を、築いている。
FDRは、儲けにならないと渋るNBCとCBSに、1937-7-1から南米向け放送を始めさせた。
インドとビルマで英国官憲は、東京放送を「多人数集まって」聴いてはいかぬと命じた。全面禁止は不可能であった。
そのかわり、東京放送のすぐ後に、カルカッタやラングーンから、打消し放送をした。
XMHAは、S12-8に、皇軍が租界に進駐して接収した。
支那事変中の中国兵は、東京がどこにあるか知らず、日本は陸続きだと思っており、指揮官が山の向こうに東京があるから、といえば、それを信じた。
パールハーバーのニュースは、支那新聞にはごく小さく載った。というのも、戦艦とはどんなものなのか、誰も知らないのである。
戦争中、重慶放送は、毎深夜に三国志を連続で講談して、飽きなかった。
ミンダナオでは邦人虐殺があった(p.124)。
収容所内で表の子供の声を聞き、いずこも同じだと思ったのは、英海軍少佐のモー・ウイヴァー(p.128)。
最初の東京空襲で、学校と病院に損害があったという英語のTOKYO放送は、米とBBCで速報としてそのまま紹介報道されている(pp.142-3)。
エクアドルでは開戦と同時に邦人(イミグレ)は軟禁状態に。
ルーズヴェルトとチャーチルは頻繁に会談している。
第一回はS16-8-5~14、大西洋上。
第二回はS16-12-22~S17-1-16、ワシントン。
第三回はS17-6-18~27、ワシントン。
第四回はS18-1-14~24、カサブランカ。
第五回はS18-5-11~27、ワシントン。
第六回はS18-8-11~9月初旬、ケベック。
S17に米は「フライングタイガース」「インサイド ファイティング チャイナ」の2本の記録映画を作った。
主人公は、最初はカネ欲しさに戦闘機乗りになったが、やがて人格が矯正され、日本空軍と勇戦するようになる。
S18-8-27に米は戦艦『アイオワ』の進水式を報じた。このようなニュースを出すのは米国のみである。
予定より7ヶ月も早く進水した。
『アイオワ』の発電力は1000キロワットだという。
米の対外放送番組にはパターンがあり、冒頭に、今日は日本が見込みの無い戦争に入ってから2××日目……と言う。
この起点となっている日が、S12-7-7、すなわち盧溝橋事件の日なのである。
S13に米誌『ザ・ローダウン』のジョセフ・ヒルトン・スマイスは、S12に米国で日本の蛮行として流された怪写真について、説明。それは1919年に上海で絵葉書として売られていたものであり、それを国民党が共産党に対する誹謗の宣伝ネタに使った。その1年後、こんどはそのシーンは、共産党の士官が国民党の兵士を拷問しているところだと称された。さらに満州事変後には、それは日本軍人の鬼畜行為だということになり、1934年にはまたも共産党軍の残虐行為であるとされ、支那事変とともにまた日本軍のものだとされたのだ――と(p.208)。
『プリンスオブウェルズ』と『レパルス』が撃沈されたとき、豪州のABC放送はS16-12-12、日本機が漂流者を機銃掃射したと宣伝した。
▼出井盛之『足袋の話』大14-1
著者は早大教授。
江戸の老舗として、「茗荷屋」が万治元年からある。
注文生産から、市場生産へ移した。
オランダ語の「タピス」以前に「たび」がある。
大昔は鹿の皮でできていた。
やがて、武家が、襪を改造して 大指のわれめをこしらえた。
現在(大正)と同じ様式の木綿足袋は、徳川時代初期。普及は、明暦大火直後。
なぜかというに、火消しの火事装束は、革羽織、革頭巾だったのが、物価が騰貴したため、革足袋を調達しにくくなった。それで木綿足袋が代用にされたともいうが、おそらくはその前に、消費人口が増えていて、鹿革が品薄になったのである。
貞享のころから、薄柿木綿と白晒木綿に、男女で分かれる。
もともと卑しい階層の目印だったのが、江戸期に偉い人の履物になった。明治初期には、下男下女は主人の前では足袋を履けなかった。
囚人は、大正12年から足袋をゆるされている。
江戸遊女は、「伊達の素足」で、足袋を着けない。
「けいせいは たび屋にばかり 借りが無し」。
紐足袋は近代のこと。
こはぜ になったのは、もっと近来のこと。
「足袋の紐 解けたで御姫様が知れ」。
底材は、刺し底→石底→雲斎 と進化してきた。
機械で量産するようになったのは、日清戦争の頃から。
今は、堺市の福助足袋の工場で年2000万足、製造している。65工程あるという。工員1人あたり1日50足。
18世紀中ごろの英国では、靴下製造者は小屋と畑を私有し、週3日~5日働くのみ。
労働者の1日の労働時間は10時間だった。
それが百年後には、1日16時間という非人道的なレベルに。週給は4シリング6ペンス。
▼(財)国民工業学院『女子作業心得』S16-2
久留米絣の発明者は、井上でん。
時期は、幕末から明治初期。
それより前にカスリがあったら、おかしいのである。
そのあと、国武絣を 牛島のし が考えた。
一般に月経中の3~10日は筋肉の力が弱くなって労働力が減る(p.45)。
さらに自分を抑へる力が弱くなる。
文部省によると7歳~20際について、大正元年度からS11までの25年間に、女子は4.5センチ身長が伸び、胸囲は2.8センチ増えた。
医学博士の竹内茂代は、20歳女子の平均として、身長149.6センチ、下肢長76.4センチ、比下肢長51.2センチ、坐高82.8センチ、比坐高55.4センチ を挙げている。
厚生省は、17~19歳男子について、体力検定することにした。
上位の基準は、100mを14秒、2000mを7分半、走り巾跳び4.8m、手榴弾投げ45m、60kg土嚢運搬50mを15秒、懸垂屈臂12回。
式根島は18人目の入殖者のタンさんという婆さんがひとりで開発したようなもの。
▼労働省婦人少年局『工場に働く婦人のための安全な服装』S25、原1941米国労働省
第一に足ごしらえ。次にゴーグルで眼を保護すべし。
宝石は工場には用はない。着けてくるな。
どこから何が飛んでくるかわからないので、全員、必ず、ゴーグルを着用すること。
静電気が髪をひきつけるのが怖い。必ず頭巾を。
▼河合武郎『ルソンの砲弾』1990
歩兵は山砲とは言わず、聯隊砲という。
砲兵が、これを山砲という。
人馬を載せた輸送船は、ハッチを閉めない。かわりに、厚手のシートで、雨と波を除ける。
4年式十五榴×4門をもっていた中隊の馬数は他中隊の2倍あった。
第1、第4、第7中隊が、95式75mm野砲。
第2、第3、第5、第6、第8、第9中隊は、91式105ミリ榴弾砲。
第10、第11、第12中隊が、4年式十五榴。
野砲第8連隊の合計で48門。
4年式十五榴は、もともと野重(軍直砲兵ともいう)なのだが、96式十五榴ができると、それにはじかれるようにして、師団砲兵の第四大隊に渡されたのである。
砲兵隊の装備する小銃は、38式だった。
野8は、最もコンディションがよかった。第1師団の野砲第1連隊は計36門で、頭号師団のくせに、野8より少なかった。それでレイテに突っ込んだ。
戦車第2師団の持っていたのが「機動砲兵第2連隊」である。略して「機砲2」。
レイテの米軍師団は、105H×54門とAW大隊〔4連装のキャリバー.50 をハーフトラックに載せたやつか〕。
日本の師団砲兵は、75mm×12門、105H×24門、十五榴×12門。これが最終改編目標だったのだが、達成していたのは、野砲第8連隊のみ。
おなじ105ミリ榴弾砲でも、米軍のは射程15km。日本のは最大8kmで、命中精度がよいのは5kmまでだった。
米軍の師団砲兵のうしろには、必ず軍団砲兵があって、それらは常にコンビで運用されていた。
たとえば、155H、155K、203H、計54門~72門の砲兵群が、三つもあるのである。
だから155H~203Hが、最大で180門も、師団砲兵に加勢するわけだ。
レイテのオルモック攻防のとき、米軍は、25kmも離れたところから山脈を超えて155ミリ砲を撃ってきた。
米軍は笛を退却の合図にしていた。
フィリピン住民は、米軍の支配下に入ると電灯をつけるので、それを見れば、敵がどこまで出ているか判別できた。
公刊戦史は、歩兵中心で、砲兵隊の手柄や苦労はほとんど書かれていない。
※これはとても重要。諸兵種連合の現場を知らない参謀が勝手に発想した無茶な作戦を、補給も支援も何もなしにその通りに実行してくれたのは、歩兵部隊だけだった。エリート参謀が特科の作戦(特に補給)を現実的に組み立てられなかったということは、そのまま、国家間の地政学的な競争を考える頭も無かったことを意味するのである。
砲にも「掩体」と「掩蓋」がある。
4年式十五榴の壕は、ミニマムでも15坪、つまり30畳要る。
マンゴーは幹が素直でない。椰子は中がスカスカで、どちらも建築資材にならぬ。
4式20cm噴進砲は、沖縄で鹵獲されている。
比島にも噴進砲大隊がいた。1000発もってきたのを、射ち尽くしている。
米軍には4.2インチ迫撃砲がすでにあった。