旧資料備忘摘録 2020-9-23 Up

▼防研史料 『満洲に於ける自動車工業方策』1937-7-12
 S16を期して満洲の自動車生産を1万台に達せしむるを目標とす。
 凡てディーゼルとし、燃料は現地の頁岩油と重油とす。

 現在の同和自動車など全自動車メーカーを一特殊会社の下に統括。「満洲自動車(株)」と仮称。
 エンジンの製造ラインはドイツから、シャシのラインは米国から輸入させる。

 自動車工業は、3万/年の産額がないと経済的に成立しない。
 戦車もつくらせ、トラクター、バス、トラックも大半を官と軍で買い上げる。

 満洲では、冬の結氷期以外は車は役に立たない。馬車のみ。
 都市間の鉄道と、これら馬車のギャップがありすぎて、朝鮮の農産品を都市に送り込めない。
 モンゴル方面のみ、四季をとおして自動車が動ける。
 よって、今、満洲に、道路を増やしている。

 ディーゼル車は単価はガソリン車より3割から5割高い。9000円くらいしている。その代わり燃費は三分の一だ。

 100kmあたりの消費燃料比較。
 3トン積みのスミダ6輪ガソリン は、35.0リッター。
 3トン積みのT.G.E.6輪ガソリン は29.5リッター。
 1.5トン積みのウーズレー4輪ガソリン は20.0リッター。
 1.5トン積みのTGE4輪ガソリン は23.6リッター。
 1.0トン積みフォード・ガソリン は21.5リッター。
 3トン積みディーゼル自動車(たとえば池貝FT20型)は 15.5リッター。

 寿命は、ガソリン車が3~7年。ディーゼル車は2~5年。

 陸軍ガソリン保護自動車
 スミダS型 2.5トン
 スミダC型 3トン
 ちよだJ型 2.5トン
 ちよだQ型 3トン

 自動車故障の25%は 点火器と揮発器。ディーゼルエンジンには、そのどちらも不要。
 頁岩油をそのまま利用できる。
 塵埃に対し、やや強い。
 寒気スタートもガソリン車より良い。
 悪路牽引力がまさる。

 デメリットは、噴嘴、喞筒の精密加工が必要。
 圧縮比が高いため、手動始動は困難。始動電力はガソリン車よりたくさん必要。
 微細濾編が必要。

 メリットは、予備タンクなしで5日間、行動できる。

 S5に陸軍自動車学校は、ディーゼル6輪車のテストをした。3トン積。エンジンはドイツ「デュルコップ」社製。ユンケル型。重油。

 S3のデータを使い、馬車と自動車の維持費を細密に比較した。
 トンあたり経費は、馬車が21銭6厘。自動車は28銭。牛車はさらに格段に安い。

 荷車の役畜中、牽引力が最強なのは、騾馬。1頭平均で144kgをひっぱれる。そして1日35km、冬季でも30kmは行く。
 七套車 といって、最大7頭曳きまであり。
 他に、5頭や3頭という奇数曳きがある。

 池貝の60馬力。何冷式か不明。
 三菱は、水冷から空冷に転向中。
 新潟鉄工 40~80馬力。
 東京瓦斯電 90馬力(スミダ)。ちよだは水冷式。

 日本デイゼルはユンケルスディーゼルの特許を買収。60馬力、90馬力、125馬力をつくれる。
 日本内燃機 75馬力を完成。
 國盆自動車も。
 ただし戦車用のディーゼルエンジンを造れるのは三菱のみ。

 満洲でアルミをつくろうとすれば日本内地より割高になるだろう。

▼防研史料 南満洲鉄道(株)調査部『自動車工業関係資料』S12-12
 5ヶ年計画で自動車 5000両/年を 同和自動車(株)を強化して生産させようとの計画案。
 この当時のフォード・トラックは、ホイールベースが131吋(1.5トン積み)と157吋(2トン)あり、シボレーもその二種があった。

 同和は、康徳元年(=昭和9年)に90台、2年に251台、3年上期で350台、つくっている。

 熱河作戦では、一千数百両の自動車が使用された。
 ところが、康徳3年(昭和11年)6月現在、満州にはすべての自動車をあわせても6000両しかない。

 現在「カタピラー」は、名古屋大同電氣製鋼所にて製作している。

 自動車工業(株)……もと石川島造船所の自動車工場。大5より、フィアット乗用車を研究。大7に、WWIで活躍したウーズレー自動車の製作権と東洋における一手販売権を買収、職工数名をバーミンガムのウーズレー自動車会社に派遣した。その者らは大8-10に帰社した。 同時に深川区富川町に工場を新設。そこが震災で焼けたので、京橋区新佃島相生橋際に月島工場をつくり、翌大13-3に1.5トン・トラック第一号を完成。S2にウーズレーとの契約は解除。S4、自作スミダ。

▼防研史料 海軍造兵廠ed.『海軍省報告』M25、M28
 製造単価がびっしり。

 M24末頃の、海軍の火薬の種類。
 一斤信号火箭料〔ママ〕薬。 ※ロケットである。なお、こういう正本を筆写する係の者が字を間違えてしまうことは、ときどきある。
 火工用粉薬。
 一伊諾典砲火薬。※1インチ径のノルデンフェルト機砲。国産化していた。
 《中略》
 舶来三十七ミリ保砲炸薬用火薬。※ホチキスの速射砲。
 村田銃火薬。625kg「修理」し、5.765円かかった。

 この年〔24年末まで〕、四十七密米速射砲の試験が好結果を得た。「骸炭」をのぞき、素材をすべて国内産でまかなっている。

 朱式魚形水雷も本年はじめて造兵廠で製造し、本物オリジナルと比較した。
 以上、24年度報告。M24-12-31調。

 傭外国人 ジョン・イングルスは 月俸が銀貨1063円。
 音楽教師 グスターフ・アルペーは 横須賀鎮守府勤務。銀貨220円/月。

 清国人の陳允史。銅工として、呉鎮守府の造船部の小野浜分工場に 銀貨300円/月 にて傭われている。M24年。

 海軍の監獄は、赤坂区葵町〔溜池の本省内?〕、相模国三浦郡大津村、安芸国安芸郡和庄村、肥前国東彼杵郡佐世保村 にある。
 それぞれ、監倉、禁固室、内役場、病室、屏禁室、闇室 という設備をもっていた。
 重禁固3年以上というのが最も重い。軽禁固1月以上というのが最も軽い。

 M23の演習費は、20058円90銭8厘かかった。
 タマ代は、「兵器水雷費」という項目の中に入れられる。
 さらに、製造費と購買費がある。

 M24の造兵廠は、芝区赤羽町にある。
 造兵廠製鋼所は、京橋区〔築地?〕小田原町2丁目にある。
 造兵廠火薬製造所は、荏原郡目黒村にある。

 以上、M25-9-20印刷 by海軍大臣官房。

 以下、25年度報告。
 下瀬火薬の創製。

 山内閉鎖器と山内砲架は、反動によって自動排莢、半自動閉鎖するもので、初めアームストロングに試製させ(山内が在英中)、その後、国産し、展覧の上、シカゴ博覧会にも出した。
 以上、M26-11-19印刷。

 以下、25~26年度報告。
 この年、目黒を陸軍省の所轄に移し、海軍においては下瀬火薬だけをつくることになった。

 鋳鉄製弾丸は、これまで鋳造ののちに旋削していたが、新意匠により鋳造のまま使用することを考え、まず32拇砲通常榴弾に応用。好結果を得たので、一層研究する。
 以上、M28-5-15印刷。

▼防研史料 立川兵器研(目黒区)『昭16~18 各種兵器仕様書綴』
 会社概要書付。
 明治42年 長山飛行機研究所の生写真帖付。※これは早く複写しないとボロボロになってしまうぞ!

▼防研史料 東京第一造兵廠『未完成兵器一覧表』 
 航空機用の二式40ミリ撒布弾 などというものを大阪の香里製造所で量産していた。

 下丸子で「新中戦車乙」〔チリ車? 読めない〕が1台だけ完成していた。

 日立亀有では、砲戦車甲が6両完成。※ホリではない。その前のもの。

 ホロは三菱で13両が70%完成。
 ケル〔95LTKの改修らしい〕。神戸と池貝で別タイプをやっていた。

 装甲兵車は、日野重工でやっていた。
 100式機関短銃は、鳥居松で673梃完成。1700梃くらい途中。

 「国民総武装用迫撃砲」という謎の兵器があった。

 航空機用の57ミリ砲と37ミリ砲は、名古屋の熱田製造所で。
 30ミリは、三重の楠製造所で。
 30ミリ固定機関砲は、千種製造所で。
 12.7ミリ 1式固定機関銃は 中央工業 新倉工場(群馬)で。

 20ミリ航空用機関砲は、楠で。
 25ミリ2連装機関銃銃架 を 大阪の中央工場でつくっていた。※海軍の武器を陸軍の工場でも作っているわけ。そのため「双連」ではなく「連装」、「機関砲」ではなく「機銃」 と表記する。

 5式40ミリ機関砲を 大造、第四工場(宝塚)で。

 日本製鋼所室蘭製作所で「チト」車砲塔×1 完成。※チトは四式戦車。5式はチリである。

 「毘式高射砲尖鋭弾」9個を、試験用に、大津川射場でつくった。

▼防研史料 『S19.12 作業に関する打合会書類』
 生産状況報告である。
 押収米式37ミリ砲、尖鋭弾の弾丸。
 押収2ポンド戦車砲、3式徹甲弾の弾丸。
 掬土車(7トン)。
 「舶用化チケ車機関」※謎。

 この時点での全投下爆弾を網羅。

 S19-4~11月、AAMGはすべて小造だけで造った。
 98式AAMG×359(実績。以下同じ)。
 同特〔?〕×113。
 4式基筒双連20ミリAAMG×40。
 2式多連〔?!〕20ミリ高射機関砲×13。

 東一造は光学兵器。

 大造。
 3式7.5cm戦車砲II型 ×2。
 12迫×247。
 88式7高×464門。
 4式7高×15門。
 99式8高×357門。
 3式12高×54門。

 98式臼砲の98式榴弾×92。※まだつくっていたのか。
 東二造は弾薬か。

 「原始工業化」……工場の機械の究極の疎開。設備の一部だけで造兵を続けられるようにする。

 著減せるもの。九四式拳銃(含 二式拳銃)。

 東一造……喇叭、軍楽器、軍旗、乾電池、気球、発動機。照明器材は除く。
 東二造……化戦戦闘器材の検知器、化学薬品、油脂、塗料。
 大造……海運器材。

 S19-12-27、兵器行政本部の各造の機動47ミリATG整備を中止す。99式8高運搬車も。
 戦車類は次の優先順位で整備する。
 一、チヌ、98式6トン牽引車。
 二、チト、チリ、8トン排土車、14トン排土車。
 三、97式戦車の砲塔改修、土工牽引車。
 四、10センチ自走榴弾砲の車台。
 五、ATG車台。
 六、特4式戦車。※例の内火艇?
 七、特3式戦車。
 八、3式迫撃砲の車台。
 九、空気圧縮車、ロケ社機関。

 99式手榴弾は、20年度初頭に、大造でつくるのをやめ、南造に任せる。

▼『日野自動車販売株式会社30年史』1978-9
 ※ニコ は愛国2号 のことではないか? サコは「散兵壕掘進車」?

 開戦から終戦までの物資動員計画順位で、トラックは16年と17年がB。18年と19年がC。20年はB。
 なぜ20年で上がっているかというと、本土決戦のため。

 S7に「Q型兵員輸送車」24人乗りを試作製造している。
 S7-7に「中京デトロイト化計画」があった。

 圧雪車は「ラK型応用」だった。S19試作。
 S19-4以降、陸軍航空機の脚もつくった。

▼日野自動車工業(株)技術管理部ed.『日野自動車技術史 写真編』1993
 青島で上陸地点から4kmに据えた28榴に、タマを届けるため、4台のトラックを使った。すなわち 日露戦争中の軽便鉄道の代替品として、トラックが認められた。

 S9の「ホヤ」……軍用小型乗用車
 軍から偵察用小型車の要求があり、フォードのシャシを縮めて独立懸架にした。
 コイルスプリングはバックリングを起こすのでコニカルスプリングにした。

 統制エンジンの特徴は、吸出し型配置のファンにある。
 おかげで 戦車内の環境改善に顕効あり。
 ただし プリチャンバー式で、直噴ではない。

 伐開機は、興安嶺に輜重用道路を通ずるためのものだった。旭川の原始林で試した1号車は、横に振られて履帯が外れ、失敗。

 石川島造船所自動車部が1929-5に石川島自動車制作所になり、それが1933-3に「自動車工業」となり、1937-11に「東京自動車工業」に合併、消滅した。

 軍用の、94式TX の6輪版が、JM型である。
 1930年のQ型=愛国号である。100台以上、造った。
 それを装甲したのがQSW(愛国2号)だ。

 TGE GP型 広軌牽引車、木炭車。1928年。4輪。※この写真は印象的。
 TGE GP型 温風車。なんと航空機の空冷エンジンを厳冬の北鮮基地にて温める装備であった。

 QSWの写真に修正がある。ほんとうはターレット前にもボールマウントがある。銃眼は全部、ボールマウントだったらしい。

 ホヤは50台つくった。
 五十嵐氏が写真提供している。

 ケニのシーソー式コイルばねのA型は日野重工が試作。
 特2式もつくったらしい。3.9トン。
 ケホもつくったらしい。
 9トンの試製砲戦車と5式軽戦車。
 装軌のハシゴ車。社内名「展望車」。
 引用元資料のひとつに『帝国陸海軍の~』もあり。
 ハシゴ車の超クリアな写真。梯子はアルミ製らしい。

 1929から92式重機関銃もつくった。1934年まで?
 当時は瓦斯電兵器部といい、のちの日立兵器である。

 はじめ大森工場。1944-8~9月に水戸に疎開。終戦まで操業。

▼『日野自動車技術史 テキスト編』1993
 ※社史の元資料ファイル複製。

 クランクケースやミッションケースの鋳鋼は、陸軍の熱田兵器製造所が早くから薄いものをつくっていた。大7頃。

 千葉県の茂原、大多喜、一の宮で天然ガスが出た。
 そこでS15に梁瀬自動車が、150気圧鋼鉄ボンベを車体後部にとりつけ、減圧弁を経てエンジンに送る 天然ガス・エンジンを作った。

 大正の中期、六郷橋ですら木橋で、制式4トン車が徐行で何とか渡れるレベル。
 昔から東京に入るすべての街道は皆、狭くて曲がっていた。東海道ですら、八ツ山を過ぎると宿場で、夜は遊び客が群れ、車は立ち往生という有様。

 素材工業がたちおくれており、鋳造品はほとんどが芋鋳造だった。この段階での差(寸法)が大きく、本体の加工に入る前の整形作業が複雑で、作業計画が立たなかった。
 板金作業も手作業の叩き出しで、塗装の下地の作業に影響した。

 制式4トンではシリンダー内面はホーニングはまったく考えず、リングとの共摺りの工法を使った。
 シリンダーは、屑鉄を20%から30%加えるセミスチール鋳物で、当時の金属学の先端をゆく材質。
 原料銑は、インドのタタ銑。
 トンあたり120~150円。
 これに、不良をすくなくするための トン500円もする釜石の木炭銑を混ぜ、坩堝溶解にしてオシャカを減らした。

 日露役の旅順には、砲弾4万発、小銃弾190万発〔第二回総攻撃のみか?〕を輸送。趨勢として、もう、鉄道ではやってられなくなった。
 当時の砲弾単価25円は、ふつうの家計のひとつき分に相当したという。

 1928、 スミダLA型探照灯車。
 1930、 TGE飛行機始動車。

▼防研史料 〔箱マル48/614〕 『防禦に於ける対戦車戦闘応用地雷の製作 及 其の設置法』S19-5
 AT壕は、V字カット断面に地面を掘るが、深さは2m、地表部の巾は4mないとダメ。
 AT断崖は、登り斜面ならば、段差2.5mの垂直面をつくる。下り斜面ならば、段差5mの垂直面をつくれば、米軍戦車の前進を止められる。

 橋梁の、桁の下面に切り込みを入れておく。そこに敵戦車が乗りかかると、橋は落下する。これを「陥穽」という。

 漏斗孔は、地表部の直径6m、深さ1.5mあれば、中戦車の機動を阻害できる。
 そのような漏斗孔を人為的につくるには、深さ2mの垂直の穴を掘って、その最深部に航空用の小型爆弾を5個から6個、束にして挿入し、起爆用に2kgの黄色薬を束の中心に挿入して発破すればよい。

 この漏斗孔を10m間隔で千鳥状に配列して行けば、事実上のAT障害帯ができあがる。
 漏斗孔のないところには、偽地雷を置くとよい。

 ※この時点で南方の占領地には、航空用爆弾だけがやたらに余っていた。その最も潤沢な資源を、陸戦に活用する方法を、指南しているわけである。

 梱包薬によって敵中戦車の上面を破壊するには、6kgが必要である。

 なぜ対人地雷をATに使わせないか。安全解除後は、ちょっと何かに触れても爆発してしまうので、危なすぎるから。
 戦車の履帯を切るには、爆薬は2kg必要である。
 戦車の車体を下から壊してやろうと思うなら、爆薬は10kg必要である。

 ウエワクには航空用爆弾が余っている。
 タテ機を使え。※野山砲級によるタ弾でなければ、無理だろう。

 破甲爆雷は、装甲厚25ミリ〔すなわちソ連のBT-7M。日本陸軍の時計はノモンハンで止まっていた〕を対象としたもので、装甲厚60ミリある米軍M4戦車には使えぬ。2個重ねても無駄。

 70ミリ装甲には、13kgの黄色薬が必要である。
 M4の側面装甲は60ミリ、上面は40ミリある。
 5kgの爆薬なら、50ミリ厚の装甲を破壊できる。

 2個の爆薬を1本の紐と導爆線によって「ふりわけ」荷物のスタイルに結着して、投擲爆雷にする方法は、米軍戦車に対して有効か?
 経験では、この方法では、1個の爆薬の重さの上限は3kgである。つまり2個で6kgである。それ以上の重さになると、とても敵戦車に投げつけることはできなくなる。
 そして、3~6kgの爆薬では、米戦車は破壊できない。
 したがって、爆薬を「投げつける」方法だと、どうやっても無理がある。

 M4戦車の砲塔正面は85ミリ厚。要部は55ミリ厚。ただし、鋳鋼であることが多い。

 全重150トンの「ルーズベルト」超重戦車があるという。※日本の四研で考えていた超重戦車のルーモアが回ってきたのか、それともパーシング戦車の情報が増幅されたのか?

▼偕行文庫蔵 教育総監部『挺進奇襲の参考』S19-7
 挺進奇襲の定義。小部隊で、敵の配備内に潜行 または 潜在し、人的・物的戦力を破壊し、あるいは情報、俘虜、文書を獲得し、あるいは後方を擾乱すること。

 しかもこれは、一般部隊において編成する。
 なぜなら、1班の戦果にはおのずから限度がある。戦果増大のためには、部隊規模を大きくしなくては。

 最大で、歩兵1個中隊規模。最小は、数名。
 追随をゆるさざる創意をもって、常に敵の意表に出でよ。敵をして対応の策なからしめよ。

 「特殊笛」も使う。
 筆頭の任務は、「敵兵、特に幹部 および 白人の殺傷」である。
 その次に、指揮組織に対する攻撃。
 その次に、火砲、戦車、飛行場施設、航空機の破壊。
 五番目に、「敵船艇の破壊」。

 住民や土人の兵補も連行・利用しろ。そのさい、相手の面子に気を配れ。

 奇襲は「速撃速離」が原則。
 計画は、次級者にはすべてを知らせておく。全員には、概要を承知させておく。

 「勉めて携帯するを可とするもの」の筆頭は「機関短銃(自動小銃)」である。
 ついで、軽機、小銃、拳銃、銃剣、手榴弾、眼鏡〔双眼鏡〕の順。
 さらに「一瓩爆発罐」「点火具」「破甲爆雷」「鉄条網」……など。

 所要に応じて「鎌」「鋸」「目立具」……「十字ぐわ」〔ママ〕。
 「なた」または「蛮刀」は、勉めて持っていけ。
 砥石、携帯測遠機、応用距離計。

 主食は「圧搾口糧(特殊携帯口糧)」、マラリア予防薬「ヒノラミン」錠、腸管伝染病予防薬「リマオン」錠、制湯錠。
 地下足袋は、指又のないものがよい。

 土民服、敵軍服。
 「十六番鉄線」約10m。
 携帯濾水筒、犬用嗜好剤、梟感剤、青酸加里。

 被服は、濃緑色に染色した刺し子がよい。
 暗号は「消化紙」に印刷せよ。

 タバコは吸わぬ方がよい。どうしてもという場合のため、火先が見えないパイプを準備していく。
 飯盒は、音がするので 使わない。

 伏撃には、待伏と、誘伏とあり。
 俘虜を持ち帰るには「もっこ」が要る。

 人員の殺傷にあたっては、軽機関銃よりも、機関短銃が有利。
 擲弾筒は使える機会が少ない。
 銃剣に代えて、「簡単に槍に改造し得る両刃短刀」を可とす。

 飛行場は広い。しかも目標はバラバラに散在している。
 よって、最重要目標を決めておかないと、右往左往するのみ。
 飛行機の爆破は、エンジンを狙うこと。

 無線用の発動発電機は、消音することが難しい。
 アンテナは、スピード重視で、垂直型に限る。それも、樹幹に沿わせて、カモフラすること。

 前進するあいだ、50mごとに磁針を確かめて行けば、まずコースを外れることはない。
 「元気食」5箱。
 理研の「パンゼ」は、南京虫、蚤、ダニを駆除してくれる。

 鎌や鉈類は、現地人が使用しているものが、最も良い。
 予備班は高砂族。
 歩兵1個小隊は、5号無線機×1を伴う。
 総員35名。
 ♂のマークはSMGを意味する。
 班・組の先頭にSMGが立つ。

 敵の20加は、砲身内で黄色薬8kgを爆発させれば、破壊できる。
 15加は、3kgでいい。
 15加以上の重砲は、砲身の外側から破壊することはできぬ。

 機関車は、車軸の油を抜き取り、砂を入れておくと、運行途中で焼きつく。

▼偕行文庫蔵 『九二式重装甲車取扱法』S11-10
 直6、空冷。

 操縦手窓ガラスは防弾ガラス。手動式の拭浄器あり。
 銃塔は、車体外板、操縦手正面板と同厚の「防楯鋼板製」である。
 探照灯は、内部から向きを変えられる。

 蓋板は、内部から緊定できる。
 高射は、車外に半身を乗り出して行う。

 車体後端の外部にボタンがある。これを押すと、車体後部隔壁内側の電鈴が鳴る。
 履板は、高マンガン鋳鉄。防滑鋲を装着可。
 履板軸は、ニッケル炭滲鋼で、径13ミリ。

 電気起動。極寒時は、始動転把を併用する。
 方向変換は、片方の履帯側のハンドレバーを引いてブレーキをかけることによる。操向レバーの握りは、上から押さえる形。

 路上で最高40km/時 可能だが、エンジンに負荷がフルにかかる。連続走行は30km/時以下とせよ。
 新車は、トータルで800km走り込むまでは、時速25km以上を出してはいけない。

 エンジンのクリアな写真付。
 懸架装置のクリアな写真も。
 板バネ、下部転輪、履帯……。