▼防研史料 〔箱マル39/344〕『歩兵兵器概論』大15-11 陸軍技術本部
執筆は陸軍砲兵中佐の高関俊雄。
M41=1908に、本邦試製軽機関銃が出現。
1908に仏で Berthier または Berthier Pocha 軽機が出現。
1909に仏で ホチキス軽機。これを米は1911に Benet-Mercie[メルシエ] の名で使用。
1913に独で Parabellum 軽機。
1911~1913に米でルイスLMG。
独は1915に3個大隊に各マドセンLMG×120梃を持たせて、ロシア軍にぶつけたのが、LMG使い始め。
1916-3-1より仏は全歩兵中隊に8銃のC.S.R.G銃(軽機関銃)を配した。ベルダンで威力発揮。
英は1916に 歩兵中隊に3個づつ ルイスを配布。
昔は、LMGはHMGの代用だと考えられたが、WWIの思想は違う。
LMGは、歩兵銃の代わりなのだ。
つまり 火力は同じでも 人数を減らす。それにより、敵火の目標を減らす という思想なのだ。
※ゆえにオートマチックライフルなどという不思議な呼称もついたのだ。歩兵銃の代わりだと強調するために。
BARは命中精度はよくない。教範では、200ヤード以上ではフルオート禁止。
LMGとしては威力不足で、自動小銃としては過重であった。 ※1発のタマの威力はあるのだが、弾倉容量が少なすぎ、銃身がすぐ過熱。しかし11年式軽機とくらべたら、ずいぶんマシだ。
仏のテストではLMGのバレルは500ミリでは初速と精度上、不利。600ミリは必要だと結論された。
チェコは1925からプラガ軽機を量産し始めた。その諸元は不詳。
英は本年〔それがいつなのか不明〕、VI型リーエンフィールド小銃を完成したと伝えられる。
銃身は重くする。銃口蓋は廃止する。全重3.7kgとする。銃剣は軽くされ、三角断面、刃部20センチ、重さ180グラムとされる。
日本ではLMG分隊のライフルは、騎銃でいいんじゃないかといわれているが、歩兵銃を悉く騎銃と為さんとする意見には未だ到達せざるが如し(pp.42-3)。
※つまり気運としては38歩兵銃をぜんぶ38騎銃にしてしまって、WWI型の塹壕戦に対応できるようにすべきじゃないかと思っていた、最新趨勢に敏感なエリート軍人もいたわけ。もしこれをすぐに実行していたら、そのごの兵隊の負担がどれほど軽くなったか分らない。歩兵学校や戸山学校のロートル幹部どもが、WWIの現実を何も知らずに反対して、改革を潰してしまった。
ロシアの1925年式 Fedroff 自動小銃は、我が14年式拳銃と同要領の閂子を用ふ(p.45)。
※ショートリコイルってこと。
WWIの結果……2列射撃はありえん。小銃全長が長いと、塹壕内の行動が著しく不便。よって銃身長は、50センチから60センチで十分だ。これがフランスの結論。
銃剣は、折りたたみ式にとりつけてほしいという声も。
WWIで日本製小銃は、撃たれた敵兵の傷の恢復が早すぎると評判。数度、戦場に出てくる奴がいる。
技術本部はSMGを「自動短銃」として研究中。
トンプソンは、歩兵戦闘は700m以下なので、700mまで火制できるSMGとして造られた。※表には、有効射程500mとあり。
ベルクマンは800mと考えている。
鉄カブトは、旧来のリボルバー型ピストルに耐弾力を示し、それで高威力の自動拳銃が登場した。
拳銃弾は貫徹力よりもパンチ力だという考えに徹したのが、デンマークの Schouboe 拳銃。そのタマはなんと木製で、アルミ被甲してある。
馬は19kg・mあれば死ぬので、今のピストルを近くから撃てば、斃せる。
「擲弾銃」はかつて我国でも製作し、シベリア事変で使用した(p.64)。
日本では歩兵の決戦距離は600mと考えている(らしい)。
※ゆえに重擲のレンジはこれを目標としたのか。
1918年式ストークス砲。
これは英式だが、仏は1918に採用。
英の「ストーク砲」(口径不明)は、1917のマルメゾン会戦に初登場。
仏の1918式81ミリ・ストックス。これは10度の低アングルで平射もできるという。最大射程1900m、有翼弾。墜発式。
全備重量52kg。
分解すれば、砲身21kg、脚桿16kg、底鈑15kg になる。
実測口径は81.3ミリだ。
▼大江志乃夫『壁の世紀』1992
カーディフ炭は積み出し港の名。産地はウェールズ。
伊地知参謀は大山元帥の姪と婚姻している。昔は田村怡與造と並ぶ秀才だったが旅順では最低評価。
ロシア艦は片舷を破壊されて転覆することをおそれ、自沈した?
厳冬がおわる2月下旬から、解氷泥濘の生ずる3月下旬までが決戦期間であった。
奉天の両軍ともそれを知っていた。
チャーチルは、英海軍航空隊の装甲自動車隊を路外で使おうと考え、はじめキッチナー陸相に提案したが、相手にしないので、じぶんで「陸上船委員会」を海軍省内に設けた。
エンジニアのプロとして陸軍のスウィントンを前線司令部から引き抜き、ウォー・キャビネットの書記官にした。
▼犬塚孝明『若き森有礼』1983
森家が島津藩内で「小番」の家格を有する中流武士であったことは『薩州分限帳』を見ればわかる。
森は造士館内で知られた秀才に。
元治元年夏には藩の洋学校「開成所」に移った。
※村田経芳は造士館にも開成所にも無縁のノンエリート。
開成所は、対英戦争の元治元年6月創立。
五代の海外留学生派遣計画を、開成所を母胎に具現化したのは、石河確太郎。
石河が元治元年10月に大久保に出したリストがある。→『政治経済史学』150号・「幕末の薩摩藩立開成所に関する新史料」by大久保利謙。
M2頃、ひとりだけ刃を下にさしていたので「森のそりざし」と言われた。
M2-5月中旬、公議所に「廃刀案」を提出。
6月に辞表。
▼『政治経済史学』1978-11
大久保利謙「幕末の薩摩藩立開成所に関する新史料」。
教官のひとり、石河が、大久保一蔵に宛てた、元治元年甲子10月付けの上申書。
短くも7年の留学が必要だと。
ピョートル大帝もみずから船匠となって諸国を遍歴したと。
まずイギリスに「御遣はし」になるべきである。
1科に2人づつ が いいでしょう。
水軍掛は2人。
陸軍掛は2人。
陸海兵法を主として、銃隊 砲隊 水軍の駆引き等を修業いたすべきこと。
リスト。高見弥市、吉田巳二、町田猛彦、原田申四郎、原田成之助、渡瀬函雲、東郷愛之進、川上孫右衛門、新納彦五郎、毛利金之進、山城新兵衛、松成ル之進〔ママ〕、医師・田中清洲。
江戸や長崎へのおつかわしは無益でしょう。
確太朗は八木称平とともに、開成所創立当時からの教頭格、中心人物。慶応1年に同所を去った。
開成所の前に、集成館の紡績所を設立した。
元来、蘭学者。さらに英語を学んだ。
八木は慶応1年に死亡。
このふたりがいなくなってから、藩士は長崎で英学させる路線に後退した。
五代による上申の原案も、石河なのであった。
▼直良信夫『古代日本人の食生活』S22
S13の「史前日本人の食糧文化」のリライト。ただし「古代の漁猟」とは重複はない。
「北方家犬文化」が南漸した。
畜馬についで、家犬の出土が多い。
やや遅れて後期弥生時代に牛が移入された。豚も。
古代人は水鳥を、陸鳥よりもよく獲った。
ニワトリは、古墳時代以降である。
越中氷見大境から出土した熊の顎骨には、眉間近傍に敲き傷が。
骨のない竪穴が見つかることがある。それは、落とし穴。
鼻骨や脳天に打痕のある猪の頭骨が、貝塚からは出る。
猪は鹿のようには簡単に頭骨を割ることはできない。頭を外し、後頭孔から棒きれなどを挿入しないと、脳漿を取り出せない。
千島では、ヒグマの後頭孔をさらに切りひろげた骨が出た。
現在 朝鮮では、牛頭を大釜でそのまま煮てから、ナタで割っている。
占守島の貝塚の所見。アザラシ、オットセイも、頭頂を叩き割って脳が取られていた。
トドだけ、側頭を割らねば、刃がもたぬ。
アイヌは人間の脳も食べたらしい。発掘頭骨からそれが分るという。
▼堀内讃位[さんみ]『鳥獸の習性』S17
目を潰したスズメを囮とす!
私は前年〔S13頃?〕、秋田のマタギ連中と兎猟に行ったが、誰もがブローニング〔5連発ガスオートらしい〕を担いでいた。
しかるに 新潟では、熊を撃つのにガタガタの村田銃を使っている。
一発撃ち損じたら 第二弾をこめる間に襲撃されはしないか、これがいちばんの頭痛の種だ。時には不発といふことも起る。
「……それにシシというふ奴ア、弾が急所に命中しねえでも、かすりさへすりゃ、そこをがぶっと食らひつきやすからなア、その間に二発目をこめる馬関は十分ありますでなア……」
レンジは2間。
手を延ばせば銃先が届いてしまうくらいの距離で発砲する。
▼直良[なおら]信夫『狩猟』1968 法政大学
M6に最初の狩猟規則。
1895に、狩猟法規は整った。この時点で旧大名の猟場が一般人に開放される。
九州の「うつつめ」。細竹の罠で、撒き餌に誘われて止まった小鳥が、たちまち首を絞められる。支えの棒が外れると。
▼『歴史公論』1980-5月号
加藤晋平「縄文人の動物飼育」
30センチ以上の雪が積もると、イノシシは、いなくなる。
縄文人は、北海道、三宅島に、猪を連れて行った。
▼大塚初垂・他ed.『考古学による日本歴史16 産業I 狩猟・漁業・農業』1996
旧石器時代の石斧は、かつては木伐の道具だと思われていた。が、ナウマンゾウの脂肪(ステロールと脂肪酸の比から絞込み容易)が付着しており、解体用だったと安蒜政雄は考える。
※ヤリではトドメが難しいので、石斧をトドメに使い、そのまま解体もすることになったのではないか。
執筆者いわく。石斧→ナイフ形石器→ヤリ と進化したようだ。
▼尾崎政久『国産自動車史』S41
M35に東京府下に4~5台の自動車あり。
M44-6末には官民あわせ府下に200台。
自転車はM35に5460台あり。
日本での発展が遅れたのは、税制と法規制のため。
もっぱら、危険防止、抑止のみをこころがけた、大7の自動車取締令は、18世紀末の英国での蒸気自動車規制と同類であった。
大正になり、高田商会、三井物産、大倉商事は、直接輸入販売をスタート。それまでは外国商館経由だった。
前2輪、うしろ1輪のフロントカー(押し出し式三輪車とよばれた)は、2馬力しかなく、荷物を40貫までしか積めぬ。
リアカー式3輪にすると、もっと積めた。
昭和になり、陸軍に、指揮官乗用車としてダイムラー、ハドソンなどの外車を輸入販売していた大倉商事系の日本自動車会社が、陸軍よりオートバイ国産化の命をうけ、S2に 蒲田に 日本内燃機(株)を設立。技師・蒔田鉄司を入社させた。
前後して、三共商会(のちの陸王内燃機)は、ハーレーダビッドソンの国産化に着手。
S3に、日本内燃機は、最初の2輪「ニューエラー」を完成。
すこし遅れて三共も、国産ハーレー完成。
日本内燃機は、軍の要望によって、直ちにニューエラーをサイドカー化。
軍は指揮官用の乗用車が欲しいが、当時は外車ばかりなので、暫定措置として、サイドカーを選んだ。
軍の需要数はしかし、せいぜい月に10台。
そこでS4にこれを一般向けの三輪車にしたところ、バカ売れし、各社、争って物真似参入し、農村にまで普及した。これが第一次モータリゼーション。
ダイハツ――大阪発動機をS5に改名――も、このとき登場した。
M45春に、初の国産2輪車サンライズ号が完成。陸軍はただちに1台購入し、大5の第一次満州耐寒自動車運行試験に際し、指揮官車とした。
宮田製作所はS5に陸軍の注文でサイドカーを完成。それから、軍用サイドカー一本となった。
S12からガソリン統制となり、二輪メーカーは、軍用実績ある日本内燃機と陸王だけにされてしまった。
上原陸相は自動車に理解を示さなかったが、田中義一少将がパスさせた。
128ページに写真あり。大3-11、山東省李村に集結したトラック4台。立て札「此の附近にて煙草飲むべからず」。
軍用として最初に合格したウーズレー貨物自動車。
日本では、歩兵や騎兵ではなく、輜重がトラックの担当となったため、トラックを苦労して国産するより、競争輸入させて安く買い叩けばいいだろうということになってしまい、それで自動車工業の自立が遅れた。
同じ陸軍でも、自動車製造事業法的な(=大衆向け)トヨタ、日産と、軍用保護自動車的な(車両は兵器であると考える)いすゞ、日野のキャラクターは分れた。
日産のトラック・バス。S11はぜろ。S12は1384。S13は8249。S14は13786。S15は13991。S16は17194。S17は15974。S18は9958。S19は7074台。
トヨタのトラック・バス。S11は910。S12は2844。S13は3538。S14は10497。S15は13080。S16は14202。S17は11261。S18は9774。S19は12701。
ヂーゼル自工(いすゞ自工の前進)のトラック・バス。S11は零。S12は600。S13は1695。S14は4180。S15は7066。S16は7797。S17は5265。S18は5365。S19は3846。
支那本土には先にトヨタが紡績で地盤を築いていたので、シナ域で使うトラックはトヨタ系と決められた。満州域で使うトラックは、日産系工場から供給されることになった。
S15-2に、トヨタ自工出資の北支自工が、天津と北京に工場を建設。
これ以後、軍は、大陸にあまりに分散的に工場をつくらせたため、ひとつも大きく育たず、すべて、ただの修理拠点レベルに終わってしまった。軍内の派閥が邪魔した、とも。
大7~S5まで、自動車は砲兵と輜重のみが装備した。やがて、工兵、騎兵、最後にやっと歩兵の装備となり、S13からは、陸軍省兵器局の機械化部門が拡大された。
▼草地貞吾『将軍32人の「風貌」「姿勢」』1992 光人社
著者はS14-3末に陸軍軍務局の課員になり、4月に内地へ戻り、軍事課。そこで軍需資材と編制・動員を2年半やった。S16-10まで。
軍務局は陸相の幕僚のようなもの。その中の軍事課は、建制、編制、予算、資材、諸規則を考える。
軍務課は、政策的対外事項。
岩畔豪雄大佐の後任は、真田穣一郎大佐。
岩畔はS9夏に東京帰任。
S10-8の永田軍務局長殺しと、S11-2-26のあとしまつのため、岩畔は8月に陸軍省兵務局へ。憲兵、軍法会議、軍機保護法、防諜関係の仕事。
草地はS12-8に中佐となり、参本第8課部員となって、謀略の基本方針を策定。宣伝計画、スパイ養成機関の設立、回教工作、猶太工作、チベット工作、汪精衛工作。
岩畔は田中新一大佐のあとをうけて軍事課長。軍事課の高級課員には西浦進がいた。
S14からやったこと。
三国同盟締結促進。
中野学校の設立。
総力戦研究所の設置。
機甲本部の新設などなど。
戦陣訓にも干与している。
タイ、マレーの作戦中に負傷。
岩畔機関長としてインド独立工作をてがける。
第25軍参謀副長としてスマトラ軍政に参加。
S19-1、ビルマ方面軍内に新設された第28軍参謀長として終戦を迎えた。
戦後は京都産業大学の設立に関わる。その世界問題研究の東京出張所が新宿区大京町にあり、そこから数冊の著作をリリースした。
草地はシベリア体験があったので、京都産業大の中に赤旗を立たせない役目の寮監長として、S41-3に山科の追分寮に就職。S42-3まで。
岩畔は心筋梗塞の病歴があった。
S42春には新宿の女子医大病院にいた。
号は「三無」で、ムリ・ムダ・ムラをなくすと言っていた。
▼陸上自衛隊幹部学校・修親会ed.『統率の実際(3)』S49
浅野祐吾「岩畔豪雄少将」。
浅野は元少佐。羅南師管区参謀。
中尉時代から岩畔に接していた。「怪物」と仇名されていた。
マレー戦では岩畔が連隊長。浅野はその部下。プノンペンの連隊にS16-8に岩畔がやってきて着任。
岩畔は電話相談を受けるのが嫌いで、長電話だと切ってしまった。
部下のペーパー作業を大きく直してしまう。
ジョホールバルの手前で砲弾片に脚をやられる。野戦病院へ。
数ヵ月後にシンガポールに戻り、岩畔機関長となる。
中野学校では、謀略の根本は誠心だと強調。
人目につかないところでその相手のために細かい心遣いをするかどうか。
岩畔が石原莞爾の下宿を訪ねたら、蜜柑箱の机が1個しかなく、そこで「三無」にめざめた。
生惜しむなく、財求むるなく、名追うなし。
S14~15は、岩畔軍事課長と西浦高級課員の名コンビ時代。
▼草地貞吾『八十八年の哀歌』H4
S9-12-10 陸大入学。
S12-10-31 卒。恩賜軍刀。
S13-5-28 第106師団参謀。
S14-3-31 軍務局軍事課員。36歳。
S14-8-1 歩兵少佐。
S15-3-1 兼・参本の編成課。
S16-10-15 支那派遣軍参謀(作戦主任)
S17-3-1 中佐
S18-8-2 関東軍参謀(作戦班長)
S20-6-10 大佐
S20-9-5 ソ連抑留
S31-12-26 帰国
出光興産、日本郷友連盟 などで役職。みずから日大の学生ともなる。
S41-4-1 京都大 学生寮監長(1年)
三笠宮はS18ころ、「若杉参謀」と呼ぶことにしていた。
S14-4に軍事課に来たときの軍務局長は町尻量基少将で、やがて武藤章少将に代った。
S16-10-15に支那派遣軍に転出するまで いた。
S14の陸軍省内には、人事局、軍務局、兵務局、整備局、兵器局、経理局、医務局、法務局 の8局あり。課の総数は17~18だった。
途中で陸相は、畑俊六大将、次官は阿南惟幾中将。
さらに、東條大臣、木村次官へ。
支那総軍第一課長(作戦)から軍事課長に真田穣一郎大佐が来た。これで岩畔はいなくなった。
16年末か17年に 三宅坂は空き家になり、市ヶ谷台上の元陸軍士官学校跡に、陸軍省、参謀本部、教育総監部が移転した。
▼岩畔[いわくろ]豪雄『科学時代から人間の時代へ』S45
M44-9 名古屋地方幼年学校 13歳
大3-9 同卒。中央幼年学校入学 16歳
大5-5 同卒。新発田聯隊に隊附 18歳。
大5-12 陸軍士官学校入学
大7-5 同卒。新発田に隊附。
大7-12 歩兵少尉。第16聯隊=新発田附 20歳
大10-8 台湾 独立歩兵第1聯隊附。
大10-3~5月 広島県豊田郡の仏通寺に参禅。シベリアで、敵に勝つことよりも、部下の手前の体面ばかり気にしていたと猛省。物品を捨て去った生活を2年送った。
大11-3 歩兵中尉
大13-4 歩16附
S1-12 陸大卒(入学不明) 28歳 ※この箇所は他資料とは異なる。
陸大には3年いた。
S2-7 歩兵大尉。歩16聯隊の中隊長。
S3-3 整備局勤務
S3-12 同 課員。軍需動員年度計画を三回、決めるなどの仕事。
S7-8 関東軍参謀(新京)。満州国内面指導。産業経済計画。日系管官吏の人事。
36歳くらいまで、漢学を自習。ついで、自然科学書を読み漁る。
S8-8 少佐。
S9-8 参本 第一課(東京)。作戦資材業務。総動員業務。
S9-12 対満事務局事務官。満州電信電話会社の監督。
S10-8 永田事件。
S11-8 兵務局 課員。軍機保護法改正。著作規制の快晴。
S12-8 歩兵中佐。
S12-10 参本第8課参謀。謀略、宣伝。
S13-8 軍事課員。
S14-2 同 課長。
S14-3 歩兵大佐。農繁休暇の実施。昭和通商kkを設立。兵器本部を含む兵器行政改革。機甲本部接地。
S16-2 ワシントン出張。
S16-8 近歩5Rn長。
S16-12 タイ~マレー作戦。
S17-1 近D司令部附。マレー南部にて戦傷。
S17-4 岩畔機関長。インド工作。
S18-3 少将。第25軍参謀副長。
S19-1 第28軍参謀長。
S20-5から、3万人がペグー山系に取り残された。軍司令官は櫻井省三中将。8-12にやっと友軍陣地へ帰着。そこで、軍務局長心得として内地へ帰還せよとの命令を受けたという。
S20-8 「終戦直後単機凱旋」。
S20-8 軍務局長にはならず。そのかわり、陸軍省調査部長に (東京)
S40? 京都産業大学理事、世界問題研究所長(東京)
S41暮 本書の執筆を開始する。
S42 『戦争史論』を恒星社厚生閣から公刊。
アーノルド・J・トインビーを招いて京都産業大で公開討議。
哲学研究会に招いた日本人の大学教授たちの質が低すぎることに岩畔は気づき、日本は哲学においても敗れたと考えていた。本書の次は、日本人論か、大東亜戦争批判をするつもりだった。
S42-7 心筋梗塞で半年入院す。
S44春 胃潰瘍の手術。
S45-2 本書を脱稿。
S45-11-22 東京自宅で死去。
「範疇」は『書経』の「洪範九疇」から日本人が「カテゴリー」の訳として造語した。
戦車のクランクシャフトは40年前までは1本の鋼材の削り出しで、仕上がるまでに4ヶ月かかった。
その語、クランクシャフトの概形を鍛造し、切削数日にして仕上がるように。
今では概形を鋳造して、軸受け部のみ切削。数時間で完成する。
この本におさめられている1967-12-12の京都におけるトインビーとの対談の題が「二十一世紀の世界」。
トインビーいわく。19世紀西欧のナショナリズムは排他的であること宗教の如し。
▼防研史料 〔箱マル47/116〕 『九九式破壊筒取扱法』S16-10
主として鉄条網に破壊口を開設するから、破壊筒 と呼ぶ。※バンガロールである。
点火すると7秒後に爆発する。
細縄を引き抜けば、安全栓が抜ける。
6本を継ぎ足すと、全長7mになる。これは、深さ6mの鉄条網に対応している。
※深さというのは、奥行きのことだ。
危険区域は200mである。ただし、10m後方で伏せていれば、安全。
長さ1.15mの1本の中には炸薬が3.8kg入っている。
携行は2名でする。安全栓を破壊点で除去し、拉縄を軸方向に一気に引き抜けば、点火する。
「人用地雷」。型番はない。これでも自動車のタイヤくらいなら、壊せた。
炸薬は黄色薬が900グラム。全備重量1.5kg。重さ50kgがかかると、爆発する。
これを対戦車の肉攻に使ってはいけない。
黄色の包み紙がもし青くなっていたら、使用禁止。
100式小火焔発射機。火焔巾5m×10秒×10回。1.5m先で、温度が1200度になる。
※巾というのは、到達レンジのことだ。
▼防研史料 〔箱マル47〕 『九三式戦車地雷取扱法』S15-1
履帯の破壊専用である。
全備重量1.45kg、炸薬890グラム(黄色薬)。
重さ140kgがのしかかると、爆発する。
これ1つでは、敵戦車の履帯を切れないことがある。そのときは、2個を結束せよ。
肉攻では、2.5mの木桿にむすびつけて、履帯の前方に差し出せ。
▼防研史料 〔箱マル48/466〕 『棒地雷取扱法』S19-7
全長900ミリ。
楕円断面の長径が85ミリ。短径が45ミリ。
全重4kg。
炸薬2kg(黄色薬)。
重戦車の履帯を爆断できる。
筒は鋼鈑製。
中には、熔融黄色薬を被包した かまぼこ形の爆薬(1個500グラム、防水性黄色塗料)が4個ならび、その隙間に、3個の信管がある。
必ず、これを持つ組と組の間は、50mあけていろ。さもないと、一方の爆発衝撃で、他方のが誘爆してしまう。
これを地中に埋めたときは、歩兵が踏んでも爆発するから注意。
▼防研史料 〔箱475〕 『試製三式50瓩爆雷説明書』S19-8
陸軍のASWである。
炸薬37.2kg入り。粉状の平寧薬。
導火線に火をつけてから、落とす。
甲は26秒、深度30m。
乙は50秒、深度60mで爆発する。
敵潜水艦から6m以内なら、致命傷を与えられる。
こちらのフネが7ノット以上出してないとき、これを投げ込むと、危ない。
▼防研史料 〔マル6/飛行機/208〕『S16~17 航空技術関係綴』
日本帝国海軍=Marina Imperiale Giapponese
マウザー社15粍(20粍)機銃見学報告。S17-4-20~22日。
オーベンドルフ(シュツットガルト南70km)
S15秋に買ったハインケル戦についているはずのマウザー15ミリ・モーターカノン。ドイツが未成と称し、入手できずにいたが、ようやくオーベンドルフ工場で、すべてを見せてもらった。
銃身後退式。旋回機銃にもできる。
リポーターは、野間口光雄・海軍造兵少将と、丹野舜三郎・海軍技師。
バレルだけ交換することにより、MG151型にもなり、また、MG151/20型(20ミリ)にもなる。
MGFFより やや重だが、初速・発射速度は はるかに大。
電気式装填&電気式発射で、便利。
ベルトは左右どっちも給弾可。
高勢炸裂弾は20ミリのみ。
AP弾は、15ミリのみ。
ポーランドと仏人の捕虜を働かせている。
数人の兵が引率して工場内に入るのを見た。
ポ人は従順。1日10時間労働。
この20ミリへのコンバートが要目に加わったために、完成が遅れたと。
すでにMe210、He177、Fw190には装備中。
作動原理は、ラインメタルのMG131(13ミリ)と同じだが、それは、原理のみ。
もちろん15ミリ用にも、曳跟炸裂弾や、曳跟焼夷弾がある。ともに960m/秒。
曳跟徹甲弾は850m/秒。
※海軍では「曳光弾」とは言わない。
MG151/20とすれば、Hトレーサー 705m/秒。高勢炸裂弾 820m/秒。レートは 700発/分。
口径は 15ミリで、許容誤差は、プラスに0.08ミリ。マイナスに0.00ミリ。
MG 151/20 の許容誤差は、 プラスに0.1ミリ。マイナスに0.00ミリ。
最大腔圧は、MG151で 1平方センチあたり 3200kg。
実験では、【月唐】発しても、機体には害は及ばない。
冷却なしで100連発まで可。
ドイツ情報の イスパノスイザ 20ミリ Moterkanone
初速835m/秒。 ※昭和10年から知られていること。
レート 350発/分。
海外滞在者は、4ヶ月から5ヶ月頃に、誰しも神経衰弱になるが、語学が発達するにつれ、元に戻る。
語学は「でしゃばる」ことが進歩のカギだ。