旧資料備忘摘録 2020-9-25 Up

▼『日本武道大系 第五巻』1982
 所収・所壮吉「砲術」。
 火縄銃があたるのは50m前後。しかしこの距離だと弓で対抗され得る。
 大口径銃の抱え打ちによって世人の注目を浴びようとする派は、延宝以後。関流が代表格。

 井上流は大坂攻めのときからある。
 江戸初期には10流ほど。
 ロシア船が来た寛政年間以降は、200流以上に急増した。

 通常、軍用に用いられる6匁玉(15.8mm)は、バレル長1m、有効射程200m、最大射距離500m。これで距離20mならば、野球ボールにも命中させられる。人体なら100mまでが実用射程である。

 慶長の稲富伝書には、すでに、湿気に応じて装薬量を増減するように書いている。
 信長は石山本願寺との戦いで、火器の運用について会得した。相当な密度となるように準備することが肝要なのだ。

 小銃を連射するとき、欧州軍は、装填のさいにパッチを用いることで、銃身内の火薬残滓を払拭するようにする。
 日本ではパッチを用いない。だから銃腔内には燃えかすがこびりついて次第に狭隘となるゆえ、20発くらいごとに「劣り玉」に変えてゆく。

 二本松藩士の某。天保3年に、江戸の音羽で、30匁筒にて、午前7時より午後5時まで、2000発の「数打ち」。15間はなれた的に1628発を命中させた。

 明の『神器譜』は、頬付け銃の方が肩付け銃より、高所の居鳥を落とすには向いているとしている。
 同じ理由でヨーロッパでも、鳥用の猟銃は頬付け型ストック。日本に伝来したのは、その鳥銃だったのだ。

 軍用ならば肩付けとし、サイクルレートを最も重視する。命中率ではなく。

 井上流のテキストに、「三匁五分玉」は、薬を一匁~二匁も込めて放発すれば、五町~七町の近辺へ、玉が落ちる、とある。
 井上流の早打ち法。火穴を大きくしておいて、装填したあと、火皿をこぶしで叩けば、薬室内から装薬の一部が火皿に出てくる。

 田付流。元和ごろの人。
 慶長のテキストにはすでに、塩硝を水で煮つめ、硫黄、灰と混ぜて、臼杵でついている。
 久しく搗き久しくおろす時、風に飛び散り、薬勢あらぬものに変ずるなり。
 丸粒にすることも、あらきこまかなる粉あり。

 弾径は、銃腔と薄紙2枚分の隙間があると、よく中る。
 ※ここから化学と統計学が発達しなかったのは何故?

 荻野流は、二ツ玉を同時に2個放発する。それで鹿を撃つ。
 高島流では、8匁薬を用い、コロスを置き、二つ玉を込め、打ってみて、テストをする。

 ※この本は、時間がなくて210ページまでしか読んでいないことに気がついた。何か重要な事実を読み落としているかもしれない。

▼砲兵少佐・石井常造『日露戦役余談』M41-2 陸大将校集会所pub.
 韓国の塵埃などたいしたことはない。安州だけがすごい。

 鴨緑江で、敵の発射した砲弾を初めて見た。砲は、3デュイム=7珊62、速射砲にして、弾丸の信管の分画は130あり。ゆえに最大射程は5500mに達し、着発弾は6500mに達することを知った。※榴霰弾である。曳火させないで発射すれば着発となるが、榴弾ではないから、そのばあいの破壊力はほとんどない。

 ロシア軍砲兵は榴弾を有しなかった。わが砲弾の榴弾の黒烟が、彼らの士気を大いに挫いた(p.89)。
 ※榴霰弾は黒色火薬なので白煙。

 露軍はややもすれば民家を焼夷した。日本軍はさることなし。

 27日に戦利砲〔ロシア軍の76.2ミリ野砲〕をテストした。5500m先の的に40発、撃ちこんだが、信管の躱避〔秒時の誤差のこと〕が大きく、また、射距離が近いときは〔砲身が水平に近いときは〕仰起〔砲全体が跳ね上がろうとする〕が甚だしいため、弾道の精度も低下する。そのために榴霰弾の効力が少ないことを確認できた。
 露軍野砲の長所は、射程が、こっちの野砲〔75ミリの有坂砲〕より大きいことだけであった。

 輓具は単簡軽便で、鋼索を用い、太さは日本の野砲輓索の4~5倍ある。薄い革條を以て吊り上げ、その重量は、直接に馬脊に負はしむ。

 南山のころ以降、出征する露軍は、軍服のカラーを茶褐色に改めた(p.116)。
 防蚊具は、ハエ除けにgoodである。
 「帽垂布」は、21日に支給された(p.121)。

 新しいインクの臭いのする新聞紙を敷いておけば、南京虫除けになる。
 トリカブトは「梧毒根草」という。

▼菅井定之『防空の知識』S6-5
 この頃、ソ連には1500機あると見積もっていた。
 陸上爆撃機は、49機。
 爆撃機中隊は12個だが、52個に拡張されるだろう。米軍の爆撃機中隊は9個のみ。

 ひとたび「極東戦争」が勃発すれば、浦塩、大連、上海、父島等を根拠地に設定した敵爆撃隊は、1トンの爆弾を載せて容易に帝都の上空に現はれ得るのである。
 爆弾の命中率が10%でも、7~8トンあれば、大震災と同じことになる。

 花崗岩は、1000度以下の熱で亀裂し、ぼろぼろになる。
 WWI中、ロンドンは、114回爆撃され、1412人が死んだ。
 パリは32回空襲され、266人死んだ。

 75ミリ高射砲は、旧式のは初速が500m/秒。最新のは750m/秒。超先端的なのは1000m/秒。
 10センチ級の高射砲は、初速が700~1000m/秒で、到達高度は1万mに達する。

 1931において、ダーウィンとスラバヤの間に航路ができていた。

▼木村尚三郎・他ed.『中世史講座 第三巻 中世の都市』S57
 ロシアではツアーリが唯一の法源。
 しかし西方では、教皇と皇帝が対立したため、権利と自由の意識が生じ、制度と化した。

 シナでは宋初から清朝中期を「中世」とする。
 シナの都市は、欧州と違い、古代、中世、近代であまり違いがない。時代の特色はない。

 シナの方形の城塞都市は、王・侯もしくは、郡・県などの地方官衙の所在地。ゆえにすべて政治都市。
 周辺農地もその都市が管理・支配した。

 何かを生産するための都市ではない。そうした経済的な必然とは無関係に、ロケーションが決まった。
 城内のいたるところで終日、市が立つようになったのは、唐末~宋初。
 坊制も崩れ、城内の街路に面して門をつくってもよくなった。

 宋代の都市は、外側壁を羅城または大城、第二壁を子城または牙城、小城と呼ぶ。稀に、第三壁がある。

 イタリア中世初期の都市は、コンスル貴族の支配。
 イギリスの都市は、他より人口希薄だった。16世紀の旅人は、こんなの都市じゃないと評している。
 英国のアングロサクソン人は、ローマ都市を荒廃するにまかせた。
 よって、古代都市と中世都市のあいだに、断絶がある。英国では。
 ようやく7世紀から、そうした廃墟が再建された。

 ロンドンもローマ人がつくった。
 12~13世紀に英国では集中的に都市が建設されている。

 1583に堺の町衆は大坂移住を命じられ、1586に環濠は埋められた。

▼前田勉『近世日本の儒学と兵学』1996
 著者はS31生まれ。
 関ヶ原には、東軍7万、西軍8万が動員された。
 丸山政雄の『日本政治思想史研究』いわく。朱子学の展開と崩壊過程から、日本の近代意識が生れた。

 津田左右吉いわく。儒学は日本人の生活の中にまでは入り込まなかった。
 吉宗時代の朝鮮人の報告。日本に「士」=読書人 はいない。日本は礼教ではなく、軍法によって治まっている。
 日本人もすでにそう思っていた。

 徂徠いわく。納得もない者を死に赴かせるために、法度がある。また、指揮官の部下に対する詭道もあると。
 白石は徂徠のこの部分を攻撃した。

 丸山は、徂徠学とは政治の発見であったという。その徂徠学の核としては、旧来は、荀子や老荘が取り沙汰されていた。
 そうではない。徂徠はまず『孫子國字解』を執筆したから、『弁名』や『弁道』の域にたどりつけたのだ。じつは孫子研究こそが徂徠学の出発点なのだ。
 これを最初に見破ったのは、尾藤二洲。彼は徂徠を攻撃する立場で、徂徠の本志は聖門ではなく孫子にあったのだと非難した。

 徂徠は「訓読」は理解のさまたげになると考えた。完全に和訳してしまうか、さもなくば、漢文をシナ人のように読むべきであると。

 『【金今】[けん]録外書』では、これまでの日本の合戦はもっぱら士卒の智恵をかりていたと批判。※つまり軍学のレベルが低級だと。

 勢には2種あるといったのは韓非子。
 朝鮮出兵中の日本国内は疲弊していた。惺窩はそれを憂えた。

 尾藤正英いわく。幕末の、後期水戸学は、儒教ではなく、徂徠学になっている。国家や社会を個人に優先させたり、祭政一致を追求し、侵略的でもあるところが。
 尾藤いわく、徂徠学のなかに、明治国家の国家主義の祖型を見出すことができると。

 教育勅語も、武を文に優越させ、国民が命を捨てて国に尽くすよう要求する点で、真正儒教ではない。

 会沢正志斎いわく。洋夷の力の基はキリスト教だ。それに対抗できる政教が必要だ。→「国体」に。
 『新論』の主張。自国が直接/間接侵略の戦場となる日本はいまや「敵地」であり、庶民は指揮官と志を一にしなければいけない。

 尾藤いわく、尊攘思想はシナにはない。日本独自に形成された。
 「尊王攘夷」の初出は、長沼澹斎の『兵要録』(寛文6)である。
 朱子は、金と宋の媾和に反対し、徹底抗戦を主張した。
 後期水戸学は、最初の武家諸法度にある「治にいて乱を忘れず」の兵営国家思想だから、大きな力となった。
 素行は性悪説。松蔭は性善説。
 素行に陽明のことなし。松蔭にはあり。
 素行は寛文2年に、朱子学こそ異端だと察した。
 素行は日本で初めて「中朝」を唱えた。武がおさめる日本であるがゆえに、シナとの華夷序列は逆転するのである。
 象山が大砲を導入する国策を、孫子を引用しながら説いたのは『省【侃のしたに言】録』。
 多くの武士たちは、庶民に国防精神など無いと思っていた。そこで松蔭は、『孟子』の中に光明が見出せるのではないかと考えた。

 老子に「弱之勝強、柔之勝剛」とあり、三略には「柔能制剛」と出る。

▼防研史料 『火器基礎研究現況』
 60cm級噴進弾をS19-8から研究開始したが、ついに1回も試験するに至らず。
 長さ3m、2130kg、装薬〔=推進薬〕40kg、炸薬可容量350kg。

 噴進砲の装薬と炸薬可容量。
 径8cm   装薬0.9kg、炸薬0.8kgまで。
 径10センチ 装薬1.2kg、炸薬1.3kgまで。
 径20センチ 装薬10.2kg、炸薬16kgまで。
 径30センチ 装薬12kg、炸薬24kgまで。
 径40センチ 装薬63kg、炸薬100kgまで。

▼防研史料 『第一陸軍研究所 研究計画綴(他部隊関係)』
 チヘ改造の「装甲観測車」が3割方できており、18年8月に完成予定。

 「火焔作業車」試作中。S18-4着手。19-9にできる予定。
 チヘの火焔戦車。

 S18-4-1 原乙未生報告 四研の分。

 新中戦車(甲)=チト。
 並河亨 陸軍少佐の担当。S17-4着手、S20-3完成見込み。

 新軽戦車ケホ。
 咲山岩三郎 兵技少佐。S16-3着手。S20-3完成見込み。

 新砲戦車 ホチ。車体はチトで、砲は75/105ミリの対戦車砲。
 前島隆夫 陸軍中佐の担当。
 着手日不明。S20-9完成見込み。

 直協戦車  ドイツの突撃砲のようなもの。
 並河亨 の担当。S18-1着手。S20-9完成見込み。

 新中戦車(乙)  駆逐戦車
 咲山担当。 S16-1着手。S20-9完成見込み。

 低姿勢小型戦車  全高1mで、前面装甲を大とするもの。
 咲山担当。S18-3着手。完成見込み不明。

 渡し戦車  チャーチル超濠戦車のようなもの。

 電気または油圧でターレットを旋回させる機構。
 小泉 洸 兵技中尉の担当。S16-8着手。完成見込み不明。

 戦車の捻り棒式懸架装置。  ※トーションバー。
 前原 博 兵技中尉の担当。S16-10着手。完成見込み不明。

 装甲兵車(歩機車)
 2案あり。
 兵技中佐 金子一次のものはS16-4着手、すでに終了。
 陸軍中佐 下野陽道のものはS17-4着手、S18-12完成見込み。
 いずれも日野重工が試製を担当。「時局緊要」と優先された。※これが Sdkfz250 を買おうとした理由だ。

 高抗力ばね用ピアノ線製造の研究。
 ※やはりドイツから輸入しようとしていたもの。航空機用の高性能な自動火器に必要。

 噴進爆雷  駆逐戦車(乙)に装載する。射程300m。
 S18-8着手、S19-3完成見込み。 ※詳細不明。地上を転がって行くのか?

 超重門橋  40トン級装軌車を渡河させられるもの。
 S18-7着手、S19-12完成見込み。
 ※対ソ戦をあきらめた段階で40トン級新戦車の運用にこだわろうとしている理由は、未解明。

 七研では、曳索噴進弾の精度を研究していた。渡河用の錨弾として。
 タ弾も、七研究。

 チリ。 S18-7着手。すでに第一次試作完了。
 無線 乙と丙 各1機。
 ホリ もS18-7スタート。

 「特2式水陸戦車」。
 兵技中尉 多田六郎の担当。95式軽戦車の浮航揚陸を可能にしようとするもの。

 捻り棒サスペンション、軽装甲車用のものは研究完了。

 ※S18-4の研究計画がS18-7に修正され詳細化していることも分る。なお旧軍の「研究」とは今日の「開発」のことである。

▼防研史料 『第一回研究業績発表会講演輯録』S7-5-1 陸軍科学研究所
 新小銃薬を使ったら、初速747m/秒だった三八式歩兵銃が、780m/秒を記録した。 ※管状薬か。
 これを、7.7ミリ小銃弾でも試した。※いったい何の銃で?