旧資料備忘摘録 2020-9-15 Up

▼防研史料 〔マル39/256〕陸軍築城本部『南方視察に基づく築城の参考』S19-6
 同じ自動車ではない。日本軍と米軍とでは車両装備の性能が違うのだ。だから、陣地の翼を依托する地形を見るときに、我には超ゆべからざる障碍と見えても、敵にとっては安易なる通路でしかない〔=簡単に翼側から迂回してこっちの背後に出てしまえる〕場合があるから、そういう装備の性能差を、正当に判断するを要す。

 現地の物料、木材の見方。
 樹液が多く、幹が白いものは、脆弱な材木である。
 板根を有する、幹が赤いものは、強度が大である。しかし、フィリピンによくある、チーク、マホガニーなどの高級南洋材は、とうてい、内地の斧やノコギリで切れるもんじゃない。
 赤ラワンは、ミンダナオ島やネグロス島に多く、釘持ちが良好だ。
 白ラワンは、いたるところに生えている。
 ニューギニアには、竹はあるものの、虫害を受けている。
 タコノキの葉で「網」をつくることができる。

 珊瑚礁は、コンクリートの骨材になる。だがこれも、最初から粒状に砕けていないものは、十字鍬では崩せないから、爆薬を使うしかない。というわけで、爆薬の補給がとても大事。
 海水でコンクリートを混和してもかまわない。ただし、無筋なら。

 現地に派遣されたら、すぐに調べるべきことは、ジャングル内での音の届き方。夜の海岸での舟の見え方。
 密林では、小銃の音は1km届く。
 作業音は夜は800mまで聞こえる。
 私語は、夜は400mまで、昼は220mまで聞こえる。
 足音は、ニューギニアでは250m聞こえたことがある。
 大発などの発動艇の音は、海岸にて800m先から聞こえる夜もあり、20mということもある。

 まずニセ陣地をこしらえてから、真陣地の工事にかかれ。作業途中で発見された時に、敵の砲爆撃はすべて、ニセ陣地で吸収してくれる。

 旧来はこう教えていた。分隊は、50m以上の正面に散らすな。小隊は200m、中隊は500m、大隊で2000m巾だぞと。
 しかし、最近の戦例でわかった。米兵は、ジャングル内にこっちの守備兵が健在であると承知すれば、もうそれだけで、前進してはこないのだ。つまり、こっちの火力密度が濃いか薄いかなど、持久防禦の目的達成の見地からは、関係がないのである。
 だとするなら、こちらが一兵でも多く生存し続けることが大事だ。それには、もっと守備の配置を散開させるのが有利だ。密集していると、敵の大威力の火砲や爆撃のために、いたずらに殺傷されてしまうので。
 指揮官が掌握ができる限りにおいて、極度に疎開せよ。

 火力装備に劣るわれらとしては、狙撃とか、急襲射撃を工夫するしかない。

 ノモンハンでは、敵はまず囮の戦車を先行させた。それによって日本軍の対戦車火力の位置を暴露させて、それを撲滅するようにしていた。

 キスカとラバウルでは、わが高射砲は、空襲がおわるごとに陣地を変更したので、生き残ることができた。

 地下化のコツは、横穴を掘ることのできる土地を選ぶことだ。垂直方向に穴を掘っても、水で苦しむのみ。
 大型爆弾を落とされてもぜったいに安全なのは、尋常土で30mの厚さ。岩盤なら10mの厚さ。それを確保するには、山の中腹に横穴トンネルを掘るしかない。

 アッツでは、ここからは這い上がってなど来られまいと考えていた断崖から、敵の戦車×15両が現れた。
 タラワでは、越えられないはずの環礁を履帯で乗り越えて、水陸両用車が礁湖内に楽々と侵入し、桟橋から上陸してきた。

 椰子樹は内部が脆弱で、表皮からは虫に食われる。椰子(ココヤシ)は、乾いたら効力ゼロ。そして、乾湿を交互に経ると、3箇月でボロボロに。数日の用にしか足りぬものと知れ。
 土民からも恨まれるし、対空遮蔽もなくなってしまうから、伐採はするな。※椰子は、住民が植えて育てていた場合が多かった。

 ひとつのMG壕で全周を火制させようなどと考えるな。
 射界をごく狭く限った、小さな掩蓋壕を多数をこしらえておいて、それを電光形の交通壕で結ぶこと。

 敵が来る方に向いた銃眼は、発見されれば、平射砲〔じっさいには、戦車砲〕でやられてしまう。だから、敵方に対する掩蓋陣地などは最初から工事しないという選択がある。露天立射壕を偽装で覆っただけの方がいいことがある。

 馬用の掩壕は、1頭づつ、首の高さまで掘る。水源と交通しやすいように位置は考慮すること。
 樹高40mが得られるならば、指揮官は、是非にものぼって視察をせよ。

 南方では、木材は数ヶ月で腐る。立ち木は永久にもつから、鉄条網は立ち木を利用すること。生籬。

 通信は有線だのみ。しかし架空してはダメ。砲撃ですぐ切られるから。地中30センチに埋めて通すしかない。そのさい、ピンと張らないこと。

 敵の航空爆弾の破片の威力は大きく、大砲の腔内すらも傷をつけられてしまう。37ミリ砲の砲身内をやられた例あり。

 ガス防護用の晒粉は、湿気に弱い。
 活性炭は、椰子の実の殻から、簡単につくれる。【火へんに慮】過函を、自製できる。ただし効力は数時間しかもたない。

 いちばん良い偽装は、植樹である。それもタピオカや芋である。
 守備隊の食糧ともなるゆえ、一挙両得。

▼防研史料 長谷川治良『陸軍火薬史年表』S43-9
 大8-11、平壌に朝鮮兵器製造所を新設する。
 「東京工廠」は、十条の「精器製造所」(S11-8)のことになる。

 S15-12、仁川造兵廠を新設。
 S19、小倉造兵廠に春日製造所を新設。

 硝宇薬と安瓦薬は、S12から生産。
 平寧薬はS14から。
 塩斗薬はS4から。
 茶褐薬は、震災前から。
 茗亜薬と硝安薬はS6から。
 硝斗薬はS19から。

 大12-4~12-8の間、南部麒次郎中将が初代の火工廠長。そのまえは、東京砲兵工廠の提理〔=所長〕であった。

 M4から日清戦争までが、黒色火薬時代。
 2号火薬というのは、小銃用の黒色火薬。

 M14、海軍がドイツから褐色火薬(大砲用の有煙薬)の製造権を購入し、目黒火薬製造所で生産。
 日清戦争後に、無煙火薬と高級爆薬〔黄色薬のこと〕が出現。

 M32、陸軍において無煙小銃薬製造法が制定される。※まともな装薬が量産できなかったのでは、22年式連発銃が不振におわったのも無理はない。

 満州事変後、ニトロセルローズ薬より活力大なるニトログリセリン薬が採用される。
 日清役まで、爆速が音速以上の軍用爆薬は、日本軍にはなかった。

 日清役後に、黄色薬が導入される。しかし腔発が多かったので、ヂニトロナフタリンを混ぜ(鈍化させて)、黄那薬と称した。

 茶褐は前からあったが、伝爆に茗亜薬を必要とした。その実用化が大7。
 WWI後、資源豊富な混合爆薬、硝酸アンモニア〔ママ〕=硝宇、過塩素酸アンモニア〔ママ〕=硝斗 などが、代用爆薬になる。
 トーチカ破壊用の爆薬として、S10に、硝宇と硝英が制式に。→安瓦薬。
 別に、淡黄薬、灰色薬を制定。

 M17に、第二火薬製造法取調委員が3人選ばれた。有坂成章大尉が含まれていた。小銃薬、山砲薬、野砲薬を研究。
 M20-1、小銃薬、山砲薬、野砲薬の製造法を制定。

 M20-7、はじめて綿火薬を採用(輸入品)。工兵用として。
 M20-9、砲兵会議は綿火薬を弾丸炸薬に採用。
 M24-3、島川文八郎大尉、ベルギーで無煙火薬の製造法を研究す。

 M31、野戦榴弾の炸薬として黄色薬を研究。
 M32、工兵の爆破薬を黄色薬とする。
 M33-8、炸薬として黄色薬を制式採用。
 M36、黄色薬を被包内に溶填する方法により各種弾丸に使用開始。

 大15-10、無煙拳銃薬の規格を追加する。

 S6、あお、しろ、みどり、きい、あか を制定。
 みどり1号は臭化ベンジル催涙剤。
 みどり2号は塩化アセトフェノン催涙剤。
 あを ……ホスゲン。
 しろ ……発煙。
 きい ……イペリット。
 あか ……くしゃみ。

 S9、口径20ミリ以下の機関砲に米国式の管状薬を採用する。
 S10、硝英、硝宇を採用。

 S12、ちゃ(青酸) 制定。
 S13-1、硝英、灰色薬を制定。
 S18-1、英宇薬(硝宇50+硝英50)を制定。

 92式13ミリと98式20ミリには、五番と七番の管状薬が使用された。管状薬は、38式歩兵銃の弾薬と同じものである。ニトロセルロース(C薬)。
 淡黄薬とは、茶褐38、硝宇55、茗亜7の混合。タ弾はこれ。
 手榴弾には、塩斗薬が使われた〔末期?〕。塩素酸カリ80、ヒマシ油4、ヂニトロトリオール16。

 黄那薬は、黄色薬80+ジニトロナフタリン20の混合で、砲弾用。

 消焔性を追求すると、砲口煙が増す。海軍はそれを採ったが、陸軍では不採用とした。
 安瓦薬は、資源豊富、且つ、弾丸に溶填が可能。

 大12、甲剤(ホスゲン)の研究。
 S2、甲号7.7ミリ歩兵銃用火薬の研究。

 M27-6、板橋火薬製造所で、無煙小銃薬を製造。
 大11、7.7ミリ小銃薬の製造を開始。

 初期の黒色火薬の木炭材としては、柳が使われた。他に、楮[こうぞ]、ハンノキ。
 安瓦は、資源豊富、安全、ピクリン酸相当の威力、低温で溶解できるという、四拍子が揃った日本の発明品で、WWIIの砲弾はこれで戦った。

▼防研史料 技本調査班長『S3.9~S5.12 試験予定表綴』
 毘式戦車銃砲射撃試験。S3-9-20~22、於、宮城県 王城寺原。

 S3-10-18~24、水陸両用装甲自動車竣工試験を予定する。10月中旬に竣工する予定なので。試験は、府下および静岡県下。※沼津海岸かと思われる。

 擲弾筒その他 火工品の保存試験。S3-9-26~10-8。

 S3-11-24~12-1、「ビ」式0.5吋高射機関銃〔ママ〕射撃試験。ビ社に注文していたものが到着したので、伊良湖で。

 S3-12。75馬力牽引自動車 および軽牽引車 竣工(改修)試験。
 「急硬セメント」も研究していた。

 S4-1、戦車に7.7ミリと13ミリ鋼心弾を撃ち込む試験。富士裾野にて。数日間をかける。

 ビ式13ミリ高射機関砲を、S4-2にもテストする。
 小銃「眼鏡」の第二回テストを、S4に。

 試製戦車砲の第一回機能試験を、S4-3月下旬に、大阪の大津川にて。

 S4-3、ビッカースに注文した水中聴音機を、神奈川県 浦賀町 走水で、海中試験。

 ビ式0.5インチ高射機関砲のS3-1のテストで、腔中摩滅がはなはだしいことが判明。1000発で横弾が生じ始める。

 S4-4、13ミリ用の試製榴弾と信管をテスト。
 S4-5、「試製自動短銃」〔これは拳銃ではなくSMGのこと〕、「試製狙撃銃」を試験する。富津にて。

 S4、試製57ミリ対戦車砲、試製75ミリ対戦車砲、新様式の3年式機関銃高射用具、戦車用改造3年式機関銃、仝改造11年式軽機関銃。

 S4に作られた円【土へんに寿】形の投下爆弾は「引き抜き鋼管」を利用している。

 S5-1-31~。仏国保社よりあらたに購入した高射機関砲につき、射距離1500m以下の地上射表と、高射射表を編纂するために、伊良湖でテスト。
 2月~。37ミリ機関砲の竣工試験。

 S5-4~。試製20ミリ榴弾用信管の第一回試験。
 57粍戦車砲には「霰弾」もあった。4月~5月にテスト。

 S5-5~。保式13ミリ機関銃〔ママ〕および試製双連高射機関銃 射撃試験。明野で吹流しを射つ。
 ※海軍では「連装」だが、陸軍では「双連」という。

 S5-5~。カーデンロイド・二人用戦車、フィヤット〔ママ〕軽戦車、高射砲牽引6輪自動車 試験。広軌用牽引車 試製完成、試験。4輪と6輪があった。

 S5-5~。台南で戦車耐熱試験。
 赤外線候敵機 試験。千葉の八幡で。

 S5-10~。ベッカー20mm機関砲弾丸用信管の研究。
 S5-10~。三八式歩兵銃銃身短縮度とその精度との比較試験。歩兵の負担量を軽減する見地より、歩兵銃の重量を軽減する目的を以て銃身長の短縮度とその初速ならびに命中精度との関係を調査せんとす。

 S5-10~。11年式軽機関銃に防塵装置をつけるテスト。
 S5-10~。軽装甲車自動車 試験。7糎戦車砲竣工試験。

 S6-2~。空中手榴弾 テスト。下志津の飛行学校。

 S6-2~。7粍7機関銃 富津でテスト。
 八九式実包を使用する7.7粍機関銃を試製せるにより、試験す。

▼防研史料 技本『S4.10~5.3 研究審査現況表』
 3年式MGの7.7ミリ化は大9-7-20に方針を立てたが、現時点で5/10の進捗度。タマが決まらない。
 ※92式HMGはS5には未だできていなかった。

 大15-2-25に、自動短銃(マシンピストル)を自動小銃の予備研究と位置づけていたが、審査は中止した。

 大9-7-20から、塹壕兵器として、棍棒、手斧、短刀、鉛棒を研究していたが、終了した。
 航空機用ビ式13ミリ固定機関銃は、1回テストを済ませた。※そのDATEは不明。

 20ミリ弾は、戦利ベッカー砲(2門以上あった)のために試製した。
 大11-4に研究方針を立てた13ミリMG弾丸、毘式13ミリE弾とD型機関砲の弾丸の試製を終了。

 水陸両用装甲自動車。大14-9 設計着手。大15-9 製作図 略完了。大15-11、東工廠で完成したものをテスト。
 大9-7研究方針。
 「突撃用具」……無線操縦の爆薬車。三トン半牽引車を改造中。

▼防研史料 『借入兵器償却に関する調書 昭和7年度~』
 ※以下、単価が列記されているのだが、単位がない。おそらく最後の数字三桁(000であることが多い)は銭と厘で、下から4桁目よりも上が「円」なのであろうと推定する。

 3年式MG(予備銃身共) 1500円。

 38式歩兵銃 46円50銭。(40円のこともあり。)
 44式騎銃 78円58銭。(66円90銭5厘のこともあり。)
 38式騎銃 44円44銭。(53円2銭のこともあり。)

 11年式LMG 700円。(昭和11年には650円。)

 89式旋回機関銃 3500円。 ※固定式MGと値段が違いすぎるのは、11年式LMGベースだから? 単装である。昭和12年の値。

 89式固定機関銃 左右組 8600円。 ※S9の記録の脇に「名工に移転 12.5.1 工秘88」と括弧付き注記。
 89式固定機関銃 乙 4294円70銭。 ※甲と乙で給弾方向が逆になる。

 91式車載LMG 1394円30銭 (1394円80銭のこともあり。)

 92式重機関銃 1264円 (S13年には1727円70銭だった。)

 14年式拳銃 75円 (起工番号=10 戊 411-3。昭和11年の価格だが、昭和12年も変わらず。)
 14年式拳銃 昭和8年に3梃で225円。

 38式歩兵銃 68円60銭(昭和11年)、52円97銭1厘(昭和12年)、43円60銭(昭和13年)。

 26年式拳銃 昭和8年、3梃で94円80銭。
 この拳銃について、「昭和12年5月5日 小工〔小倉工廠〕秘88にて名工〔名古屋工廠〕に移転」とあり。※決算の担当を移管したということ?

 S10-9-14に東支が、18年式村田歩兵銃(廃品)を1、価格2円40銭のものを代品に変更した、と。
 S10-12に、「乙号擲弾銃」。

▼防研史料 『雑綴』S16-2
 押収6.5ミリ チェッコ軽機関銃×2 という記録。
 ※支那軍が世界中から取り寄せて装備していた各種のチェコ軽機系のLMGの中に、日本軍の6.5ミリ弾薬を使えるものが混じっていたということ。特注品だったのか、それとも中華民国の国産品なのか?

 押収迫撃砲は、7.5cmと8.2cmである。

 89式重擲は、昭和9年から11年のあいだに、総発射弾数21215発に対し6発の腔発があった。
 そして昭和12年以降、支那の前線では腔発が相当にある。当兵団(36D)ではすでに4筒。

 93式小火焔発射機。レンジは無風で28m。放射は1回のみ(ただし断続できる)。全重24kg。箱入りで45kg。
 93式戦車地雷は、140kgの重さが乗らないと爆発しない。炸薬は890グラムの黄色薬。

 「98式銃眼用閉塞具」。上下15~60cm、左右50cm、厚さ2ミリの防弾鋼鈑で、トーチカの銃眼を塞いでしまうもの。全備重量7kg。1.8mの鋼管柄付。

 「98式装薬磁石」。吸着爆雷を即製するための磁石で、装薬は、何をつけてもよい。

 チビ……円筒外径13.0センチ。長さ15センチ。内径10センチ。壜の上下13センチ。
 テナカ瓶……《手投げ火焔瓶》……長さ23センチ、径7センチ。

 支那語でフィアットは【くさかんむりに非】亜特。ヴィッカースは、威克斯。
 支那軍の装甲車(6輪、2銃塔)は、おもに英国製だが、昭和9年に独から50台、イタリアや米国からも少数台を買った。中央軍においては「突撃車」と称している。内製化もすすめている。

 タマに塗蝋したのが、銃身膨張事故の原因か?

▼防研史料 『科学的知識不足に基き兵器取扱上現れし欠陥の実例』S16-10印刷
 チェコのプラガに6.5ミリ版もあることを知らず、兵器廠に後送した馬鹿歩兵部隊。
 ※チェコ軽機を鹵獲し、支那軍の7.92ミリ弾や英軍規格/日本軍規格の7.7ミリ弾を発射しようとしたが機能しないので、何か壊れているのだと思って、味方の修理工場へ送ってしまった。これは日本軍の6.5ミリ弾をそのまま発射できるものなのだから、即戦力の有力な武器となったのに、愚かである――という意味。

 押収柄付手榴弾をカナヅチ代りにして爆死す。S13-8、上海付近で某歩兵。※故郷への戦死公報では、壮烈な戦死を遂げ云々という、中隊長による脚色がされるはず。

 爆竹用の黒色火薬を石炭庫と誤り、点火して爆死す。

 粉末黄色薬を調味料と誤り、煮出し味付けに使用し、2名死亡、4名腹痛。
 黒色火薬を薬と誤りて服用し、即死〔するか?〕。

 室内で空襲現示のため94式水上発煙筒(甲)をつけたら、ガスで兵一名死亡。

 97式軽装甲車は始動しにくかった。94式軽装甲車は楽だった。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 97〕『陸技術調五之部』S16-11
 泰軍兵器概説 ~S17-6。
 ※生写真多数。

 ビッカース7.7粍重機関銃(1909年式)。水冷、高射用三脚、または車両固定用ピントル付き。250発布製保弾帯。500発/分。バレル720ミリ、全長1130ミリ。最大射高3000m、照尺は2900mまで。初速730m/秒。

 あきらかに日本軍のものより大口径な、不思議な重擲の写真。
 迫撃砲としては94式軽迫撃砲を装備。
 火砲はほとんどボフォースでトラック車載。

 ※この史料は綺麗にコピーしてタイから防大に留学している学生にプレゼントするべきだ。当時のタイ軍の姿をスナップしている写真なんて、現地にも残っていないだろう。

 装軌牽引車。15H用。
 ビッカース・アームストロング牽引車(カーデンロイドの巨大版といったおもむき)。5.7トン に、ビッカース40ミリAAMGを単装で載せたもの。機械化具合が印象的である。
 40ミリは、砲身2m。レンジ6100m。レートは190~200発/分。仰角85度まで。弾量907グラム。完全弾薬筒1.37kg。初速750~720m/秒。

 タイ軍の95式LTKの写真。
 ビッカースアームストロング6トン戦車の未見写真×2枚。※これは相当に貴重だろう。
 モリス・ビッカース装甲車。

 T-28CTのパレード写真×2枚。1枚は非常にクリア。
 T-35の上面含む、未見クリア写真多数。
 KVの150ミリ砲戦車、砲塔の後面が写っているもの。
 仏3C重戦車のクリアな写真。

 特殊戦車とは、水陸両用、あるいは火焔、あるいは駆逐戦車(4~5トンで、40~47ミリ対戦車砲をもつもの)、あるいは突撃砲戦車(13~20トンで、75ミリ野砲を搭載するもの)。

 日本軍が鹵獲したT-37の未見写真×2。
 イギリスの大砲の写真。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 184〕在独武官室『昭和18年 兵器購入に関する報告書』
 ほとんど工作機械ばかり。
 S18-2-23、ドイツ三井物産(株)、フライス盤 23635マルク。

 「ポルテ」(マルデブルグ市)鉄製薬莢製造権。S17-7契約。扱者は三菱商事。
 三菱、大倉の請求書も。大倉は「大倉産業(株)」となっている。
 たしかに、規格書その他が受領されている。
 ピアノ線も多い。バネ用か?
 ボッシュの、フュール インジェクション ポンプ。

 受領書 S18-7-8。 昭和通商(株)、伯林支店長・前田冨太郎が、独国在勤帝国大使館付武官小松光孝から独貨38万4120万マルクを受領した。
 「兵調独第61号」。
 「軽装甲歩兵戦闘車」×4 ※Sd.Kfz.250のこと。
 単価85980マルク。
 右用予備品一式 40200マルク。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 204〕在独武官室『兵器購入に関する書類綴』其の二
 S18-1-14、大倉商事が1万9657マルク30ペニヒで、戦車用超短波無線機 Fu5型×4台を、陸軍兵器本部の代りに、テレフンケン社から買った。
 ※Fu は Funkgerate?

 クルップから1セットの cal.21cm、L/55.5 付属品一式共 を、タマ150発など〆て 116万4070マルクで三菱商事が。
 1943年1月11日に。
 三菱からこの代金の陸軍向け請求は、S17-12-29になされている。
 独での受領が18-1-7。

 大倉の取扱い。
 2両の Strumgeschutze mit langer kanone (Stu.K.40) 照準器、無線機、50発の Spreng granaten、50発の HL-Geschosse、25のPz.Granatern 39、梱包料込み 〆て単価RM 393.425、2両で786.850。

 langer 5cm KwK つきの III号戦車×1両。
 wie dieser Pz.Kpfwg.
 MG×2付、
100発の Spreng-Granaten
Gasmasken
 送料込 312.950 RM ※ライヒスマルクで、ピリオドはカンマに変換して読むべきか。

 1両の7.5cm KwK付 III号戦車
 wie dieser Pz.Kpfwg
 100 Spreng-Granaten
 RM 362.275

 金39万3425マルクを陸軍兵器本部に請求。S17-12-20。大倉商事(株)。
 内訳。ダイムラーベンツ社製突撃砲。
 長加農(STu.K.40)付。
 工場渡。

 大倉の受領証はS18-1-7発行。

 IV号戦車 M.S.34 (7.1.1943)
 6300 Schuss S.m.K-Munition
1260 Schuss mit Lichtspur
 マルデブルク市の Heeres-Zeugamt が出した手紙らしい。
 Kw.K.40 用の7.5cm弾薬

 軍の間の直接契約
 1セットの IV/F2 戦車シャシー Nr.83231
 同用弾薬

 1セットの IV/F2  シャシー Nr.83230

 トータル RM 801.339
 取扱いは三菱商事。
 1943-1-30。

 三菱から陸軍への請求書は、40万0669マルク。
 但、4号戦車一台代金
 昭和17年12月29日
 受領書 18.1.7

 ハンブルクのイリス商会からST61型機関銃用火造品 及 木被、同線材、鋼材、発条 および 発条材料。
 S17-12-23。

 昭和通商 S17-10-17に請求。独の5トン牽引車×5、単価78060、他に予備品と装備品。
 領収 17-12-23。

 昭和通商。
 1両の schwerer Panzers-Pahwagen(Fu)(8-Rad)
 RM 341000
 重装甲捜索車
 単価 31万マルク。請求 S17-12-15、受領17-12-21。

 MG ST63(ラ式機関銃)絡みは、三菱商事の取り扱い。

 昭和通商は、ドイツにいながら、ポルトガルからダイヤモンドを買っている。43594カラット。

 18トン牽引車×5
 単価128300マルク。
 +予備品
 請求書 昭和通商から陸軍へ。S18-4-10。
 受領 S18-5-27。