旧資料備忘摘録 2020-9-24 Up

▼三上次男、楢崎彰一ed.『日本の考古学 VII』1967
 六国史に出る 東日本の古代城柵は、すべて東北に遍在。
 すべて 対蝦夷である。
 大陸の築城技術は もう入っていた。

 西日本の古代城柵は、天智の4城はじめ、いずれも350m以上の高山頂にあり。
 唐・新羅に対する純軍事施設。

 これに対して東北の柵は、最高の秋田城でも比高45m。東北開拓の基地なのである。
 西日本には石壘多し。
 東日本のは土塁木柵のみ。

 古代の「城」「柵」「塞」は、字こそ違え、中味は同じである。
 西日本の神籠石(こうごいし)――高さ70~80cmの方形切石。神域囲繞用というのは俗説で、古代の城塞である。
 神籠石は、各地で同一規格。朝鮮山城形式なのだ。

 室町末期の永禄8年。初の土木技術書の『築城記』が書かれる。同書は、山城では水を最も重視する。
 城の石垣は、本格的なものは、永禄年間に信長築造の二条城から始まる。※家康の二条城とは別。

 当時の山城のことを軍学者は「根古屋」と言ったが、実態を表す。
 櫓は、古くは「矢倉」「矢蔵」と書いた。高い足場から矢を射おろす設備だった。

 平城の枡形にある内外ふたつの城門。外側を高麗門と呼び、内側は櫓門と称する。
 高麗門は朝鮮とは何の関係もない。かぶき門よりも堅固な木柱造りの門。
 やぐら門は、上部を「わたりやぐら」とし、下方を門とし、下方の両側はただちに石垣に接している。

 火葬せずに埋めた人骨は腐って残らない。砂地ならば別だが。
 やぐら(岩穴)に埋納されたものあり。

▼R.V. Dietrich 著『石ころの話』S61、原1980
 著者は米人。
 凍土帯では石は地上に出てくるので、あたかも生長するようである。

 アマチュア収集家を、ロックハウンドという。
 氷河で運ばれた石は、平滑面に溝が彫られている。
 火山弾の形は、円盤状の再突入体のようである。

 イスラムの石叩きの刑。ほんらいは、穴に入れられた人間の上に巨礫を落とし、処刑した。 

▼日本石材振興会ed.『日本石材史』S31
 城壁を石壘という。
 わが国の最古の石切り場。大和と河内の境、二上山の南の鹿谷寺址に pitch stone(松香石)を切り出したあとがある。石器をつくった痕が歴然という。
 次に古いのが、奈良市春日山の石切峠。

 全国で「石山」とか「丁場」という。
 大谷石、笏谷石……軟質凝灰岩。

 石造美術は鎌倉期に最盛。
 徳川初期から、硬石の花崗岩を使うようになり、全国で石材の大量消費がスタートした。

 平安時代に、京の都へ石を売りに来た者があった。
 鎌倉時代。鴨長明の歌評の中に「石を立つる人のよき石をえずして、ちいさき石どもをあつめて めでたく さしあわせつゝ たてたれど」とある。

 古事記の垂仁天皇のくだり。「定石祝部」と出てくる。
 本居の古事記伝は、真淵説を引いて、「祝」は「棺」の草体誤転だとする。
 これにより、石棺技術者の一大集団があったことが知れる。

 『新撰姓氏録』いわく。和泉の国、石作の連[むらじ]は、垂仁天皇の世、石棺を献上して 石作大連の姓を賜ったのだと。
 鎌倉時代、東大寺大仏殿の復興に、宋人石工が活躍した。

 砥石は砂岩[しゃがん]。富田石は、紀州の砂岩である。
 大理石は、岐阜の赤坂大理石がいちばん有名。

 石槨は、単に積み上げたもの。硬材花崗岩や安山岩の硬材を用いる。
 石棺は、一石刳り+蓋 のものと、別石組み合わせ のものとがあるが、どちらも、凝灰岩を使う。

 古くから讃岐の石材は、播磨に運ばれていた。播磨風土記によれば。
 二上山は、凝灰岩で、大和、河内へ運ばれている。

 石棺作=イシキツクリと読む。
 最古の石仏は、584年。百済からそれを招来した、と日本書紀にあり。

 薬師寺金堂の仏壇は、白大理石で、天平時代初頭には、瑪瑙と称した。奈良県吉野郡天川材の洞川産か? 搬出には不便。興福寺華原磐の基石はこれであったと。

 末期、唐招提寺金堂内陣の仏壇は、花崗岩を切り、表面を彫ってある。
 白石とは、二上山の松香石または凝灰岩。
 法華寺造営のとき、花崗岩72顆、大坂白石1965顆、使った。

 奈良時代の見事な礎石は、平安前期で殆どあとを絶つに至った。
 平安に始まった真言、天台の密教では、新しい石造塔婆を作るようになった。
 従来の石造美術は大和のみ。だが以後は、全国に見られる。

 石鳥居もある。現存最古のものは、平安後期のもの。羽前荒谷、羽前元木(山形県)。凝灰岩。
 平安期には、讃岐や瀬戸内海の花崗岩をどんどん中央へ運ばせている。凝灰岩より重いので、苦労したはずだ。

 摩崖仏は凝灰岩。
 工具に関する最古の文献は、藤原実資の『小右記』。1016-4-10に、粟田山の大石を、鉄槌とタガネで割ることが。

 城郭石壘は、日本では、元亀、天正の頃にならないと、本格的なものは造られない。
 はじめは、門、櫓の建築物と接する重要部分とか、水中の突出部のみに。

 永禄12年に、信長が建てた二条城。初めて壘を全部、石垣で築いたと伝えられる。
 それまでは土居がほとんど。

 滋賀県の穴太から出た石工を穴太役と称する。慶長頃の、石垣スペシャリスト。
 鉄砲による側防(よこや)を利かせるための「ひずみ」という屈曲。これを軍学者が工夫した。

 野ヅラ積みは、自然石の大面を奥に、小面を表にして積む。隙間だらけだが、頑丈。
 打込みハギは、隙間がまったくない。熊本城や、宝暦の名古屋城修築も。
 槌で角を平らにするから「打ち込み」という。
 この2種類の積み方を記録したのが、徂徠の『【金今】[けん]録』。

 江戸城の石垣勾配は抛物線で、地震に強い。
 江戸城の石材は、伊豆の安山岩。
 大坂城の石材は、瀬戸内海の花崗岩。火に弱く、亀裂を生じる欠点あり。

 石垣の角は、算木積み。
 『武教全書詳解』も石積み法を記している。『海国兵談』も。

▼ホースト・ドラクロワ著、渡辺洋子tr.『城壁にかこまれた都市――防御施設の変遷史』1983、原1972
 Horst De La Croix

 大砲が石の弾丸を打ち出していた14世紀ならば、都市はそのまま防衛できた。しかし、鉄丸になると、アウトレンジの破城槌と同じで、防ぎようがなくなった。これが15世紀末である。

 まず塔がどんどん低くなった。
 壁は、その外縁に必ず堀を付帯せしめる必要が生じ、その底から測れば相変わらず高いのだが、敵砲兵から見れば低シルエットでしかないように、変容した。

 シャルル8世が、ナポリ王の地位を要求して、フランスからイタリアまで遠征。
 その砲兵隊は、たった数時間で一城を屠った。

 なぜ、ダビンチやミケランジェロが大砲&要塞の問題に取り組んだかというと、それが当時の喫緊の課題であり、知的チャレンジだったからである。

 イタリアでは、土よりも石への好みがあり、対大砲の防衛は成功しなかった。
 星稜堡は生れた。

▼友近美晴『軍参謀長の手記――比島敗戦の眞相』S21-5
 元少将。レイテで大敗北した第35軍の参謀長。

 ミンダナオのダバオのダリアオン収容所で書いたのを、いっしよにぶちこまれていた従軍記者が一足早く持ち帰り、出版。乗船直前、佐官らの妨害に逢ったが拒絶。

 将も兵も自我自欲の凝り固りとなり 芥川の言ひ分ぢゃないが 全く「人間獸の一疋」に帰つてしまつてゐる。
 KD……米軍の騎兵師団。
 BS……独立旅団。
 総軍は、在マニラ。
 水際をすっかり放棄してしまえなかった。それを言うと消極的だとされて、作戦会議で議論に負けてしまうのだ。

 レイテは広い。おかげでサイパンほどの艦砲の集中は免れた。反対斜面と洞窟陣地は無事だった。しかし、中掩蓋と水際大砲は全滅した。

 ダバオとタクロバンに基地飛行場群を造ったが、航空機がなかった。
 いずれも海岸部にわざわざ造った。何にもならなかった。
 できるだけ洋上遠く、飛行機を飛ばしたい。そのためにはできるだけ海に近いところに……。という勇ましい意見に負けてしまった。

 マッカーサーは、日本軍の裏を掻くなら、ルソン島に直接上陸すればよかったのに、と著者は思う。
 ※ワンクッション置くのは彼らの定石なのだ。沖縄本島の前には慶良間諸島。

 セブでは、海軍の原田少将と、陸軍の万城目少将の間がよかった。
 ダバオは然らず。理由は、陸軍の原田中将の性格にあり。その参謀長は服部だった。

 35軍正面にとり肝要なバゴロド航空基地は不備で、航空隊が、降雨の度に、悩みぬいた。

 1Dは、兵隊は勇敢なるも、幹部は近代戦訓を知らない。指揮力も低かった。
 D長の片岡中将は、騎兵出身のくせに消極的で、兵の損耗のみを心配した。必要なときには兵の損耗を顧慮しないで難局を猛進させるという毅然たる統率ができない人だった。

 某師団長の福栄中将は、卑俗で、部下から嫌われ、一死赴難の気概は無かった。
 今堀大佐の支隊は、部下が斬り込みを喜び、米軍も敬遠した。

 26Dがオルモック揚陸に大失敗して以降は、SS、SB、大発、機帆船、漁船によるほそぼそとした輸送しかなくなった。

 米は上陸後すぐ、ブラウエン北、ブラウエン南、タクロバン、ドラグに滑走路を造成した。
 バレンイヤ飛行場はオルモック北にあった。

 2月11日に海軍陸戦隊がオルモック湾の西方海岸に上陸。敵前とは知らされていなかった。隊長は伊藤少佐。
 水陸両用戦車×9両をもっていた。実際に5両が上陸した。兵員400~500。迫撃砲×20門のうち12門を揚陸した。

 敵中突破の退却でも、再集合するための退却目標をしっかりと示しておけば、潰乱には陥らぬものなり。

 1D正面では、重傷者には因果を含め、たんさん自決せしめた。
 軽症独歩者は、畑の食い物が良いのでなかなか集合しない。
 ○○日に乗船して他へ行く、と伝えると、急に集まってきた。

 レイテ海岸から舟を仕立ててセブやネグロスまで逃げた者。分っただけで50名おり、中尉までも含まれていた。
 捕へた者は皆、軍法会議にかけ、ひどいのは死刑にした(p.59)。

 福栄102師団長は12-29頃、勝手に独断退却をきめこんだが、親補職を軍法会議にかけるのはまずいから、改めてその退却を合法化する命令を出してやった。
 だがさらに命令違反があったので、軍司令部は中央に、福栄中将の親補職を免じ、中央部において捜査処分せられ度し、と上申したが、遂に回答に接しなかった。

 レイテは食糧自活が可能な地だった。部隊長の心掛けのよいところでは、5ヶ月分の備蓄ができた(p.69)。

 大曽根参謀がガダルカナル体験者だったが、1月初旬まではガ島よりレイテがマシだと言っていた。しかしその後は、補給があったぶん、ガ島の方がまだよかった、と。

 海軍の特潜で、陸軍の司令部を移した。
 給養を見てやらぬ大佐は、最初の砲撃で部下たちから見捨てられた。

▼大本営海軍部嘱託 光村写真部撮影『日露戦争旅順口陥落紀念写眞帖』M38-7
 印刷は神戸市。三康図書館蔵。

 大連発電所の大煙突。※50mくらい?
 12-16柳樹房での乃木と第三軍スタッフ勢ぞろい。
 海軍重砲隊の人力運搬。
 海軍12珊速射砲のイイ写真×2。もちろん未見のもの。

 28cmによる港内間接照準射撃の光景。これはよく分っていい。
 203高地上からの港内。これもイイ。
 敵が陸地で発射した魚形水雷のクリアカット。

 破壊された露軍の76.2ミリ砲。
 『パルラダ』の鉄板+木板 甲板構造がよ~く分る写真。

 ステッセルの官舎。

▼井上光晴『蒼白の飢餓』1973-11
 S15のとき14歳だった著者は、大坂の製鋼所において、戦車のキャタピラを作る工場の下請工場で、分析見習工をしていた。
 電気炉で、製造過程にある特殊鋼の硬度やねばりを分析して、マンガンとか燐とかを補給する、連絡係。
 サンプルから、分析用の切片を、ドリルで削りとらねばならぬが、ドリルがはねとばされるものもある。

▼林芙美子『戦線』S123-12 定価1圓
 行軍兵の汗のにじむ肩、背嚢、その上にゴマまぶし状に蝿が止まる。
 兵は、弾薬匣からたった1本の煙草を出し、半分にちぎって吸う。

 船の中の馬の居場所を馬欄(ばらん)という。
 宇品から大陸まで10日+の船中である。
 馬は、いちおう、1日2回、運動させる。

 朝日の「無電トラック」アジア号の写真(p.21)。
 無電員は、オペレーターと称する。車両を止めてアンテナ展張。
 白いブチのある朝鮮烏。

 10月でも、蚊・蝿がいる。
 揚子江の北岸をさかのぼる。漢口より前の【くさかんむり 單斤】水(きすい)の町。目も口も空けていられない。黄塵と蝿で。

 シナ兵は青竹で担架をこしらえている。
 陸軍機がビラを撒いて行く。広東が落ちたというニュース。

 シナ軍も「陣中画報」という4ページの漫画だらけのタブロイドを配布している。
 「日寇」と書いた虎。

 輜重隊の下士官「後尾異状ないかッ!」
 「後尾異状なし」。これがずっとうしろへ逓伝され、最後尾が怒鳴る。「後尾異状なーし!」

 土民や捕虜を雑役に使いながら行軍。敵も味方も分らん。
 アフガニスタンで雑貨屋をやっていたという兵隊がいた(p.63)。

 S12-12の南京を見た。光華門や中山門などの城壁に、青い帯のような裂地がずいぶんぶらさがっていた。便衣も青である。

 街道はいたるところ玩具箱をひっくり返したような家財道具の山。
 その中に必ず、青い着物や青いきれが入っている。

 89式戦車のクリアな写真。ただし主砲は検閲抹消。竹で擬装。埃の立ち方がよくわかる。部隊名は消されている。「高橋戦車(隊)」と。

 流れ弾に当たった馬を見捨てるときは、乾いた藁を敷いておいてやる。ときどき四つ脚で空を蹴る。
 シナ人の雑役は、各隊に数十人。シナ馬や牛をひっぱらせる。日給制。兵の給与よりも良い。

 シナの洗面器には必ず絵が描いてある。中には「打倒日本」の文字も。
 逃げ遅れたシナ兵は往来で死んだまねをしている。その上を戦車がゆく(p.86)。
 捕虜斬首目撃譚。一刀のもとであった(p.91)。

 「内容空疎な急ぎ足の日支親善はまつぴらごめんだ」(p.92)。
 朝日は伝書鳩をもっている。

 夜は、馬の嘶き、兵隊の咳、多種な訛り言葉、焚き火。
 小休止では、背嚢を負ったまま、叉銃で寝る。
 湖北はずっと綿畑である。水田もあるが、麦はない。
 にわとりの声。ケケンツク\/。

 トラックのアンテナは、竹竿を道の両側に立てて……。
 漢口北端で初めて農民の若い女を見かけた。その前は2ヶ月前の上海だった。バアさんはよく見るのだが。

 渡河前の中戦車と軽戦車は、笹でカモフラしながら待機していた。
 「471」というローションを持ってきた。
 馬を傍に立たせた兵が、くわえ煙草で野糞。
 軍の通信筒の文面にも「多謝」を使う(p.160)。

 重症の少尉のうわごと。「……伝令……〔に行って来い〕」「……斥候……」。
 敵正規軍は、フォード37年型自動車をもっており、「漢口一八四三」などと書いてある。

 漢口にはフランス租界あり。
 南京では40人ばかりの看護婦に会った。
 著者の従軍は約1週間だが、戦線でマラリアに罹った。

 『戦線』と『北岸部隊』の合冊か?