なぜオニノシコグサは道央よりも低い緯度だと野生株が路傍に見られないのか、不思議でござる。

 千歳の付近にいちばん濃密に分布してるよね。いま、開花シーズン。キク科の青い花。北限は旭川あたり?

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 Guy Walters 記者による2017-6-17記事「Voice of the damned: Newly discovered diaries reveal the horror of the Nazi siege of Leningrad where cannibalism was rampant and women sold their bodies as 800,000 lost their lives」。
    レニングラード攻囲は、1941-9から1944-1まで、872日間続いた。
 餓死者の家からは、燃料になる家具や、食糧配給券が、親戚や隣人たちによって、持ち去られた。そこにまだ小児が残っていても、お構いなしだった。

 かつてアレッポ市が4年間攻囲されたときには、3万1000人が餓死したという。平均して1日に20人死んだことになろう。だがレニングラードの場合、毎日900人餓死した勘定なのだ。

 ボストン大学のアレクシス・ペーリ教授は、ロシアのアルヒーフ(公文書館)から、当時のレニングラード住民たちの日記を発掘して、1冊の本にまとめた。

 対独開戦のニュースに、市民たちは怯むことなく、当初は意気軒昂であったことが、日記からよく分る。政府のプロパガンダを信じ、勝利がすぐに得られると思っていたのだ。
 しかし開戦から11週間目の9月8日、レニングラードはドイツ軍によって完全に包囲されてしまった。

 その時点で住民50万人がいちはやく市から脱出していたけれども、逆に他地域からの難民が流れ込み、市内人口は、むしろ開戦前よりも増えていた。

 独軍機が食糧倉庫を執拗に空爆したので、市内には住民の1ヶ月の食料しかなかった。市当局は、住民1人あたりの配給量を、1日255グラムに絞った。

 パンを持っている者は、金銀を持っている者よりも、万能となった。なんでもできた。

 餓死せずに生き残っている者は、皆、痩せ細って中性的な外見となり、生気はなかった。
 17歳の少女が鏡を見たら、そこには男の老人が立っているように見えた。
 というのは、きょくたんな飢餓状態では、少年少女の顔から毛が生えるのである。髯だらけの顔になるのだ。

 36歳の女性は、鏡の中の自分が、骨と皺だらけの皮膚からなる悪魔のように見えた。
 レニングラード市内には公共の浴場があった。1942-1時点でそこを利用できた人々は互いの裸身を見て呆れた。人ではなく、骨が、入浴している。

 町のあちこちで、死体が丸太のようにうずたかく積み上げられた。
 誰か死にそうな者を見かけると、その周囲の者は、どうやって死体から食料配給切符をいただくか、虎視眈々と窺うのだった。

 配給だけでは生命維持はほぼ不可能だった。必然的にカニバリズムが発生した。
 当局は、この攻囲中、1500人以上の市民を、「食人」の容疑で逮捕した。

 ロシア語では、食人を2つのカテゴリーに分ける。すでに死亡していた人体が対象の場合、トゥルポエドゥストゥヴォという。じぶんが殺した人体が対象の場合には、リウドエドゥストゥヴォという。
  ※概念を細かく言い分ける単語がしぜんに生じているということは、その前からの、長い歴史があるのだ。英語には、昆布と若布を区別する日常名詞など無かった。日本にはすべての海草の名詞があって区別が通用する。それと同じ。

 赤軍は氷結したラドガ湖を利用して細々と市内への糧食補給を継続していた。
 市民は、皮革製品をゼリー状になるまで煮て食べた。糊もスープになった。

 売春で生き延びられたのは、若い女だけだった。

 食料関係機関に勤める女性の役人は、若い男のセックスを、1椀のスープの現物と引き換えに、買うことができた。そのいでたちは、あたかも帝政時代の貴族夫人のように見えた。

 地域の共産党委員会=ソビエトの幹部も、決して飢えることはなかった。
 キャヴィア、ガチョウ、七面鳥、ハムが、幹部の家には、ふんだんにあった。

 1944-1-27に独軍は西方へ退き、レニングラード攻囲は了った。
 戦後、中央は、レニングラード住民の体験を、日記や聞き書きによって総括させようとした。
 そこから、英雄的なストーリーがまとめあげられるはずだった。
 市全体に、レーニン勲章も、贈られる予定であった。

 しかし1949年にスターリンは、現実を察した。レニングラード市は、あの攻囲飢餓の体験を通じて、むしろ反中央的な独立精神を獲得してしまっていると。

 レニングラード市の英雄的な戦いの記録を公刊させようという当初計画は、とりやめになった。攻囲期間中の中心的な現象は飢餓だった。その体験の記録はあまりに凄絶だった。2年半にもわたり食料の供給をしてやれなかったスターリンが無能であったという批難が生れるのは、とうてい避けられない。

 レニングラードは廓清しなければならなかった。そこにはもうとっくにアナーキズムや反政府思想が充満してしまっているはずだ。
 レニングラード住民の日記はすべて没収となり、さもなくば焼却が促された。市の共産党委員は解職された。

 スターリンが1953年に死去してくれたおかげで、レニングラードの貴重な記録の完全抹殺は防がれ、こうして回顧することができるのである。

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 ストラテジーペイジの2020-9-21記事。
   中共版のX-37B(無人スペースシャトル)は9-4に打上げられた。
 そして2日後に、ロプノールの核実験場の近くの5000m滑走路に帰還した。しかしその写真は1枚も発表されていない。

 周回軌道高度は350kmだった。そこに40時間とどまった。

 中共が無人シャトルを打上げるという計画は2017に公表されており、予定では試験飛行が2020だった。この間、続報が何ひとつ、リリースされていなかった。



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